感想『三四郎』
・夏目漱石『三四郎』新潮文庫 07/02/19 『三四郎』は、『それから』、『門』へと続く、漱石の三部作の始まりの小 説なのだが、内容は、続く『それから』、『門』と比較すると、とても淡いも のなっている。田舎から東京の大学へと進学した三四郎が、東京で、知的刺激 を受けたり、マドンナに対して淡い恋愛と失恋をしたりする物語である。 この小説は、漱石の『坊っちゃん』と、丁度、逆の形になっている。 『坊っちゃん』では、江戸っ子の主人公が田舎の学校に先生として赴任し、 そこで田舎臭いドロドロのなかに巻きこまれ、仕舞いには、キレて暴れて東京 に戻ってくるという内容だったのだが、こちらの『三四郎』では、田舎から東 京に出てきた若者が、都会らしいサバサバした雰囲気のなかで、サバサバと恋 愛をし、サバサバと失恋をするという物語。 『坊っちゃん』に、清という母性の象徴のようなバアヤがいたように、この 『三四郎』にも九州の田舎に母親と母親の決めた許嫁という古い母性がいる。 ぼくは、『坊っちゃん』と『三四郎』はとても親しい関係にあるように思え るのだが、向きが逆であるだけに、『三四郎』は都会のオトナになるしかなく、 『それから』、『門』へと進む、都会的なドロドロに首まで浸かるような生活 のなかに埋没するしかなかったわけだ。 この都会的なドロドロというのは、つまり、社会の複雑さということである ように思う。そのドロドロに対しては、諦念のようなものを抱えることしか、 対抗する術はない。社会に対して全体的に生きることを無理なこととして、ど こかで諦め、そうして、自分の矩のなかで生きていくこと。『坊っちゃん』の ように暴れてしまったら、行く場所はないのだ。 美禰子が三四郎に、「迷える子(ストレイ・シープ)」という言葉を教え、 三四郎は、その言葉を銘記するのだけど、結局は、迷いのなかで諦念とともに 生きていくこと。しかも、神はない。 ぼくは、この小説にそういうことを感じる。しかし、この全体的に生きるこ との出来ない社会は、意外に、居心地は悪くない。 と、この小説に関するぼくの感想は、以上で尽きてしまうのだが、これだけ ではバカみたいだから、もう少し、書く。 柄谷行人は、この新潮文庫の巻末に置かれた解説で、漱石の作品について、 ふたつに大別されるということから書いている。 ひとつは、前半に書かれた『吾輩は猫である』などに代表される作品。そし て、この『三四郎』から始まる、後期に至る『それから』や『門』、『こころ』 などの作品。 『吾輩は猫である』は、筋らしい筋、物語らしい物語を持たない、登場人物 たちの饒舌な会話によって成立している内容であり、『三四郎』から始まる作 品群は、小説らしい小説「重苦しく且つ深刻なテーマ」の下に展開させる内容 となっている。 柄谷行人は、前者の小説を、「小説に先行するジャンル」と呼び、後者を近 代小説と呼ぶ。無論、柄谷行人は、そのように漱石の小説は進化したと言って いるのではない。むしろ、小説の可能性を拡げるものは前者のようなタイプの 小説ではないかと言っているように見える(逆に言えば、小説の可能性を狭め るのは、漱石の作品群について、前者は後者のためにあったとするような見方 であるということなのだろう)。 このことは漱石自身も自覚的であって、そのことを柄谷行人は、次のように 書いている。 「漱石は、小説の文壇とはべつの場所で書きはじめた。『猫』や『漾虚集』 は、俳諧誌「ホトトギス」で発表されている。正岡子規がはじめた「ホト トギス」派は、「写生文」を掲載していた。漱石自身も小説を、「筋の 推移で人の興味を惹く小説」と「筋を問題にせず一つの事物の周囲に躊躇 低廻する事によって人の興味を誘う小説」の二つに大別し、後者は俳味・ 禅味を帯びたものであるといっている。いいかえれば、「写生文」は、何 か書くべき意味や対象を表現するよりも、言葉が自ずから動くなかで或る 俳味・禅味を一瞬在らしめることをめざすのである」 (夏目漱石『三四郎』新潮文庫 柄谷行人巻末解説より) この『三四郎』は、柄谷行人によれば、前者と後者の中間に位置する作品、 つまり、「一つの事物の周囲に躊躇低廻する事によって人の興味を誘う小説」 であり、同時に「筋の推移で人の興味を惹く小説」でもあるということ。 「三四郎には三つの世界が出来た」 (夏目漱石『三四郎』新潮文庫P80) この3つの世界とは、古い世界、現実の世界、憧れに満ちた世界というもの に、それぞれ対応すると思うのだが、三四郎が一貫して「躊躇低廻」するのは、 この3番目の世界である美禰子の世界。三四郎は、この3つの世界を見ながら、 しかし、その見るときの力のいれ具合という緩急の付け方で、「一つの事物の 周囲に躊躇低廻する事によって人の興味を誘う小説」と「筋の推移で人の興味 を惹く小説」のふたつを同時に生きているのではないか。 と、柄谷行人の解説文を曲解するような感想になってしまったかも知れない が。