遠吠日記2008年7月
7月 1日(火) 昨日は、泊まり明け。 6月30日の深夜、あるいは7月1日の明け方。 日記を書こうと酔っていた。 でも、何を書けば良い。 まずは仕事のことか。 一昨日から昨日にかけての仕事は、通常の運転業務ではなかった。通常に運 転している運転士たちに何らかの原因で欠員が出た場合、いつでも代わりに電 車に乗れるように待機している仕事だったのだ。 基本的には、詰め所に待機していることが仕事だ。詰め所の掃除、片付けを 簡単にやったり、人によっては泊まり明け勤務者の朝食を作ったりはするのだ が、何もなければ、ただ、ひたすらに詰め所に詰めているのが仕事なのだ。 こうなれば、本、読むでしょう。 ぼく、本を読むんです。 それで、これまでに読みかけだった辻井喬『父の肖像』上下巻の下巻を読み 切る。とても長い小説なのだが、(最近の読みのスランプにしては)アッとい う間に読み切ってしまった。 とても面白い。 が、面白いには面白いのだけど、作者の、語らないことは語らないという、 頑ななと言っても良いくらいの書き方が少し気になった。 家族のことを書くのはとても難しいだろう。 家族について、例えば、父親について、ここまで書いても良いやという判断 が出来たとしても、その内容が、しかし、母親にまで及ぶ場合は、ちょっと遠 慮して書くということもあるだろう。まして、西武グループの創始者を父に持 つ作者としてみれば、父親について何かを書くということは、家族に対しての 配慮はもちろん、経済界、政界に対しても同様の配慮を行う必要も出てくるは ず。だから、この小説には、書かれていないことが山のようにあることも理解 出来る。が、それでもやはり、ぼかしたように書かれている部分は、読んでい ても、何かもどかしい感じもするわけだ。 小説は、登場人物の内面を語るものだというのが、割に古典的な小説の約束 事だと思う。 例えば、ぼくが詰め所で本を読んでいて、そこに人が入ってくるとする。ぼ くは本から顔を上げない。そのとき、ぼくの内面では、もう少し読めばキリが 良いから、とりあえずは読み続けていたいということがあるわけだ。これは、 自分のことだから、内面の声として確かなことである。一方、ここに入ってき た人間は、顔も上げずに本を読んでいるぼくを見て、何かを考えるはずと、ぼ くは考える。例えば、「無視かよ」であるかも知れないし、「変人め」である かも知れないし、「ウザイ野郎だ」であるかも知れないのだ。 しかし、これらはあくまでぼくの想像、妄想であって、ぼくはこの相手の内 面を知ることは出来ない。あくまで、そのように想像することは出来るのだが、 その想像は現実の状況のなかに登場するその人にしか判らない(場合によって は、その人は、その時点では内面なんて持っていないということもあるわけだ から、その当人にも判らないということもあるだろう)。 割に古典的な約束事のなかで、小説は、そういう人の内面を想像ではないよ、 妄想ではないよといちいち確定しながら書くことで成立するわけだ。 ある状況を設定し、その設定に配役をし、その配役に内面を与える。内面と 内面のぶつかりあいが、つまり、小説を推し進めていく力となるわけだ。 辻井喬『父の肖像』の場合、通常の人間関係と違い、とても複雑な人間関係 が描かれているということも、もちろんあるわけだが、しかし、上述したよう に、事実として書き得ないことが、多々、あっただろうということで、この小 説として、いちいち確定していかなければならない登場人物たちの内面が、場 合によっては、様々な場面で不自然に浮き上がってしまうということがあった ようにも思えたのだ。 小説に書かれている時代毎に描かれる場面は、ある程度、スキップしながら、 省略を効かせながら書かれているのだが、それらスキップ、省略とは無関係に、 古典的な小説の約束事に則ってというように、登場人物たちの内面が切れ目が ないよう詳細に描かれているということに、その不自然さの理由があるように 思えたのだ。 辻井喬の、この渾身の伝記小説を、内面描写に固執する、古典的な約束事に 則った小説であると言い切るのは、しかし、あながち悪口ではないと、ぼくは 思う。この稀代の経営者の肖像を描くのに、あるいはその父親の肖像を通して 自分自身を小説のなかで探し求めるには、この手法は、とても合致しているよ うにも思えるからだ。 結局、この小説は、作者が父親のこと、自分のことを懸命に言葉に変換する という力のこもった作業の結果として書き上がったものだと思うのだ。作者は、 父親と、また自分と、小説という形式を使って懸命に対話しているのだ。 そういう熱のある小説について、新しいとか古典的であるとか言ってみたと ころで、何の意味もないなとしみじみと思うのだ。 小説はこうでもあり得るのだ。 次に、同僚から借りた川西蘭『ラブソングが聴こえる部屋』を読み始める。 川西蘭は初めて読む作家。これまで何回も名前は聞いたことはあるのだが、 どういう小説を書く人かは全く知らない。貸してくれた同僚は、とても軽いで すよと言っていた。確かに、冒頭に置かれた短編は、ある種、雰囲気だけで押 し切るような内容だった。海辺の町で暮らし始めた恋人たちが、時間の流れの なかで、次第に相手から離れ、別れてしまうというもの。内容はベタと言えば ベタだし、文章も村上春樹的世界から深みを取ると、こうなるかなという感じ の文体だなとも思う。 が、ぼくはこういう小説を好きなんだな。雰囲気だけで突っ走っても、一向 に構わないと思うし、文章に深みがないということも気にはならないのだ。で なければ、歌謡曲を聴きながら泣きそうになるなんて出来ないのだ。 欠点を挙げればキリがないけれど、でも、その欠点が丸のまま美点にもなる ということがあるわけで、川西蘭のこの世界は、欠点が欠点としてありながら、 しかし、同時に小説としての完成度の高さがあるように思うのだ。 感傷をここまでストレートに描ける力ということだ。 と、ここで他の同僚が、読み了えたというノンフィクションを貸してくれた。 吾妻博勝『新宿歌舞伎町 マフィアの棲む街』だ。この同僚には以前、馳星 周『不夜城』を貸したことがあるのだが、このノンフィクションは、その小説 の種本になったものだと言う。なにしろ、馳星周が、そうだと後書きに書いて いるらしいから間違いはないらしい。 急遽、こちらのノンフィクションを読み始める。書かれたのが今から10年 前のことだから、現在の歌舞伎町を知るという意味では外れた読書になるわけ だが、しかし、あくまでも馳星周『不夜城』の種本として読めば、こんなに面 白い本はない。中国から、また世界中から集まる不法滞在の犯罪者たち。彼ら、 彼女らは新宿歌舞伎町に日本とは違う世界を作っている。この作者は、そうい う危ない歌舞伎町のなかに危険を承知でぐいぐいと取材に入っていく。 ううむ、血湧き肉躍るだ。 長い読書をしただけの仕事を終了して帰宅。 昼ビール、昼寝。 おっと、日記はまだ昨日の話しだ。 夕方、アマゾンに注文しておいたDVD『吉田類の酒場放浪記 其の壱』が 届く。これはTBSのBS放送チャンネルで放送している同名タイトルの番組 の総集編。吉田類という洒落た初老の中年男が、毎回、東京を中心に、1軒の 居酒屋で呑むという、ただそれだけの番組。吉田類が訪ねる居酒屋は、特に名 店ばかりというわけでもなく、何か特別の売りがあるというものでもない。 単に、初老の中年男が酒場で呑むという、ただそれだけのもの。 ぼくは、この番組が好きで好きで、だから、DVDが出ると判ったときも、 即座に注文してしまったのだ。 ぼく自身は、ひとりでふらりと呑みに行くというタイプの人間ではない。だ からこそ、こういうノリの番組が大好きなのだ。 ぼくにしては珍しいのだが、夜、一気に全部を観てしまう。 最後の、吉祥寺の名店でのラストの吉田類の語りの背後で、昼間からフラフ ラと身体を揺らしていた酔っぱらいは、あれは高田渡ではなかったか。 夜、NHK−BSの『迷宮美術館』を久しぶりに観た。若くして亡くなった 画家の特集のようで石田徹也(享年32才)とか村山塊多(享年23才)が取 り上げられていた。若くして死んだ人たちはとても素晴らしいものを残してい る。それに引き替え、このぼくはどうだ。家族を持ち、ダラダラと時間を過ご し、理屈にもならない理屈を口走るだけだ。ぼくは美しい小説を書きたいだけ なんだ。 ぼくは今年で48才になる。50才目前だ。年を取ってくると1年の流れが とても早いと聞いたことはあったのだが、確かにその通り、この半年に何をし ていたのか覚えてない。いや、覚えておくほどの何もしていないのだ。 こういう何もしない日々の積み重ねがきっと時を加速させてしまうのだろう。 色々の意味で反省しつつ明け方に寝る。 今日は、妻と横浜まで買い物に出る。 ちょっと贅沢な和食の昼食の後、書店に。 オルハン・パムク『イスタンブール 思い出とこの町』藤原書店、リービ英 雄『越境の声』岩波書店を購入。 書き忘れていたが、昨日の夜、アマゾンで『RATIO』の5号、トニー・ ガトリフ監督の映画『ラッチョ・ドローム』のDVD、エリアス・カネッティ 『群衆と権力 上下巻』叢書・ウニベルシタスを注文している。 散財が過ぎたかも知れない。 あっ、そうだ。長男が集めている浦沢直樹『20世紀少年』17、18巻も 買ってしまう。 その後、妻の買い物につきあい、夕方に帰宅。 浦沢直樹『20世紀少年』17、18巻を読む。 物語はクライマックスに差し掛かり、どうしても続きを読みたくなる。で、 長男にメールで19、20巻を買ってこいと要請。 しかし、長男からは呑みがあるから今日は買えないと、即座に返信が。 ううむ…。 情報誌『選択』7月号が届いていた。 とりあえずパラパラと拾い読み。 「「たばこ千円論」は反対である。まず千円という発想だ。男性の四割が現 に喫煙者ということは、たばこ代は大衆的な物価である。それを一挙に三 倍に上げる無謀な議論が政界でまかり通るのは、喫煙者は煙害を社会に振 りまく嫌われものの集団だから、何を求められても強く反対するはずがな い、というタカのくくり方が前提になっていると言わざるをえない。社会 から白い目でみられがちな社会的弱者を軽視し、いじめることにもつなが る危険思想である。中川、前原らはそのことに気づいていない。政治家と して安直にすぎる」 (『選択』7月号 コラム「政界スキャン」 「「たばこ増税議連」の醜悪」より引用) まさに、このコラムの書き手である匿名氏の書いている通りだと思う。 非喫煙者には、ここに書かれている理屈は、相当に無理があるように響くか も知れない。しかし、ここに書かれている理屈が理解出来ない人は、絶対に無 意識的にでも、あるいは確信的になのか、差別感情、区別感情を常にこころの なかに充満させている人である。 ぼくは絶対にタバコは止めない。 7月 4日(金) 公休日。 昨日の泊まり明けでは、外部からの講師を招いてのアルコールの害について の研修があった。うちの職場では、数年前に、乗務員がアルコールが抜けてい ない状態で乗務をしてしまい大問題になったことがある。以後、勤務前の乗務 員にはアルコールが身体に入っていないかどうかを調べる呼気検査が義務付け られるようになったわけだが、この研修も、その不祥事の対策として為される もの。アルコールの過度の飲酒は身体に悪いよとか、アルコール中毒になると 大変だよというようなことを行ったわけだが、冷静に考えてみると、これは健 康対策的な研修であって、不祥事対策にはなっていないような気もする。 まあ、それはともかくとして、その研修で自分のアルコールに対する体質を 知ろうということで、パッチ検査というのをやった。アルコールを染みこませ た脱脂綿を腕の内側の柔らかい部分に貼り、アレルギーの度合いを調べるとい うものらしい。アルコールを分解する酵素というのがあって、それがあるかど うかということが判るらしいのだが、ぼくの場合、腕の内側が数分後には赤く なり、これは酵素はあるけれど働きが弱いということで、なるほど、ぼくはや はり酒に弱かったのだ。 以前から、酒には強くないよなとは気が付いていたのだが、こうして科学的 にはっきりと判ると、ぼくはきっぱりと科学的に酒に弱いんだと断言出来るわ けで、酒が弱いのは弱い男だぜというような、悪しき体育会系の呪縛から離れ られたような気もするのである。 でも、酒は好きだし、酔っぱらった気分は大好きだから、酒をやめる積もり は毛頭ないし、顔も身体も真っ赤かにして楽しく酒を呑み続けることには変わ りはないわけだが。 というわけで、昨日も帰宅してから昼ビール、昼寝。 昨日の泊まり明けで帰宅してからずっと家にいたわけだが(今日、髪を切り に行ったが)、基本的に本を読んだり、録画した番組を観たり。 しみじみと、ぼくは家のなかの人なんだなと思う。自分でも不思議なのだが、 家のなかで、ちっとも退屈を感じないのだ。 人に話しを聞くと、外に出ているのが自然な状態で家にいるのは窮屈だとい うニュアンスで語っているのだが、ぼくの場合、外に出ると緊張が高まり、あ まり寛げないのだ。 元々、自意識過剰なのかも知れないが、外に出て、特に人がたくさんいるよ うな場所に出ると、必要以上に、自分ということを意識してしまい、過剰に防 御的になるか、あるいは過剰にはしゃいでしまうことになる。 どうしても不自然なのだ。 家にいると、この自意識が綺麗に引っ込んで、とても寛げることになる。ぼ くは、家のなかでひとりでコツコツと仕事をする自営業の職人になりたかった なと、しみじみと思うのだった。 川西蘭『ラブソングが聴こえる部屋』は職場で「マイ・シュガー・ベイブ」、 「チープ・スリル」を読み、昨日から今日にかけて「ジェラス・ガイ」を読ん だ。どの短編も1980年代に書かれた短編のようで、実にあの頃の世相を反 映しているなと思えるもの。先日の日記にも書いたが、物語そのものは男女の 別れを描くという、とてもベーシックなものなのだが、道具立てとか、会話の 形とかが、もうこれは80年代以外の何者でもないという感じなのだ。ぼくは、 こういう小説も大好きだ。何より、あるひとつのことをどう意匠を換えて語る のかということについて、とても勉強になる。また、あるひとつの時代を支配 していた気分がいかに他の時代に移ったときに浮き上がって見えてしまうかと いうことも判る気がして勉強になる。 ひとつの時代というのは確かにあるわけで、そのひとつの時代の直後にはそ のひとつの時代はとても嫌われるものだと思うのだが、喉元過ぎれば熱さを忘 れるということで、いずれ長い時間が経てば、その喉元の熱さそのものが懐か しく思えてくるのかも知れない。 ということは、あの80年代の全世界的狂乱の時代も懐かしく語られる時代 がいつかは来るはずで(たまにテレビ番組などで、そういうものの先取り的な 懐旧談的懐かし80年代番組が放映されているが、まだ時代が早すぎて、大概 の場合、観るに耐えない番組になっている)、そういう時代になったときに、 この川西蘭の小説なんか、時代の気分をとても強く反映しているものとして、 もう一度、復活するのかも知れない。 夜は、溜まりに溜まった雑誌類などを読む。文芸誌『モンキービジネス』で 冒頭部が抄録されていた尾崎翠『第七官界彷徨』を読みたくなる。 読みたい本が山ほどあるのに、本というのはひとつひとつ文字を追わなけれ ば読むことが出来ないわけで、なかなか効率良く読むということが出来ない。 かと言って速読術なんか糞食らえと思うし、ここはじっくりと我慢をしつつ、 あれこれと確実に読んでいくしかない。 今日は、昼前に起きて、暑さのなかでダラダラとする。 ダラダラするくらいなら本を読めと思うのだが、何だか、飽きずにダラダラ としてしまう。 午後、妻と wowowで放映した映画『ヒーロー』を観る。木村拓哉が演じる型 破りの検事が、その情熱と格好良さで裁判を闘うというもの。映画版『踊る大 捜査線』ほどには酷くはなかったのだが、まあ、想像していたよりはマシかな という程度の映画。木村拓哉はとても良い役者だとは思うのだが、彼を取り巻 くアイドルとしての宿命というかマーケティングというか、そういう状況が、 役者的にはすべて悪い方向に出ているようで、むしろ可哀相に思うくらいだ。 この映画でも設定とか脚本とか、あまりにもアイドルを前面に押し出してい て失笑場面が多々あった。妻は木村拓哉フリークなので、もう何でも構わない というスタンスなので、ぼくが映画を観ながらあれこれと文句を垂れると、露 骨に不快な顔をする。 いや、ぼくは木村拓哉が嫌いなのではなく、木村拓哉を固い商品としてして いる状況、その固い商品で安手の物語を連発するドラマ業界、映画業界が嫌い なのだ。 木村拓哉は、アイドルとしての固い商品価値が無くなってから初めて、役者 として自由になれるのかも知れない。 午後、NHK−BSで放送したドキュメンタリーを観る。タイトルは、録画 しておいたHDRのデータを消してしまったので、すでに判らなくなっている のだが、オーストラリアのジャズ・ドラマーが韓国の伝統音楽を探求するとい う内容。ジャズ・ドラマーのとても控えめな礼儀正しい態度に、白人の東洋思 想に対する尊敬の持ち方は凄いなと思いつつも、韓国のシャーマン音楽の凄さ も堪能する。 音楽というのは、何よりも、その音の凄さなんだなということを、パンソリ の男性歌手のもの凄い歌声を聴きながら思ったわけだ。 歌を唄うとかいうと、何だか自己表現というようなことになるわけだが、し かし、このパンソリは自己表現とか誰かに何かを伝えたいという領域を遙かに 超えているわけだ。 番組のなかで韓国のシャーマン音楽は、この世とあの世を橋渡しするものだ ということが語られていたのだが、まさに、パンソリの歌手の声、伝統楽器の 縦横無尽のリズムは、あの世に向けてかどうかはともかくとして、この世界を 突き破ろうとする意志に満ちあふれているのだ。 一度、じっくりと聴いてみたいと思った。 夕方から髪を切りに出かけた。 夜、NHK−BSでサラ・ブライトマンの「今年1月16日にウィーンの聖 シュテファン寺院大聖堂で収録されたコンサート」を放送することが判ってい たので、帰宅したら即座にDVDに録画出来るように、事前に準備しておいた。 うちの場合、BS放送をDVDに録画しようと思ったら、放送時間に合わせ て録画ボタンを押さなければならないのだ。どうにも不便なのだが、そういう ようになってしまっている。しかし、放送時間は8時からだし、十分に間に合 うと思っていた。 が、髪切り時間が予想外に長引いて、放送開始に間に合わなかった。結局、 番組で放映された最後の3曲しか聴く、観ることが出来なかったのだ。 これは痛恨事だ。 即座にネットで再放送の予定を調べてみたのだが、何も情報がない。 ううむ…せめてHDRに録画しておけば良かった。 相当にへこみつつ、夜、長男が買ってきた浦沢直樹『20世紀少年』21巻 を読む。後、22巻と別巻である『21世紀少年』上・下が残るだけなのだが、 こちらはアマゾンで注文して明日には届くことになっている。 全部が揃ったら、もう一度、最初から一気読みをしようと思う。 その後、日記を書きながら、iTunesであれこれと聴く。 本、読めよ、本。 7月 7日(月) 公休日。 梅雨真っ盛り。曇天で、時々、雨。湿度が高く気温も高い。鬱陶しいこと、 この上ない。しかし、天上の逢瀬では下から覗かれる心配もなく、さぞ盛り上 がり乱れることだろう。 つうか、こういうぼくのロマンチシズムは犬にでも食われれば良いと思う。 アップルのサイトで日本語版のiPhoneのガイドビデオが公開されていた。早 速、観る。なかなか丁寧な解説で、使用する際のイメージが湧いてくる。 やはり、これ、欲しい。どうしても欲しい。 多分、あれこれと画策して、年内には手に入れられるだろうとは思うのだが、 こういう物欲は、人生の後半生を生きていくテーマとして、積極的に肯定して いきたいと思う。 先日、NHK−BSで録画した『馬場俊英LIVE・夢の“野音”でピース! 』 を観た。この歌手のことは、あまり知らなかったのだが、この番組で放映され た日比谷野音で行われたライブに行ってきた同僚が、番組放映前に、CDを何 枚か貸してくれていて、この所、ずっと聴いていた。 なかなか好みの曲が多く、特に、「 BOYS ON THE RUN」という曲が良くて、 この曲だけは何度も何度も繰り返し聴いていた。 学生時代の野球部の部活動を中心にした青春の時間が唄われ、その後、中年 になった現在の境遇が唄われ、そのふたつの時間が歌詞の最後に混在になり、 俺は逆転のホームランをかっ飛ばして、大観衆の前で何度もピースサインをし てやるぜ、と唄われる。ぼくは、この曲を聴きながら、曲のラストに連呼され る「ピース・ピース・ピース」の所で、感動のあまり、何度も鳥肌を立ててい たのだ。 というわけで、このライブを楽しみに観たのだが、やはり、とても良かった。 中年の歌手、しかも、メジャーデビューに一度失敗し、長くインディーズで 活動を続け、再浮上した歌手ということで、何となく全体的に苦節何年という 演歌的なノリも感じられはしたのだが、それでも、そういう苦節何年という時 間に裏打ちされた、ストレートでは決してあり得ない情熱や根性やうまさに圧 倒されてしまう。 お目当てだった「 BOYS ON THE RUN」は、やはり一押しの歌のようで、ライ ブの最後の方で歌われたのだが、圧倒的に良くて、ことに客席と一体となる、 通常では気持ち悪いとしか思えない状況が、ビールを呑みつつ鑑賞しているぼ くの感傷を強く刺激して、危うく泣きそうになる。 客席に座る同僚もしっかりと発見出来たし、なかなか充実した鑑賞となった。 アマゾンで注文した浦沢直樹『20世紀少年』の21巻だけが、なぜか届か ず、結局、この巻だけを抜かし、タイトルが変わった『21世紀少年』の上下 巻(実質的に、『20世紀少年』の23巻、24巻)も含め、全部、読んでし まった。21巻の未読という、中抜け状態で読んだものの、それでも壮大な物 語世界からもたらされた感動は大きいもので、強い余韻に浸っている 21巻が届いたら、もう一度、全巻を一気読みして、再度、感動に浸りたい と思う。 先日、日本映画専門チャンネルで放映した『ドキュメンタリスト 工藤敏樹』 のシリーズのひとつ「富谷国民学校」を観た。 工藤敏樹はNHKのディレクターとして長く活躍した人で、昭和40年代を 中心に、ドキュメンタリー番組の秀作をたくさん作っていた。6月、日本映画 専門チャンネルでは、工藤敏樹が撮ったドキュメンタリーを、何本か、特集と して一挙に放映していたのだが、この「富谷国民学校」は、その第1弾。 「富谷国民学校」は、渋谷区にある小学校の倉庫から発見された戦時下の国 民学校の疎開記録のフィルムを中心に、その学校の現在(番組のなかの現在だ から、昭和40年代の学校だが)の様子と並行して放映していた。 何より、戦時下の学童疎開の様子が動く絵として観られたのが良かったのだ が、同時に、昭和40年代の小学校の様子が映されていたのも良かった。しか も、昭和40年代の小学生の親の世代というのは、この学童疎開を体験した人 たちということで、過去と現在が奇妙に重なり合い融合してくる感覚もあり、 とても面白く観た。 更に、それを観ているぼく自身が、昭和40年代の小学生だったわけで、こ の番組の「過去」と「現在」が、今、これを観ているぼくの「過去」と「現在」 と、位相をずらしながらも、奇妙に重なり合ってくるわけで、なかなか複雑な 時間感覚の混乱に陥った。 あっ、そうか、この感覚は『20世紀少年』を読んでいるときの感覚に近い のだ。 あの漫画もそうだったが、過去と現在が奇妙に混在する物語を観ている自分 が、その物語のなかの時間の二重性を、更にもうひとつ上のレベル(物語を外 から観る読者のレベル)の、自分自身の時間の二重性のなかに閉じ込めようと する(つまり、これが物語を理解するということだと思う)のだが、むしろ逆 に、物語がその根底に描き出している時間という大きな概念のなかに、自分の 時間感覚が取り込まれ閉じ込められていくような感覚。 ドキュメンタリーを簡単に物語だと言ってしまってはいけないのだが、しか し、このドキュメンタリーがそういう時間感覚を扱っていることも確かだと思 うのだ。 昨日の夜は、録画してあったNHKの『ETV特集』をふたつ観た。 「医療再生 地域力を結集せよ」と「医療事故どう減らすのか 新たな安全 システムの模索」。 「医療再生 地域力を結集せよ」は、近年に導入された新研修医制度により、 これまでのように、大学病院からほぼ自動的に供給されていた医者を簡単に集 めることが出来なくなった地方の病院が、地域との連携を強化することにより、 医者に取って魅力ある病院にしていこうとする姿を伝えている。 医者に取って魅力のある病院とは何かということが、つまりは、地域の医療 水準、地域の医療状況を高めるということに繋がっていくということだと番組 を観て思ったのだが、結局は、「医療」を地域のひとつの重要なインフラとし て位置づけるということにも繋がっていくわけで、なかなか面白く観た。 市民サービスのひとつとしてだけ医療を捉えてしまうと、やはり間違えてし まうし、かといって、経営効率一辺倒の病院も困る。つまりは、地域の重要な インフラとして病院を整備する試みを行うことが、病院も生き残るし、地域の 医療も荒廃しない最善の道ということなんだろう。 「医療事故どう減らすのか 新たな安全システムの模索」は、年間に2万3 千人が医療事故により亡くなっていると推計される現在の医療状況について、 病院の安全システムに民間の産業界の安全システムを取り入れることにより、 改善していこうと努めている姿を伝えている。 番組で出していた推計2万3千人の死亡者、医療事故の犠牲者の詳しい内訳 は判らないのだが、安全システムをきっちりと導入することにより、その死亡 者、犠牲者をゼロに近づけることは可能なはず。 そういう意味では、この番組で取り上げられていた病院の努力は必要なもの だと思うし、また報われなければならないとも思う。 番組で伝えられていたのは、例えばマニュアルの徹底ということであり、緊 急の対応が頻繁に必要とされる医療現場では、往々にしてマニュアルに指示さ れていることが省略されたり、また、無視されたりしている現況がある。 マニュアルを徹底させることにより、医療事故を防ごうという試みが伝えら れている。しかし、これはもちろん、現行のマニュアルの見直しも含む作業に ならなければならないわけで、その病院では、安全担当の課を起き、民間の安 全対策のプロを長に招き、様々な作業の見直しを現場と一体となって行ってい た。また、機器整備などに関するマニュアルについて、それを暗記してはいけ ないという、この安全担当の部署の長の言葉もあり、興味を引いた。 整備などのマニュアルについて暗記してそれを行うと、例えば、ある手順が その暗記から忘れられてしまった場合、それを検証する手立ては失われてしま うわけで、安全性の著しい低下を招いてしまう。機器整備などのマニュアルは チェック表を用意して、ひとつずつ項目をチェックしながら進めるのが好まし いとされている。 この機器整備についての安全性の向上は、ぼくの職場の仕事にも直結する場 面であり、とても興味深く観た。電車を始業整備する場合など、これまでの暗 記を主体とする点検の実施は、それまでの車掌と一緒の始業整備作業というダ ブル・チェック機能がワンマン化によって失われているわけで、暗記から漏れ 出てしまった項目については、現在、何のバックアップもない。実際、ワンマ ン運転が始まってから不手際による運行不能事故もあったわけで、機器整備に ついては見直しがあった方が良いのではないかと思っていたのだ。 ともあれ、番組で伝えていたのは、安全システムの構築ということについて、 人間の能力を過信しない、人間は必ずミスを犯すものだという認識から出発し なければならないということだった。 医療従事者にしても鉄道運転士にしても、どちらも長い研修を経て出来上が るプロである。だから、プロ意識に頼ろうとする場面が、その本人にも、周囲 もあるわけだが、まず、その意識から見直さなければならないと思えてくる。 例えば、プロスポーツのプロ意識と、安全に直結する業種とのプロ意識を同 レベルで語ってはいけないのだ。 7月 9日(水) 公休日。 うっかりと昼まで寝てしまう。 今日は、妻が終日の仕事だし、子供たちもそれぞれに学校で留守。のんびり と寝過ぎてしまったのだ。新聞を読み、ニュースを観ている内に1時過ぎにな り、昼食を抜くことにする。こういうことは良くあって、空腹は空腹なのだが、 空腹の辛さよりも昼食を準備する煩わしさの方が辛く感じてしまうのだ。 バタバタと昼食を用意し食べて片付ける手間を考えると、腹が減ったなとゴ ロゴロしている方が好ましいのだ。 で、腹減ったなと居間で横になってダラダラとテレビを観ていると、アマゾ ンから浦沢直樹『20世紀少年』の読み残しの巻、22巻が届く。 早速、読み、感動する。 うむ、こんなことをしていてはいけないという気分になり、読書体勢に入る ことにする。紅茶を入れ、チョコとクッキーを用意。本を傍らに積み、読書を スタートする。 職場の同僚に借り、読みかけになっていた川西蘭『ルームメイト』から読み 始める。短めの小説が数多く収められていて、どの物語も、基本的には、「不 思議」な女の子が、語り手の男の子の人生にちょっと関わって消えていくとい うような、つまりはボーイ・ミーツ・ガールというやつになっている。 ここで「不思議」と書いたのは、語り手の男の子に取って、突然、目の前に 現れる女の子が不思議ということであり、物語の内容が不思議であるというこ とではない(もしかすると、女の子が読めば、不思議に思う男の子の方が「不 思議」ということになるのだろう)。 これまで日記に繰り返し書いているように、決して、深くはない物語。ある 状況だけをスッと提示してみせるだけの物語は、とても軽いものである。 が、これが何というか実にうまいのだ。80年代という軽佻浮薄な格好つけ の時代に書かれたものであるから、今、読むと、ギャグとしか思えないような 格好つけが連発されもするのだが、ある情景をサラッと書く手腕は、とても見 事なものだと思う。 川西蘭について、先日、本を貸してくれた同僚とまた話したのだが、その同 僚が言うには、『ルームメイト』の解説を書いている原田宗典の言葉が、おそ らく川西蘭の小説の特質を一番良く表現出来ているということで、その解説を、 最後に楽しみながら読む。 原田宗典は、小説について、建築的小説と音楽的小説に分けて書いている。 建築的小説とは計算され構築されるものであり、音楽的小説とは感性でサッ と書くというものであり、無論、この解説は作品論でも作家論でも文学論でも ないから、とても不適当な二項対立になっているわけだが、しかし、川西蘭の 小説の特質についてはとても良く言い表しているように思えたのだ。 川西蘭が文章を書く才能だけで、これらの軽い物語をサラッと書いていると いう意味ではもちろんない。そういうように読める作品を書いているというこ とである。 音楽にはクラシックからジャズからロックから歌謡曲まで、いろいろとあり、 歌謡曲のなかにも演歌からポップスからいろいろとあるわけだが、川西蘭は、 多分、ポップスなのだ。ポピュラーという言葉は、おそらく大衆的ということ なのだと理解するのだが、ある物語が受け手に何の事前の準備を要請すること もなくスッと受け入れられてしまうのは、そして、その時代の空気までも表現 されてしまうというのは、これはもう歌謡曲のポップスの熟練の作曲家、作詞 家と同様の力を川西蘭が持っているからと言うしかないように思うのだ。 次に、エリアス・カネッティ『眩暈』を読む。 「第一部 世界なき頭脳」まで読む。東洋学の研究家ペーター・キーンは自 宅を図書館のようにして世間とは没交渉のまま(親の遺産を食いつぶしながら) 研究を続けている。ペーター・キーンはあることからお手伝いの女性テレーゼ を妻として迎えることになる。この第一部は、テレーゼによってキーンが図書 館のような家から追い出されるところで終わる。 この要約だけからは、なんかとても深い物語が固い文章で語られているよう に思えてしまうわけだが、しかし、これは圧倒的な喜劇であり、しかも、ドタ バタ的な笑いに満ちた喜劇である。本の虫であるペーター・キーンは本の世界 を真理・真実の世界であると思っているという、喜劇によく出てくるズレたイ ンテリであり、まさに「世界なき頭脳」なのだが、お手伝いのテレーズもまた (全くの無教養の女性なのだが)自分の世界を築きそこから一歩も出ない「世 界なき頭脳」の持ち主なのである。 このふたりの異なる世界を持つ頑迷さがぶつかり合って、悲惨な喜劇が饒舌 に描かれていく。 堪能する。 続けて、リービ英雄『越境の声』の続きを読む。リービ英雄は、アメリカ人 であるのだが、日本や中国に暮らした成長期を持ち、現在は日本語で小説など を書いている作家。本書は、そのようなふたつ以上の場所に根拠を置く作家た ちと対談したものを集めた本。 この本については、とても刺激を受けているのだが、なかなか言葉にしてど うこうと言えない。消化出来ずにいるのだ。とても大きな問題を感じているの だが、その問題について言葉に出来ないくらいに、大きな刺激を受けているの だ。いろいろと考えていかなければならない。 この辺りで読書に飽きてきた。 ちょうど、夕方。 妻が帰宅し、ニュースをダラダラと観る。 あっ、サミット、今日で終わったのか。最近のサミットで恒例になっていた 大規模なデモのニュースはなかったが、これは報道規制なのか、それともデモ 自体がなかったのか。そもそも警備主体に考えられたとしか思えないような開 催地とか、(イタリアのかつての極左)アントニオ・ネグリの入国問題とか、 日本という島国で開催されたサミットの特殊性ということもあったように思う。 先進国が集まって、自分たちだけで世界の方向性を決めようなどという傲慢 な態度は、やはり良くないようにも思うのだが、しかし、逆に先進国が国連の 場だけで角突き合って自国の利害だけを主張するのも間違っているわけで、つ まりは、こういう集まりも必要だと、ぼくは思う。 それに対して、世界中から集まるデモは、決して先進国だけの頂上会議だけ では世界はダメなんだと主張をするわけで、サミットも必要だが、こういうデ モも必要だと、ぼくは思う。 仮に、日本が様々に画策して、最近のサミットで恒例化していた大きなデモ を未然に防いだとするなら、それは世界から非難されるに値するだけの汚い行 為だったようにも思えている。 以前に買い、まだ読めずにいる『世界社会フォーラム 帝国への挑戦』とい う本がある。デモに集まってくるような様々な団体が集まって会議をする機会 を持つのだが、この本は、その会議の記録であり、主張である。 「脱出口はある、もう一つの世界は可能だ」という言葉がなかに書いてある のだが、つまり、サミットで国際政治のバランスのなかで(利益の配分的要素 が強烈なバランスのなかで)決められる様々なことから脱落する、見捨てられ る立場にある様々な人たちの力をいかに結集し、世界的な動きに出来るかとい うこと。これは、ネグリとハートの『〈帝国〉』や『マルチチュード』に理論 的に書かれたことの実践的行動であると、ぼくは理解する。 テッサ=モーリス・スズキ『自由を耐え忍ぶ』という本があるのだが、この 本のタイトルの意味がずっと理解出来ずにいた。「自由」という人間の至上価 値について「耐え忍ぶ」と続くことが理解出来なかったのだ。しかし、このタ イトルにある「自由」とは、力を持つものが力を持たないものに対して容赦な く振るう「自由」という名前の暴力なのだ。 力を持つものが恣意的に自由を語ることはたやすいし、また、その語ったこ とを、実際に世界に対して振るうことが出来る。 テッサ=モーリス・スズキはそういう「自由」に対して「耐え忍ぶ」側から 書いたのであり、ネグリとハートは、そういう現状に対して、どのように対抗 するかを理論的側面から書いた。 『世界社会フォーラム』は、それらの問題提議をどう実践に移すのかのひと つの答えであると思う。 ぼくは、この本を書棚から引っ張り出しパラパラと読んでみた。とても分厚 い本であり、簡単に読むことは出来ないのだが、少しずつ読んでいこうと思う。 風呂に入り背筋を伸ばし、夕食をむさぼり食い、テレビをダラダラと観て、 情報誌『選択』7月号を読み、完読する。 この情報誌は、政治、経済、社会に対する話題を硬派的に網羅していて、と ても面白いのだ。通販限定なので、書店では売っていない。去年の誕生日のと きに妻にねだってプレゼントとして年間購読を申し込んだもの。 今月号もとても刺激的な記事に満ちていた。 『選択』の様々な記事が書いている世界は、現実の世界の実相に近い。つま り、現実の世界がどう動いているのか、何がどう問題をはらんでいるのかを、 あくまでも現実的な視点から記事として描こうとしている。しかし、端々から は、例えば、「世界社会フォーラム」的な視点も感じられる。つまり、この現 実ではない現実を憧憬するような、悲憤の視点というか、「耐え忍ぶ」ものの 側からの視点というか。 多分、(どちらかというと)保守的な情報誌に籠もっている奇妙な熱の正体 は、そういう正義の感覚なのかも知れないと、ふと思う。 7月11日(金) 休暇。 伊豆まで同僚たちと遊びに行く。 泊まりの呑み会。 行きの車のなかから呑み始め、宿についてからもひたすらに呑み、かつ話す という壮絶な旅だった。ぼくはめっきりと体力が無くなっていて、深夜前には 体力は尽きていたのだが、それでも真夜中3時頃までいろいろなことを話す。 いつものように酔って無責任なことをダラダラと喋ってしまったのだが、昨 日は珍しく喋っている最中から軽い自己嫌悪を感じてしまう。その自己嫌悪が 作用してしまったのか、今朝は8時過ぎに目覚めたのだが、もう調子が悪くて 悪くて参った。 呑みでヘトヘトになったのは久しぶりだ。 ぼくは、帰りの車のなかではほとんど寝ていたのだが、タフな同僚たちは、 帰りの車のなかでもいろいろと話していた。 いやあ、でも面白かった。 酒呑んで話しをするのは本当に面白い。自己嫌悪がなければ、もっと面白い ような気もするのだけど、しかし、これで自己嫌悪さえなくなってしまえば、 ぼくは本当に嫌な奴になってしまうかも知れないので、これで良いのだ。 昼過ぎ、夕方前に帰宅。 アマゾンから本とDVDが届いていた。 講談社から出ている現代思想誌『RATIO 5』、エリアス・カネッティ 『群衆と権力』上・下巻。 トニー・ガトリフ監督のロマ族の音楽と舞踏を中心に描いた映画『ラッチョ・ ドローム』(「よい旅を」という意味らしい)。1993年の映画のDVD。 早速、『ラッチョ・ドローム』を観る。 かつてはジプシーと呼ばれ、現在はロマ族と呼ばれる、主にヨーロッパを放 浪して過ごす人たちがいる。インドから出発した言われている彼らは、一族単 位で移動をし、行く先々で小さな仕事をして生計を立てている。 彼らは音楽的才能に恵まれていて、先日に観たNHK−BS『はるかなる音 楽の道(1)さすらいのバイオリン −流浪の民・ロマの道−』によれば、彼 らは行く先々の地にある楽器を使い、楽士として生計を立てた(定住するもの もあったという)。基本的に放浪の民である彼らは、これまでの長い歴史のな かで幾度も迫害されてきた歴史を持つ。近年ではヒトラーのナチスが、ユダヤ 人大量虐殺の前に、ロマの大量虐殺を行っている。現在でも、町や村の外れに 突然に集団で現れ、町中で花を売ったり靴磨きをしたりというような小さな仕 事をする彼らに対して、治安が乱れるなどの理由で、早々に退去を迫ったり、 あるいは国の単位で定住を進めるような政策を取るようにもなっている。 さて、この映画は、そういうロマ族の主に音楽と踊りを、時間と空間を超え た形で、詩的に綴ったもの。 映画の冒頭は、インドから始まる。はるか昔、インドの辺境の荒れ地から出 発を始めたときの彼らの歌と踊り。旅の場所は、現代のエジプト、トルコに至 り、更に、別のルートから進んだ彼らのもうひとつの旅の場所、ルーマニア、 ハンガリー、スロヴェキア、フランス、スペインへと至る。 どの場所でも、ロマ族の音楽がそれぞれの場所に合わせた形で展開されてい くのだが、しかし、そこで使われている楽器が何であったにしろ、また、どう いう音楽であったにしろ、底の方から響いてくるロマの音というものが共通し てあるようで、ぼくはそれに感動する。 映画の冒頭に描かれる始まりのインドでのロマの素朴で情熱的な音楽と踊り は、映画のラストで描かれるスペインのフラメンコの歌と踊りとは、その技巧 の差異で、とても違うものではあるのだが、しかし、底の方から響いてきて、 こちらを揺さぶる力は全く同じものだと思う。 監督のトニー・ガトリフは、ロマの出身だという。だからこそ、彼らロマの 音楽と踊りで、世界を満たす力を、このような芸術の力へと昇華することが出 来たのだろうと思った。 エリアス・カネッティ『群衆と権力』は、現在、読んでいる『眩暈』の次に 読み始めようかと思っている。上・下巻と長大な本なのだが、書かれているこ とは、とても刺激的であるように思えるし、とても考えさせられるものだと思 うから。本書は何よりも哲学の本であるらしいのだが、しかし、『眩暈』で綴 られている饒舌な面白い小説の書き手が綴った哲学でもあるのだ。「物語る哲 学」とエリアス・カネッティ自身が言っているらしいが、小説家が書いた哲学 だから「物語る哲学」だというような単純な話しではないかも知れないが、と りあえずはぼくは、とても読みやすい(が長い)哲学を読む積もりでいるので ある。実際にどういうことが書かれているのか、とても楽しみだ。 『RATIO 5』は講談社が発行している不定期刊の現代思想誌。とても 骨太な文章がたくさん収められた本で、本号で5冊目。ぼくはこれまで全部を 買っているのだが、すべてを読んだとは言えない。拾い読み程度だ。 ナントカ、イツカハ、集中して、すべてを完読したいとは思っている。 今号は、「大特集 中国という問題群」ということで、やはり、とても興味 深い。早速、阿南友亮「中国人民解放軍の実像」を読む。 通常の国の軍隊は、その国に属している。極端な話し、国の看板が変わって も、軍隊そのものは、その新しい看板に忠誠を誓うだけのこと。このことを逆 に言うと、軍隊は意志を持ってはいけないのだ。 しかし、中国人民解放軍の場合、その始まりからして、中国共産党の軍隊と してスタートしていて、ひとつの党、共産党の軍隊であり続けている(天安門 事件における人民解放軍の人民への攻撃は、この筆者によれば、国の望むもの と党の望むものが乖離した結果としてあるということ)。 革命軍の場合、革命軍が打倒すべき国軍がまずあるわけで(中国の場合、こ れは国民党軍だったわけだ)、その国軍を倒した後に、本当なら中国の場合、 共産党の一党独裁から切り離した形で、人民解放軍を国の軍隊として整備をす れば良かったわけだ。 しかし、人民解放軍の場合、戦闘中の一時期、この人民解放軍自体が、共産 党の中枢となっていたという経緯もあり、現在も、中国の軍隊は、中国共産党 の中核に組み込まれた共産党の軍隊。 つまり、人民解放軍は意志のある軍隊なのだ。 この筆者は、だから、日米は、中国について分析するときには、あるいは戦 略を練る場合には、そういう恣意的に動ける、勝手に党の利益のみを追求する 人民解放軍ということを忘れてはいけないというように書いている。 なるほどなと思いつつ、読む。 夜、iPhone発売のニュースを追っかける。どうしても行列の話題が中心にな るわけで、実際にはすぐに入手出来るのか、それともしばらく待たなければな らないのか、一向に判らない。アップルもソフトバンクも日本市場向けにどれ だけの量を用意したかを公表していないわけで、つまりは、この騒動に踊って くれということなんだろう。 そういう商売の仕方にはちょっとムカつくわけだが、ああ、それでも欲しい な。どうしても欲しいな。テレビ・ニュースで実際に使っているところを何度 も観ていたら、もう欲望大勃起状態なわけで。 7月14日(月) 泊まり明け。 同僚たちとの一泊呑み会から帰宅した金曜日。テレビのニュースで何度も何 度もiPhoneの発売のニュースを観ていた。欲望は高まるだけ高まり、欲しくて 欲しくてたまらないのだけど、しかし、容易には入手は無理だろうなと思って いた。それでも、金曜の夜、ネットであれこれとiPhoneの話しを追っているう ちに、もしかすると、8Gタイプのものならば手に入るのではないかと微かに 思えてきた。いろいろな話しを総合すると、地方の家電量販店でなら8Gタイ プが入手出来る可能性があるということが判ってきたのだ。 で、土曜日午後から、ダメ元で近所の家電量販店に出かけてみた。土曜日の 午後ということで店内は混雑している。でも、テレビでやっていたような行列 なんかない。携帯電話のコーナーでiPhoneを発見。でも、人だかりしているわ けでもない。本日分は売り切れて、行列も混雑も解消されているのだろうかと 思いつつも、いや、そもそも横須賀では、そんな行列も混雑もなかったのかも 知れないとも思えてくる。 近くにいた店員さんに、おずおずと、もうiPhoneは売り切れですよね、と聞 いてみる。いや、ありますよ、とあっさりと店員さんは答える。あっ、買いま す、買います、みたいな感じで、ぼくは咄嗟に店員さんの答えに食いついてい た。ちょっと様子を見に行こうよと、渋る妻と一緒に店には来ていたのだけど、 妻は、ぼくの買います、買います発言に驚き呆れている。カウンターに案内さ れ、店員さんにあれこれと説明を受けるのだけど、店員さんがちょっと席を離 れると、即座に妻は、本当に買うの、と何度も翻意を迫ってくる。 無論、手遅れです。 ぼくは店員さんと共犯関係にあるように喜々として購入手続きを進めていた のだった。 そういうわけで、ぼくは土曜日にiPhoneを入手した。 で、帰宅して、あれこれと設定などをしたのだけど、電話機能、メール機能 は無事に開通したのだけど、メインの機能であるiPodがうまくいかない。店で しつこいくらいにバージョンアップを念押しされていた、パソコン側のiPod専 用の音楽管理ソフトiTunesの、その最新版が不具合を起こしているのだ。 パソコンでこのソフトを起動させると、何度も何度も(そのまま放っておけ ば無限に)訳の分からないアラートが出続けてしまうし、更に、ケーブルで接 続したiPhoneを認識してくれないのだ。 何か手順を間違ったのかと焦ってしまったのだが、あれこれと調べてみると、 どうもiTunesの最新版に問題があるよう。一部のパソコン環境で不具合が起き ているようなのだ。つまり、ぼくのパソコンはその「一部のパソコン環境」に 当たってしまったわけだ。 こうなると手も足も出ない。 仕方なく、そのまま寝る。 昨日は泊まり勤務で、職場にiPhoneを持って行く。土曜の夜は、妻や子供た ちから、何を焦って買っているのかとか、イヤホンを使ってハンズフリーで通 話をするのは絵的にダサいとか散々に馬鹿にされていたので、職場で、誰かに 買ったことを賞賛して欲しいと思ったのだ。 職場の同僚たちは良い人ばかりで、たくさん賞賛を浴びる。そうか、ドラえ もんのスネ夫はいつもこういう気持ち良さを感じているのだなと、少し、思う。 所詮は、金で買った賞賛、物珍しさへの賞賛、いや、そもそも腹のなかで笑 われている類の賞賛なのだが、それでも場の中心になれるというのは、とても 嬉しいわけで、つくづくとぼくは小さい男だな、スネ夫並だなと思い知ったわ けでもあったのだが。 それにしても、iPod機能が使えないというのがとても悔しい。ぼくは、この iPhoneを、iPod機能に携帯電話機能が付いているものと思っているわけで、つ まり、iPod機能が使えないということは付録でしか遊べないということと同じ で、とても味気ないことなのだ。 今朝、帰宅してからネットであれこれと調べてみたのだが、やはり土曜日か ら進展はない。「一部のパソコン環境」は捨てられてしまったのかも知れない、 と段々と不安が高まってきて、無駄だと思いつつもサポートセンターに電話を してみる。発売直後だからか繋がらない。何度かけても無理。 仕方なく昼ビール後に昼寝して時間を潰す。 夕方、目覚めてから再度チャレンジ。今度は30分ほど待って、ようやく繋 がる。しかし、何と言うことか、こちらで起きている現象を説明している内に、 まだ解約していない以前の携帯電話が、嫉妬のあまりか、折角の通話を切って しまう。即座にかけ直したが、もう繋がらない。 ううむ、困った。早く、アップルでもソフトバンクでも良いのだけど、対応 してくれないかな。 というわけで、読書も文章も停滞中だ。 職場の仮眠室では、それでも、同僚から借りていたジュリアーニ『リーダー シップ』を読む。9.11アメリカ同時多発テロのとき、ニューヨーク市長を 務めていた「あの」ジュリアーニの自伝なのだが、とても面白い。 冒頭、9.11のときの状況から入る。あの大混乱の渦中で、市長としての 責務を果たそうと、奮闘するジュリアーニが凄いなと思う。 何よりも行動原則が定まっていて、しかも、大混乱のなかでさえ、その行動 原則を貫こうとする姿勢が凄いと思う。 思慮無き行動や行動なき思慮は無意味に陥りやすいが、思慮がある行動や行 動のある思慮は、確実に世界を動かすね。 7月17日(木) 日勤。 夏だ。が、生憎と、ぼくは夏が嫌いだ。体力がなくて夏バテしやすいからと いうこともあるが(夏バテ対策として、この時期は梅ジュースを飲む)、早朝 に明るいのが嫌だし、夕方がいつまでも明るいのも嫌なのだ。 朝は7時くらいに明るくなって欲しいし、夕方は4時半くらいに暗くなって 欲しい。こんなに夜が短いと、ぼくは映画『インソムニア』のアル・パチーノ のように、渋くやつれてしまいそうだ。 iPhoneは相変わらずにiPod機能が使えないままだ。 昨日、アップルのサポートセンターに電話をした。とても丁寧に応対してく れたのだけど、電話を繋いだまま、あれこれとやってみたことの、どれもがダ メ。とりあえず、iTunesを起動させたときに起きる無限アラートは止まったの だけど、しかし、iTunesがiPhoneを認識しない症状はそのままだ。 アップルのサポートセンターの担当者は、また数日したら電話してみてくれ と言っていた。日々、対策は進んでいるから、ということらしいのだが。 もう、こうなると気長に待つしかないのか。 というわけで、出勤のときには鞄のなかにiPhoneを入れて、音楽は今までの iPodで聴くという、考えてみれば、とても贅沢なことをしている。 見知らぬ人からメールを貰い、映画『敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バル ビーの3つの人生』を教えて貰う。ぼくは、クラウス・バルビーをまったく知 らなかったのだけど、メールで紹介されている映画についての文章を読むと、 とても興味深い人物に思えた。 クラウス・バルビーの生涯は大きく3つに分かれるようだ。始めは、ナチス の親衛隊としてフランスに駐留し、レジスタンス活動家(つまり、フランス人 によるナチス抵抗勢力)やユダヤ人の虐殺に加担した。戦後は、ヨーロッパで アメリカの反共スパイとして働き、その後、ナチスの残党狩りが厳しくなると、 南米ボリビアに亡命し、そこで軍事政権誕生に関わったのだという。 面白いのは、これはメールに書かれてあったことなのだが、このクラウス・ バルビーがゲバラの殺害を計画したと自慢していたということ。 ゲバラはキューバでの革命が成功した後、南米全体に社会主義を広めるため に、当時、軍事政権下にあったボリビアに潜入する。ここで様々なゲリラ活動 を行うのだけど、しかし、ボリビア政府の後ろ盾として控えていたアメリカの 情報部により、追い詰められ、ついには虐殺されてしまった。 このゲバラの暗殺事件に、この映画で取り上げられている元ナチスの親衛隊 員クラウス・バルビーが関わっているらしいのだ。 とても興味を引かれる。 ナチス親衛隊員、ヨーロッパの反共スパイ、そしてボリビアでのゲバラ殺し。 無論、このクラウス・バルビーが個人として、このような悪の変遷を実行し 続ける力を持っていたわけではないだろう。 その背後には、クラウス・バルビーの個人的悪を全うさせるための大きな力、 つまりアメリカの存在があったはず。 映画は、その辺りを詳細に描いているようで、興味を引かれるのだ。 ナチスの戦犯としてイスラエルによって裁かれたアイヒマンを、ぼくは思い 出した。強制収容所にユダヤ人を移送したナチスの現場責任者。この裁判を傍 聴した哲学者ハンナ・アーレントは、アイヒマンの実直な官吏としての容姿、 また、ひたすらに上からの命令だったと責任回避をする姿勢について、「凡庸 な悪」と呼んだ。 ぼくは、これまでアイヒマンという個人が凡庸であるということだと理解し ていた。しかし、これは、アイヒマンが凡庸であるということではなく、すべ ての継続する悪は凡庸であるということなのかも知れないと思えてきた。 例えば、秋葉原であったような、全く世界の道理とは合わない悪は、一瞬の うちに爆発するものだと思うのだ。決して、継続することの出来ない一瞬の爆 発としての悪。無論、このような悪もまた悪であるし、憎むべきものであると も思うのだが、本当に悪質なのは持続する、持続し続ける悪であると思う。 持続する悪は、ひとつのシステムのなかで、その悪を行うことを許可された ものにしかなし得ることが出来ない。 アイヒマンにしても、クラウス・バルビーにしても、また大分の教育委員会 にしても。 つまりは、そのように許可されたシステムのなかで継続される悪は、継続さ れているという一点において、おしなべて「凡庸な悪」にならざるを得ないの ではないか。だって、そのような悪においては、すでに悪は悪ではなく、いつ までも続く生活になってしまうのだから。 背後に控えるナチスの組織、アメリカという国、日本の教育制度というもの には、おそらく顔すらない。そういうシステムがあるだけなのだ。「凡庸な悪」 の遂行者たちは、そのシステムのなかで安住しながら、せっせと悪を働き、生 き続けるのだろう。 この映画、観に行きたいけれど、でもなあ、先立つものが。 DVD待ちということで。 今回の芥川賞、直木賞は、なかなか面白い選考だったと思う。芥川賞は、中 国人の楊逸、直木賞は「全身小説家」井上光晴の娘、井上荒野。 ぼくは、ふたりの小説も、全身小説家の小説も読んだことがないのだけど、 それでもなかなか通好みの選考だったように思う。 今、リービ英雄『越境の声』という、母語ではない言葉で小説を綴る作家た ちの対談集を読んでいるので、特に、楊逸の小説が気に掛かる。 母語というのは、生まれ育った環境で自然に習得する言語のことを言うわけ で、ぼくの場合、母語はもちろん日本語になる。 この場合、ぼくの言葉は、ただ言葉であることを越えて、生まれ育った環境 で習得される文化ということにも関わってくる。 楊逸の場合、どうして日本に来たのか、また、どうして日本語で小説を書こ うとしたのか、ぼくは判らないのだけど、しかし、言葉のみならず文化の相違 も越えて、小説を書くのはとても難しいことだったろうということは理解出来 る。 母語で書かれた小説を母語で読む場合、ひとつひとつの言葉について、そこ に意味されているもの以上の意味、文化的コードのようなものを読み込むこと が出来る。 おそらく、日本の凡庸な小説のほとんどは、その仕掛けに頼って書かれてい るように思うのだけど、この場合、頼り頼られる関係は、そのままに作者と読 者ということになり、そこには何か酷く隠微な共犯関係が成立してしまう。 楊逸の場合、そういう共犯関係を期待することは出来ない。 そういうなかで日本語で書くということは、どういうことなのかということ を思う。 が、優れた日本の小説の場合、母語によって書かれているにも関わらず、そ のような隠微な共犯関係は、楊逸の場合のように、ない。 小説は書いたものが共感されたくて書かれるものではない。小説は、読む人 に他者を感じさせるために書くものだ。 楊逸は、そのもの凄いだろう努力によって、そのような他者を日本語を母語 とする読者の前に提示し得たのだろうと思う。 ひとつ疑問に思うのは、新聞などの論調がすべて、外国人での初の受賞者的 な感じになっていること。 芥川賞では、例えば李恢成がいる。この偉大な小説家を始め、数多の在日朝 鮮人作家がすでに存在しているということ。 7月19日(土) 泊まり明け。 暑い日が続き、悲鳴を上げそうだ。 iPhoneは、相変わらずに、iPod機能が死んだままで、単なる携帯だし、これ にも悲鳴を上げそうだ。 もう、悲鳴を上げるのも暑いくらいの夏は、とっと過ぎ去ってしまえば良い のにと思う。 昨日、出勤前、HDRに録画してあったNHK−BS『ウイークエンドシア ター』、「ピアノ・ルネサンスのスターたち ピエール・ローラン・エマール」 を観た。ピアニスト、ピエール・ローラン・エマールの、2008年にミュン ヘン、バイエルン芸術アカデミーで行われた演奏会の模様と、その演奏会まで の日々を追ったドキュメンタリーから構成されている。 とても刺激的だったのは、ピエール・ローラン・エマールの言葉の数々。 アメリカの作曲家カーターの複雑な構成の曲を演奏するのだが、その曲に関 してピエール・ローラン・エマールは、「ふたつの主題からなる曲」であり、 「右手と左手が、それぞれ違う速度を演奏する」ということを述べた後、この 曲はポリフォニーの新たな展開であると述べる。 ポリフォニーとは、ピエール・ローラン・エマールが述べているように、ふ たつの主題が、互いに独立を保ったまま、しかも、ひとつの曲として構成され ていることを言うのだが、これはドストエフスキーの小説についての評論を書 いたミハイル・バフチン以降、文学の用語にもなっている。 例えば、吉田修一の小説『ランドマーク』は、ひとつの超高層ビル建築現場 を舞台にした小説で、設計士と現場労働者のそれぞれの世界が交互に描かれて いくのだが、ついに最後まで、このふたつの主人公たちが交わることはない。 しかし、それでも、この交わることのないふたつの世界は、超高層ビルとい う場の不安定性を際だたせる形で、ひとつの小説として結合するのだ。 アメリカの作曲家カーターの複雑な曲の実際の演奏を聴いていると、まさに、 交わることのないふたつの音の流れが、それでもひとつの曲として演奏されて いるわけで、とても面白い。 ピエール・ローラン・エマールは、バッハの研究者や、作曲家カーターと対 話し、曲への理解を深め、演奏会に臨む。 ピエール・ローラン・エマールは、演奏家の主な目的は、演奏家は作曲家の 意志の「通訳者」になることと述べている。作曲家が楽譜の形で残したものを、 いかに音の形に「通訳」するかということだと理解するのだが、こういう考え 方が、音楽の特殊性を際だたせていて、とても面白いと思う。 ピエール・ローラン・エマールは、「「通訳者」として作曲家に認められる こと、それが演奏家の人生において最大の目標ではないでしょうか。「通訳者」 は対象そのものになりきらなくてはなりません。究極の目標は作品と一体化す ること、または作曲家になりきること」と語っている。 このような演奏家もいれば、作曲家の意志を超越して、好き勝手に解釈を施 している(ように、ぼくには思える)グレン・グールドのようなピアニストも いたわけで、やはり、とても面白いと思うのだ。 昨日の泊まり勤務は金曜の夜の終電担当ということで、なかなか大変だった。 暑さが深まったためか、呑んで帰る人が多く、相当の混雑。臭気プンプンの 酔っぱらい電車を運転するのは不快だ。 今日の夜、妻は仲間内の呑み会があり、横須賀の町で呑んできたのだけど、 その妻によれば、居酒屋ビルの入り口のエレベーターで、外の道路まで順番待 ちの行列が出来ていたそうだ。 居酒屋に入るための行列ではない。エレベーターに乗る順番待ちの行列なわ けで、ほとんど悪夢のような光景だったろうなと想像する。 仮眠室では、ルドルフ・ジュリアーニ『リーダーシップ』を読む。 9.11のときのニューヨーク市長の、あのジュリアーニの回想的自伝で、 始まりが9.11のときの迫真の経験を語っているためもあり、最初からぐい ぐいと引きこまれて読んでいる。が、iPhoneを購入した直後ということもあり、 なかなか職場で思うように読みが進まない。それでも、昨日の夜は仮眠室で、 かなり読みを進めることが出来た。 組織をいかに率いていくかということが中心になっている。無論、自分の業 績を良いところ取りで書いているという部分もあるだろうが、しかし、読んで いてとても説得力を感じる。 リーダーというのは様々な人間的側面、心配性とか完璧性とか大胆さとか、 下の人間たちに対する猜疑とか、信頼とか、もう互いに矛盾してしまうような 様々な人間的側面を持つ、あるいはバランス良く発揮する能力なのだなと思え てくる。 泊まり明けで帰宅して昼ビール、昼寝。 昼寝前に、リービ英雄『越境の声』の続きを少し読み、夜、続きを読み、つ いに読了する。 母語ではない言葉で小説を書くということについて、自身もアメリカ人とし て日本で日本語で小説を書く作家として暮らすリービ英雄が、様々な人と対談 をしているというのが主な内容なのだが、とても刺激的だった。 今期の芥川賞の受賞者が中国人の女性、楊逸だったこともあり、旬の読書に なってしまった。 しかし、言うまでもなく、楊逸のような母語ではない言葉で小説を書く作家 はこれまでも無数にいたし、実際にたくさんの作品がある(『越境の声』のな かでは山上憶良が取り上げられている)。 楊逸の超人的な努力や才能を否定したいわけではない。ただ、この作家が、 中国人の日本語小説作家としてだけ珍しがられ消費されてしまってはいけない と思うということ。 そういうわけで、この『越境の声』は、境を越えてやって来て、そこの言葉 で小説を書くということの意味をあれこれと考えさせる。 何よりも、まず、越境してきたものはふたつの文化の間に立つ視点を持つと いうことを思う。また、母語ではない、その言葉について、新たな意味をその 言葉全体に付与するということを思う。 この『越境の声』では、終盤のエッセイの部分において、小説を書くという ことばかりではなく、違う文化のなかに入るという点にも触れられていて、と ても興味深い。 ことにリービ英雄がアメリカ同時多発テロの9.11のときにカナダで足止 めを食らった体験が興味深い。9.11の当日、リービ英雄は日本からアメリ カに向かっていた。しかし、飛行機の経由地であったカナダで、テロのために 7日間の足止めを食らうのだ。アメリカという母文化の国での悲劇を、カナダ という縁のない国で外から眺めているということ。また、7日間の足止めの後、 日本に戻り、日本語でその顛末を書いているということ。 これら、境と境の間で思考し書き続けるリービ英雄の存在自体がとても興味 深く、刺激的だ。このエピソードも含めた9.11にまつわる小説が書かれて いるという。是非、読みたいと思った。 また、この本のなかに、中国開封のユダヤ人のことが書かれていた。 宋の時代にヨーロッパから流れてきたユダヤ人たちが、ときの皇帝に姓を賜 り、中国の都市でユダヤ人の街を作り暮らしていたこと。リービ英雄は、その 痕跡を訪ねて開封を訪れ、かつてのユダヤ教寺院にあった井戸を見つける。 このユダヤ人たちの、境を越えて越えて中国にたどり着く物語について、ど こかで読んだなと思い、あれこれと考えていたのだが、岩波書店発行の『図書』 5月号の小岸昭「開封のユダヤ人、一千年の記憶」がそれだった。このエッセ イで書かれていることは、『越境の声』のなかに書かれていたリービ英雄の体 験を補強するものだった。というより、初回に読んだときには強く意識しない ままだった境界を越えた人々という視点で改めて読むことが出来た。 ある文化から違う文化に入るということ、また、その地で異邦の人として受 け入れられていくということなど、様々に刺激を受ける。 夕方のニュース番組で、近くインドネシアから、看護士、介護福祉士の人た ちが来るというのを観た(以前に、このニュースを観ていて、たまたま、今日、 職場の喫煙室でその話しをしていた。が、ぼくはインドネシアではなく、フィ リピンだと思い込んでいて、フィリピンから来るのだと断言して話していた。 恥ずかしいことだ)。インドネシアで研修を受けた後、日本で半年の日本語研 修、更に現場の実習を経て、それぞれの資格の国家試験を受験するわけだ。合 格すれば、そのまま日本で働き続けることが出来るが、しかし、不合格の場合 は、即座に帰国だそうだ。かなりハードルが高いと思うのだが、日本の場合は 特に、ということになるのかも知れないが、言葉が通じるかどうかということ が大きなポイントになるようだ。ある程度は仕方がないことだとは思うが、し かし、こういう制度で非常なる努力を要求されるインドネシアの人々は大変だ と思う。 結局、読後感にまとまりはつかないのだが、ともあれ、越境してくる声とい うのは、こちら側からは他者の声であるということを思うのだ。そして、その 他者の声が入ることによって、他者の声を聞くこちらの言葉自体が、とても強 い変化を受けるということ。それは、しかし、他者の声をもたらすその他者の 側にしても事情は同じ。ある国に他者をもたらす他者自体も変わらざるを得な い。つまりは、働きかけるものとしての他者などという固有の人物があるわけ ではなく、誰かと誰かがぶつかるとき、互いに他者であるのだということを思 う。そういう互いに取っての他者同士のぶつかり合いが、つまり様々なものを 大きく動かす力となっていくと思うのだ。 その後、録画してあったETV特集『オルハン・パムク 東と西のはざまで 書く〜ノーベル賞作家オルハン・パムク 思索の旅』を観る。 オルハン・パムクはトルコの小説家であり、去年のノーベル文学賞を受賞し ている。そのオルハン・パムクが今年、来日し、東京から京都へと旅をした。 番組では、その旅の様子、また石牟礼道子や大江健三郎との対談の様子を伝 えている。 トルコでは、イスラム教が教える諸原理を政治に組み込むか、それとも、近 代トルコを目指したときから国是としてあった、政治から宗教色を排除するか で、大きく国が二分するほどの対立が顕著になっている。 オルハン・パムク『雪』は、そういう現在のトルコを描いている。 これは、つまり、イスラム原理主義を始めとする個別主義と、普遍的価値を 追究する、アメリカが中心となっている新自由主義世界との対立が、あちらこ ちらで顕著になっているという現在の世界の状況、世界の縮図とも言える図。 トルコという個別の国の事情を描きながら、その普遍的な意味の理解に繋が る小説を書き得たことがノーベル文学賞受賞の理由でもあったのだろうと思え るわけだ。 オルハン・パムクは、現在の世界的政治状況の対立について、トルコという 国の事情を描くことによって、鋭くえぐり出して見せたということ(こういう 個別から普遍への昇華ということが、優れた小説の条件だと思う)。 面白いことに、番組のなかでのオルハン・パムクの様々な発言を聞いている と、オルハン・パムク自身は、そのようには捉えていなくて、むしろ、伝統的 トルコと近代的トルコの対立として意識しているよう。 世界の主流な潮流と、それぞれの国が抱える個別の潮流が、オルハン・パム クが語るように、単に、伝統と近代の対立であるということは、しかし、ぼく にはやはり納得がいかないように思える。 問題は、その時間軸や空間軸の対立を、決して、二項対立として還元してし まわないことのように思えるのだ。 つまり、西洋と東洋、伝統と近代というように、簡単にふたつの分けてはい けないということ。 トルコで起きていること、世界で起きていることは、そういう二項対立の克 服でしか、乗り越えることが出来ないように思えるということ。 番組のなかでオルハン・パムクが語っているように、近代のなかに伝統が生 きる道を模索するということが、おそらく、その克服の最短距離かも知れない。 ネットに日々書かれている、膨大な量の個人の書き込みを全部、読むことは もちろん出来ない。ぼくが読んでいるのは、とても狭い部分でしかないのだが、 それでも、時々、とても斬新な、とても刺激を受ける文章を目にする。 職場の同僚たちか綴るブログの記事は、ぼく自身が日々過ごしている職場の ことや、その職場の同僚たちの日常を読むことが出来るという意味で、とても 身近な文章が綴られているし、また、直接、お会いしたことはないが、掲示板 やメールのやりとりで、知り合いになった方たちの文章には、遠いが故の近さ を文章から感じることも出来る。 最近にまとめて読んだ知り合いの方のエッセイが、とても良かった。 直接、お会いしたことはないのだが、その人の日記には、主婦の仕事のこと、 職場での仕事のこと、趣味であるダンスのこと、観劇の感想などが、とても軽 妙な文章で綴られていて、ぼくの愛読日記のひとつになっていた。 この人の日記の更新がしばらく途絶えていた。どうされているのかと思って いたのだが、最近、数年前の別居から始まる、離婚、再婚という激動の日々が、 エッセイとして一気にアップされ、ぼくは驚きとともに、そこに書かれている、 とても率直な、しかし、軽妙さを保った言葉に、引き込まれ、一気に読ませて 頂いた。 世間ではよくあることなのか知れない。ある程度、結婚生活を続けた夫婦が、 外からは決して見ることの出来ないことをあれこれと溜めた結果、それが限界 に達し、別居、離婚。そして、それぞれが新しい出会いを見つけたり、見つけ なかったり。 確かに、よくあることなのだが、しかし、それがこのような形でエッセイと して、ひとつの世界として描かれてしまうと、これはもう、よくあることなど ではなく、この人の体験したひとつの時間の総括として読めるということにな るわけで、言葉としては妥当ではないかも知れないが、とても生々しいライブ 感覚として読めるということになってしまう。 つまり、よくある世間の話しではなく、ひとつきりの、個別の物語になって しまうのだ。 とても素直な率直な言葉で綴られるエッセイは、そのような個別の物語とし て、ぼくには直接的に響いてきたのだ。 ぼくは、こういうエッセイが読めるから、ネットから離れられないのだと強 く思った。 おそらく、こういうエッセイは、いずれ、感覚の鋭い小説家が小説にしてし まうかも知れない。ぼくが読み取った、この人の個別の事情から見えてくる、 現代日本に普遍的な問題を鋭く取り出した小説が、この人の個別の事情から離 れた場所できちんと書かれることになるだろうと思う。 しかし、どのように小説がこの個別の事情を普遍的な小説として書き得たと しても、この(言葉としては妥当でないことは承知しつつも)ライブ感覚に溢 れた、この人の個別の事情を綴る言葉には勝ることは出来ないと思うのだ。 7月23日(水) 公休日。 昼前に起床。 昨日の夜、途中でやめて寝てしまった、職場で必要な資料作りの続き。好き 勝手な文章を考えもないままに綴るのは得意だが、あれこれと考えながら資料 を整える作業は辛い。ようやく、昼過ぎに作業が終わる。 午後から、アップルのサポートに電話。iTunesがiPhoneを認識しない状態が 続いていた。折角、iPhoneだというのに、折角、発売日の翌日に入手していた というのに、ずっとiPod機能が使えずにいたのだ。 先週にサポートに電話したときには、またしばらくしてから掛けてくれれば、 新しい対策が練られている可能性があると言われていた。とは言っても、先週 のサポートへの電話から、そんなに日数も経っていないわけで、まだ有効な対 策はないだろうなと思いつつ、それでも何かあればというような気分で掛けた のだが、今回は有効な手段があった。 パソコンそのものの環境が悪いと考えるのではなく、同じパソコンではある けれど、違う環境を用意して試してみようという手段・考え方が発見されたよ うで、それを試したのだ。 と、iTunesがiPhoneを認識したのだ。 ややこしい書き方になってしまったけれど、つまりは、ウインドウズが持つ、 1台のパソコンを複数の人間がそれぞれの環境で使えるという機能を使い、新 しいユーザー設定を追加してiPhone専用の環境を作ったら、途端にiPhoneが認 識出来るようになったということ。 今、ぼくが使っている環境では相変わらず、認識はしてくれないのだけど、 しかし、もうそんな些細なことはどうでも良いというくらいに嬉しかった。 サポートへの電話を切ってから、現在のiTunesから新しいiTunesへとデータ をコピーしたり、更には、iPhoneの容量が8Gしかないので、持ち運ぶ音楽を あれこれと取捨選択したりとか、煩雑で面倒な作業が続いたが、夕方には、め でたくiPhoneで音楽を聴けるようになった。 紆余曲折はあったものの、すげっ嬉しい。 夕方から、(嬉し恥ずかし気分で)iPhoneで音楽を聴きながら、近所の駅ま で行き、同僚と呑む。今日はビールはあまり呑みたくなくて日本酒を呑んだの だけど、見事に悪酔いする。同僚にばれないように何度もトイレに行きゲーと 吐きまくる。たいした量も呑んでいないのに、この悪酔いは何だと思ったけれ ど、きっと夏バテのせいだろう。呑み足りなそうな同僚と早々に別れ、帰宅す る。帰宅して、風呂に入り、ボウッとテレビを観ているうちに回復。 そのままボウッとしてテレビを観ていると緊急地震速報が流れる。東北地方 で大きい地震があるという。 緊張したまま身構えていると、横須賀も幾らか揺れる。 ドキドキしてしまった。 その後、東北地方を襲った地震のニュースを見続ける。 7月25日(金) 泊まり明け。 iPhone中毒になってしまった。iPod機能が使えるようになったためもあるが、 家でも職場でも暇さえあればiPhoneをいじっている。無料で配信されているア プリケーションをダウンロードしてみたり、ヤフーでニュースをチェックして みたり、ユーチューブであれこれと検索して動画を観てみたり、もう楽しくて 仕方がないのだ。 要するに、持ち運び出来るパソコンを手に入れたようなものだ。文章作成機 能には難があるが、こんな小さな機械で珠玉の言葉を綴ろうなんて当初から考 えてもいないわけで、他の機能、電話、メール、ネット、音楽と、ぼくには十 分な機能が備わっているのだ。 まさに未来なのだ。このiPhoneは、ぼくが漠然と考えていた未来の姿そのも のなのだ。パソコンがまだマイコンと言われて売り出されていた頃、漠然と夢 見て考えていた未来の姿そのものなのだ。 ぼくは、今、完全にiPhoneに熱中している。 こういう熱しやすい自分の性格について、可愛いなと思えなくもないのだが、 それにしてもいじり過ぎだろうと反省する。あんまりいじる過ぎるのは何にせ よ良いわけがなくて、そのうちプックリと腫れて慌ててしまうなんてことにも なりかねない。そういう不安で悪癖を止めることが出来れば、そもそもいじり 続けるわけもなくて、つまりは、自分でもいけないことと判りつつ、それでも いじり続けているから悪癖なのである。あくまでもiPhoneの話しだが。 他のことが手につかなくなってしまうのが困る。読書や録画したものを観た りだとか、あるいは、こういう文章書きだとか、そういうことに対しての興味 が薄れていってしまうのだ。 猿ではないが、一度、いじる快感に取り付かれたら、もう死ぬまでいじり続 けてやろうかという勢いなのだ。あくまでもiPhoneの話しだが。 そういうわけで、今は存分にいじり続ける時期なんだと諦めている。 職場で漫画を読んでいたら、とても残虐な描写のある漫画を読んでしまい、 いろいろと考え込んでしまった。環状族というのか、つまりは暴走族の青春グ ラフティーというような感じの漫画。毎週は読んではいなかったが、とびとび には読んでいる漫画。 女に酷いことをしては金を巻き上げている外道な男を、ついに捕まえた環状 族が、この外道な男にリンチを加えているというのが、ここ何回かの物語の筋 なのだが、そのリンチが明らかにやり過ぎ。 使われていない鉄工場に外道の男を監禁し。バーナーで炙り火傷をさせ、火 傷をさせたところに水をかけ体力を回復させ、またそれを繰り返す。更には爪 をひとつずつ剥いでいくというオマケも付けている。これは物語としても、明 らかに度を超したリンチであり、実際にこういうリンチを加えたら、人間は簡 単に死ぬことになるだろう。 この漫画を描いている作家自身か、あるいは編集部かは知らないが、現実に 起きている事件に負けないようなインパクトのある描写を、ということで描か れたものなのかも知れないが、読んでいて、とても不快な気分になった。 しかし、こういう残酷な描写、残酷な想像力が出てくる理由を、例えば、商 業主義の悪しき帰結などと単純に考えてはいけないように思うし、また描き手、 作り手、売り手のモラルの問題と単純に結論付けてはいけないように思う。 現実の世界で何か異常な事件が起きたとき、事件に関わりのない人間は、そ の事件の詳しい様相、関わった人たちの個別の事情などをあまり知らないまま に、その異常な事件の概要のみを知ってしまう。そのために、その異常な事件 は実際の異常性よりも、もっと強い異常性のもとに認識されてしまうのではな いか。 昔に読んだ、人間の恐怖感について書かれた本で、溺死ということを人間が 想像するとき、海の水をすべて呑んでしまう恐怖として捉えてしまう、という 記述があった。人間が実際に溺死するためには、精々、洗面器に一杯の水があ れば事足りる。しかし、人間が溺死に対する恐怖を思うとき、海全部、あるい は浴槽の水全部が胃のなかや肺のなかに入ってくる恐怖を感じてしまうという こと。つまり、恐怖というのは、実際の痛みよりも強い痛みを常に想像してし まうのだ。 現実の世界で起きる異常な事件は、そういう恐怖に対する人間の認識の仕方 のメカニズムに沿って、本来の異常性が、より増幅されて受け取られてしまう ということがあると思う。 最近に頻発している通り魔事件にしても、それらの事件を起こした犯人たち は、この現実の世界では、おそらくはとても普通の人間だったと思う。様々な きっかけや感情のいびつな増幅などにより、突発的に起こした事件であろう。 が、それらの報道を見ているぼくたちは、恐怖感を様々な方向に増殖させ、 とても苦しい現実にはあり得ない恐怖を伴った想像をしてしまう。 ぼくたちですらそうなのだから、感受性の鋭い人間たちに取っては、その恐 怖は、この現実の世界に対して、どのような像を結んでしまうのか。 そのような感受性の鋭い人間たちのなかから、後追い犯罪を犯す人間たちが 出てくるのだろうし、ひたすらにネットのバーチャル世界に逃げ込む(感受性 の鋭い人間たちに取って、恐怖で増幅された現実世界より、バーチャル世界の 方がいかに安全で居心地が良いことか)人間たちが出てくるのだろうし、更に は、このような残酷な想像力を駆使する作家たちが出てくるのだろうと思う。 ぼくは、このような漫画について共感することは出来ないし、創作物として 見ても、あまり良い出来のものには思えない(残酷な描写をするのであれば、 例えばタランティーノくらいに無茶苦茶な想像力を駆使すべきだ)。 ただ、こういう物語が描かれてしまうということ、更には(これは言い過ぎ かも知れないが)後追い犯罪を犯す人間の攻撃に転じた追い詰められた恐怖と 言うのも理解出来るような気がするのだ。 仮眠室では、ルドルフ・ジュリアーニ『リーダーシップ』を読む。よくよく 読めば、政治家の自己主張、自己PRの本なのだが、しかし、書かれている組 織論、システム論、リーダー論には確かなものがあるわけで、とても刺激的に 読んでいる。上述したような「恐怖の世界」に立ち向かう有効な手段は、この ような正面突破の正しさなのだと思えてくる。 帰宅して、昼ビールを呑みながら、またアレをいじる。もういい加減にいじ るのは卒業したいのだけど、いじり続ける。 昼寝前、エリアス・カネッティ『眩暈』の続きを少し読む。 いじってばかりの中年期は悲しいので、少しきちんと読書をしなければなら ない。そういう気持ちで力強く読んでいたら、すぐにウトウトして眠りに落ち た。 夜は、日本映画専門チャンネルで特集で放映した、かつてのNHKのディレ クター工藤敏樹特集のドキュメンタリーをまとめて観る。 少し前に、「富谷国民学校」を観ているのだが、今日は、ビキニ環礁で死の 灰を浴びた第五福竜丸と乗組員たちのその後を追った「廃船」と、東京の街を 網の目に区切り様々に現れるデータから描き出した「メッシュマップ東京」、 神社や祠に奉納される絵馬から日本人の深層を描き出す「祈りの画譜〜もう一 つの日本」、老手品師の至高の芸に取材した「ある人生 浮かれの蝶」、すり 係刑事に取材した「ある人生 すり係警部補」をぶっ通しで観る。 これらのドキュメンタリーはすべて1960年代から70年代にかけて撮ら れたもの。 かつての日本の姿がノスタルジーを誘う興味も確かにあるのだが、そこで描 かれている様々な社会の問題に、現在の日本の問題と共通するものが多々観ら れるわけで、やはり、社会はその意匠だけは変えていくが、そこに暮らす人間 たちが一向に変わらないわけで、普遍的問題というのは、つまりは人間の問題 なんだなと実感出来てくるわけで。 7月28日(月) 日勤。 明日は泊まり勤務だが、職場の所属長との対話集会があり、午前中から職場 に行くことになる。夜は終車担当だから、相当に長い1日になりそうだ。 職場では、ワンマン自動運転が始まってからの様々な騒ぎが時間の経過と共 に一段落し始めている。 一段落し始めながらもブスブスと底流でくすぶり続けるものが、しかし、確 かにあるわけで、所属長との話し合いの場は、そういうブスブスと底流でくす ぶり続けるモノを表だった問題にする良い機会だと、ぼくは思っている。 ただし、所属長も流石は所属長であるわけで、ブスブスの真の原因に触れる ものについては、うまくはぐらかしてくるわけで、きっとまた、これまでの何 回かの集会のようにフラストレーションが溜まることになるのだろうなという 予感もする。 とは言え、こういう機会すらも無くなってしまったとしたら、ブスブスはブ スブスであり続けるだけでなく、そのブスブスがいつドッカーンと爆発しない とも限らない。やはり、言うべきことは言おうじゃないかという気も強くして いるのだ。 先日、映画『ラストキング・オブ・スコットランド』を観た。かつてのウガ ンダの独裁者アミンの側近として仕えたスコットランド人の青年医師を主人公 にした映画。狂気とチャーミングが同居するアミンの庇護の下、この青年医師 が無邪気とも言える純粋さで破滅への道を突き進むというもの。 この青年医師のアミンに魅せられた純粋性は、結局、アミンによる大虐殺に 加担していることにもなるわけで、この映画のみで判断するならば、青年医師 の純粋性は、あまりにも未熟であり、また、これが言葉の正しい使い方かどう かは判らないが、未必の故意とでもいうべき悪意に満ちたものだったように思 う。本人はアミンに魅せられているだけであると言うだろうし、あるいはそれ を心底信じているかも知れないが、しかし、そのような態度が大虐殺に間接的 に加担しているということも、同時に十分に知っているのだ。 先日の日記にも書いたけれど、このようなシステムから生じる悪について、 ハンナ・アーレントは「凡庸な悪」と呼んだのだろう。 「凡庸な悪」について、どのような罪責を与えたとしても、その悪を本人に 自覚させることは出来ないだろうとも思う。 なにしろ悪の本体は、その悪をなした本人にあるのではなく、その本人を取 り巻くシステムそのものにあるのだから。このような悪について、「凡庸な悪」 を為す本人が自覚することはとても難しい。だから、断罪することも出来ない。 システムを壊すしかないのだ。 職場の所属長を「凡庸な悪」と呼ぶ積もりはないが、しかし、うちの職場も また少なくともシステムを改革しなければ、そのうち大変なことになるような 気もするのだ。 休憩時間に、ルドルフ・ジュリアーニ『リーダーシップ』の続きを読む。 福祉政策への対処、また、コンプスタットと呼ばれるシステムの導入など、 とても興味深い内容がたっぷりと綴られている。 7月30日(水) 泊まり明け。 昨日の午前中、職場で行われた所属長との対話集会に参加した。 乗務員の場合、泊まり勤務は午後出勤で、翌日の午前には退勤になる。それ が、午前の集会に参加したということで、つまりは、駅務員時代以来の24時 間勤務ということになったわけだ。こりゃ、職場滞在時間としては、とても長 い。が、長いとは言っても、集会自体は2時間で終了し、勤務時間までの数時 間はもっぱら本を読んで過ごしていたわけで、身体的には楽と言えば楽だった わけだが。 集会は、乗務員が所属長、副所属長と直に様々な問題を話し合いましょうと いう趣旨で行われている。自由参加だが、しかし、途中参加と途中退席は認め られていない。うちの職場の場合、変則勤務であって、ある時間を区切られて しまうと、その全部に参加しようと思えば、公休日か泊まり勤務明けで参加す るしかなく、したがって、参加者はどうしても少なくなる。 昨日は、泊まり明けの勤務者が5名、公休者が1名、日勤勤務者が1名、そ して、泊まり勤務の前に参加したぼくを入れて、乗務員は8名の参加というこ とになった。うちの職場は、乗務員が100名近くいるわけで、8名の参加に 止まったというのは、やはりとても少ないように感じられる。 話し合われなければならない問題点は、たくさんある。 例えば、iPhoneの場合、様々な機能が複合された機械であるということから、 商品化の前に、あらゆる可能性が検討されているように思う。以前に使ってい たiPodと接続させてオーディオ装置で曲を再生させる機械に、このiPhoneを接 続したところ、iPhoneの画面上に、この機械は使えません、どうしても使いた いなら、電話機能は使えなくなります(接続している間だけだろうが)という ような表示が出た。この場合、何だよ使えないのかよという失望よりも、むし ろ、こういう接続をしようとするユーザーに対してメッセージを出すという対 応していたことの方に驚きが強くなる。 無論、他のどんな商品も同じで、つまりはあるものが商品となるためには、 それが社会に流通したときに直面する問題について、あらゆる方面から検討さ れているかということが問われるわけだ。 うちの場合、残念ながら、そういう意味では、検証が全く不十分であり、商 品価値のないままに社会に流通させてしまったということがある。 ワンマン自動運転が始まって以来、様々な問題が噴出している。ハード面の 問題、ソフト面の問題、人的な問題、他部署との連携の不備の問題など、様々 な問題が多岐に渡って置き去りにされている。 とは言え、それらの問題は、すでに出尽くしている感もあり、しかも、ほと んどの問題は、すでに他の部署へと投げかけられてもいる(ほんの幾つかの小 さい問題についてに過ぎないのだが、解決されている問題も出てきてはいる)。 しかし、乗務員の側の意識から言えば、ほとんどの問題が解決されないまま に時間だけがどんどん過ぎていて、結局、ワンマン自動運転への変更に伴って 生じた様々な問題、矛盾は、すべて乗務員に押しつけられているように感じら れているというのも事実。 ぼくが思う、現在の職場の真の問題は、乗務員のこの見捨てられているとい う感覚をどうするかということ。 つまり、事務所の側がどう動いているのか、そして、その動きがどこで(無 論、うちの事務所自体も含めて)停滞しているのかを乗務員の側がきちんと知 り、その上で、その動きを後押しする、または、新たな、問題の解決への手立 てを考えるという点にあると思う。 ぼくは、そういうことを話し合う場として所属長との対話の場に期待してい るし、また、そういうものにしたいとも思っている。 無論、そんな期待通りに話しは進まない。所属長は、他部署には問題を投げ かけている、要請している、要求しているということを言うばかりで、では、 その問題が解決するまで、ともあれ、どのようにやっていくかという暫定的な 解決方法の模索について話し合う気もないようだ。 ある提案をしたときには、その提案を誤解したのか曲解したのか、それとも 話題を打ち切ろうとしたのか、あっさりと予算がないという言葉で片付けられ、 そういう要求以前に、きちんと仕事をこなしていけば良いだけのことだという ニュアンスで切られてしまった。 ぼくとしては、予算を使うことも含めてだが、どのように現在の乗務員の抱 える問題・負担をバックアップするかを話し合いたいという積もりだったのだ が、このような形であっさりと切られてしまう。 所属長たちの言葉の使い方は、旧日本軍の精神主義に近いものに感じられた。 つまり、現状を変える意志も力もないという無力感にうちひしがれながらも、 下にいる部下たちに対しては、諸君らは自分の仕事を全うしなさいと言うわけ だ。そのうち、全員、突撃などと言い出すのではないか。 いやいや、いたずらにうちの職場の所属長を批判したいわけでない。彼らの 置かれている立場を理解するし、同情もする。しかし、そういう理解や同情だ けで納得出来るような境遇ではないのだ、現行の乗務員の置かれている立場は。 そのことも十分に所属長たちに伝わっていて、なお、建設的な集会にならな いということに、ぼくは苛立ちと絶望を感じてしまうのだ。 大体、集会とか対話会とかのネーミングがどうなのだと思ってしまう。これ は会議ではないのだ。会議とは、ある目的を持って話し合うことを言うわけだ が、集会とか対話会にはそういう目的がそもそも存在しないのではないかと思 えてくる。ぼくとしては、集会の場を目的の場としているわけだが、しかし、 所属長たちは単なる意見聴取の場、あるいはもっと悪く言えばガス抜きの場と しか考えていないのではないか。 そういう点にも不満を覚える。 ある問題が生じたときに対処するには色々の方法があると思う。 昨日、勤務までの待ち時間の間に、ジュリアーニ『リーダーシップ』を読了 したのだが、この9.11当時のニューヨーク市長ジュリアーニのように、自 分が偉くなり、ときには強引とも言えるリーダーシップを発揮して、ともかく も問題が生じている状況を上から一気に変えてしまう方法。あるいは、地道な 草の根の運動を通して、じっくりとゆっくりと、しかし、確実に現実を変えて いく方法。他にも、単に諦めるとか、現状に適応するとか、様々な問題への対 処の方法があるわけだが、ぼくの場合は、この日記で愚痴をこぼすのがお似合 いかも知れない。 ぼくが主体的に、現実の側を無視してしまうという方法もあるにはあるのだ が、これは危険過ぎて、検討するのもためらわれる。 昨日は、その問題の集会が終わってから、勤務開始の午後遅くまで、上述し たジュリアーニ『リーダーシップ』を集中して読んだ。 ジュリアーニはイタリア系のアメリカ人であり、つい先頃、共和党から大統 領候補として予備選に出馬した(途中で降りてしまったが)。が、何よりも、 この人は9.11当時のニューヨーク市長として、その際に見せた水際だった 危機的状況への対応の見事さで、全世界的に名を売った政治家だ。 この本は、そのジュリアーニが書いた自伝。おそらくは、大統領選出馬に向 けた選挙活動の一環としての、自己PR的自伝なのだろうが、この種の本をあ まり読んだことがないこともあって、とても面白く読めた。 この本によると、ジュリアーニは危機的状況(財政、治安など)に喘いでい たニューヨークを果断なリーダーシップで蘇らせたとある。コンプスタットと 呼ばれる統計的手法を駆使して、あらゆる問題を、数値として表示される指標 にし、その指標の変動に従って予算や人員の配置をする方法や、あるいは市全 体の動きを互いに知るために大きなミーティングを定期的に開くとか、更には、 組合組織の非合法的なストライキには断固として立ち向かうとか、いかにも共 和党的な方法論も含めて、ともかくも果断な処置を実行し続けている。そうい う方法の成果として、ニューヨークの治安も財政も劇的に回復している。 そういうなかで9.11は起きたのであり、ジュリアーニは、この危機に対 しても果断に立ち向かっている。 ともあれ、とても強い人だと思う。強いということは実行力があるというこ とであり、同時に、他の人間、部下たちを自分の望むように動かせる統率力が あるということでもある。無論、ジュリアーニ自身の望む方向が、大筋として、 ニューヨークやニューヨーク市民のためになる方向に合致していたということ だったわけで、いかにリーダーが果断に実行する力を持っていたとしても、そ の志向する方向が間違ってしまえば、うちの職場のように、単に崩壊に瀕する ということになってしまうわけだが。 この本を読んでいて、何度も思っていたのは、プラグマティズムと理想主義 のこと。 プラグマティズムとは、ある思想の価値は、その思想が現実の世界でどのよ うな具体的成果を挙げ得るかで判断されるべきだという思想のことを言う。つ まり、思想は現実世界を生きるための道具であり、そのような道具になり得な い思想は無意味なものだとする立場。 理想主義は、逆に、思想は現実世界を生きるための目的であり、現実世界を 思想に合致した形で作り替えていくべきだという立場。だから、理想主義の場 合、思想は道具ではなく、追究される目的自身と重なる(自由の実現とか)。 ある現実に対してプラグマティズムはその現実をどのように変える力を持つ かで思想の価値を計り、理想主義は、ある目的のために、現実自身を、実現さ れるべき思想自体を武器として糾弾していく。 ジュリアーニは、もちろんプラグマティストである。だからこそ、このよう な性急な果断な処置を迷いなく出来たのだろうし(理想主義者には、ここまで の確信を持つことは難しいし、あるいは理想主義者がここまでの確信を持った ら、それは理想主義の範疇から抜け出るような気もするのだ)、また、疲弊し きっていたニューヨークを回復させることも出来たのだろう。 しかし、プラグマティズムは、往々にして自己中心主義、中華主義に陥り易 い。つまり、自身の武器とする思想と他のプラグマティズム的背景を持つ思想 とを対立的に考えてしまいやすくするのだ。 例えば、ニューヨークが9.11で攻撃された後、ジュリアーニは激怒し、 テロの被害を人類史上最悪の犯罪とためらいなく言うのだが、しかし、他の戦 争被害やパレスチナなどの被占領地域の悲劇などは頭にはない。むしろ、この 事件を聖域化しないものに対しては、我々と価値観を同じくしないものとして 敵対的な姿を取ることもいとわないのだ。 このような態度を単純なものと思うぼくはきっと理想主義者なのだろうと思 うのだが、しかし、同時に、この人が実現する正義の実現の場の大きさを間違 えないでさえいれば、その施される地域においては確実に速やかに正義は実現 されるだろうとも思うのだ。