別冊主婦のとも
特集:発達に関する新しい障害問題
竹薮のアスペルガーとの付き合いはいつからだろう。
短く見積もって五年弱(1号がそのように診断されてから)、長くいえば、16年弱(1号がうまれてから)。
長い道のりだ。これからも長いだろうなあ。
この間いろいろと発達に関する障害が話題になってきて、特集とすることになった。
専門家でないと語れないとするなら、あまりに貧しい。
だから、危うさをはらみつつ、タケノコの母としてというよりも、
隣り合わせで生きるものとして語りたい。
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ADHD、LD、高機能自閉症/アスペルガー症候群については、昨年来国で、今年、東京都で障害者教育の面から取り組まれている。多く見積もれば学年で20%、少なくとも5%といわれている。40人学級なら少なくとも2人はいることになる。日常的に共に生きていかなくてはならない人たちだ。 * 新しい障害はどんな障害か 高機能自閉症、アスペルガー症候群、ADHD、LDは知的な障害をともなわない障害である。いわゆる「育てにくい子」だ。しかし、それぞれの障害はなんらかの脳の機能障害を負っている。 それは「ふざけている/怠けている/わざと」ではなく、 ほんとうにできないし、 あるいはできてないことに気付いてすらいないこともある 何が出来ていて/出来ていないか、その区別がつかないので。 私たちはそれを不真面目だと責めてしまうこともある。あるいは親のしつけが悪いと親を責める。親は、自分のため、あるいはこどものためと、一層口うるさく叱る。「育てにくい子」は虐待の対象になることもある。 1:注意欠陥/多動性障害いわゆるADHD (attention-deficit/hyperactivity disorder) 落ち着きがない、不注意が目立つ、衝動的な行動をする。 外界で起こっていることに適切な注意が払えず、反応しない/できない。忘れ物が多い/危険なことをする(何かをしたいと思ったら、それに集中してしまい、状況判断ができず、結果的に危険になる)/やっていることを最後までやりきれない(注意が持続せず、つぎつぎにうつっているため)/片付けられないなど。 竹薮の元生徒の場合。 なぜか。 メールを読んで、忘れているのに気付き、部屋まで戻る途中で、なにか彼の注意をそぐことが起きたからだ。三歩歩くと忘れるというが、その通りで、彼には言えないジョークだった。 これは本人も辛かった。努力しているのにできないので自己嫌悪に陥ったりして否定的になったりもした。 ADHDの人はいくつもの刺激/情報があったら、その全てを受け入れて判断することができない(聞いてない。見てない)といわれている。一つ二つこぼれてしまうのだ。あるいは、注意が継続せず少数への集中が次から次へとうつっていく(忘れる) 普通の人は、なんでもないようにやっている作業。寝る前に、 そこで、要所要所で思い出す工夫(作業工程表をつくる)や注意を促すためのしくみ(声かけ/部屋の整理)などが必要となる。 2:LD/学習障害 (Learning Disability) 識字/算数/漢字表出/その他 発達性協調運動障害(身体を動かすのが並外れて不器用な子)その他の発達には問題がないにもかかわらず、ある部分だけできないもの。 たとえば、峠の字は「山」+「上」+「下」が組み合わされて出来ている。LDの人はたとえば、その位置関係が認識できない。そこでパーツはあってるのに正しく書けない。横一列にならべたり、大きさのバランスがおかしかったりする。 しゃべる分には普通かそれ以上なので、漢字が書けないとなると「怠けている」としか思えない。しかし、一生懸命やってもできないのだ。それを無理矢理覚えさせようとすると、親子ともども涙、涙のつらい宿題地獄を夜な夜なやることになる。正しく理解して、コンピュータで正しく変換できればそれで上等と、目標をどこに置くのか、よく考え直す必要がある。 俳優のトム・クルーズは識字の学習障害であり、台本を眼で読むことができず、耳から聞いておぼえるという。識字はそれ自体が目的ではなく、なにかの手段に過ぎないのだから、他の方法を考えればいいことなのだな、とわかる良い例だ。 3:アスペルガー症候群/高機能自閉症 対人関係の障害/意志伝達の障害/限定された行動様式を特徴とする社会性の障害。自閉症というと自分に閉じこもりがちであるかのような印象をうけるが、そうではない。逆に自閉の人が非常にひとなつっこかったりする。autism のautは automatic やautomobileのautoで「自分」という意味である。したがって autismは「どこまでも自分のペースでいく」という意味だ。 この二つの障害は自閉症スペクトラム(連続体/正常から真性の自閉症までのなだらかな連続)のなかでも知的障害を伴わない自閉症といわれており、アスペルガーが言葉の不自由さをともなわないもの、高機能自閉症が言葉の不自由さを持つものとされている。またふたつを区別しない立場もある。 対人関係/意志伝達の障害というのは人間関係を楽には築けないということだ。 たとえば、テレビの番組でふざけた喧嘩のような場面をみて、文字通り喧嘩していると受け取ってしまう。あれは演技であって、本気ではないという知識をえたとしても、いつまでもそれを実感できない。だから、毎回、喧嘩かとどきっとし、その後にあれは演技だと自分に言い聞かせる作業をすることになる。したがって誰かが伝えたメッセージが通常通り伝わらない。逆に、アスペルガーの人が伝えたいことも、スムーズに伝わらないということだ。彼らは非常に苦労して日常をおくっている。 それぞれの人で一番スムーズなコミュニケーション法はなにか?お互いに十分に試行錯誤して伝えあい、お互いに獲得していくことが大切。非自閉者も自閉者とのコミュニケーションを初めて学ぶのだから。 限定された行動様式とは、こだわりが強いとうこと。物事を自分で決められた通りに行わないと納得しない。無理に変えるとパニックをおこすというようなこともある。毎日、ご飯を食べてから時間割をする。だから、ご飯が遅くなったから先に時間割をしておいてというのがスムーズにできない。ご飯ができるまで時間割ができないのだ。無理にさせるとパニックになる。で、ご飯ができるのをまって時間割をして、それで学校にいったら遅刻してしまった。自分はいつも通りしたのに遅刻したとなると、不安でしょうがなくなってパニックになる。だから自閉傾向の強い人は彼のルールを知らない人と突然何かすることは困難だ。 まず、何にどのようにこだわりがあって、どのていど守らなければならないかをお互いにたしかめあって行くことが大切。 これらの自閉的障害は健常とのあいだに大きな境界があるわけではなくなだらかに連続している。またそれぞれの現れ方をするもので、ひとりひとりへの理解が必要だ。 天才柳沢教授はアスペルガーだ。 4:以上の障害は単独であらわれることもあれば、重複してあらわれることもある。さらに低学力ということもくわわればなおさら困難が増す。マニュアル通りの対応は不可能。むしろ非障害者がコミュニケーション能力を試されいるのかもしれない。 |
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* 発達障害ということ 医学の領域では「広汎性発達障害」として「アスペルガー/自閉症/小児期崩壊性障害/レット障害/その他の広汎性発達障害」をあげる。ADHDやLDは発達障害とはいわない。 ADHDやLDにはコミュニケーションの困難はなく、上記の障害にはあるからだ。 人間が発達するとは、 したがって 手先が非常に器用で、こだわりが強く、写真的な記憶力をもつアスペルガーの人は江戸時代の職人に生まれてくれば、気難しい名人でこそあれ障害者ではなかっただろう。 現代の社会は非常に『学校化』(一つの価値観で強力に管理されている)しており、ストレスも多い。一つの尺度以外の人間をみとめない。自分が一つの尺度でしか評価されていない人は、他人をも一つの尺度でしかみないだろう。発達障害を負う人間には住みにくい社会だ。そのような状況は非障害者にとってもいい社会ではない。 私たちは、困ったことをする人達に「病名」をつけて括り出して安心するのではなく、社会のあり方の方を考えていくべきなのだと思う。 |
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1:身体障害と知的障害 身体障害とは文字通り身体の障害である。手足の不自由にとどまらず、心臓ペースメーカを入れている人、腎臓透析をしている人、極端な近視の人も身体障害者である。知的障害として、医学的には様々な障害があるが、法的にはIQが70以下をいう。竹薮の実感では、IQが70以下が障害者という方の取り決めは、それこそ法外だ。なんどか知能テストの現場にたちあってみて、現行のVISC法で100(年齢相応の発達平均)/70(正常の下減)というのは高すぎるのではないか。国民全員にテストを課し、80以下を知的障害として、障害者年金や税控除を実施したら間違いなく財政は破綻すると推測するのだが。普通学級はかなり余白ができるだろう。 というわけで、障害/非障害の区別は、非常に微妙だ。 2:情緒障害と学習障害 学習障害には、学校教育現場で使われる場合と医学的なものとが混同されている。医学的には主に、識字/算数/漢字表出など知的に障害はないにもかかわらず、ある学習分野についてのみ困難をともなう、脳の機能障害である。 だが、学校現場では、学校教育に馴染まないさまざまな場合(ADHDや高機能自閉症その他)もふくめて学習障害と呼んだりしている。 情緒障害も同様である。医学的には情緒障害という障害はないにもかかわらず、学校教育に馴染みにくい子どもを情緒障害とよんでいる。この場合もADHDや高機能自閉症、さらには不登校やその他の心の問題を抱えた子なども『情緒の子』とされている。 このような混乱は、新しい障害についての十分な理解がなされておらず、学校現場が対応にとまどって、「健常」の子とそうでない子を分類して、「健常」の子は教育するが、そのほかの子は教育できないという実態をあらわしている。学校現場の教育力がもとめられる。 その教育力とは、かならずしも障害児に対する特別な教育が可能という専門性だけではない。学級/学校集団がどのように多様な尺度を持ち合わせているかということなのだ。「障害」を持つ子の個性をどのように楽しみ、「ただいるだけ」でも、もちろん居場所があるということ。非障害者が障害者とコミュニケーションをとろうとすること/表面にあらわれていないものを感じ取ろうとすること、そのようなことだ。こどもは言葉が通じなくてもみしらぬ外国人と遊べる、というような意味でのコミュニケーション能力が求められているのだと思う。 いまではそのようなこどもの能力さえ奪われている。ほんとうに残念だ。 |
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* 必要なこと 新しい障害をまず知らせること。親/教師/保育者その他子どもに関わるすべての大人に正しい知識を届けることが必要だ。そのことにより、まず親の認識をうながし、親自身が自分の育児能力がないためだと、否定的にならないように、さらに躍起になって子どもをしつけようとなどしないようにしたい。教師にも適切な知識がとどけられ、叱る以外の子どもにたいする適切なアドバイスができ、学校内での生活がおくれるように教育力をつけること、また必要な時には適切な援助が得られるような仕組みも必要だ。 学校と家庭の間を調整するコーディネイト機能をになうNPOのようなものがあるとよい。 「子どもの権利」を徹底すること。 |
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