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『西瓜糖の日々』リチャード・ブローディガン /河出文庫 最近、「言葉の力」養成講座立ち上げプロジェクトをやっている。そこで、いろいろ言葉について考える。言葉は人間だけがもっている(多分)もので人間に大事なもので、その言葉によって、いいものも悪いものも言葉からできてくる。まあ、言葉は難しいね。 でもね。 この間、このプロジェクトやってきて、思い出したことがある。 その彼が、プロフィールに愛読書サルトルと書いてあったのだ。もうミーハーの一心で、学校の図書室にいった。外国の文学全集の棚にサルトルをさがした。竹薮の記憶では氓ニの2冊にわかれており、氓ェ「存在と無」で、が戯曲・小説だったと思う。とりあえず、まず氓手にとる。今から見れば哲学書の初体験である。まったく判じ物で字だけ読んでもどうしようもない難物。即へ。こっちは普通にお話でやれやれ。最初が「壁」で、それから「嘔吐」を読んだ。なんのことやら分からなかったが、存在と無とは比べ物にならない。ともかく、筋があるし、人間が肉体をもって登場し、動くもの。そして「水いらず」!今手許にないのだが、書き出しの記憶はある。たしか「リュリュは裸で寝るのが好きだった。」だと思うがあってるかな。かっこいい!!もちろん思春期のこと、しばらく裸で寝ましたよ。これは楽しんで読んだ。これがはじまりだ。もちろん実存主義は学ばなかった。よく書評で実存主義の最適の入門書と書いてあるけども。 その後、家にあった河出の文学全集をずんずん読んだ。もう乱読も甚だしい。「静かなるドン」もあれば、「嵐が丘」や「風とともに去りぬ」もある。「嵐が丘」や「風とともに去りぬ」は普通に読んだが、「静かな(る)ドン」は退屈だった。でも、「花咲く乙女たちのかげに」と「息子と恋人」は文章に独特の力と魅惑を感じた。ロレンスとプルースト、12歳やそこらの竹薮がプルーストを理解していたとも思えないし、ロレンスのロマン主義に共感したとも絶対にいえない。ましてや、性的魅力など感じてはいなかったと記憶する。いくらませてても、子どもに分かるわけがない。ただ文章の力に感動したのだ。翻訳でもこの二人の文章はほかとちがった。「嵐が丘」のようなお話とはまったく違って、文章そのものの力だとわかった。その証拠に内容はまったく覚えていない。だから内容がわからなくても、言葉の正確な意味がわからなくとも、かまうことはなかった。ただ文章を眼で追って「かっこいい・・・」とうっとりしてればいいのだ。竹薮にとって読書とはこのようにはじまったのだ。 というわけで、読むことは何の役にも立たない、ただ読む楽しさが大事だったということ、声を大にして今いいたい。考えてみれば、内容じゃない言葉そのものだというのは、言葉の本質かもしれないと思う。良く言われるのが、作家の書簡集の例だ。作家が誰かに宛てたラブレターなんかを有り難がるのは、読者がその内容に感動してるのではないのは明瞭で(そりゃそうだ、愛されてるのは読者ではなく宛先人であるから)、他の人に宛ててかかれた「文章」に感動しているのだ。ならば、その内容が愛の告白であろうが、別れの罵倒であろうが、借金のお願いであろうがどうでもいいではないか。ということは、子どもがプルーストを読んで、その文学思想や表現理論を一切理解せずとも、その文章を楽しむことは可能なのだ。 その後、読むことが勉強になって、ノートをとって読んだり衒学的な気分で読んだり、習慣で読んだりしてしまっていた。いかんな、もっと楽しまないと。 本を読むと肩の力が抜ける。 意味を考えるな、ましてや教訓なんか読み取るな。象徴的意味だとか、そういうことも無意味だ。ともかく日常の常識や決まりきった脳の働きから離れて、プラマイゼロの地点にたちもどるというのが大事なのだ。 ベランダの手すりの外でぱたぱたふるわれている脳みそ、魂、こころ、感性。 日常から出よ。その意味で「書を捨て、街に出よう」とはある意味同じことだと思う。 前置きが異常に長いが、そのような読書に最適なのが本書だ。 というわけで、解説はなし。 (06/06/18) |