『西瓜糖の日々』リチャード・ブローディガン /河出文庫

 最近、「言葉の力」養成講座立ち上げプロジェクトをやっている。そこで、いろいろ言葉について考える。言葉は人間だけがもっている(多分)もので人間に大事なもので、その言葉によって、いいものも悪いものも言葉からできてくる。まあ、言葉は難しいね。

 でもね。

 この間、このプロジェクトやってきて、思い出したことがある。
 それは読むことそのものの楽しさだ。

 竹薮がモーレツに本を読み出したころ。小さい時から本は大好きでずっと読んできたけども、なんか憑かれたように読みはじめたのは小学校高学年だ。きっかけは
ウォーカーブラザーズだ。スコット・ウォーカーがカッコよかったのなんのって。10代はじめの娘には初めての金髪碧眼だった。写真をさがしたがない。残念だなあ、ほんとに美形だんだよ。(竹薮にとって美形は、スコットと若い頃の美輪さまだな。ほんとにきれいだった。もうああいう美形はでてこないんじゃないかな、今時のイケメンをみても、人間と動物ほどの差があると思ってしまうのは偏見か。)

 その彼が、プロフィールに愛読書サルトルと書いてあったのだ。もうミーハーの一心で、学校の図書室にいった。外国の文学全集の棚にサルトルをさがした。竹薮の記憶では氓ニの2冊にわかれており、氓ェ「存在と無」で、が戯曲・小説だったと思う。とりあえず、まず氓手にとる。今から見れば哲学書の初体験である。まったく判じ物で字だけ読んでもどうしようもない難物。即へ。こっちは普通にお話でやれやれ。最初が「壁」で、それから「嘔吐」を読んだ。なんのことやら分からなかったが、存在と無とは比べ物にならない。ともかく、筋があるし、人間が肉体をもって登場し、動くもの。そして「水いらず」!今手許にないのだが、書き出しの記憶はある。たしか「リュリュは裸で寝るのが好きだった。」だと思うがあってるかな。かっこいい!!もちろん思春期のこと、しばらく裸で寝ましたよ。これは楽しんで読んだ。これがはじまりだ。もちろん実存主義は学ばなかった。よく書評で実存主義の最適の入門書と書いてあるけども。

 その後、家にあった河出の文学全集をずんずん読んだ。もう乱読も甚だしい。「静かなるドン」もあれば、「嵐が丘」や「風とともに去りぬ」もある。「嵐が丘」や「風とともに去りぬ」は普通に読んだが、「静かな(る)ドン」は退屈だった。でも、「花咲く乙女たちのかげに」と「息子と恋人」は文章に独特の力と魅惑を感じた。ロレンスとプルースト、12歳やそこらの竹薮がプルーストを理解していたとも思えないし、ロレンスのロマン主義に共感したとも絶対にいえない。ましてや、性的魅力など感じてはいなかったと記憶する。いくらませてても、子どもに分かるわけがない。ただ文章の力に感動したのだ。翻訳でもこの二人の文章はほかとちがった。「嵐が丘」のようなお話とはまったく違って、文章そのものの力だとわかった。その証拠に内容はまったく覚えていない。だから内容がわからなくても、言葉の正確な意味がわからなくとも、かまうことはなかった。ただ文章を眼で追って「かっこいい・・・」とうっとりしてればいいのだ。竹薮にとって読書とはこのようにはじまったのだ。

 というわけで、読むことは何の役にも立たない、ただ読む楽しさが大事だったということ、声を大にして今いいたい。考えてみれば、内容じゃない言葉そのものだというのは、言葉の本質かもしれないと思う。良く言われるのが、作家の書簡集の例だ。作家が誰かに宛てたラブレターなんかを有り難がるのは、読者がその内容に感動してるのではないのは明瞭で(そりゃそうだ、愛されてるのは読者ではなく宛先人であるから)、他の人に宛ててかかれた「文章」に感動しているのだ。ならば、その内容が愛の告白であろうが、別れの罵倒であろうが、借金のお願いであろうがどうでもいいではないか。ということは、子どもがプルーストを読んで、その文学思想や表現理論を一切理解せずとも、その文章を楽しむことは可能なのだ。

 その後、読むことが勉強になって、ノートをとって読んだり衒学的な気分で読んだり、習慣で読んだりしてしまっていた。いかんな、もっと楽しまないと。

 本を読むと肩の力が抜ける。
 本を読んでいる間は、日常の事を忘れているから。推理小説ファンが多いのはそのせいかもしれない。読むことは竹薮をリセットする。なんというかベランダで毛布をふるうと、バラバラと見えるものも見えないものも毛布からはがれて落ちるみたいに、きれいになるのだ。気持ちよく文章に浸るのは、一日の終わりの風呂のようなものかもしれない。

 意味を考えるな、ましてや教訓なんか読み取るな。象徴的意味だとか、そういうことも無意味だ。ともかく日常の常識や決まりきった脳の働きから離れて、プラマイゼロの地点にたちもどるというのが大事なのだ。

 ベランダの手すりの外でぱたぱたふるわれている脳みそ、魂、こころ、感性。
 これだよこれ、これが読書だ。

 日常から出よ。その意味で「書を捨て、街に出よう」とはある意味同じことだと思う。

 前置きが異常に長いが、そのような読書に最適なのが本書だ。
 iDEATHという街/共同体が何を象徴しているのかなんて考えてはいけない。
 忘れられた町も同様だ。そのことが、あの時代のコミューンをあらわしていたかどうか、あるいあH文明批判かどうか、どうでもいい。作家がこのような暮らしを想像し、書いた。そこに遊べばいいのだ。ただそれだけだ。主人公の男性の家は小さな流れを渡った先にあり、訪れる人は橋を渡るが、園はしに一ケ所だけたてつけの悪いところがあり、その板を踏むとうるさい音がする。たいていの人はその板を踏まないで渡れるがマーガレットだけは必ずその板を踏んでしまう。この冒頭のエピソードで「いるよね、そういう人、いるいる」と考える人を竹薮は許さない。その本を読んでいる間、意識は、その時空間を生きる。だから、読みはじめたら一気にその世界に飛び込むべきだ。マーガレットは一人しかいない。絶対にいない。

 というわけで、解説はなし。
 お勧めします。ほんとに素敵です。

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(06/06/18)