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日々早々

金曜日エッセー

バックナンバー集(2001年7-12月分)

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12/27
年末にあたって 12/21 盗まれた方も悪い 12/14 おばあちゃんっ子 12/02 All Things Must Pass 11/30 イマージン 11/22 サンクスギビングの思い出 11/20 見えたね流星群 11/16 自転車のマナー 11/09 流星あらし 11/02 コリオリの力 10/31 今日はハロウィン 10/26 とがないでよいお米 10/19 ツユクサ色 10/12 サービスという価値 10/05 秋の夜道で 10/01 長嶋世代 9/28 千と千尋の神隠し 9/21 来年の巨人 9/12 哲学と経済学 9/07 隣が火事なの 9/05 当らない天気予報 8/31 何処へ 8/24 ディズニー・シーに思う 8/10 如才 8/03 暑さを我慢するな 7/27 便利の不便さ 7/25 理想の医療 7/19 暑いね〜、麗子ちゃん 7/13 点子ちゃんとアントン 7/06 「美しい日本」の蒸し暑さ

2001年12月27日

年末にあたって

メモリーを増設したりしながら、だましだまし愛用していた古いパソコンを廃棄し、麗子が遺した最新のパソコンと入れ替えた。

パソコンを取り払って様子が少し変わってしまった麗子の部屋を見ると切ない気持になるが、遺品を活用させてもらうことも彼女への供養だと思うことにした。

Winzipを使って古いパソコンのデーターを移すなど、こういった作業には不慣れな自分にしては結構順調にやっていたのだが、「FrontPage Editor」では一寸したトラブルに見舞われ、そのために2回分ほど、「日々早々」の更新を休んでしまったのは、「継続は金」をモットーとしている「タカさん大いに語る」にしてみれば一寸残念ではあった。そのトラブルが、漸く解決したと思ったら、何とその再開第一稿が2001年の最終稿という訳。

 

愛娘麗子の突然の旅立ちという余りに哀しい出来事があった今年を、通り一遍の年末の辞などで締めくくれるものではないけれど、時の流れは、そんな今年の出来事全てを過去のものへと押し流して行ってしまうのだろうか。

一昨年の父母、そして麗子と何故に、こうやって愛する人達が去っていってしまうのか、弱音は吐くまいとは思っても、嘆きのために今年は一気に10年も歳をとってしまったようにも思う。しかし、自分を気遣って呉れる家族や、多くの人のことを思えば、自分勝手に老け込む訳にもいくまい。来年はもう少し、気分を前向きに取り戻したいものだ。

「タカさん大いに語る」はスタート以来もう4年近く、自分自身の勉強のためというよりも、自分の考えを情報発信したいというわがままな趣味として続けているのだけれど、お付合い願っている読者には、あらためて感謝申し上げたい。時折頂く、感想や励ましの言葉が何よりも嬉しくて、それを目当てに続けているとも言えるかもしれない。

麗子も、このホームページの良き読者であったことが思い出される。そんな思い出を胸にして、明年も「タカさん大いに語る」を続けて行こうと思っている。

新しい年、2002年が、読者のみなさんにとって、幸多い年であるようにと祈念して、今年の「日々早々」の納めとしたい。

(01/12/27 11:00pm S.T.)

 

2001年12月21日

盗まれた方も悪い

道徳とかモラルは文化によってことなる。イスラムの道徳には日本人が違和感をもつものも少なくない。

「人の物を盗むのは悪い」というのは、イスラムでも当然のモラルだが、それに続いて「盗まれた方も悪い」といわれると日本人はちょっとびっくりするのではないだろうか。

神は人に物を盗むなと命じているが、その神の命に背く行為を人にさせるような隙を作った「盗まれた側」にも落度はあるというのがその根拠らしい。

別の例では、最初にエジプトに行った時に、貧しい子供達に金をねだられ、しぶしぶ幾ばくかの金を与えても、「ありがとう」の一言もないのにも腹がたったのだが、これは、イスラムの考え方からいえば当然だといわれたのにも驚いた。

物をもらったら、それを呉れた人に「ありがとう」というものだという常識は、イスラムの社会では常に成り立つという訳ではないと聞くと、これはもうまさにカルチャーショックそのものだ。

コーランによれば、「豊かな者は貧しい者に分け与えなければならない」とある。従って、もし豊かなあなたが貧しい人に金品を与えたとすれば、それはあなたが神の命令に従った、すなわち神に対する義務を果たしたに過ぎない。神の命令を忠実に実行したあなたには天国に行くチャンスが増えたわけだから、お金を貰ってくれた人に寧ろ感謝しても良いぐらいだというのがイスラムでの考え方らしい。

そうであるならば当然、金品を与えられた人は、神に対しては感謝をしたとしても、施しを呉れた人に「ありがとう」などという必要はないということらしいのだが、この考え方に慣れるには相当時間がかかった。

単一民族、単一文化に取り囲まれている日本人が、常識だと思っていることが必ずしも世界の常識ではないという例はかなり多い。

外国に行くチャンスが増え、異文化に接する機会が増えて異文化への理解、世界の常識への理解も深まってきてはいるものの、イスラムとなるとその理解度は決して高くない。

今や世界のイスラム人口は13億にのぼるとも言われており、日本に定住するイスラム圏の人も増えているが、世界も日本もイスラム文化や風習に対する理解を深める必要がありそうだ。

(12/20/01 11:00pm S.T.)

 

2001年12月14日

おばあちゃんっ子

母と麗子は本当に仲が良かった。二人とも話し好きで、おしゃれで、お嬢様的にちょっと我がままという似たもの同士、おばあちゃんと孫というよりも、友達同士みたいなところがあった。

20数年前次女の生まれる前後には、まだ2歳前だった麗子は、実家で母に面倒を見てもらった。何十年かぶりの育児体験に、母も戸惑ったと思うが、初孫である麗子と、それこそ一日中一緒に過ごしていた。そんな日々を送ったことで、母の感覚の中では、幼い麗子は自分が育てたという思いさえあったようで、孫の中でも麗子はいつも特別扱いだった。

2歳の麗子のどんな仕草がかわいかったかとか、どんなに賢いことを言ったかと、あれから20数年母はあきることもなく、何度も話してくれた。

更にそれから十数年後、我々両親が海外赴任中だったので、日本で一人大学生生活をおくることになった麗子は、淋しくなると週末などによくおじいちゃん、おばあちゃんを訪ねていた。両親も麗子の訪問を楽しみにして歓迎してくれた。特に母は麗子とのおしゃべりの時間を、麗子が2歳の時の再現でもあるかのようにこよなく楽しんでいた。麗子もおばあちゃんには、気さくに色々な話しをしていたらしく、母は麗子の友達の名前などを驚くほど知っていた。

父と母と麗子の三人で、近所のそば屋にもよく行ったのだとという。「玉清のおそばって本当に美味しいよ」と麗子から何度も聞かされた。若い娘とおじいさん、おばあさんの三人が、そばを食べながら何を話していたのだろうか。

昨年の12月の今ごろ、明け方4時の高速道路を麗子と東村山の病院へ急いだことを思い出す。病院までの1時間余りは、おばあちゃんっ子であった麗子にもいたたまれない時間であったと思うが、気が動転している父親を落ち着かせ励まそうと健気に語りかけてくれていた麗子は優しく、頼もしくさえ思えたものだ。

9月のおじいちゃん、それからわずか3ヶ月後におばあちゃんの旅立ちを見送った麗子までもが今はもうない。ほんとうに全てのことが、あっという間に起きた幻のようにも思えるし、夢なら覚めて欲しいと思う。

今日も三人の位牌の並ぶ仏壇の前にすわったら、母と麗子が楽しそうに話し、それを嬉しそうに眺めている父の姿が目に浮かんできて、こみ上げるものをこらえ切れなくなった。

(12/13/01 10:00pm S.T.)

 

2001年12月3日

All Things Must Pass

初老期といってもよい50歳代に達しながらも、ジーンズとスニカー姿で結構若いつもりで闊歩している我々ベビーブーマー世代は、これからも年齢を重ねるに従って、日本の年寄り世代のイメージをどんどん変え日本の「新人類的高齢者世代」となっていくのではないかという予感がする。

そういう、現在50歳代の新しいおじさん、おばさん像のバックボーンはビートルズだ。ビートルズと共に育った我々は、ビートルズの解散後をあの四人のメンバーが作りつづけた音楽とともに人生を過ごして来た。高校生、大学生時代には彼等とともにヒッピー文化を経験し、ベトナムの反戦運動を見てきたし、それからもずっと彼等とともに「愛」とか「人生」について考えてきた。

そうやって、ビートルズとともに歳をとってきたことによって、全く新しい初老世代になって来たのだと思う。

ジョンの不慮の死は悲しいできごとだったが、そんな出来事も含めてビートルズのメンバーはそれぞれに、「良い歳のとり方」をしてきた。彼等の音楽を聞いてきた、ビートルズ世代のおじさん、おばさんたちも結局のところ老け込むという意味ではなく「良い歳のとり方」をしてきたのだ。

そういう思いがあるだけに、ジョージ・ハリスンの訃報には、様々な思いが交差した。大好きなジョージのアルバムの題名ではないけれど、‘All Things Must Pass’(皆過ぎ去って行く)とあらためて感傷にも囚われた。

ポールやジョンの影に隠れて、静かなビートルと言われていたいたジョージだけれども、ビートルズ解散後、メンバーの中で音楽的にもっとも成長したのは彼ではなかっただろうか。あの物悲しげなサウンドは新しいと同時に、ビートルズの本流のサウンドの懐かしさがある。

エリック・クラプトンやフィル・コリンズなどとのセッションは、ポピュラー音楽界に深みを与えた。音楽評論家的な知識はないけれど、何しろビートルズの中では一番気になる存在だった。亡くなる直前まで、新しいアルバムの構想を語っていたとか。彼の冥福を祈りたい。

麗子もビートルズが好きだった。家族一緒に東京ドームのポールのツアーを聞きにいったこと、ラスベガスのリンゴのツアーを麗子と二人で聞きに行ったことを、思い出しながら、この週末はジョージや、ビートルズのアルバムを聞いて過ごした。

(12/2/01 11:00pm S.T.)

 

2001年11月30日

イマージン

資本主義が堕落したのは「資本主義七つの大罪」を犯したためだというコラムを読んだことがある。その七つの大罪とは、

1.原則のない政治

2.道徳なきビジネス

3.労働なき富

4.人格なき教育

5.倫理なき快楽

6.人間性なき科学

7.犠牲と奉仕のない宗教

であるという。

現代社会における「べからず集」として中々面白いのでノートに書きとめておいたのだが、最近読み直して、日本の危機的な状況にぴったりではないかと思わず笑ってしまった。

ジョン・レノンの「イマージン」ではないけれど、この七つをひっくり返した社会を想像してみるだけで結構楽しい。

政治は「最大多数の最大幸福」の原則に則って行われ、党利党略私利私欲はない。ビジネスには皆が生きがいを感じており、儲け主義一辺倒は排されている。汗して働く者が報われ、一人一人の個性を伸ばす教育が行われ、道徳は守られ生活は楽しく、医療などの科学技術は人間の幸せを目指している。宗教は現世利益と無縁で、人々に心の平安をもたらす。

とまあ、こんな具合だけれども。やっぱり、現実とは余りに遠い「夢」ですね。

(11/29/01 10:30pm S.T.)

 

2001年11月22日

サンクスギビングの思い出

アメリカのThanksgiving Day は例年11月の第4木曜日で、その翌日の金曜日も祝日となっているからこの週末は必らず4連休となる。

Thanksgiving Dayは、おじいちゃん、おばあちゃんの家に集まって皆で、七面鳥を食べるという風習があるというのだが、今から20年前、サンフランシスコに駐在したころは、我が家は、ロスアンゼルス、サンディエゴ方面とか、デスバレー、ラスベガス方面といった具合に車を利用しての旅行にでかけるのを恒例にしていた。

Thanksgiving Day前日の水曜日の午後、大急ぎで会社から帰ると、早速出発。幼い娘達を後部座席にいわば放り込んで、車中では妻の作ったおにぎりをかじりながら、その日の内にいけるところまで行こうとばかり、結構強行軍をこなしたものだ。

夜中に行き当たりばったりで街道沿いのモーテルに泊ったり、翌朝は車のトランクに積んだ炊飯器でご飯を炊いて、おにぎりを作り、又、ひたすら走るといった調子で、せこい貧乏旅行でもあったけれど、本当に色々なところを巡り歩き、楽しかったという思い出ばかりが残っている。

旅行といえば飛行機利用になってしまった最近のことを思えば、あれも、若かったからこそできたということも言えるかもしれない。

昼間の車中では、退屈して愚図つく幼い娘たちのご機嫌とりに、歌を一緒にうたい、しりとりをしたり、他愛のない会話をしていたあの時間が、家族の絆を深めたのだと思う。家族がよりそって、ずっと一緒に旅行をしたあの貴重な時間は、もう二度と帰ってこない。

そんなことを考えていたら、車中で声を張り上げて歌っていた幼い麗子の声が聞こえてきたような気がした。

(11/21/01 11:00pm S.T.)

 

2001年11月20日

見えたね流星群

3年越しに恋焦がれていた「しし座流星群」を漸く見ることができて、子供のようにはしゃいだ気分だ。

月曜日の未明というか、日曜日の夜更けの2時に起き出して、近所の公園に行って夜空を見上げてみようと家の玄関を出たとたんに、もう夜空に流星が2つ3つ見えた。これは、相当に期待できるぞと公園に向かう足も思わず速足になる。

公園は街燈が煌々としているから、星を見るには適していないかと思ったが流星はかなりの輝きで見えるからあまり障害にはならない。

妻と二人で出かけ、数分間で2-30個の星を確認してから、次女にも携帯で見に来るように誘う。

公園内には、何組かの人たちがやはり星空を見上げていて星が流れるたびに歓声があがり、ときならぬ賑わいだ。

ご近所のOさん一家もみえており、奥さん同士、娘同士のおしゃべりも賑やかになった。その内に次女もOさんの娘さんも、星空を見上げながらあちこちに携帯をかけまくっている。公園内にも携帯で連絡を取り合っているらしい声が聞こえていた。携帯の発達をまざまざと知った夜だった。

途中でちょっと雲が厚くなったり、端境期のようにしばらく見えない時間帯もあったが、結局2時少し過ぎから1時間余りの間に、少なくとも2-300個の流れ星を見ることができた。新聞などによると、条件の良いところでは数千個の流れ星が見えたらしいが、それほどではないにしろ、期待はずれだったこの3年ほどにくらべれば、十分満足の行く天体ショーだった。

星空をゆっくり見上げるということなど中々ないけれど、あらためて冬の夜空に輝く星々の美しさに魅了された。

この星空は誕生以来、なんと150億年の歴史をもっているという。まさに悠久の時間がながれている。

これほどの流星あらしが次に出現するのは33年後だとか。宇宙の150億年にくらべれば瞬間ともいえないほどの時間だが、この中の何人が33年後に生きて星空を見ているだろうかとOさん一家と話ながら家路についた。

(11/19/01 11:00pm S.T.)

 

2001年11月16日

自転車のマナー

エコロジー的にも自転車は理想的な乗り物だ。空気を汚さないし、交通渋滞を招くこともなく、しかも乗っている人たちの健康にも良い。車の乗り入れを禁止して、自転車と歩行者だけにしたら事故も減るだろう。

行政の側も自転車を利用しやすい環境作り、インフラの整備を推し進めるべきだ。自転車の普及のためには利用する人の側にも、「自転車フレンドリー」の環境作りのためにマナーの順守を求めたい。

先ず、駐輪のルールだ。駅前などに大規模な駐輪施設があるにも関わらず、勝手な場所に違法駐輪をする例があとをたたない。中には「駐輪禁止」の看板の前に堂々と放置するに至っては、日本の公徳心も地に落ちたと哀しい気持にさえなる。

自分さえよければというこういう一部のマナー違反のために、世の中の自転車に対する目が厳しいものになっているのは残念なことだ。

道路の放置自転車は、身障者や老人、幼児などの通行の障害になるばかりではなく災害などの救助活動の妨げになるから、ある意味では犯罪行為ともいえるのだ。

自転車の通行が許されている歩道を走る際には、歩行者に対して十分気をつけて欲しい。タカさんの自宅近くの歩道橋の坂を、それこそ直滑降なみのスピードで駆け下りる自転車を見かけることも多いが、これなど、大きな事故につながる可能性があるといつもひやひやしている。

暗い夜道では自転車は燈火をつけることは当然だ。無灯によって人にぶつかり、死傷事故に至ったという例もある。自転車といえども歩行者に対しては車同様に危険な乗り物であるという認識はもってもらいたいものだ。

何も難しいことではないとおもう。人に対する思いやりがあれば当たり前のことではないだろうか。

マナーを守り、環境に優しい自転車を大いに利用しようではないか。

(11/15/01 11:00pm S.T.)

 

2001年11月9日

流星あらし

3年前の11月のある夜、しし座流星群をみようと一家で夜中の中央公園に出かけたことを思い出す。

どこが一番良く星が見えるだろうかと、車であちこち移動し、結局広い公園の中央部が一番よかろうということになった。

かなり期待して夜空を見上げていたのだが、予定の時間になってもそれらしい流星はさっぱり見えない。気の短い麗子は早いうちに「もう帰ろうよ」と、ご機嫌ななめになってしまった。

車で移動しているのだから、一人だけ帰るといわれても困る。もう少し待ったら「流星あらし」かもしれないと未練のある三人は「もう少し待とうよ」となだめにかかったのだが。

麗子は言い出したら聞かないし、彼女のいうことには誰も逆らえない。結局、妻が麗子を家に送り届けて戻ってくるということになった。

まあ、そんな訳でさっさと寝床に就いた麗子を除く三人は、諦めの悪いままに寒さに耐えて明け方の4時頃まで粘ったものの、数個の流星が見えたにすぎなかった。気が短いというか諦めの早い麗子の判断が正しかった訳で、やはりあの時点でさっさと見切るべきだったのかと反省したものだ。

皆はあの年でこりたのか、あれからは11月のこの時期に夜中に公園にでかけるのは自分一人になってしまったが、まだ「降るような流星群」には一度もお目にかかれていない。苦労は中々報われないものだ。

今年も11月19日の午前2時から4時の間がピークになるそうだ。このピーク時に1時間に9,000個の流星あらしが見られるという英国の天文学者がいる一方で、国立天文台は1時間に20個だというのだけれど、こんなに幅があるのは「予測」とはいわないと、むくれたくもなる。

そうは言うものの未だに「降るような流星」を諦めきれない自分としては今年もきっと一人夜中に星空を見上げていることだろう。一寸わがままだったかもしれないけれどそれが何とも可愛かった麗子のことを思い出しながら。

(11/8/01 10:30pm S.T.)

 

2001年11月2日

コリオリの力

東京湾の突堤に立って、釣り舟が勢いよく沖に出て行くのを見ていると、5分もすると舟影が視界から消えてしまう。舟が遠ざかって行ったということもあるが、これは地球が丸いために舟が水平線下に行ってしまい消えたように見えるからだ。

「地球は丸い」ということを実感する瞬間だ。気をつけてみれば水平線そのものが、直線ではなくゆるいカーブを描いている。このカーブを想像の上で両端にずっと延長すれば、確かに大きな円が描けるはずだ。

365度が大きな円で囲まれているということは即ち地球は一つの球であると実感できる。

「地球は自転している」というのはどうだろうか。

一杯に張った洗面所の水の栓を抜くと、水が徐々に渦を作って流れはじめる。北半球ならば渦は右廻りすなわち反時計廻りだが、南半球ならばこれが逆廻りになる。南半球を旅したときに、確かめてみたが間違いなく渦は時計廻りにできた

赤道上ならば渦を作らないで水は中心に向かってまっすぐ流れ込むそうだが、まだ、これはみたことがない。

この現象は、地球が自転しているために起きるのだがこれを物理学では「コリオリの力」と呼んでいる。

上野の国立科学博物館やロスアンゼルスのグリフィス天文台にある吹き抜けの天井からつってある大きな振子、「フーコの振子」も地球の自転の証拠だ。

大きな振子はゆっくりと振れながら軌道は微妙にずれて円を描いていく。北極や南極ならば振子は24時間で円を描き、赤道ならば直線的な振幅をくりかえすだけで、ズレはおきない。

何も物理学の講義をしようというのではないけれど、洗面所でこのコリオリの力を目の当たりにし、博物館でフーコの振子を見て、又、水平線に消えていく舟をみている時に、地球が丸くてしかも自転しているということを実感できて、何となく遠い昔の物理の授業を思い出したりする。

地球が太陽の廻りを公転しているとことも、星座の季節による移り変わりから、頭の中だけではなく、視覚的にも理解することができる。

地球は丸く太陽の廻りを一年で一周し、一日に一回自転しているという事実が、公知となったのは今からせいぜい400年前、コペルニクスやガリレオ以降であるが、太古の人類は実はその事実を理解していたともいわれる。

先人の偉業を思うとともに、今となっては何故これほど明らかな事実を、人々が認めようとしなかった時代があったのかと不思議な気がする。

宗教などに基づく先入観が人々に見えているものを見えなくさせるということの例証と言えるのではないだろうか。

(11/1/01 11:00pm S.T.)

 

2001年10月31日

今日はハロウィン

今から20年も前のサンフランシスコでのハロウィンをおもいだす。二人の幼い娘たちが近所の大きい子達につれられて、ハロウィンでご近所を回り、‘Trick or Treat!’(いたずらかご馳走か! )といって貰ってきた一杯のお菓子の戦果を、目を輝かして仕分けしていた。

本当に数ヶ月でも食べきれないと思われるほどのお菓子をあつめ、娘たちにとっては夢のような楽しい一時だったのだろう、話し掛けてもその声が耳に入らないほどに熱中していた。

アメリカの子供達はハロウィンを楽しみにしている。思い思いの仮装をして何人かで、近所の家々を回るというだけでも、大いに楽しいことにちがいない。

この行事も、今から15年前ごろから日本にも入ってきたが、あくまでも大人のイベントとしてであり、子供達がご近所を廻るという風習は全く真似られていないようだ。

どんな国のどんな宗教行事でも、面白そうなら何でも取り入れてしまう日本という国は、柔軟性があると褒めてよいのか、節操がないとけなして良いのか良く分からないが、そういう意味ではハロウィンもその一つだろうか。

もっとも、バブル華やかなりしころの六本木や赤坂辺りでのハロウィンの騒ぎ懐かしいほどに、今年は経済停滞の街のハロウィン飾りは、大分淋しくなってきた。

確かに仮装してはしゃいでいる訳にもいかないという気持もわからないではないけれど。

ハロウィンの起源は古代ケルト人の土着信仰に基づくもので、死者の霊が魔法使いなどに化けて地上を歩くといわれる10月の末日に、人々も自分達も霊と同じ紛らわしい衣装を着て霊達を避けようとした行事だ。
その風習をアイルランドからの移民が新大陸アメリカに持ち込んで盛んになったという。今年はテロの影響などもあり、アメリカでも例年ほどには盛り上がりそうもないとも言われている。

こういった年中行事もやはり世の中が好景気で平和でないと、今一つ盛り上がらないものなのだなと思うと、色々言われてはいるけれどバブル時代も懐かしく思えてくる。

サンフランシスコの思い出といい、バブルといい「昔は良かった」と思うのは自分もやはり歳をとった所為だろうか。

(10/30/01 11:00pm S.T.)

 

2001年10月26日

とがないでよいお米

とがないで炊けるので手間が省けると、外食産業や給食センター、あるいは一般家庭でも「無洗米」の人気が出てきている。スーパーなどの米売場でも1割ぐらいが「無洗米」と表示されている。

無洗米の製法としては、大まかに言えば高水圧洗浄か、糠同士がくっつきあう性質を利用して精米後の米に糠を入れて磨くものとがあるらしいが、いずれにせよ共に、薬品などを使っている訳ではないという。

水を使って米を洗わないでよいのから、節水になり、とぎ汁がでないから環境にも良いといった副次的な利点も強調されている。

マニュキュアをしている女性にとっても、水に手をふれないでお米が炊けるのだから、これも大いに喜ばれることだろう。

価格は一般の米にくらべて若干高めだが、一般の米ならば、とぎ汁と一緒に流してしまう分量が5%程度あることを考えれば、そういったロスがない無洗米は、さほど割高にはならないとか。

しかし、考えが古いのか、とがないでよいお米というのは、ちょっと抵抗があって手を出さなかったのだが、先日意を決して我が家でも一袋無洗米を買ってみた。

とがないで良いというものの、やはり水をいれると水は白っぽくにごる。表示によると水が白くなるのは糠ではなく、米のでんぷんなので気にしないでよいとのこと。それでもやはり、気になって一回は水を替えた。まあ、これは「お米はといで水が透きとおるまで何回かゆすぐ」というこちらの先入観のなせるわざかもしれない。

新潟産のコシヒカリだったのだが、炊き上がりの味は、特に普通の米と違いを感じなかった。

その後、2、3日家では無洗米を使っていたが、どうも食事の際にご飯が、何となく頼りない気がしてしょうがない。こころなしか、お米の味も何だかものたりないような気がし始めた。

よく、かんがえてみるとやはり、「このお米はといでいない」という先入観が抜けきれず、何だか「こめもどき」を食べているような気がしてしまう所為だということに気づいた。

結局、自分は食べ物に関してはかなり保守的で、新しいものにとびつけない性質だということを再認識した。

昼飯なども決まった店に行って、決まったメニューを選ぶことが多い。目新しい店、目新しい献立を選ぶことが少ないのも、その保守的な性格ゆえかもしれない。

そんな訳で結局、無洗米はその数日試しただけで、又、普通のコシヒカリを買ってきて、しっかりといで食べているが、やはりよくといだ米は美味いと満足している。

(10/25/01 11:00pm S.T.)

 

2001年10月19日

ツユクサ色

植物図鑑などでみるとツユクサの開花期は6月から8月となっているが、先週江戸川沿いの散歩道で10月も中だというのにツユクサが咲きほこっているのを見た。

江戸川の土手は、この時期に大々的な除草作業がおこなわれ、背の高い雑草はあらかた刈りとられてしまうのだが、散歩道の側溝にびっしりと生えているツユクサはこの除草作業のお目こぼしになったようだ。

咲き始めたのは確か6月ごろだったと思うが、こんなに長い時期咲いているのはやはりよほど強い野の花なのだろう。

大輪の花をつけるもので観賞用に育てられるもの、あるいは観葉植物としても栽培されるものもあるが、やはりツユクサは野生のものが良い。

野菊やトラノオ、ツユクサといった小さな野の花が好きなのは、やはり、人の手がかからない自然そのままの美しさに感動するからだ。

自然の造形は素晴らしい、二つの大きな花びらが羽を広げたようにみえる。よく見るとその他の4枚の花びらは少し小さく控え目だが、一体、自然は何故このようなバランスのとれたアンバランスの美しさを創造したのだろうか。

ツユクサは又、あの青い色が良い。この色もまさに自然という偉大な画家が作った色であり、とてもまねのできないものだと思う。

小さい頃からこのツユクサ色というか青い色が好きで、母に編んでもらうセーターも青が多かった。この歳になっても青が好きで妻に「子供みたい」といわれている。

めっきりと涼しくなってきたが、今週末も又、江戸川の土手を歩いてみようと思う。ツユクサは未だ咲いているだろうか。

(10/18/01 10:30pm S.T.)

 

2001年10月12日

サービスという価値

休日、スーパーによく買物に行く。車で10分ほどの範囲に大小いくつかのスーパーがあるが、やはりお気に入りの店というのは限られる。

一番よく行く店は、規模は中程度、商品価格はやや高めかもしれないが、生鮮食品類が新鮮で豊富、肉やさかなの売り場の一角には対面販売がある近所のショッピングモール内にあるKストアーだ。

料理教室のレセピには、「牛6豚4のひき肉200g」とか、「サンマを三尾」といった材料が書かれていることがある。男が料理するとなると材料に融通を利かせるという才覚に乏しいものだから、「牛5豚5のひき肉280g」のパックだとか一パック二尾のサンマしかないスーパーの売り場で立ち往生してしまうことがある。

その点、対面販売のコーナーがあれば大いに助かる。時には「ブリの厚めの腹身を四切れ」とか「牛タンブロック450g」といった注文ができるのが又、嬉しい。

考えてみれば、昔のさかな屋の店先では、「これは煮付けにしたら美味いよ」とか、「これは新鮮だから刺身にしたら」といった献立のアドバイスがきけたものだが、何でもパック詰のスーパーが全盛になって、こういう場面にはめっきりお目にかかれなくなった。

スーパーの多品種の品揃えという長所に、個人商店のような対面販売のきめ細かなサービスが加われば、集客力は上がるだろう。

マイカルの再生法申請もあり、スーパー業界の苦戦が伝えられている。多店舗による大量販売というスーパーのビジネスモデルは、競争の激化と消費の減速が相まって曲がり角に来ていることは明らかだ。

激しい競争に打ち勝つには、スーパー各社は余程の差別化が必要とされている。

しかし、価格のみで勝負という手は結局、各社ともに消耗戦に陥りそれほど有効とも思えない情勢だ。

その点、ビジネスの基本に戻って「サービス」を充実させることによる差別化は、我が経験からすると有効にみえる。

イクスピアリ内にある高級スーパーSも買った品物をレジで店員がスーパー袋に入れて渡してくれるが、ちょっとした気づかいながら客の受けは極めて良いようだ。

過日、家電量販店を訪れたが、マウス一つを買うのに店員がかなり親切に技術的なアドバイスしてくれて、すっかりこの店が気に入った。

回転ずしが全盛だが、すし屋のカウンターに座って板さんとちょっとした会話を楽しみながら食べるすしは、お値段は少々張ってもやはり捨てがたい。(まあ、これには好き嫌いはあるだろうが)

安いばかりが売り物ではない、「きめ細かなサービス」を売りものにするビジネスモデルの再考が、消費不況の回復の一翼を担うことを期待しているのだが。

(10/11/01 11:00pm S.T.)

 

2001年10月5日

秋の夜道で

すっかり秋めいてきて、夜風が何ともいえず心地良い季節になってきた。駅から家までの15分ほどの道すがら、美しい月を見上げたり、夜目にくっきりと浮かび上がる真っ白な夕顔の花を楽しんだりしながら歩くのには今は絶好の季節だ。

夜道を一人で歩いているとあれこれと思い浮かぶのは、やはり麗子や父や母といった今は亡き人達のことだ。

駅で偶々一緒になった麗子と肩を並べてこの道を歩いたことも何度かあったなと、なつかしく思い出したり、今にも麗子が後ろから追いついてきて明るい声で「ヨッ」と声をかけてくれるような気がして思わず振り向いてみたりもする。

昨夜、この道を歩いていたら心地よい夜風にかぐわしいキンモクセイの香りがただよってきた。香りが記憶の糸をたぐりよせるのだろうか、亡くなった母のことを思い出した。

母が入院したのは昨年10月だった。入院先の病院の広い敷地内に大木といってもよい大きなキンモクセイがあって、あのころも実にかぐわしく香っていた。

母の車椅子を押して病院の敷地を散歩した。あれだけ話好きだった母が、入院してからはめっきりと口数が少なくなっていた。あの時も車椅子にのってじっと病院の庭の木々をみて多くをかたらなかったが、ぽつりと「本当にいいにおいね」といった声がいまでも耳に残っている。

50数年連れ添った父が亡くなったのが9月。それから1月余りで、思いがけない入院をした母は、キンモクセイの香りに何を思っていたのだろうか。

実家の庭にもキンモクセイがあって、これも毎年、実によい香りをただよわせている。母はあの家で過ごした40数年の日々を思い出していたのかも知れない。

夫を失った深い悲しみと生まれて初めての入院の不安が78歳の母にとっては大変な重みで押し寄せ、気丈であったし、気丈であろうとした大正女の母にとっては人には言えない苦しい日々であったのではないかと思う。

あれから2ヶ月余りで母は旅立っていった。あっという間のできごとで、あの時の母の悲しみや恐れを和らげるようなことを、一体自分はどれほどしてあげられたのだろうかとやはり悔いが残る。ともかく、もっともっと母の話が聞きたかった。

母は匂いには繊細で敏感な人だった。良い香りを楽しむことが好きだった。日本水仙の花が好きだったのも、清楚な花もよいが、あのすっきりした香りが好きだったのではないだろうか。母ゆずりなのか、水仙の香りもキンモクセイの香りも好きだ。

キンモクセイと水仙の香りがあるかぎり、母の記憶はいつまでもいつまでも鮮やかであろうと、心地良い秋の夜道をあるきながら思った。

(10/4/01 11:00pm S.T.)

 

2001年10月1日

長嶋世代

長嶋監督の本拠地最終戦と引退セレモニーに釘付けになってしまった。一つの時代が終わったという寂しさで一杯だ。

それにしても、突然の長嶋監督の退任発表を知った時には、一瞬呆然としてしまったし、本当に驚いた。

今年のプロ野球のことは無かったことと諦めて、来年こそはと長嶋采配に期待していたのに。まさか、来年はもう背番号3の指揮をみられないとは。

先の「日々早々」にも書いたけれどプロ野球ファン、巨人ファンというよりも、長嶋ファンであっただけに、がっかりしてしまって、来年も日本のプロ野球を見ようという元気が湧いてこない。

(9/21 「来年の巨人」http://www.snu.ne.jp/~takabaya/kinyou012nd.htm

「巨人軍は永遠に不滅です」の名文句の現役引退セレモニーも考えてみるともう27年前のことだ。ということは長嶋の現役のプレーの記憶を持つのは30代後半以降の世代ということになるのだから、その人達には、こういったタカさんの心境は中々理解してもらえないかもしれない。

しかし、タカさんにとっての長嶋の思い出とはまさに、ものごころついてからの野球の歴史みたいなものだ。

小学生の時に長嶋が巨人に入団し、国鉄の金田との初対決で、4連続三振のあと、ホームランを打った。

展覧試合における阪神の村山投手から打ったサヨナラホームランだとか、現役選手としての「4番サード長嶋」が、いつも「ここで打ってくれと」念じると、その期待にこたえて奇跡のように好打を連発したといった記憶はもう、深層心理に「刷込まれて」しまっている。

そういう意味では、長嶋の万能タレント、あるいはプロ野球の顔として、巨人軍の指揮官としての顔は、自分にとっての「本当の長嶋」ではないような気もするのだけれど。

勿論、現役引退後のさまざまな活躍や言動には本当に親しみをもって楽しませてもらった。あの明るい人柄と、天然のユーモア(?)によって、日本全体がどれだけ癒されたことか。本当に長嶋はエライ。

プロ野球といえば長嶋とイコールでありつづけたわけだから、長嶋がいないプロ野球というものを想像できない。

大袈裟すぎるととられるかもしれないが、これが長嶋退任に対するタカさんの偽らざる心境だが、同時に、長嶋世代ともいえる我々「団塊世代」もいよいよ表舞台からは去るべき時期が近づきつつあるのかとも思えて、何だか妙に寂しい気分だ。

(9/30/01 11:00pm S.T.)

 

2001年9月28日

千と千尋の神隠し

宮崎駿とスタジオジブリ製作のアニメは、絵の美しさ、ストーリの幻想性などが素晴らしく、ディズニーやドリームワークスのアニメ映画を凌駕し、世界のトップレベルにあると思う。

現在公開されている「千と千尋の神隠し」はそのジブリの作品の中でも特にお勧めだ。

ストーリ-については、大人にとっては難解だという話もあるようだが、幼稚園の子供達には却って「良く分かる」と評判が良いというから不思議。ストーリ自身を追うよりも、この幻想の世界に遊ぶという感覚で鑑賞するのが良いようだ。

千尋という10歳の少女とその両親は、ひょんなことから神様やお化けたちが集まる湯治場に迷いこんでしまう。神様たちに用意された食事を勝手に食べてしまった両親はブタにされてしまう。千尋はこの町で自分の名前を奪われ、“千”という名を与えられ巨大な湯屋の下働きとして働くことになる。

登場するキャラクターが実に多彩で面白い。湯屋を営むのは湯婆婆(ユバーバー)という妖怪、そこのボイラー室を切り回しているのは釜爺(カマジイ)という蜘蛛の化身、千の協力者になる川の精の化身‘ハク’(少年や、白龍の姿で登場する)、淋しがりのお化け‘カオナシ’、湯屋で働く、かえる達など、どれも実に個性的だ。声優が意外な布陣で、ユバーバーの夏木マリ、カマジイの菅原文太、千尋の母に沢口靖子などが、大人の観客にとっては結構嬉しい。

ユバーバーに化身させられてしまったハクや父母を元の姿に戻し、千が元の千尋となって人間の世界に戻ることができるかといった冒険物語でもあるが、お化けたちが何とも愛嬌のある者ばかりでほのぼのしているのが良い。

既に3回見たが、千がハクの命を救うためにユバーバーの双子の姉である銭婆(ゼニーバ)の棲家に向かうときに乗る路面電車が湖の中を幻想的に走る場面や、出迎えの一本足のランタンが千とカオナシをピョンピョンと飛びながら道案内する場面などは、又、何回も見たいと思う。

八百万の神や、妖怪といった考え方が諸外国でどう受け取られるか分からないが、きっと欧米でも、このアニメは受け入れられるのではないだろうか。何はともあれ、未だ見ておられない方は是非、お早めに。

(9/27/01 11:00pm S.T.)

 

2001年9月21日

来年の巨人

いつでもあれほど論理的(?)なタカさんが、巨人軍いや長嶋監督の話になるとどうしてこれほどまでに非論理的になってしまうのかとよく言われる。

なあに、別に理由なんかない。DNAに刻み込まれたかのような「長嶋ファン」だからである。

嘗ては熱烈な巨人ファンであったタカさんだが、このごろは長嶋ファンの副次的産物としての巨人ファンといったところだ。

巨人が勝つのは長嶋の采配のお手柄、巨人が負けるのは選手の所為だと言いまくっているために今年も、大分多くの人の信用を失ってしまったような気もする。

ヤクルトのマジックナンバーがでてから多少の頑張りは見えるものの、「時すでに遅し」の感が強い。何しろ今年の巨人は酷かった。あれだけの錚々たる超一流選手を揃えながら、これといった目玉選手に恵まれたとも思えないヤクルトの快進撃の前に、全く歯がゆいことばかり。

どの球団もうらやむ程のきらびやかな先発投手陣も、故障続きでフルに活躍できた選手は皆無。中継陣も「継ぐ」というよりは「ぶち壊し」専門。これが、又、ピリッとしないリリーフ陣につなぐからたとえ勝ったとしてもヒヤヒヤし通し、まして、勝ったと思った試合でもひっくり返されることも度々で、いや本当に心臓にわるかった。

大型打線も、言葉をかえれば大味なホームランか凡打かの「木偶の坊打線」ともいえるし、盗塁の少なさなどからみれば、もはやロートルばかりということを思い知らされる。

それでも、人気チームだけにシーズン全140試合を、「捨てゲーム」なしでフルに戦いつづけなければいけないのだから、長嶋さんも本当に大変だ。

それでも、中日の星野監督や、阪神の野村監督のようにマスコミの前で、選手の悪口を言うこともなく、どんなに状況が厳しくなっても「ミラクルアゲイン」と叫びつづける姿は、いやはや、長嶋さんは本当にエライ。

流石のタカさんも、ヤクルトのマジックがここまで減っては、今年はすっぱりと日本のプロ野球のことは「なかったこと」と忘れてしまうしかない。(と言いつつも、長嶋さん同様に「ミラクルアゲイン」を捨て切れてはいないのだが)

何はともあれ、救いは、来年も巨人のユニホーム姿の長嶋監督の屈託のない雄姿がみられるであろうという希望があることだろうか。

(9/20/01 11:00pm S.T.)

 

2001年9月12日

哲学と経済学

アダム・スミスにはじまる古典派も、その批判から生まれたケインズ経済学も、その又批判から生まれた新古典派も、変数の多い経済を包括する理論ではありえなかった。

経済を敢えて何らかの統一理論でとらえようとするならば、「複雑系」に若干の可能性が残されているに過ぎない。

ケインズは経済理論について「現実の経済は絶え間なく変化するものであり、現実から遊離した経済理論が全く不毛であることを思えば、経済学が進歩し有用であり続けるために、新しい経済学を構築しようとする者にとって書くべきものは、大部な学術書ではなく、むしろ時論的なパンフレットだ」と言っている。

ケインズは、経済という営みが無数の関与者と時間という変数に基づいている以上、経済は「不確実性」の上に成り立っていると言っているのだ。

ケインズ経済学を数理的論理と考えるのは間違いだ。ケインズは若い時代に専門としていたモラルサイエンスとしての哲学から人間の「徳」を信奉し、帰結的に「人間性善説」に至り、その非数理的な哲学の上にケインズ経済学を構築した。

即ち、ケインズは自らの理論も、他の経済理論も非数理的な哲学と、「不確実性」の上に成り立っていることを認めていた。

ケインズがいみじくも語ったように経済学を学ぶものは、それを一つの論理的理論としてとらえるのではなく、一つの哲学思考体系として学ぶべきかもしれない。

(9/11/01 10:50pm S.T.)

2001年9月7日

隣が火事なの

電車の中での携帯電話の禁止が行き渡り、このごろは電車内での着メロさえ滅多に聞かなくなったのは何よりだ。

すし詰の満員電車の中で、他人の電話の会話を無理やり聞かされていたころは本当に地獄の思いだったが、何しろほっとしている。

携帯電話の便利さというのは、「何時でも、何処でも(ユビキタス)」ということなのだろうが、他人の会話というものは雑音でしかないのだから、やはり、携帯を使う場所には自ら制限があって然るべきであろう。

それでも、やはり「ユビキタス」の便利さというのは認めざるを得ない。特に緊急の事故などの場合、携帯の発達によって多くの命が救われたというようなこともあるだろう。

先日、電車に乗っていたら珍しく若い女性が携帯で話をしている。

「えっ 火事!」そのときならぬ彼女の声に、タカさんとしては全身が耳になってしまった。どうも、彼女のアパートの隣り燃えているという友達からの電話らしい。

「悪いけれど、私の部屋に入って貴重品を運びだしてくれないかしら」「ものすごく散らかっていて恥ずかしいけれど、お願いだから、机の引出しにある貯金通帳とか貴重品を持ち出して!」

武蔵野線の電車は新木場を過ぎた辺りを走っていたが、彼女のアパートは話の様子から行くと、どうも船橋近くらしい。確かに、これではどう急いでも、とても間に合わない。彼女にとってはこのまま電車に乗りつづけるのが最短の帰宅方法のようだ。

彼女の声は興奮の余り段々大きくなる。会話の内容が内容だけにタカさんだけではなく車両内の人間は皆、耳がダンボになっていた。

あれだけ携帯の他人の会話を聞くのが嫌いなタカさんでも、一体このあとどういう展開になるのか、何とも興味があったのだが、次の舞浜駅で下りてしまったし、その後、彼女のアパートまで火が回ったのか、あるいは、散らかし放題に散らかった彼女の部屋に入った友人が、余りの乱雑さに呆れ返ったのかといった後日談は知らない。

しかし、恐らく電車に乗っている間に「隣が火事」という緊急情報が入手でき、その対処方法も友人に即座に連絡でき、その結果、彼女の財産が守られたであろうとすれば、やはり「何時でも、何処でも」の文明の利器はあって良かったということになるのだろう。

(9/6/01 11:00pm S.T.)

 

2001年9月5日

当らない天気予報

「天気予報は当らない」と怒りまくる人がいる反面、律儀に天気予報を信じて晴れた朝でも傘を持ってでかける人もいる。「中々人を信用しない人」と「すぐ人を信用してしまう人」ということなのだろうか。

タカさんは「天気予報は当らない」派である。その言い方が余りに厳しいから、「気象庁に恨みでもあるの?」と奥さんに言われるぐらいだ。

「暖冬です」と予報されていた冬が、「気象庁始まって以来」とかいう「厳冬」になった。先日の台風は、大荒れになるはずが、東京を通過したというのにだれも気付かないほどで終わってしまった。「今年の夏は残暑が厳しい」との予報が、一転して「例年に比べて涼しい」状況になった等々。ここまで180度ハズレるとタカさんとしては一寸許し難い気持ちになってくる。

夜空や明け方の空をみれば、晴れるか曇るかぐらいは誰にでも予測はつく。「はれ」の予想で晴れても当りだし、朝、雨が降っている日に「あめ」と予想しても当りと勘定すれば、確かに天気予報は結構当っているということになるのだろうけれど、どうにも体感としては「天気予報は当らない」と思えて仕方がない。

それは、先のような「あめ」と言って晴れたり、「はれ」の予想で大雨になったりの、大ハズレが結構多いためではないだろうか。長期予報の類は、ほとんどと言って良いほどハズレている印象が強いのだが、実際のところどうなのだろうか。

「降水確率」というのも良く分からない代物だ。「降水確率50%」というのは、雨が降っても降らなくても当りということなのだから、これなら予報してもしなくても同じことではないのだろうか。

そもそも、線香の煙の行方が予測つかないのと同じで、天候などというものが人知によって予測できると考える方が不遜なのかもしれない。

以上タカさんは別に気象庁に恨みは持っていませんので念の為。天気予報関係の方がいたらゴメンナサイ。

(9/4/01 11:00pm S.T.)

 

2001年8月31日

何処へ

早くも一年が経とうとしている。

あの日の数日前、父と母、弟夫婦の5人でワインで乾杯した。父はややおそるおそるではあるが、ゆっくりとグラスを傾けた。退院後、体調もやや回復しワインも少しは飲んでも良いという医者の許しもあっての乾杯だったのだが、あれが父との別れの盃になろうとは。

退院後3週間あまりの自宅での時間を、父はどのような思いで過ごしていたのだろうか。そんなに間近にあるとは思わないまでも迫りつつある死、遺していく妻への思い、そして自らの身辺整理と複雑なものであっただろうが、父はその貴重な時間をゆったりと過ごしていたようにも見えた。

父はある程度覚悟をしていたかもしれないが、50数年その父と連れ添った母にとっては、そのような父を見つめる日々が、どんなに辛く哀しいものであったのかと思う。気丈には見えたが襲いかかる不安と焦燥に耐えていたであろう母のことが、又、何とも切なく思い出される。

臨終の数時間前に、「自宅で過ごされた時間はいかがでしたか」と問う主治医に「いいこともあり、そうでないこともあった」と父は答えた。父らしい言葉だと思ったが、母はどのような思いでその言葉を聞いたのだろうか。

病院にかけつけてからほぼ一日、その枕もとで逝く父を送ったのが、昨日のことのように思える。あれから一年、自分にとってかけがえのない母そして、愛娘麗子までもが逝ってしまった。一年という時間の経過は何とも過酷なものだ。

あの夏の夕暮れに車椅子に乗った父と見た、川べりの百日紅も、ハナトラノオの花も昨年と同じように戻ってきている。父の好きだったコスモスの花ももうすぐ戻ってくるだろう。

季節のうつろいは悠久の時間の中を淡々と繰り返しているというのに、父も母も麗子ももう戻って来ない。何処へ行ってしまったのだろうか。

(8/30/01 11:00pm S.T.)

2001年8月24日

ディズニー・シーに思う

今から20年ほど前に、浦安の埋立地である舞浜地区に自宅を買った。舞浜地区には当時、ディズニーランドが建設中であったが、現在のように京葉線が通っている訳でもなかったから、我が家もディズニーランドの建設現場も陸の孤島ということばがぴったりの原っぱの中にあるという感じだった。

こんな不便なところにテーマパークを作って、一体客が来るのだろうかとさえ思ったものだ。

翌年、ディズニーランドはオープンした。開園と同時に東西線の浦安駅からのバスの便がよくなり、舞浜地区の交通事情は大分改善された。

ディズニーランドの開園に先立って地元の浦安市民が招待された。ロスのディズニーには何回も行ったことはあったが、やはり、地元にこのようなテーマパークができたことを誇らしくおもったし、幼かった娘二人の四人家族で、はしゃいでパーク内を歩き回ったものだ。なにしろ地元民を大切にしようというディズニーの心意気には大いに感心した。

開園後、時を経ずして湾岸道路が完成し、京葉線も開通し舞浜は一気に交通至便の地となった。何しろ埋立地に一から作った街だから、舞浜は道路は広く、町並みは整然としており近代的な町になった。ディズニーに隣接して幾つもの一流ホテルが立ち並び、この地が嘗ては埋め立て地の原っぱであった面影はなくなっていった。

昨年夏には、舞浜駅の隣接地区にディズニー経営のモール「イクスピアリ」がオープンし連日、ショッピングやレストラン、映画鑑賞の人々でにぎわっている。

来月9月4日には、いよいよディズニーの第二テーマパーク「ディズニー・シー」がオープンする。

この第二テーマパークも十数年前と同様、開園前に浦安の全市民、13万2千人を4日間に分けて招待した。先週の土曜日にこの招待券を持って朝一番で出かけてみた。地方テーマパークの不振がいわれているが、このテーマパークの成功の可能性は高いと思った。

「夢の空間」の創造というディズニーのビジョンはここでも貫徹している。ディズニーカラーといってよい色使いが心を浮き立たせる。アトラクションの乗り物や、ショーの面白さもさることながら、パーク全体をつつむ「夢の空間」のコンセプトに、大人も一時童心にかえることができるのは、この見事な色使いの効果が大きいのではないだろうか。

ディズニー・シーの一部のレストランではディズニーランドにはない、アルコール類のサービスも行われており、大人向けの雰囲気も加わっている。

ディズニーランド、ディズニー・シーの外周をぐるりとまわるモノレールも完成し、昨年夏にオープンしたディズニー・アンバサダー・ホテルに加え、直営のホテル・ミラコスタもオープンした。中々、豪華なホテルでこの人気もきっと高いことだろう。

舞浜の地に来てからの20年余りの思い出が走馬灯のように駆け巡った。そして、ずっと一緒にいて、ディズニー・シーのオープンをあんなに楽しみにしていた麗子が、この場にいないことの悲しみが、このテーマパークが素晴らしいだけに、尚更に深まった。

(8/23/01 11:15pm S.T.)

 

2001年8月10日

如才

「如才ない人ってどんな人?」麗子の生前、ある休日の夕食時にそんな話題が出た。少なくとも我が家には「如才ない人」は見当たらないなという結論ではあったのだが。

「如才」とは手抜かりとか、手落ちのことである。従って「如才がない」といえば手抜かりや手落ちがない、あるいは良く気がつくという意味だ。

「如才のない人」といえば、良く気がきく人という意味ではあるが、単に気がきくというよりはもう少し深い意味があるように思う。

どんな組織にも、とり仕切りが上手く、良く気が付く「如才のない人」という人がいるものだが、そういう人のお陰で、その組織が活性化しての能力以上の力を発揮することも多い。逆に「如才のない人」に恵まれない組織は、纏まりがなくばらばらになり勝ちだ。

そんなこともあるから、「如才のない人」といえば、まあ、かなりのほめ言葉と考えても良い。

しかし、かといって「大人物」とか「大物」には、「あの人は如才がない」とは余り言わないから、極上のほめ言葉という訳でもないようだ。「如才がない」には、「世渡り上手」といったやや軽薄な意味合いも含んでいるような気もする。

女性などのこまやかな気遣いや、他人に対する思いやり、あるいは優しさと「如才のなさ」は異なるものだ。従って、子供や若者の中には、「優しい人」とか「思いやりのある人」はいても、「如才のない人」というのはまずいないと考えて良い。

麗子はおっとりとした優しい娘だったが、おっとりさゆえの気のきかなさもあった。そんなところは、我が母に似たところがあって、性格にも隔世遺伝ということがあるとは思ったものだ。

まあ、母も麗子も「如才ない人」ではなかったことは間違いない。父も実に威厳のある人だったから、「如才のなさ」はかけらもない人だった。

その三人の新盆が近づいている。

(8/9/01 11:00pm S.T.)

 

2001年8月3日

暑さを我慢するな

冬に生まれた人は暑さに弱いと聞いたことがあるが本当だろうか。

やせていた若いころからものすごく暑がりだけれど、寒さにもやたらと弱く、「暑いのと、寒いのとどちらが嫌い?」と聞かれて「どちらも嫌い」とこたえ「単にこらえ性がないだけ」と笑われるぐらいだから、タカさんが暑がりなのは12月生まれとはどうも関係ないようだ。

シカゴの気候は結構厳しく、年間を通じて暖房を切った翌日から冷房、冷房を切った翌日から暖房とエアコンがかかせなかったが、最近は日本でもこれに似たような生活をしている。

特に、この数週間は24時間冷房をかけっぱなしにしている。環境問題の専門家からは激しい指弾を受けそうだが、いや、本当に暑さに対しては、こらえ性がない。

東南アジア某国の日本人学校にクーラーを設置しようという話しが起きたが、「暑さを我慢するのも教育の一環」といった精神論でご破算になったと聞いたことがある。この話しのように、日本ではどうも昔から暑さや寒さを我慢するのが「偉い」とか「健康に良い」という思い込みがあるようだが、その点からいけば、タカさんは「偉い日本人」ではない。

しかし記録的な暑さは、体力の弱い幼児や、高齢者にとっては過酷というばかりではなく、成人にとっても容易なものではない。あんまり我慢するのも考え物だ。

暑さによる体力の消耗に、寝苦しさからくる寝不足などが重なれば健康に良い訳がない。昨日、大阪の高校の剣道場で生徒12人が熱中症で相次いで倒れ病院に運ばれたというニュースがあったが、連日、高校野球の試合中に熱中症で倒れたといった話しも頻発しており、こんな天候下で激しいスポーツは差し控えるべきではないだろうか。

熱中症も重症になると意識を失い死に至るケースもある。間もなく始まる夏の甲子園も、まさに、炎天下で行われるわけで、本当に大丈夫なのかと心配にもなってくる。

「真夏の甲子園」は風物詩であるとか、「若い者だから大丈夫」などというのも、ひょっとしたら観客の立場で勝手に言っていることであって、高校球児達は「涼しいドーム球場でやりたい」と思っているかもしれない。

「暑い時は暑さを我慢しようとするな」というのが本日のタカさんの主張である。

(8/2/01 11:00pm S.T.)

 

2001年7月27日

便利の不便さ

エジプト、アレキサンドリアにある製鉄所に2年間海外出向していたことがある。アレキサンドリアとはいっても、実際に製鉄所や宿舎があったのはアレキサンドリア市街より西に車で1時間近くリビア方向に行ったエル・デケーラという町、いや村であった。

今は、製鉄所の町として発展を遂げているとおもうが、今から15年前の製鉄所建設とその操業開始のころは、この町のインフラは全く未発達の状況だった。

村中の道路は舗装されておらず穴だらけ、雨でも降るとたんぼのようになってしまう。上下水道の敷設率は低く、飲み水は常にミネラルウォーターを使っていた。

電話などは、国際電話で日本と話しをしたいと思っても、事務所で申し込んでから半日待ちはざらで、帰国する旨東京に連絡しようと申し込んだら、漸く2日後につながり、申し込んだ本人が東京で電話を受けたというまことしやかな噂も、信じられるような状況だった。

特に困らされたのが電気だ。何しろ停電が頻繁におきる。製鉄所の原料購買を担当していたが、原料購買の仕事は、引合書、契約書といった英文の書類を作成するのが主なものと言ってよい。電動タイプで推敲しながら打っていても、突然の停電にあうとメモリーが全部パーになってしまい、一日がかりで打った文章すべてが消えてしまうという目にあって何度泣いたことか。電動タイプという便利な機器であるからこそ起きる不便さであり、こんなことなら手動式のタイプの方がよほど便利だとも思ったものだ。

プリントアウトもできないから、書類の作成は無理となる。停電になるとコピー機が使えない。コピー機が使えないとなると、ほとんどの事務作業はできない。結局、事務所での停電となれば、その間は食堂にでも行って時間を潰しているしかない。

便利になったと思っていたら「電気」がないという状況では、昔よりずっと不便になっていることを思い知らされた。エジプトの田舎とは言え、現代の生活は、電気に依存して成り立っており、何かの原因でそれが無くなった時の不便さはまさに文明以前に戻ったようなものだった。

それでも当時のエル・デケーラならば停電というものに多少の慣れがあったからまだ、如何にかなったけれど、今、日本の我々の生活で例えば一日間、停電があったらどうなるだろう。日本中がパニックになってどうにも収拾がつかないことになるだろう。

電気に限ったことではなく、便利なものにあまりにたよった生活に慣れてしまうと、それが無くなったときに実に不便だということが、エジプト生活で相当身にしみた。

原始人なら自分で火をおこすことができたのに、自動点火になれてしまいマッチやライターの備えもない現代生活では、地震などの災害でもあったときには火をおこすこともできないのだから、これはもう原始人以下の生活を余儀なくされる。

現代文明の中で便利な生活をしている我々は、実は人間の歴史始まっていらいもっとも生活力に乏しい人類といえるのだ。

(7/26/01 11:00pm S.T.)

2001年7月25日

理想の医療

身内の人間が、あるいは自分自身が入院するということは滅多にあるものではない。言い方を変えるならば、一般の人が日本の医療制度の現場に触れることはまれだ。ある時、突然身内や自分が入院することになって始めて、医療現場の実体を知り愕然としたという話を良く聞く。

一般社会と病院、あるいは医療現場という世界は隔絶しているのだ。

当直医の過酷な勤務体制とか、研修医といわれる若い医師の卵たちが、ほとんど無給に近い「お礼奉公」を強いられていることとか、3交代制の看護婦さんたちの過酷な勤務の実態、夜間の人手不足による患者の苦痛の状況などというものを知っている人は少ない。

半日待っての3分間診療などという実体も、患者数に比べて医師の数が絶対的に少ないことが原因なのだが、患者の側の不満は制度に対するよりも、医者自身に向けられがちだ。その結果、医者と患者の間には不信感が漂ってしまう。

しかし、このような問題の解消策の論議がなされるとしても、それは医学界の内輪でのものであり、一般社会が「利用者の立場」で加わることなど思いもよらないだろう。

病院という異質な世界の実態に突然直面させられた患者やその家族は、現実の医療制度のさまざまな欠陥に唖然とし、又、医療の側も、押し寄せる患者とその家族の要求を捌ききれない現実に失望感を抱く。しかし、その解消はいつまでたっても実現しない。

医療制度改革が叫ばれるが、その論議の中心はどうしても診療報酬とか、破綻が危ぶまれる医療保険制度についてであり、現実の現場で起きている患者側、医療側のこのような悩みの解消策は、わすれられがちだ。

現実に医療現場に、いわゆる「ゆとり」がないために、医者と患者の関係は、物理的で乾いたものになりがちだ。医者は「病気を診る」のではなく「病人を診る」べきだが、今の医療現場ではその理想は中々実現されない。

多くの患者を抱える医者が、一人一人の患者に物理的、精神的に十分な対応ができるという理想の医療制度は、果たして実現する可能性はあるのだろうか。

(7/24/01 11:00pm S.T.)

2001年7月19日

暑いね〜、麗子ちゃん

やはり何時も麗子のことを思っている。26年間の彼女の思い出、生きていたならば辿ったであろう夢多き彼女の未来、断絶されてしまった彼女の希望を思う。無念さでいたたまれなくなる。

麗子の姿はないけれど自分にとって麗子は間違いなく存在している。

夜、家路をたどるとき、生前に何度かあったように麗子が後ろから「よっ!」と声をかけてくるような気がして思わず後ろを振り向いてしまう。

たわいもない話をしながら二人並んで歩いたことを思い出すとやはり何ともやるせない。

我が家はずっと四人家族だったが、麗子が亡くなってからも家族の意識の中では、やはり四人家族のままだ。これからも、間違いなくずっとそうだろう。ここにも、麗子は間違いなく存在している。

そういう形で麗子は確かに存在するのだが、それに触れようとしても、霧の中にあるようにとらえることができない。

26歳になっていた麗子のことを、ほとんど何も知らなかったとつくづく思う。亡くなってから知った麗子の知られざる面には驚かされることが多い。たいした娘だったのだなと思う。又、さまざまな形で麗子が本当に多くの人に愛され、支えられて生きてきたことを知った。父親としてなんとも誇らしい気持だ。

今、麗子の部屋の祭壇には遺骨と明るい笑顔の遺影が飾られ、部屋中に花が溢れている。この週末「海の日」に四十九日忌と納骨式を行い、それからは祭壇に代わって、昨年相次いで亡くなった父母の位牌と、それより一回り小さな麗子の位牌を祀る仏壇を置くつもりだ。又、一歩麗子が遠くに行くような気がして落ちつかない。

「亡くなった人の悲しみからそろそろ立ち直りなさい」という自覚を遺族や世間にうながすための「人間生活の知恵」が生んだ儀式が四十九日だと聞いたことがあるが、現実に仏壇を目の当たりにすれば、麗子の死を紛れもない現実として認めざるを得なくなり、やはり辛くなりそうだ。

この世のしがらみとか現実と、麗子に対する我が思いには大きな隔たりがある。これを未練というのだろうか。

父親の自分に似て、暑いのが嫌いな娘だった。「海の日」は例年暑い盛りだが今年はどうだろうか。「お父さん、暑くてたまらないね〜」というあの明るい声をもう一度聞いてみたい。

(7/18/01 11:00pm S.T.)

2001年7月13日

点子ちゃんとアントン

今から40年以上も前、小学3年生の頃だったと思うが父が「点子ちゃんとアントン」という本を買ってきてくれた。絵本の類とは違い、挿絵はあるものの何しろ字がぎっしりとつまった本格的な本に子供心がいささか興奮した記憶がある。

物語のあらすじもうろ覚えとなってしまったが、点子ちゃんというしっかりとした子供が大人達を相手に大活躍するという物語だったと思う。幾ら背伸びをしてみたところで、大人たちの従属物でしかない子供にとってみれば、空想の世界とはいえこのちょっとおませな点子ちゃんの活躍にはあこがれのような気持ちを抱き、何ともワクワクしたものだ。

このケストナーというドイツの児童文学者の小説などをきっかけに、物語を読む、本を読む面白さに目覚めたのではないかと思う。大げさな言い方をすれば、「点子ちゃんとアントン」はいわば我が読書歴の原点にある一冊ということができる。

自分にとっては、記念碑的な意味のあったこの物語も、何故か我々の世代以降では愛読されたという話しを聞かない。娘たちが小学生のころに、本屋で探してみた時には見当たらなかったが、麗子はこの物語を読んだことがあったのだろうか。

ケストナーがこの小説を書いたのは今から70年前だが、その作品が昭和30年代の日本でなぜ、あれほど人気を博したのか不思議な気がする。

今や幻のかなたに消えてしまったかと思っていた「点子ちゃんとアントン」だが、何と映画化されて現在、恵比寿ガーデンプレイスで上映中と聞いてびっくりした。映画のパンフレットによると、ストーリーは幾分、現代風にアレンジされているとのことだが、何故、この物語が映画化されるに至ったのだろうか。監督は未だ30歳代とのことだから、やはり、オリジナルの物語の普遍性に注目したものだろうか。

今は亡き両親は自身も読書家だったが、我々子供達にもたくさんの本を買ってくれたことを思い出す。今でも実家の書庫には両親がそろえてくれた50巻余りの「少年少女世界名作全集」が飾ってあるが、あの中には「点子ちゃんとアントン」は収録されていたのだろうか。今度、今は主なき家となってしまった実家を訪れたときに、一度チェックしてみようかと思う。

(7/12/01 11:55pm S.T.)

 

2001年7月6日

「美しい日本」の蒸し暑さ

いやはや何とも暑い。今週に入ってからの蒸し暑さは、経験から言っても世界的に有名なバンコックや、ドバイ、ヒューストンの蒸し暑さよりも酷いのではないかとさえ思う。

連日、猛烈な湿気で本当にぐったりしてしまう。朝の出勤時に会社に着くと、シャツがぐっしょりとなってしまうほどで、扇子をパタパタしながら息を整えるのに5分以上は要するありさま。

並外れて暑がりという訳でもないとおもうが、このごろは蒸し暑さの所為か気力の減退が甚だしい。こんな調子では日本全体での生産性は相当おちているのではないかとさえ思う。

日本は四季に恵まれて美しい国だと川端康成はノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」で語っていたが、川端康成は「美しい」という感覚の中にこの日本の「蒸し暑さ」をどう織り込んでいるのだろうかと当時から変な疑問をもっていたことを思い出す。

いつもはハズレてばかりの天気予報だが、ここのところ「明日は蒸し暑くなります」の予報が連日当たるのが又腹立たしい。梅雨明け宣言も出ていないのに、バカの一つ覚えみたいに「蒸し暑さ」を予報していればメシが食えるのだから気象庁なんて楽な商売ではないかと、八つ当たりもしたくなる。

6月の平均気温は例年になく高かったというが、やはり地球温暖化の影響があるのだろうか。いや、今年の冬は数十年来の寒さだったという話しを思い出してみるとそうなんでもかんでも地球温暖化の所為にするのも単純すぎるのではないかと思い返してみたり。

果たして昔もこんなに蒸し暑かったのだろうか。思い出してみると、確かに今から30年も前ならば、余りの寝苦しさに家中の窓を開けてそれでも七転八倒していたようにも思う。最近は、日本が豊かになったレベルに合わせて、我が家も各部屋にクーラーがついているから、昔にくらべれば夜の寝苦しさは大分解消された。

「クーラーをかけっぱなしにして寝ると体に良くない」とは聞いているが、こう蒸し暑いと「暑苦しくて眠れない位なら涼しすぎてカゼをひく方がまし」とばかり、クーラーをがんがんにかけて寝ている。

元地球環境室長とも思えないとの非難(?)もあるかもしれないが、「省エネタイプ」のクーラーだから大目にみて頂きたい(そんな問題ではないかもしれないけれど)。

例年ならば、梅雨明け宣言が出ると気温はともかく、湿度の方は少しは下がって来るのだが、今年は一体何時頃までこの蒸し暑さの拷問が続くのだろうか。

(7/05/01 11:00pm S.T.)

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