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  日々早々エッセー

バックナンバー集(2005年7-12月分)

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<<タイトル>>  
12/29
棹尾の言 12/28 五本指靴下 12/23 旭川時代 12/19 暖冬の大寒波 12/16 美しくない 12/14 米国産牛肉、食べる? 12/09 座り方の話 12/08 心の問題 12/02 がんこ者 11/25 寒いよぉ〜 11/22 不入りの大相撲 11/18 てんとう虫 11/16 キムチ戦争 11/15 喫煙という病気 11/11 こんな恋愛ドラマが好き 11/09 少子化を悲観しない 11/04 やさしい男 10/28 健康によい食べ物 10/26 ハリケーンのニュース 10/21 行ってみたい所 10/14 脳は怠け者 10/07 道頓堀川 09/30 文句ばかり 09/22 グランパ 09/16 納豆のお作法 09/13 真紀子と鹿取でどうだ! 09/09 台風14号が残したもの 09/05 ニューオーリンズ 09/02 ナイル川とTX 08/30 父親は引っ込め! 08/26 げに宗教は恐ろしい 08/24 高校野球と大人たち 08/19 僕ってアジア人? 08/12 甘っちょろいぞプロ野球 08/05 嫌いな言葉 08/04 果敢な決断 8/03 英国が羨ましい 7/29 サザエさんはいくつ? 7/22 ムラサキツメクサ 7/01 注射嫌い


2005年12月29日

棹尾の言

あっという間に今年も暮れようとしている。

「日々草々」に年末の雑感を掲載するのも、何とこれで8回目となる。(今や自分にとっての年末行事とは、すす払いでもなければ、餅切りでもなく、家人がリビングで年末番組を見ている間に書斎のパソコンに向かい日々草々に「年末雑感」を更新することだ。)

世の中のことはともかく、個人的なことに限って言えば、今年の大きな出来事といえば初孫の誕生と、夏の入院だろうか。孫の誕生では「自分は孫バカになんかはならないタイプだ」と信じて50何年生きてきたつもりだったが、そんな思い込みなど簡単に吹き飛んでしまったのには我ながら驚いた。突然の入院という出来事でも、「自分は頑丈だし、至って健康だ」という勝手な思い込みがもろくも崩れ、何のことはない自分も全く人並みに体調を崩すし、過信できるほどには頑強でもないということを思い知った。50も後半となれば、これからは人並み以上に体調管理に気をつけなければいけないと自覚したことは、入院などという目にあったからこそ身にしみて学べたことといえようか。この二つともに「なあんだ、自分も他人と何等変わらない全く普通の生身の人間なのだなぁ〜」と自覚させられる出来事だった。

多少大げさな言い方になるかもしれないが、「無事に年越しそばを食べて除夜の鐘を聞くという年末の行事を無事迎えること」が、実は幸せの原点とも言えることをあらためて思う。来年の今頃も、今年と同じように多くの人々に温かく見守られながら、又、そういう人たちを温かく見守りながら「日々草々」の年末の言をゆったりした気持ちで書いていたいものだ。

 

さて、この「タカさん大いに語る」もこれが本年最終稿です。来年はいよいよ足掛け9年目に入ります。今や、我が分身となった感じのこのホームページですが、来年も地道に続けていくつもりですので、どうかよろしくお付き合い下さい。

新しい年2006年が皆様にとって幸多い年でありますように。

(12/28/05 11:00pm S.T.)

 

2005年12月28日

五本指靴下

ただでさえ寒がりなのに、半端ではない大寒波の襲来にほとほと音を上げている。そんなおり、五本指靴下なるものがブームで「足指の血行が良くなり足先が冷えない」とのおもいっきりテレビ的情報に、心動かされて何足か購入して早速使っている。

今のところ、言われるほどの効果があるとは実感できず、他の健康グッズ同様に、「踊らされたかな」とは思わないではないけれど、「靴下には変わりないし、まぁ〜いいか〜」と言ったところだ。

それにしても、こういった健康グッズだとか、健康飲料といったいわゆる健康商品産業というものは、バカに出来ない産業セクターである。五本指靴下にしても安い中国産靴下に押されっぱなしだった靴下業界にとっては、起死回生のヒット商品になりつつあるのだとか。一番健康効果があるのは絹製だそうで高級シルク製の一足数千円の五本指靴下があるかと思えば、最高級エジプト綿を使った五本指靴下は一足一万円、しかも三足組でも飛ぶように売れているのだとか。タカさんが効用を実感できないのは、一足数百円という普及品の所為なのだろうか。

そういえば昨年の今頃は、「あるある大辞典」情報だったと思うが、柚子ジュースが何かに良い(血糖値?)とかを聞いて、柚子を買いあさったものだったし、その前には、にがりだ、酢卵だ、きなこ牛乳だ、と随分試したものだが、いずれもさしたる効果も確認できないままに飽きてしまった。最近では、ヨーグルトやら豆乳も随分凝ったが、かかりつけの医者に「あれは体に良くない」と言われて止めてしまった。(参照:「健康によい食べ物」10/28/05)

そうそう、我家には妻用も含めて3-4本のダンベルがあるが、あれも今やどこかでほこりを被っている。我家の奥さんは、腹に巻いて電動でぶるぶるさせるだけでやせるといわれた変なベルトとか、飲むだけでぐんぐん痩せるハワイかどこかのジュースなどというものに随分凝っていたこともあったが、あれも余り効果がなかったようで、今やその在り処さえわからない。

亡くなった父も凝り性で、ジューサーを買ってブーンブーン言わせながら、自分で果物のジュースを作っていたこともあったが、あれもあんまり長続きしなかったようだ。

五本指靴下もやはり、父の遺伝のなせる業なのだろうか。と、いうことは、来年の冬にはもうこの靴下は履いていないかもしれないなぁ〜。

(12/27/05 10:00pm S.T.)

 

2005年12月23日

旭川時代

北海道旭川への冬旅行の広告が夕刊に出ていた。40年近くも前になるけれど、父の勤めの関係で、旭川に住んでいたことがあるから、なんだか懐かしくあの2年ほどの旭川時代を思い出した。以下思いつくままにちょっと書いてみたい。

旭川では寒い盛りともなれば、気温は零下20度近くも珍しくなかったが、寒さ対策は万全だから、室内にいれば東京などよりも却って温かいぐらいで快適だった。スキーやスケートは近場で手軽に楽しめた。粉雪の風情も悪くないし、晴れた日には旭川の大陸的ともいえる冬の冷たい青空や、きらきらと輝くきららが美しい。(この時期の旭川は本当にお勧めだ)

あのころ北海道では本州などのことを「内地」と言っていた。内地から北海道旭川に引っ越した時、確かに旭川は「外地」だなぁ〜と思わせるところが幾つもあった。内地とは全く異なる快適な気候、大雪山を望み石狩川が流れる雄大な風景、町並みは碁盤の目のように計画されているがその街路にはまだ馬そりや荷馬車が走り、雪解けの5月には馬糞風とよばれる砂埃が巻き上がった。

旭川の冬の寒さは半端ではないが、梅雨がないし、夏でも暑さを感じることなど殆どないから、一年を通して気候的には、本州よりは快適とすら言えるのではないだろうか。春、夏の花々が美しいことは冬が長く厳しいだけに尚更に感じられる。旭川ではさくらは咲かないが、スズランやライラックが楽しめる。

当時の北海道は自らを「外地」という感覚で捉えていたように、一種、独立国的な雰囲気やら気概を持っていたように思う(最近の北海道のように、公共事業だ、補助金だと内地から金を引っ張ることばかり考えているようなことはなかった)。

良い高校から北大に進み、道庁や開発庁に勤めるとか、民間ならば何といっても拓銀、それに雪印、王子や国策といったパルプ会社、ニッカなどに勤め、親と一緒に住み、地元からきれいなお嫁さんを迎えることが、エリートコースだと教わった(まあ、これは子供の頃から小市民的であったタカさん一人が信じ込んでいた話かもしれないけれど)。

旭川での生活は、内地とは違ったことは多かったけれど、特に食べ物は随分と違っていたように思う。盆地の中心にある旭川だけれども新鮮な魚介類は割りと豊富で、美味しかった。「にしん」「ほっけ」といった内地では食べたこともない魚は北海道で知ったが、あの時以来、我が好物になっている。いまは全国区になった「石狩鍋」も当時内地で知る人は少なかったのではないだろうか。留萌あたりからくるウニは相当に安かったのだろうか、あるいは父がよほど好きだったのだろうか、良く家でも食べた。今なら一杯、数千円だといわれる毛ガニも、手軽に食べていたように記憶する。にしん漬けだ、松前漬けだと、北海道独特の漬物類も忘れがたい。

最初は尻込みしたのが羊肉(マトン)だ。そんな肉を食べるということすら内地では想像もつかなかった所為である。洋風料理法とか羊肉のしゃぶしゃぶという食べ方もあるにはあったが、北海道と言えばやはりジンギスカン鍋だ。多少の肉の臭みを消す意味もあるのだろうが、にんにく、たまねぎ、りんごのすりおろしをかなり入れたタレを使うのが、北海道の正統派ジンギスカンであり、この味になれてしまうと、牛肉よりもよほど美味いと思ったものだ。(羊肉は安く、遠慮せずにたくさん食べられることが育ち盛りの男の子には嬉しかったということもあるが)。成人してからも、エジプトやイギリスといった羊肉を好んで食べる国に住んだこともあって、今でも羊肉は好物だ。

最近、東京でも狂牛病騒ぎの余波なのだろうか、ジンギスカン料理の店が随分と増えて来ている。しかし、旭川の正統派ジンギスカンに比べると、「これは、ちょっと本物とは違う!」と思わないではない。一つは、鍋の形が違う。旭川で使っていたあの真ん中に小さな煙突のようなとんがりがあり、しかも鍋の内側にぎざぎざのない独特の鍋ではないと正統派とは言いがたい。それになによりも、「ジンギスカンの用意をしなさい」と母に言われて、飛び散る脂でテーブルや畳が汚れるのを防ぐために部屋中に古新聞を敷くというあの儀式がないとジンギスカン鍋らしくない。正統派のジンギスカンならば、何しろ新聞紙を敷きつめた上で食べなければ話しにならない!

旭川版「オールウェーズ」の世界みたいな話になってしまったがーーーー。それにしても随分と昔の話だ。

(12/21/05 11:00pm S.T.)

 

2005年12月19日

暖冬の大寒波

日本各地を「大寒波」が襲っている。日本海側は雪で大荒れ、中国、四国地方も記録的な降雪で被害が相次いでいる。あの南国土佐の最低気温がマイナス2度だとか3度だというのだから、この「大寒波」ただものではない。(地球温暖化で大変だと騒いでいる人たちに、この寒波と温暖化の因果関係を尋ねてみたい気がするが)

ところで、11月24日に気象庁が発表した12月から来年2月までの「3ヶ月予報」を覚えておられるだろうか。「寒気の南下が鈍く、全国的に暖冬となる見込み」であったはずだ。

「明日は晴れるでしょう」という予報にもかかわらず、翌日、曇ったとか、小雨がぱらついた、といった場合、これはまあまあよくあることだが「又、天気予報が外れた」と笑って済ませることもできるが、翌日、記録的な大嵐が吹き荒れたとなれば、これも「天気予報が外れた!」と、笑ってすませてよいものだろうか。

「耐震設計ですよ」と言われて買ったマンションが、実際は「震度5弱の地震で倒壊のおそれがある」建物であった場合、これは「耐震強度偽装」という大問題となり、「詐欺だ!」「金返せ!」の大騒ぎになる。

わずか3週間前に出した長期予報の「暖冬」が一転して、「記録的な大寒波」「厳冬」となった場合、これはひょっとしたら犯罪とすら言えそうだ。

そういえば、2週間ほど前にも天気予報で「東京は明日、雪のおそれ」などと大騒ぎしたものの、雪どころか雨も降らずぽかぽか快晴だったこともあった。

あの時も、次の日に予報士が「なぜ、雪の予報がハズレたか」をとうとうと後講釈していたが、競馬の予想屋じゃあるまいし、レースの終わった後で、ああだのこうだのハズレた理由をいくら講釈してもらっても何にもならない。聞いていると腹が立つだけだ。昔の競馬場なら「バカヤロー、予想代を返せ!」と水でもぶっかけられるのがオチだ。

それにしても、あれだけはずしていながらもメゲずに天気予報をやっている連中も偉いというか、厚顔というか、感心するし、なんと言っても騙されても、騙されても、天気予報を聞いてしまう一般人といわれる人たちの、素直さというか、間抜けさ、にもほとほと感心させられる。

これだけ被害が叫ばれているにもかかわらずオレオレ詐欺(今は、振り込め詐欺というらしいが)にひっかかってしまう被害者が後を絶たない。詐欺師の側が悪いには決まっているが、騙される方にもかなりの問題はあるとよく言われる。

予報をハズシまくる気象庁や予報士も悪いが、それでも再び予報に耳を傾けてしまう、我々の側にも、相当問題があるのかもしれない。

以上、タカさん、別に気象庁や気象予報士に個人的な恨みがあって言っている訳ではないので、その点、誤解なきよう。

(12/18/05 10:00pm)

 

2005年12月16日

美しくない

ジェイコム株の誤発注問題で感想を求められた与謝野金融大臣が「美しい話ではない」と述べた。この発言がもう少し早い時期に出ていたら、今年の流行語大賞の声もかかったかもしれない。

みずほ証券からあり得ないほどの株数が売り出された数分間の間隙に乗じて、大量に買い求めた証券会社仲間に対しては、「誤発注と分かっていながら、その弱みに付け込むとは!」といった業界モラルを持ち出す筋もあるが、要するに「あの千載一遇のチャンスをつかめたのは証券会社ばかりで、自分達は儲け損ねた」というやっかみからの反発である。

総額400億円からの「濡れ手で粟」の儲けを手にしたのが、UBS証券やら、モルガンといった外資系がメインであったから、このことも国粋(?)論調にとっては許しがたいと映ったようだ。

金融大臣としてというよりも選挙民である一般大衆の人気に気を使わなければならない政治家として、与謝野さんは「美しくない」といわざるを得なかったのだろう。しかし、株取引市場の行政責任者という立場でこの発言は、いささか問題があるのではないだろうか。

株式市場、いや資本主義市場の根本原則は(冷徹に聞こえるかもしれないが)「弱肉強食」である。勿論商法などのルールの下で行われる競争なのであって、剥き出しの弱肉強食が全て許されるという訳ではないが(いくらかの歯止めルール例えば独禁法のようなものはあるにはあるが)、「美しい」だの「汚い」だのという基準は本来あるべき世界ではない。

野球で、盗塁(盗む塁とはずいぶん美しくない言葉だが)がルール通り行われれば、子供の野球ならば「キタネー」という言葉も浴びせられることはあっても、プロ野球では賞賛こそされ「美しくない」とは言われないのと同じだ。

400億円の損失を招いたのは、誤発注をしたみずほ証券であり、発注取消を受け付けなかった東証のシステムであり、そのシステムを開発管理していた富士通であって、その間隙をついて儲けた証券会社ではない。存在する株以上の株数が売り出されていることで「オカシイ」と思わなかったはずはなく、「オカシイ」と思いながらそこに付け込んだのだから「キタナイ」という人もあるようだが、もしみすみす盗塁できるチャンスに盗塁をしない選手がいたら「怠慢だ」「アホだ」といわれ「辞めちまえ!」の罵声が浴びせられるだろう。千載一遇のチャンスをつかんだ証券会社のディーラーは褒められこそすれ、けなされる筋のものではなかろう。ぼやぼやしている内に、株を大量に買い占められた阪神がアホなのであって、ルールを逸脱していない限りは、阪神の株を大量に買った村上ぎょろ目氏が悪い訳ではないというのが市場の原理だ。

ところが、この与謝野大臣の「美しくない」発言には、冷徹なはずの外資系証券会社でさえ、ブルってしまい、その多くはこのジェイコム株で儲けた金額を返上する意向にあるのだとか。

マンションの耐震強度偽造という詐欺事件の被害救済にも国が乗り出して「公的支援」をすることになった。本来、民間で片付けるべきことにも、しっかりと国が介入し、それを国民も由としている。そして、本来、国が口を出すべきではない株式市場のチョンボの後始末にも国が口を出して、それが通ってしまう。

この二つの事例ともに、やはり日本の社会は、資本主義ルールでは動かず、社会主義のルールが幅を利かせているということをあらわしている。こんな具合に、なんでもかんでも政府(お上)がしゃしゃりでることを国民が望んでいるというなら、日本には「小さな政府」などとても根付かないということなのだろう。これを喜ぶべきか、悲しむべきか悩むところではあるが。

そこで一つ提案だが、誤発注問題で発生した400億円の「不労所得」を、証券会社が返上するというなら、この資金を、あの設計偽造問題の被害者救済目的に寄付してもらえないだろうか。公明党の国土交通大臣が出したような顔をして、あの宗教団体が点数を稼ぐという腹立たしさから幾分解放される。ハゲタカと嫌われている外資も随分イメージが良くなろうというものだ。

しつこいようだが、再度言わせてもらいたい。資本主義市場、いや資本主義とは甘い世界ではない。少なくとも、変な夢を持って「美しさ」を求めるような世界ではない。どんなにきれいで美味しい霜降り肉でも、その肉を得るための屠畜現場は美しいものではないのと同じことだ。

(12/15/05 10:30pm S.T.)

 

2005年12月14日

米国産牛肉、食べる?

ある意味ではスケジュール通りというべきなのだろう。2年ぶりに北米産牛肉の輸入が再開されることになった。

別に大騒ぎすることではない。食べたい人は食べれば良いし、食べたくない人は食べなければ良いだけの話しだ。

しかし、世の中そうもいかないらしく、特にアメリカ嫌いの人、あるいは何かと政府批判が好きな人たちは、涙目にまでなって「食の安全はどうなっているのだ!」と叫び、「けしからん」だの「不安だ」という批判も渦巻いている。

逆に、「米国産牛肉でなければ伝統の牛丼の味は出せない!」と、2年間ガマンしてきた吉野家や(たかが牛丼のことで、何でそこまで粋がるのかと思わないではないが)、ヨシギューファンといわれる一部の人たちは、これまた輸入解禁と聞いて感涙に咽んでいるとか。いやはやとんだ大騒ぎというか、バカ騒ぎである。

昨日の新聞に「解禁された米国産牛肉を食べるか」というアンケートの結果が出ていたが、約7割の人たちが「買わない、食べない」と答えていたのにはちょっと驚いた。雪印問題などで国産牛が危ないといわれていた第一次狂牛病騒ぎ(?)の頃には、「国産牛は危ないが、米国産牛肉は安全」と言われていたというのに、二年間の禁輸の間に、これが全く逆転して日本人は「国産は安全、米国産は危ない」と180度逆を信じ込んでしまっているという訳だ。日本人は他人の意見に簡単に影響を受け、ころころと考えを変えてしまい易い国民性を持っているようだ。

中々出番の無かった、消費者団体だとか、市民運動家だのという連中も、ここぞとばかりに「米国産牛肉の安全性に問題あり!」と輸入反対運動を展開の構えだと言う。消費者団体が安い物をよこせと騒ぐなら分かるが、「安全」という魔法の言葉に付込んで、高い国内産保護の側に回るというのだから訳が分からない。実は国内食肉産業とウラで繋がっていたりしなければ良いが。

もっとも、米国産牛肉はアブナイと騒いでいる連中にしても、この年末年始にハワイ辺りに休暇旅行に行って、親子で米国産ステーキやらハンバーガーをパクパク喰うのだろうなぁ〜。(まあ、成田空港反対派の連中が、成田発の飛行機で海外旅行に出かける例もよくあるから、別に構わないとは思うが)

ロンドンに駐在していたことのあるタカさんは、日本では献血もできない。80年以降96年までの間、1日たりといえども英国滞在経験のある者は、狂牛病キャリアーの恐れがあるので献血不適という日本国内の基準に抵触するためだ。元々、注射が嫌いで、献血なんてできればお断りのタカさんにしてみれば、痛くも痒くもない規定ではあるが、狂牛病の本場と言われた英国ですら、狂牛病での死者の累計は精々100人そこそこ、ここ10年以上死亡例も発症例もないと聞けば、日本の狂牛病バカ騒ぎはやはりやり過ぎだとは思うが。

妙に狂牛病ナーバスな状況が続いているだけに、ヨシギューの牛丼再開の数日は、きっと大騒ぎになるのだろうなぁ〜。(テレビクルーが何百人と出るだろうし、客の第一号は、命知らずの特攻隊の英雄のような扱いを受けたりして!)

ところでタカさんは、輸入解禁となったらどうするかなと考えてみた。牛丼ファンでもないし、牛タンを食べなければ死ぬという訳でもないから、あえて周囲の奇異な目を気にしながら米国産を食べる必要もない。国産牛が高いといったって、米国産の倍も三倍もする訳でもないから、暫くはやはり食べるなら国産牛肉かなぁ〜。

いかん! いかん! 他人のことはとやかく言いながら、タカさん自身、他人の意見に惑わされてしまう典型的日本人であるようだ。

(12/13/05 10:00pm S.T.)

 

2005年12月9日

座り方の話

先日、友人たちとの飲み会に参加した。居酒屋というか、小料理屋というか、まあ、そんな店の二階の一室で宴は催されたのだが、部屋は和室で、今は多くなった掘りごたつ式という訳でもないから、当然ざぶとんに座椅子というしつらえだった。幾ら気のおけない仲間とは言え、久しぶりに顔をあわせるとなれば、最初のうちは、正座とはいわないまでも胡坐位は組まなければならないと思ったのだが、我ながら驚いたことに、まともな胡坐となるとこれが中々組めない。

仕事でも家庭でも椅子に腰掛けているし、家のリビングでくつろぐ場合ですらソファーに腰掛けるか、じゅうたんの上に足を投げ出して座るかといった具合だ。外食の際でもこのごろの店は、まずテーブル席しかないとなれば、確かに、一定時間正座なり胡坐をかくことがほとんどないのは事実だが、まさか胡坐で

5分も持たないとは我ながら意外だった。軽い腰痛に膝痛の所為もあるが、足が組めない一番の原因は歳とともに膝関節辺りの潤滑性が失われてきているからだろうか。

そうやって、観察していると、なんのことはない、他の仲間たちも一人として、ちゃんとした胡坐すらかいているものがいない。皆、座椅子に背もたれして足を投げ出すか、片立てひざといった姿勢だ。まさに無礼講の趣である。(その内の一人は座椅子にもたれすぎて、座椅子の背もたれが壊れる始末)

最近は法事でお寺に行っても、あるいは神社でお祓いをしてもらうときでも、大体が椅子席であってまず足を組んで座るような機会はない。前述の通り、和風のレストランですら和室があるにしても、ほとんどが掘りごたつ式になっている。

若い頃には座禅の真似事などもしていたが、あれは座布団を尻の下に椅子のようにして敷くから案外、足を折りやすいのだけれど、考えてみると日本古来の座り方である正座というのは、今や現代人にはアクロバットのようなものになってきているのではないだろうか。

そうそう、韓国では男は胡坐、女は片立てひざが正式で礼儀正しい座り方だそうだ。日本ではかつては、女性が立てひざをするというのは、下品なことと言われたから、一衣帯水とは言っても日本と韓国が中々理解し合えないのも、ある種頷ける。(随分古い話だが、藤純子、江波杏子、梶芽衣子、などの女つぼフリが鉄火場で片肌脱ぎ、立てひざをしていたのが、結構魅力的に思えたものだが)

アラブ人は伝統的に胡坐をかく習慣があり、現代でも男女共に胡坐をかくことはよくあるが、欧米人を和室に座らせると足を組めずに四苦八苦している。

日本人が胡坐をかくようになったのは、あるいは正座をするようになったのは一体いつごろからなのだろうか、一度調べてみようかしらん。

そうそう、最近のジベタリアンといわれる若者たちはよく、ウンチングスタイルとも言われる座り方をしているけれど、あれって結構難しい座り方だと思うが、無理に粋がってやっているのだろうか。

それと、メキシコ人が壁を背にして立つ時、必ずといっていいほど片足を軽く上げて一本足でたっているけれど(マカロニウエスタンで、クリント・イーストウッドが良くやるスタイル)あれも、(試してみたことがあるが)随分無理な姿勢に思えるのだが、彼らにとっては楽な姿勢なのだろうか。

座り方や立ち方の比較も、結構文化とか時代、あるいは世代の違いを表しているようでもあり、調べてみたら面白いかもしれない。

(12/08/05 10:00pm S.T.)

 

2005年12月8日

心の問題

国の為に命を捧げた人たちを悼むことは、世界中のどの国に於いても、義務とすら言える当然の行為である。その追悼の方法は、それぞれの国家とその国民の心の問題であり、他国がああだこうだと干渉や指示を行うような代物ではない。もし、そのような事を言ってくる国があるとすれば、それは明らかな内政干渉であり、許しがたい外交的な無礼である。

小泉首相の靖国参拝になんだかんだと文句をつけることで、それを国内政治のガス抜きやら、外交カードに使ってきた中国や韓国だが、その内政干渉に対してまがりなりにも「ノー」を突きつけた小泉首相の姿勢は(参拝の方法などに不満は残るものの)、当然といえば当然のものであり支持したい。

ところが、中国は首相の靖国問題にしつこく難癖をつけようとしている。東アジアサミットを利用して行われようとする日中韓首脳会談を中国は延期を表明、これは首相の靖国参拝に対する面当てだそうだ。

隣人がこちらの家の庭にあるさくらの木を「さくらは目障りだから杉に植え替えろ」と勝手なことを言ってきて、こちらが植え替えないでいたら「植え替えないならお前とは付き合わない」と言ってきたようなものだ。そもそも、その隣人が貧しい時代に、何かと援助を惜しまず、ずっと昔の過ちを隣人が責める際には、何年にも亘って何度も何度も謝ってきたというのにである。それほどまでに言われれば「もういい加減にして欲しい。さくらの木は杉に植え替えないし、どうしても付き合いたくないというなら、仕方が無い」と考えるのが普通だろう。

小泉首相が「中国が会談を延期するというなら、それでも結構だ」「いくら靖国を外交カードにしようとしても無理だ。参拝を批判する方がおかしいと思っている」と語ったのも、至極当然のことではないだろうか。

付き合いたくないというものに、拝み倒してまで、あるいは心を売ってまで付き合う必要はないと考えるのもいたし方ない。付き合わなくて困るのはどちらの方なのか、中国もバカでなければその内に気付くことだろう (バカなら気付かないだろうが) 。

ところで、こんな時に一番腹立たしいのは、日本人の中に「そうまでいうならば、さくらの木を切って、杉に植え替えてもよいではないか」などと言い出す連中がいることだ。朝日新聞を始めとするトンデモ・ジャーナリズム、それに与野党に有象無象いる日本嫌いの日本人達のことである。

(12/07/05 10:00pm S.T.)

 

2005年12月2日

がんこ者

「がんこ者」と言えばそのイメージは肯定的なものだろうか、否定的なものだろうか。

よく言えば「ちょっとやそっとのことでは自分の考えを変えない信念の人」とも言えるが、ネガティブに捉えれば「自分が正しいと思い込み、その考え方を容易に変えられない融通の利かない偏屈な人」でもある訳だ。

造反議員の出処進退が注目された。選挙互助会的な新党を作った亀ちゃんたちはがんこ者といえるだろうか。確かに、最初は一徹者のおもむきもあったのだが、解散と聞いてからの右往左往ぶりやら、その後のあまりに破れかぶれの悪口雑言、恨み節を聞いていると、どうも「信念の人たち」という清々しさとは縁遠い。

自民党を追い出されることになっても未練たらたら、かといって新党に加わるといった決断も出来ないという中途半端に終始している野田聖子女史など無所属議員やら、大見得を切って反郵政民営化に票を投じながら、衆議院選後の懲罰委員会に際しては、情けないほどの恭順の意を表した中曽根さんのバカ息子などは、肯定的な意味からも否定的な意味からも「がんこ者」の範疇には入りそうもない。敢えて言えば単なる「愚か者」といったところか。

あまたの造反議員の中で、「がんこ者」を貫き、まあまあ「信念の人」っぽく見えたのは、平沼赳夫前経済産業大臣ぐらいなものだろうか。もっとも、一時は首相候補の一人とも言われたことを考えると、派閥のボスの亀ちゃんに付き合って、一匹狼になってしまったのだから愚か者とはいわないまでも「空気が読めない人」との評価は定まった。これでは、将来、政治の重要なポストはまかせようという気にはなれない。

もっとも、政治の世界でも「がんこ」を貫き通せば、いつかは日の目を見るという前例にはことかかない。結局、がんこを通した小泉さんもそうだし、凋落はしたが、馬鹿の一つ覚えのように「憲法を守れ」で、どうにか命脈をたもっている党も「がんこさ」がセールスポイントにはなっている。

民主党の前原代表も、労組との決別やら、中韓の外交姿勢を批判するなどのがんこさを貫き通せばいつかは政権奪取という、いい目を見られるかもしれないのだが、どうも民主党の日和見体質に足を引っ張られ、がんこを貫き通せないという苦境にあるようだ。

そう言えば、ソ連が崩壊し、中国は資本主義以上に資本主義化したというのに、未だに社会主義を名乗る数少ない国、北朝鮮、キューバ、ベトナムと言った国々は信念の国なのか、愚かな国なのかという疑問も湧く。この日本で共産党を名乗り、あるいは社会主義信奉を唱える人たちのことは、信念の人と呼ぶのか、単なる意固地な偏屈者と呼ぶのか、どちらだろうか。

そうそう、がんこ者といえば、「がんこジジイ」ということばはあるが「がんこババア」という言葉は余り聞かないのは何故だろうか。

以上がんこについての一考察である。

12/01/05 11:

30pm

 

2005年11月25日

寒いよぉ〜

「暑いのと、寒いのと、どちらの方が好き?」という質問をされると、いつも「どちらも嫌い」と答える。

夏に生まれた子は比較的暑さに強く、冬に生まれた子供は比較的寒さに強い、とも言われるが、確かに、8月生まれの妻のように「結構、暑いのは平気」と言う夏生まれの人は多いし、寒い季節生まれで「暑いのはがまんがならないが、寒い方はそんなに嫌ではない」という人も身近にたくさんいる。

タカさんは12月生まれなので、この俗説、「暑いのが嫌い」という部分は当たっているが、寒いのはそれ以上に嫌いだ。

「地球環境のために、クールビズだ、ウォームビズだ」、という妙なキャンペーンが張られ、せっかく文明の利器によって、暑いときには涼しく、寒いときには温かく、という温度調節が可能なのにもかかわらず、やたらと貧乏臭くエネルギー節約がお題目のように唱えられるようになって、タカさんのように夏はクーラー、冬は暖房をその能力のリミットまで上げようとする人間は、「社会の敵」扱いだから、どうにも肩身が狭い。

特に今年は例年にくらべて寒さが急激に来たこともあるし、多少のダイエットの結果、皮下脂肪が少し落ちた所為もあるのか、寒くてしょうがない。それなのに、どこもかしこもウォームビズとやらで、暖房温度が低目設定だから、世の中、寒くて、寒くてしょうがない。

それは確かにエネルギー節約は、地球環境にとって多少はよいのかもしれないが、これだけ寒くなってきて、インフルエンザ流行もささやかれるだけに、変なやせ我慢をして、皆が風邪でバタバタ倒れるようなことにでもなったらどうするのだろうか。自然が守られる変わりに、人類がインフルエンザで絶滅したのではシャレにもならない! (と、言うのはちょっと大げさすぎるか?)

最近のタカさんの、自宅での身づくろいといえば、下はパッチに厚手のズボン、上はジジシャツ、その上に厚手の長袖シャツ、更に厚手のセーター、これまた厚手の毛のベストをその上に羽織る。靴下はもちろん厚手の毛のものを使用。散歩に出かける際には、これに、マフラー、厚手の手袋、正ちゃん帽、といったグッズが加わる。もっと寒くなれば、ホカロンが必須となるだろう。

家の中、リビングにはホットカーペットを敷き、各部屋のエアコンの温度は28度に設定、更にガスヒーターを焚くこともあるが、これも設定は28度だ。(こんなことをあまり大声でいうと、環境団体から石でもぶつけられそうだが)又、ハロゲンヒーターも一応いざという時の為にスタンバイさせている。飲み物は、何しろ熱くしたお茶か、昆布茶に限る。

寝る時には、もちろんエアコンはかけっぱなし、毛布一枚、電気毛布一枚、それに厚手の布団に包まっている(重くてしょうがないけれど)。これでも寒いというと、夏生まれで、寒がりのはずの妻でさえ、「昨日の夜は、暑くて布団を全部はねのけて寝たわ!」と、非難の声を浴びせてくる。いやぁ〜、彼女の場合、皮下脂肪の蓄えがあるから寒くないのではないかと、口答えしてみてひどくしかられた。

「地球温暖化で大変だ」と騒いでいた連中が、最近、温暖化、温暖化と騒がなくなったのは、地球全体が、タカさんが体感しているように実は寒冷化しているからではないかとも思うのだが、どうだろうか。

(10/24/05 10:40pm)

 

2005年11月22日

不入りの大相撲

若作りしている女優の目じりの小じわの一本一本がくっきりと映ってしまうほどに鮮明なテレビの液晶画面の所為で、今まで見えなかったものが、見えてしまうようになったのは果たして喜んでよいことなのかどうなのか。

話は、大相撲九州場所のことである。32インチだ37インチだというひと頃に比べたら随分と大きくなった画面、しかもワイドで鮮明な画面に映し出されるのは、福岡国際センターの驚くほどの空席の多さである。

極端な話、土俵を取り囲む前列10列かそこいらの席をのぞけば、がらんどう状態と言ってもよいほどの不入りを見せられては、これで本当に相撲興行が成立つのだろうかと他人事ながら心配になってくる。

福岡国際センターの収容観客数は9500人ほどだそうだが、初日の観客は4100人であったという。二日目以降については、明らかに初日の観客数よりも更に少なかったのではないかと思われる。漸く先週土曜日の七日目には満員御礼の垂幕が下がったというが、8日目の日曜日もテレビで見る限りかなりの空席があったから、恐らく良くても5-6000人程度の入りだったのではないだろうか。

強すぎる横綱が一人、大関が揃い踏みすることなどまずないように休場ばかり、出場してもころころと平幕に負けているような内容では優勝争いの興味はないし、客の入りも悪いのは致し方ないのだろうか。

それにしても、相撲は伝統ある国技である。外国人力士ばかりで応援の甲斐がないということもあるかもしれないにせよ、こんな状態にはどうにか手を打たねば、国技が絶滅しかねない。

それに、全国中継で、あれほど閑散とした場内を連日見せていたのでは、九州というか、福岡の経済がよほど疲弊していると全国に宣伝しているようなもので、福岡経済界にとっても何かと不都合なのではないだろうか。

地元経済界も、一年に一度のことなのだから商工会などが中心になって、積極的に大相撲観戦を接待に使うなり、タダで一般顧客に入場券を配るなりの協力をしたらよかろうにと思うのだが。

相撲協会にしても、どうせがらがらの会場ならば、福岡近郊、近県の小学校や中学校の生徒とか、あるいは各種施設の人々などを招待して、空席を埋める努力をしたらよかろうに。「枯れ木も山の賑わい」ということもあるし、子供の時に本場所を見たという記憶は、(タカさんの経験から言えば)強烈な印象として何時までも残るし、それが将来の相撲ファンを育てることにもつながろうというものだ。

升席4人分で5万円近く席料がかかり、飲み食いも入れればかなりの出費になるという敷居の高さが問題だという説もあるが、一家4人でディズニーに行くことや、4人で一日ゴルフをしに行くことを考えれば決して法外なものとも思えない。まして、椅子席ならば一人3500円というのは、他のエンターテイメントに比べて高い訳ではなかろうにとも思うのだが。

そういう意味では、興行というビジネスとしてどうやったら客を喜ばせることができるか、経営という観点から、相撲協会はもう一工夫も二工夫もして欲しい。

千葉ロッテが、球団マネージメント改革によって、今や日本有数の強力な顧客ベース(ファン)を持ち、地元企業も球団と一致協力して協賛し、しかもチームも実力的に日本一、アジア一、となったことを、大相撲の経営も見習うべきだ。

人気にあぐらをかいて、選手もマネージメントが傲慢になり、結果ファンをないがしろにして凋落を見ているジャイアンツの轍を踏んではなるまい。

人気はあるにせよ道化相撲を見ているような高見盛のパフォーマンスには感心しないものの、憎ったらしいほど強い朝青龍、伸び盛りの琴欧州、それに日本人力士の星、稀勢の里、等々、大相撲の力士一人一人は実に魅力的で、相撲という格闘技はプロレスやK-1に比べれば奥も深いし、まだまだ面白い。

願わくは、せっかくの国技が、能狂言や文楽のような一部の人たちのためだけの伝統芸能になってしまわないようにと、切に望むのだが。

(11/21/05 11:00pm S.T.)

 

2005年11月18日

てんとう虫

シカゴのゴルフ場でてんとう虫を見つけて、「これ、英語ではなんていうんだい?」と、一緒にラウンドしていたアメリカ人の同僚に聞いてみたら‘bug!’(虫!)と一言。アメリカ人の多くは虫にたいしてあまり関心がないから、セミのことも‘bug’だし、コウロギもゴキブリもなんでも‘bug’で片付けてしまう傾向がある。

「違う、違う、‘bug’は知っているよ。ButterflyとかDragonflyとかいう、この虫の名前だよ!」と、再度聞いてみたら、今度は‘ladybird!’と答える。「こいつ、バカじゃないのか? 飛ぶものとなれば、虫と鳥の区別もつかないのだから」とあきれ返ってしまった。

さて、家にもどり和英辞典で「てんとう虫」を引いてみた。なんと、てんとう虫は英語では本当に‘ladybird’(直訳すると――淑女の鳥――)と書いてある(ladybug、とか、ladybeetleといった名前でも呼ばれるらしい)。

Ladyとは聖母マリアのことであり、聖母マリアの羽織っていたショールかなにかがてんとう虫の翅の色と模様に似ていたことが由来であり、「聖母(Lady Madonna)の虫」‘ladybug’と言っていたのが、いつの間にかなまって‘ladybird’になったのだという薀蓄を後で知った。

そんな話を思い出したのは、この秋、多摩の方でてんとう虫が異常発生しているというニュースを聞いたからなのだが、日本でもアメリカ同様に虫と聞くとなんでもかんでも毛嫌いする人が多くなってきたせいで、害虫であるアブラムシを食べる益虫の評価があったてんとう虫でさえ今は、「気持ち悪い!」の一言で、殺虫剤による駆除の対象になってしまうらしい。まあ、たしかにてんとう虫が一塊で何百匹もいれば、そんなに良い気持ちはしないかもしれないが、カメムシのように嫌な臭いがするわけでもないのにと思うのは、タカさんが小さい頃から結構、虫好きだった所為もあるのだろうか。

今、男の子たちに大人気のムシキングは、甲虫ばかりのようだけれど、てんとう虫も小さいとはいえ甲虫といえば甲虫だけれども、あの人気の中にははいらないのかしらん?

堤中納言物語にある「虫めずる姫君」には、眉毛の太い、虫好きの姫君が出てくるが、よほどの変わり者と笑いの対象になっているところからすると、昔から女性は余り虫のことを好かないというのが通り相場のようではあるが。もっとも、ちょっと前の結婚式披露宴では必ずと言ってよいほど、「てんとう虫のサンバ」を花嫁の女友達が歌うという場面があったから、あのころの若い女性たちは「てんとう虫はかわいい!」と言っていたような気もする。あのてんとう虫好きの彼女達は今どこに行ってしまったのだろうか。

以上、てんとう虫の異常発生のニュースであれこれと思い出したことを書いてみた。

(参照:「ユウスケ」9/10/99)

(11/17/05 10:00pm S.T.)

 

2005年11月16日

キムチ戦争

キムチの母国(?)韓国では、今年、遂に中国産キムチの輸入量が、韓国国内産生産量を上回ったという。中国全土での白菜の作付面積は広大であり、価格も韓国産に比べて半値以下というから、輸入量の増加も当然なのかもしれない。

ところが、この中国産の輸入キムチから寄生虫の卵の発見が相次いだとの韓国政府の発表に腹を立てた中国保険検査局が「韓国産のキムチを検査したら、寄生虫の卵が発見された」と報復的な発表を行い、「そんな訳はない!」と韓国側が猛反発、両国で喧々諤々の「キムチ戦争」になっているのだとか。

日本でも、キムチは既に庶民の味として定着しつつあるが、日本のキムチは大部分が日本人向けにアレンジされた浅漬けであるために、本家の韓国では「あんなものをキムチと名付ける、日本はけしからん」という話になっていて、小さな日韓キムチ戦争の火種はくすぶっているのだとか。

その日本のキムチ生産量はまだ年間数十万トン程度と大した量ではないが、そこに本場韓国からの正統派(?)キムチの輸入もかなりあり、総量としてはかなりのトン数になる。そんな訳で、食品安全の見地から、日本でも輸入キムチの寄生虫検査を行ったという。厚労省は昨日、「東京医科歯科大学での検査の結果、一種類の韓国産キムチから寄生虫の卵が見つかったようだ」と恐る恐る発表した。しかし、この検査結果には当の厚労省は大いに困惑しているようだ。ただでさえ靖国やら何やらで険悪化している日韓関係に加えて、韓国が「我が国のキムチの名誉を傷つけた日本は謝れ!」と、日韓キムチ戦争に火がつきはしないかと恐れているようだ。各マスコミも、このニュースには、ほとんど触れないようにしている。

毎年3500万頭の牛が屠殺されているアメリカで一頭か二頭の牛からBSEが発見されたからと言って「全頭検査」が必要だと言っていた「食品安全委員会」の委員もいたが、一部の韓国産キムチから寄生虫の卵が発見されたとなれば、ここはやはり「全キムチ検査」が必要だといった強硬論が出てもよさそうなものだがーーーー。

それにしても、中国でも、韓国でも、未だに豚の糞や、人糞を肥料として撒いているのだろうか? もっとも、わずか数十年前までは、日本の畑もいたるところで人糞を撒いていた。そんなことも忘れて、数個の寄生虫の卵が見つかったと騒ぐことに、時代の移り変わりを感じないではないが。

今の日本では、スーパーに行けば、大根もねぎも少しでも泥が付いていては大変と、綺麗に洗われぴかぴか光ったものが並んでいるし、曲がったキュウリや、いびつなトマトは商品にすらならない。回虫の卵どころか、白菜に青虫でも付いていようものなら大騒ぎになるから、農薬を徹底的に撒いて、無機物のように化粧された野菜が売られている。

その一方では、無農薬栽培とか、有機農法によって、青虫が付いているのを却ってありがたがり、高い金額を払おうという人たちまでいるのだからーーーー全く変な世の中になったものだ。

と、いうことは、「このキムチは韓国で、自然農法で作られた為に、寄生虫の卵が付いていることもあります」と言って売り出したら、オーガニック愛好家の間で韓国産キムチの人気が出て、日韓キムチ戦争は避けられるということにならないだろうか。なる訳ないか!

(11/15/05 11:15pm S.T.)

 

2005年11月15日

喫煙という病気

たばこを吸っている人の大半は、「たばこをやめたい」と、一度ならず考えたことはあるのではないだろうか。それでも「やめられない」あるいは「やめてはみたが、また吸い始めてしまった」という悩みを抱えている人のこれまた如何に多いことか。タカさんも15年程前までは喫煙と禁煙の期間を何度か繰り返していたから、そのジレンマは良く分かるような気がする。

昔から、たばこがやめられないのは「ニコチン中毒(今は中毒といわず依存症というらしいが)」の所為だといわれていたが、最近、これが医学的にも正式(?)に認められ、禁煙しようとしても中々できないのは「ニコチン依存症」という病気であり、喫煙習慣が病気であると公式に認める以上は公的医療保険の対象にして、禁煙指導の費用を公的に面倒をみようという動きになってきた。

実際、厚労省では2006年からの禁煙医療費の公的負担を実施する方針だという。公的負担とはいうけれど、その原資が天から降って来る訳ではないから、個人の禁煙費用を負担するのは、結局、保険料を支払っている一般保険者ということになる。

「強制された訳でもない、自分が好きでたばこを吸って勝手にニコチン中毒になった奴の、その治療費を何で俺が負担しなければならないのか!」と、文句の一つも出るところだが、厚労省の説明では、「たばこを吸い続けると、その人の健康が損なわれ(喫煙は、肺がんやら、心臓病といった諸々の病気の原因になるといわれている)、結局はその人にかかる医療費国民負担が増加する。又、周囲の人が副次的にたばこの煙を吸わされて健康を損ねることを防ぐためにも、禁煙費用を公的負担とした方が総合的な国民負担は少なくて済む」という論理になるらしい。まあ、なんとなく「それなら国民負担も仕方ないか!」と納得してしまいそうな話である。

しかし、ここで「待てよ?」と思わないではない。国が「あれは病気だ!」とまで言っている「喫煙」の原因であるたばこの販売を認め、しかもそんな「諸病の原因」「国民の不健康の源」であるたばこの販売からしっかりと税金をとって稼いでいるというのは、おかしくはないかということなのだが。

例えば、かつては国が麻薬(Narcotic)販売を専売公社という直営でやっていた時期もあり、今は民間企業「日本麻薬産業」(略してJN)となったにせよ、未だに税率6割にも及ぶ「麻薬税」で随分稼いでいるとしたらーーーー。何千万人という全国の麻薬常習者の治療費を一般の国民が負担させられることを、世の中が「それなら国民負担も仕方ないか!」と納得してくれるだろうか?

う〜ん、やはり「たばこは、国民の健康に悪い」「喫煙は病気だ」とまで言うのならば、たばこの販売を禁止し、麻薬常習者同様にたばこの販売者や、たばこ喫煙者を逮捕・拘留するなどの処置をとるか、あくまでも自由主義の大原則に戻って、「たばこを吸うのも自由」「やめるのも自由」と国が余計なお節介をやめ(もちろんたばこ税も廃止して)、その代わり、喫煙も禁煙も個人の自己責任と、自己負担原則に徹する(当然、あきらかに喫煙が原因であるがんや心臓病の医療費は公的医療保険の対象外として全額個人負担にする)か、のいずれかにすべきでないかとおもうがどうだろうか。

再度言うが、国が、国民にたばこ販売することで稼いでおきながら、その一方では、喫煙被害の治療コストもこれ又、一般国民に負担させるというのは、どう考えてもインチキではないか。

この意見、喫煙愛好家、嫌煙論者、双方からの大反感を買うであろうことは承知の上で敢えて提起してみたが、どうだろうか。

(11/14/05 10:00pm S.T.)

 

2005年11月11日

こんな恋愛ドラマが好き

女性が幾つになっても恋愛ドラマが好きなのに比べると、恋愛物が好きだというおじさんは少ない。男性の多くは、少年期、青年期にプラトニックラブに憧れ、純愛だ、永遠の愛だ、といった問題に若きウェルテルのように悩んだ経験もあるだろうに。

もっとも、世間に溢れる最近の恋愛ドラマや恋愛小説は、どうにもウソっぽく、世間慣れしてしまったおじさんたちはそんな安っぽさに騙されないという面があるのかもしれない。

恋愛物といえば韓国ドラマが随分評判になったが(さすがに大分下火になったようではあるが)、「冬のソナタ」のようなやたらと偶然が重なる不自然さとか、気恥ずかしくなってしまうような支離滅裂な甘さといったものには、おじさんたちは、おばさんたちほどには寛容ではない。「バカバカしい!」の一言で終わってしまう場合が多く、後はおして知るべしだ。

韓国映画の劇画チックなストーリー展開は、「シュリ」とか「JSA」のようなアクション物や、「猟奇的な彼女」「僕の彼女を紹介します」といったラブコメディー、「ひとまず走れ」のような青春コメディーならば、却って利点ともいえるから、「韓国映画も結構洒落ているじゃないか」となるのだけれど、恋愛物には多少の現実感を求めるおじさんたちはげんなりしてしまう。

タカさんも「何しろ客を泣かせた方が勝ち」とか「徹底的に客を楽しませよう」というサービス精神に溢れている、韓国映画は結構好きだが、純愛物だけは今一つと思っていた。ところが、先日観た韓国の恋愛物「私の頭の中の消しゴム」にはちょっとウルウルするところがあった。ヒットした「世界の中心で愛を叫ぶ」同様、恋愛に、ヒロインの不治の病と死をからめるというありがちなパターンだが、そのヒロインの死というのが、若年性アルツハイマーによる「心の死」であるというところが、肉体的な死以上にリアル感があった所為だろうか (セカチュウの白血病というパターンは、今や使い古された感じがある)。そういえば、これも認知症になり夫の顔も分からなくなってしまった妻を老いた夫がいたわりつつ、二人の若き日々を思い出すーーーという「君に読む物語」にもちょっと泣いた。少し古いが、戦争で記憶を失った許婚をヒロインが探し当てるという「ロング・エンゲージメント(長い日曜日)」やら、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの「ひまわり」なんていう映画も結構泣けたなぁ〜。ということは、タカさんは、恋愛と記憶喪失あるいは認知症の組み合わせには滅法弱いということだろうか。

そうそう随分前になるが「マディソン郡の橋」を観て、ラストシーン近くで号泣したこともあった。あのストーリーも確かに甘いところはあるし、設定に無理はあるかもしれないが、クリント・イーストウッド演じる旅のカメラマンとメリル・ストリープ演じる人妻のわずか4日間の恋愛、というところには、ぐっと来てしまう妙な現実味はあった。もっとも、「マディソン群の橋」は、同年代の主婦層にはやたらと評判が悪かった(不倫という言葉ですら許せない、大嫌い、というまじめ一方の奥様方ばかりに意見を聞いた所為もあったかもしれないが)。

中高年男性だって、本当は純愛物やら、悲恋物は好きなはずだ。世の中の恋愛物に、もう少しリアルさというか、現実味があれば、若い人やおばさんが好きな恋愛物をおじさんだって喜んで観に行くようになるかもしれない。

映画やドラマの製作者にとって、中高年男性層というのは、おそらくターゲットとして意識されていない、あるいは全く無視されている層だと思うが、これから団塊の世代もリタイアして大いに暇をもてあますようになることを考えると、おじさん族を狙った恋愛ドラマなんていうものも、意外と未開発のマーケットとして有望なのではないかとも思うがどうだろうか。

(11/10/05 10:00pm S.T.)

 

2005年11月9日

少子化を悲観しない

人口減少社会が到来する以上、世界経済における日本の相対的経済力は、長期低落していくことは避けられないだろう。しかし、一人当たりの豊かさといった物は、人口減少によって低下するとは限らない。総生産量を分子に総人口を分母に置いた一人当たりの生産量とか、一人当たりの所得が、少子化によって減るとは限らないのだから。

それはそうだろう、貿易額にしてみたところで、日本の総輸出額は減るかもしれないが、輸入しなければならないエネルギーや食糧は人口が少なくなった分は減るのだから、一人当たりの貿易収支は変わらない。若者に職がないと言っているが、これだって安易に海外立地だの外国人労働者の受入れといったことをある程度抑制すれば、人口減少によって人出不足時代が来るかもしれない。若者ばかりではない、もっともっと女性の社会進出を図ることで労働力不足は解消できる。

技術革新によって一人当たりの労働生産性が国際競争力を持っていれば、日本の国民一人当たりの所得は変わらないどころか、今よりも豊かになる。

人口が減れば一人当たりの土地面積も広がるから、今は汲々としている都市部にも土地にゆとりが出来、緑あふれる公園も多くなるかもしれない。人口急増時代に皆があこがれの的だった2DKが、今や見向きもされないような状況になってきたのだって、ある意味では少子化、人口減少社会を先取りしているからだ。日本の人口が現在の3/4にでもなれば、新婚のカップルが郊外の庭付き一戸建てに住むのが当たり前になるかもしれない。(かつて、一学級60人、一学年10クラスもあった小学校が、今や一クラス30人だ35人になりしかも一学年1クラスだとか2クラスだとゆったりしていることが、これから数十年後の住宅事情に再現されるということだ)

高度経済成長時代に勢いで作ってしまった高速道路や、その他の交通網も維持するのは大変だが、人口減によって交通量も減少するだろうから、道路はスイスイ走れるようになるだろう。そうなれば二酸化炭素の排出量もグンと下がり、自然環境はぐっと良くなるだろう。

これから暫くの間、社会の高齢化によって年金や医療費といった負担が一時重くなるという問題はあるが、ここを上手く乗り越えれば、ものの30-40年もすれば団塊の世代だって死に絶えてしまい社会負担も減るのだから、そんなに悲観することでもない。

結婚式場や予備校、大学がさっぱり客が来なくなったけれど、葬祭場や、市民講座や社交ダンス教室が大繁盛しているように、人口動態に合わせて新しいビジネスのタネはあるものだ。子供がうなるほどいた時には考えられないような金額が、少子化の現在、一人っ子にかけられており、育児産業など子供関連のビジネスが我が世の春を謳歌していることもその一例だろう。少子化で商売が上手くいかなくなるなどと心配するのは、単に知恵がないということに過ぎない。

もっとも、余りに人口が少なくなり相変わらずの平和ボケなことばかり言っていると、ロシアや中国、それにあの国などの周辺のハゲタカが日本の領土を侵すかもしれないとか、相変わらず人口爆発を続ける国々から不法移民が押し寄せてきて、日本を占領するなんていう心配はないではないが、まあ、それを除けば、少子化も、人口減少も悲観することではないし、結構、良い面が多いのだ。

数年前までは「日本は人口が多すぎる」だの「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く!」だのと人口の多いこと、人口増加のペースが早いことを散々ブーたれていた同じ日本人が、今、そんなことはなかったかのように「人口減少、少子化で大変だぁ〜!」と大騒ぎしているのは、実に滑稽ではないか。

(11/08/05 10:00pm S.T.)

 

2005年11月4日

やさしい男

相撲取りなどもそうだが、図体がでかい人間は熱や咳には意外と弱い。いざそうなるとさっぱりと意気地が無くなってしまう。すぐにクスリに頼りたがるし、蒲団にもぐり込んでは気弱なことを言うものだから家人に呆れられることもしばしばだ。

そもそも、体とか健康のこととなると、我ながら臆病なたちだと思う。ちょっとの咳や熱で「風邪を引いたかな?」と思うならともかく、「肺炎になったらどうしよう」などと、生まれてこの方、肺炎など一度として患ったこともないというのに心配してしまう。便秘や下痢になれば「大腸がん」ではないだろうか、と悩み、ちょっと頭痛がすれば「脳腫瘍」ではないかと、赤本を引っ張り出して脳腫瘍の項目を熱心に読んでみる。「大げさなことを言って! ふざけているんじゃない?」と周りは呆れるが、本人はいたって真剣だ。

それほど病気を怖がる癖に、注射が嫌いで、医者嫌いときているから、「そんなに、心配ならお医者さんに行ってきなさいよ!」という妻の叱咤には素直に従うことはまずない。

どうしてこんなに心配性のダメな男なのかなぁ〜と思ううちに、この心配性は、ひょっとしたら「うつ病」の所為ではないかとこれまた心配になってしまうのだから、本当に意気地がない。

「君が気が弱いとか臆病なんていうことはないよ、あれだけ人前に出ると、おしゃべりなのだもの」と言われることもあるが、これだって気が強くておしゃべりなのではなくて、「自分がしゃべらないと、座が白けてしまうのでは」という心配性と、気の弱さのなせる業なのだという気がしないではない。まあ、誰でも、自分の性格は良く分からないとは言うけれど。

一人で外食に出かけることはそんなに苦にはしないが、「一人で外食できるということは、気が強い人でなければできないはずだ」と言われたことがある。果たして、自分は気が弱くて臆病なのか気が強いのか、どっちが正しいのだろうか。

もっとも、気が弱いとか臆病という性質は悪いとばかりもいえない。気が弱いは言い換えれば「控え目」、とか「やさしい」ということにもなるだろうし、臆病も「慎重」という意味にもとれそうだ。女性にとっては「やさしくて慎重な男」は「がさつで無神経な男」よりはずっと好ましいはずだ。

最近の若いカップルを見ていると、大体において男性の側がいやに気が弱いというか、弱々しく見えるが、あれも昔と比べて、最近の男性は女性に対して優しくなったのだと思えば、世の中、角が立たないというものだ。

(11/3/05 10:00pm S.T.)

 

2005年10月28日

健康によい食べ物

究極の花粉症対策は、ヨーグルトを毎日食べる(飲む?)ことであると言われたのがもう3-4年前のこと。それから律儀に一日一回はヨーグルトを摂ってきた。ヨーグルトは花粉症対策ばかりではなく、そこに含まれている菌の働きによって腸の動きが良くなり便通に良く、したがって肌にも良いし、ダイエット効果もある等と、当時から、ヨーグルトの効用は宣伝されている。

確かに、長くヨーグルトを摂り続けてきた所為なのか、ここ1-2年は花粉症に悩まされることも少なくなってきたように思っていたのだが。

先日、定期的に通っている医院で血液検査をしてもらったところ、コレステロール値が高いといわれた。ここのところ、禁酒しているし、食事も油脂類の少ない野菜中心にしているのに「なぜ?」と思った。先生に一応その旨説明すると「たまごとかヨーグルト、イクラやウニをたくさんとっていませんか?」とのこと。

最近、イクラやウニをたくさんというほど食べた覚えはないし、たまごにしても一週間に1,2個しか食べない。マヨネーズもほとんど使わないとなると、我が高コレステロールの原因はヨーグルトであるという結論に至った。

「ヨーグルトは乳脂肪の塊ですから、食べないで下さい」との先生のご宣託が出てしまった。「先生、そうはおっしゃいますが、あちらでも、こちらでも、ヨーグルトは体に良いと言っているじゃないですか」と、いささか反論をこころみたのが、「テレビなんかで言っている、ヨーグルトは体に良いというのは、あれは間違いですよ」とのこと、いやはや。

ヨーグルトに限らない。納豆が血液をサラサラにするから良いという話があったかと思えば、何時だったか「納豆のとり過ぎは、腎臓結石の原因」という医者の話を新聞で読んだこともあった。

大豆イソフラボンが豊富な豆乳は骨粗しょう症予防などに良いという話で我が家では、一日一本ぐらいの割りで飲んでいたけれど、イソフラボンのとり過ぎは、何かに(何だったかは忘れたが)良くないという新説もあるらしい。

「健康に良い」という触れ込みでブームとなり一時はスーパーの棚から姿を消すほどの人気の食品が、ブームが去って忘れられるばかりではなく「却って体に良くない」などと言われるのだから、消費者というか迷える子羊は一体何を信じたら良いのやら。そうそう、にがりが体に良いと聞いて使っていたら、にがりの取り過ぎは腎臓病の原因になり、悪くすれば腎臓透析の身になると脅されたこともあった。

肉ばかり食べていると大腸がんになると言われ、かといって野菜ばかりのベジタリアン食は骨粗しょう症の元だと言われる。人間一体何を食べればよいのやら。

一時期、ポリフェノールが豊富な、ワイン、特に赤ワインが、体に良い(体のどこに良いのかは忘れたが)という話に飛びついて、がんがんワインを飲んだ時代もあったし、焼酎が体に良いと言われて(これも何に良いのか忘れたが)、随分飲んだこともあった。飲みすぎの為か、肝臓の数値が上がって医者に禁酒を命じられたこともあった。まあ、もっとも、ワインや焼酎の例は、医者に責任をなすりつける前に、飲みすぎた自分が反省しなければいけないことは良く分かっているのだが。

(10/27/05 11:00pm)

 

2005年10月26日

ハリケーンのニュース

「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」といわれるように、何がニュースになり、何がニュースにならないのかという「ニュース価値」の基準はけっこう面白い。

事件や事故に巻き込まれた死傷者の数にしてみたところで、ニュースとしての価値と正比例する訳ではない。痴情のもつれからの殺人事件などとなれば大ニュースになっても、ホームレスが何人凍死はニュースにならないし、毎日何十人もの割合で亡くなっている交通事故の一つ一つがニュースになることは稀だ。

ハリケーン・カトリーナによるニューオーリンズの大被害以来、ハリケーン・リタだとか、ハリケーン・ウィルマだとか、アメリカのメキシコ湾岸を襲うハリケーンの動静が、日本でニュースのトップを飾るようになった。

確かに、巨大なハリケーンではあるようだが、何せアメリカのしかもテキサスだルイジアナだという日本からは随分遠いところの話である。こういうところに親戚が住んでいるという日本人も多くはないとおもうが、各局ともに夜のニュースでトップ扱いをして、中には現地からのハリケーン中継をするほど力を入れているところもあるが、一体、このニュースの価値というのは、何なのだろうかと考え込んでしまった。

ハリケーン・ウィルマはカトリーヌ以上の巨大さと随分前宣伝されていた。メキシコのカンクーンで椰子の木がなぎ倒され、町が水浸しになったというが映像は、「中々の物じゃないか」と思わせるものだったが、フロリダ半島に上陸して7時間猛威をふるったという割には、「倒木の下敷きになるなどで六人死亡」という被害が前宣伝ほどに大きかったのかどうかは疑問のあるところだ。いや、むしろ「この程度の被害ならば、このハリケーンを発生直後から、連日、日本の茶の間にニュースとして流す価値があったのだろうか」とさえ思ってしまう。世の中もっともっと重要なニュースはあるような気もするのだが。

そもそもアメリカを襲うハリケーンは中継付きのニュースになるのに、スリランカを襲うサイクロンは、一度だって取り上げられることもない。この「ニュースの価値」の違いは一体何なのだろうか。

(10/25/05 11:30pm S.T.)

 

2005年10月21日

行ってみたい所

商社に勤めていたこともあって、人様よりは多少多く世界中の色々な場所に行ったことがある。

ニューヨークの自由の女神、エジプトのピラミッド、万里の長城、パルテノン神殿、ジブラルタル、死海、小便小僧、などという今思えばたわいないものではあるけれど、小さい頃から一度は行ってみたいものだと思っていた所とか、是非、この目で見てみたいと思った所を始めて見た時には、「我が人生、はるばるも来つるものかな」とちょっとした感慨にとらわれたものだ。

生来、好奇心の旺盛な方だから、今でも、国内や海外の色々な場所を訪ねてみたいという思いは衰えることがない。もちろん、日本国内にも行ってみたいところは未だたくさんあるが、国内ならば思いつけば明日にでも行けるという安心感(?)はある。しかし、海外ともなると、そうそう思い立ったから行ける訳でもない。かと言って「リタイアしてから」なんてのんびり構えていると、今度は体力、気力がもたなくなるかもしれないし、やはり、今のうちに積極的に自分で機会を作るべきなのだろうか。

今は世界中至るところに行けるパック旅行があるし、何もパック旅行などを探さなくても英語ができれば、世界中どこに行っても、まあ、どうにかなる(中国の田舎とか、ポルトガル辺りでは丸で英語が通じなくて困ったこともあったけれど)。治安の悪いところは論外だけれども、なぁ〜に、度胸さえあれば、最後には身振り、手振りと笑顔で、通じるものだ。

読者諸兄は、未だ行ったことがないが、是非訪ねてみたいところ、チャンスがあれば一度は行ってみたいなぁ〜と思う場所はどんなところがありますか。

タカさんは、南極に行ってオーロラと厳冬期の皇帝ペンギンの生態を見てみたいなと思うし、中国の西域、特に敦煌などのシルクロード要衝を歩いてみたいと思うが、これはいずれも実現は中々容易ではなさそうだ。実現可能性がまだ高いと思われるところでは、古代インカ帝国の空中都市マチュピチュ、ナスカの地上絵はやはりこの目で見てみたいと思う。先日、南米のイグアスの滝を見て来たという弟の話を聞いた時には、やたらと羨ましかった。南米はせいぜい、メキシコとベネズエラしか行ったことがない。できれば、いつかマチュピチュ、ナスカ、イグアスといった具合に、南米をぐるりと巡ってみたいと思う。

そんなことを考えていた矢先、数日前、マチュピチュの麓で崖崩れがあって、何人かの観光客が足止めを食っているというニュースがあったが、その中には日本人観光客がなんと20人もいるというニュースを聞いてちょっとびっくりした。

バブルの頃、ロンドンに住んでいて、ノルウェーの北極圏にあるフィヨルドの最深部で、日本からの農協ツアーに出くわしたことがあったし、スイスで、ケーブルカーの最高地点といわれるクラインマッターホルンの駅を降りたとたん、「こっちや、こっちや、はよこんかい!」という関西弁が聞こえた時も随分驚いたものだった。

ペルーのマチュピチュのようなところへも日本からのパック旅行があるという。それに好奇心と、そこそこ時間とお金に余裕がある日本人も相変わらず結構多いということのようだ。それに、ひょっとしたら日本も再びバブル前夜のようなことになっているのかもしれないと思った。

(10/20/05 11:15pm)

 

2005年10月14日

脳は怠け者

ワープロを使うようになってもう何年も経つが、最近、お礼状でも出そうとペンをとった時になんということもない漢字がとっさに思い出せないということが恥ずかしながらある。

いやあ、一瞬いよいよボケがはじまったのかと焦ったりするが、こういう経験は何もタカさんに限らず、ローマ字なりひらがなで入力し「変換」キーを押すことになれてしまった現代人の多くに見られる現象なのだという。

人間の脳はどちらかと言えば怠け癖のある器官で、「漢字を一々思い出さなくても、変換キーを押せばいいや!」という心理が脳に対して「何も苦労して記憶の扉を開き漢字を思い出そうとしないでもOK」というサインを出してしまうからだそうだ。

「古事記」は、稗田阿礼が語った長大な物語を、太安万侶が口述筆記したものだが、稗田阿礼は、どうしてあれほど膨大な物語を記憶していたのかといえば、彼は文字を知らなかったために、全て憶えるしかなかったという理由によるのだ。変換キーもない、手元に簡便な辞書もない時代、人々は膨大な数の漢字を難なく憶え、そしてすらすらと書いていたのと同じだ。

文字のない文化を持つ古代民族が豊かな口伝文化を持ち、あるいは印刷技術が発達していない時代には、一般の人々ですら長いお経や祈りの言葉を暗誦していたのも、これまた同じ理由だ。そんな意味から言えば、現代人は膨大な情報量に埋もれ知識の宝庫に囲まれながら、その脳の働きは昔に比べて随分と退化しているようにすら見える。

住所録を常に整理している人、あるいは貰った名刺はしっかりと整頓している人に限って人の名前を憶えていないなどということも良くある。これも、「今、何も苦労してあの人の名前を覚えておかなくても、後で名刺を見れば思い出すから」と脳が楽をしようとするためだ。名刺のやりとりをしない子供たちや主婦が、会った人の名前を良く憶えているのもそれなりの理由があるという訳だ。

漢字や人の名前ばかりではない。携帯電話を持つようになって、人々は電話番号を憶えなくなった。携帯に登録してあるという安心感から、何も苦労して多くの電話番号を覚える必要はないと脳は例の怠け癖を出した。実際、多くの人が自分の携帯の番号すら覚えていないのだ。自動点火になれてしまった現代っ子が、マッチを擦ることが出来ないのと似ている。

勿論、そんな現代でも何か絶対的な必要があれば人間の脳はちゃんと憶えるものは憶えるものだ。しかも、そういう必要で憶えた物は、絶対に忘れない。

タカさんが今でもソラで言える電話番号の一つは、今は我が妻となっている人の30年前の自宅電話番号であるのも、そんな一例かもしれない。

(10/13/05 10:00pm S.T.)

 

2005年10月7日

道頓堀川

以下の話、阪神のリーグ優勝を妬んで言うのではないことだけは先ずお断りしておく。

例の優勝祝賀道頓堀川飛び込みの話である。熱狂した群集が次々に道頓堀に飛び込むというパフォーマンスがエスカレートし、

2年前には5000人もが飛び込み、ついには死者まで出たというので、大阪府では橋に高さ3メートルのフェンスを張ったという件だ。

そんな防止策を施しても、今年のタイガース・リーグ優勝の際には、フェンスのない橋を選んで飛び込んだバカが何人もいたというのだがーーー。

この話、一体誰が誰のためにあんな無粋なフェンスを作ったのかが分からない。正直言って、道頓堀川に飛び込みたい奴を飛び込ませて、誰が困るのだろうか。まあ、中には突き落とされるという「被害者」が出る可能性はあるかも知れないが、それは犯罪なのだから突き落としたやつを罰し、突き落とされた人間はたっぷりと慰謝料でもとれば良い話ではないだろうか(死んでしまったとなるとそうもいかないが)。いずれにせよ、あんな無粋で景観ぶちこわしのフェンスを作るというのはやり過ぎもやり過ぎだ。

「フェンスを作って防止しないから飛び込む奴が出るのだ。大阪府は何をやっているのだ!」などと、なんでもお上の所為にしたがる連中がいて、「後で責任云々を言われるのもいやだから、どうせ公金だし、フェンスでも作っておくか」というお役人の発想なのだろうが、文句をつける側にも、お役人の側にも「自己責任」という言葉をもう一度良く学習して欲しいものだ。

自己判断において道頓堀川に飛び込み、へどろまみれになったり、足の骨を折ったり、首の骨をおったりしても、それは自己責任であって、別に大阪府が悪い訳ではない。

そもそも、爆音を轟かせて人が嫌がるのが楽しいから暴れまわっている暴走族に、「人に迷惑になるからやめろ」と言っても意味が無いないのと同じで、飛び込むなと言っても飛び込みたい奴は、どうしても飛び込むだろう。暴走族も、道頓堀川ダイブも、止めさせようというなら、とっつかまえて刑務所にぶち込むなり、大枚の罰金をとるなりの見せしめのお仕置きで痛い目にあわせるのが一番効果があるはずだ。

自殺の名所といわれるような、例えば室戸岬の展望台に

3メートルのフェンスを張りめぐらせるよりも、一般見物客のために最低限の危険防止柵程度はおくにしても、景観保護を優先し、せいぜい「飛び込むな」の看板一つも立てればよいのと同じで、道頓堀もその程度で十分だ。

飛び込んだ挙句にへどろまみれになった連中が町を歩くと臭くてたまらないから、どうしても飛び込むのを禁止したいというならば、巨人が優勝したからといって、東京ではレインボーブリッジから飛び込む奴が出ないのと同じ理屈で、道頓堀に飛び込めば命までなくなるような工夫をすればよい。橋の下の川底に鋭い剣山を植え込むとか、川に高圧電流を流すなんていうのはどうだろうか。

以上、決して阪神優勝をひがんで言っている訳でないことは、再度付け加えておきたい。

10/06/05 10:00pm S.T.

 

2005年9月30日

文句ばかり

長雨が続けば「洗濯物が乾かない」、逆に雨が降らなければ「水不足が心配だ」とどっちにころんでも文句が出る。猛暑の夏も、厳冬も、暑いだの寒いだのと文句がでる。か、といとって冷夏や暖冬だって歓迎されない。農業をやっている訳でもない都会人ならば、涼しい夏はしのぎ易いし、温かい冬なら暖房費も少なくて済むからと喜んでも良さそうなものなのに、「野菜が値上がりして困る」「冬物衣料が売れず、景気が悪くて困る」と、これもどっちにころんでもなんだかんだと文句がでる。

台風が来れば、あちらで被害、こちらで被害とそれこそ大騒ぎだけれど、「今年は、台風発生が少ない」となると、「水不足だ」「ブナが育たないからクマが里に下りてきて大変だ」とこれまた、台風に気の毒になるぐらいけちょんけちょんに、文句がつけられる。

そうそう、水不足で困っていた早明浦ダムが、台風

14号のもたらした豪雨で満水となったというニュースもあったが、「いやぁ、台風が来てくれて、本当によかった! よかった!」なんていう声はまったく聞かなかった。

豪州やアメリカでは自然発火による山火事は消化活動をせず、自然鎮火まで燃えるにまかせることもある。それは、大きな自然のサイクルの中には、

100年に一回ぐらいの山火事が起きることは組み込まれており、むしろ、そういった自然の営みが、樹木や草花の再生にとっては必要不可欠だからという理由によるのだ。

台風にしろ、長雨、ひでりにしろ、自然の長いサイクルの中に組み込まれているのだから、人間如きが一々文句をつけても余り意味もなかろうに。そもそも、地球は

45億年の歴史の中でここ数十億年の間に限っても、温暖化と氷河期を繰り返してきたという大きなサイクルの中にあることを考えれば、ここ百年で気温が一度だか二度上がったの下がったの、なんていう話は、小さい、小さい。異常気象だ、地球温暖化で人類が滅びるだのと騒ぐばかり、文句ばかり、というの人類が自然に対していかに尊大になっているかの裏返しなのだ。

何も気候に限った話ではない。「文句ばっかり」というのは、現代人の習性であり、政治はその典型だ。人々は税金を払うのは大嫌い、増税だ、定率減税の廃止だ、という話しになれば、大変なブーイングの嵐となるが、その一方では、福祉はたっぷり欲しい、子育て手当てはよこせ、あそこに橋をかけろ、ここに文化ホールを作れと要求ばかりは激しい。先日の小泉首相の施政方針演説も、「将来の消費税アップに触れないのはおかしい!」と文句を言っている連中こそが、消費税アップの話になれば訳も分からず「消費税大反対」と叫ぶ人たちなのだ。

そもそも、まともに税金を払わない、補助金や手当ては要求する、といった国民の義務を果たしているのかどうだかも疑わしいような連中に限って「政治は、信頼できない」などと文句ばかりは一人前に唱える。(

NHKの受信料は難癖をつけて払わないような連中が、紅白歌合戦のコア視聴者だ)

と、いった具合に、我々は年がら年中文句をいうことで、なにかの鬱憤を晴らすという悪い癖があるようだ。

9/29/05 10:00pm S.T.

 

2005年9月22日

グランパ

先日の敬老の日、身内では義母が84歳でめでたく祝いの席を迎えることができたが、さて、周囲を見回してみてその他には対象者はいないのだろうかと考えてみた。

そもそも、「敬老」の対象となる老人とは何歳以上のことを言うのかがわからない。唱歌「村の渡し」では「村の渡しの船頭さんは、今年六十のおじいさん、としはとってもお舟をこぐときは、元気一杯櫓がしなる」とあるから、明らかに60歳以上が老人という常識が昔にはあったということだろうが、さて、今60歳を老人と言ってよいものだろうか。

公式にはどうなっているのだろうかと調べてみると、これがどうもはっきりしない。国連の人口統計では65歳以上を老齢人口としているから、世界的には65歳以上は老人と定義されていると考えてよいのだろうか。日本政府が発行する様々な資料を見ると65歳以上としているもの、70歳以上としているものとばらばらだが、いずれにせよ65歳未満は、老人とは言わないようだ。(ということは、村の渡しの船頭さんは、現代ではおじいさんではないということになる。そうなると「村の渡しの船頭さんは、今年60のおじさんでーーー」と歌い替えないといけない)

しかし一方、JRのジパングクラブでは、会員資格としての「シルバー」を、男性60歳以上、女性55歳以上としているし、映画館などの「シニア料金」の対象も60歳以上だから、「民間」では60歳は「年寄り」という定義に入れているようにも見える。

まあ、そんな訳で回りには、義母以外にも「敬老の日」のお祝いをしなければいけない人も結構いるようにも思えてくる。

さて、タカさん自身は、民間のいうところの「シニア」の域に達するのも未だ後数年先というところなのだが、果たしてその年齢に達した時に、嬉しいと思うものだろうかと、いささか自問してみた。まあ、70を過ぎておれば、「敬老の日おめでとう」といわれても、何となく自分自身も納得はできそうだが、後数年後の還暦辺りで「敬老の日おめでとう!」といわれたら、ひょっとしたらむっとするかもしれないなぁ〜などと思った。

もっとも、先週、初孫が誕生し、孫の母親である我が娘が赤ん坊に「ほ〜ら、おじいちゃんよ〜」などと呼びかけるのを聞いたときには、思わずにっこりしてしまったから、案外、おじいちゃんと呼ばれることは、思い悩むほどのことではないかもしれない。(孫にはおじいちゃんと呼ばせずにgrand pa(グランパ)と呼んでもらおうと思っているが)

ところで、政府の一般人口統計なる資料を見ると、65歳以上(および15歳未満)の人口は「従属人口」というカテゴリーに分類されていた。これは15歳から64歳迄の人口を「生産年齢人口」と呼ぶのに対比して使われている呼称のようだ。64歳までは「あなたは生産(に携わっている)人口ですよ」といわれていたのに65歳になったとたんに「あなたは(社会に)従属(している)人口ですよ」となんだか、もう「御用済み」であるかのような呼称にするというのもちょっと問題だ。ひょっとしたら、従属人口なる用語、差別用語ではなかろうかと思うのだが。民間に比べると官の相変わらずの無神経さがこんなところにも顔を出していると苦笑を禁じえなかったが。

(9/21/05 10:00pm S.T.)

 

2005年9月16日

納豆のお作法

先日さる所で、ひょんなことから納豆の食べ方の話になった。北海道では砂糖を入れてかき回すとか、きざみねぎを入れるか、生たまごをいれるかいれないかといった話ではない。

パック入りで買ってきた納豆を、そのまま食卓に出すのか、パックから器に移し替えて出すのかという話だ。

タカさんは正直言って、世の中にスーパーで買ってきた納豆をパックのままで食卓に出すといった家庭があるということすら想像できなかったのだが、その場の話しでは、今、世の中ではおおよそ7割の家では、パックのまま出すのだと聞いて、いやぁ、本当に驚いた。

確かに、今の納豆は、昔のようにワラに包まれている訳ではないし、一人分に小分けされ丁寧に発泡スチロール容器に入っているし、中にはカップ型の容器に入っている物まであるのだから、これをわざわざ容器に移し替えるなんて無駄といえば無駄なのかもしれない。そもそも、カップラーメンを容器から器に移し替えて食べる人はいないじゃないかと聞けば、「う〜ん、俺が今まで間違っていたのか!」とショックだった。

納豆のねばねばが付いた器を洗うには手間も大変だし、地球環境のことを考えれば食器洗いの水にしても節約すべきだ! と責められると、今までの自分の振る舞いを世間に詫びなくてはいけないのかという気にさえさせられる。

ちなみに納豆はずっと器に移し変えて食べている家庭で二十数歳まで育ったはずの我が娘の新家庭でも、納豆は、パックのまま食卓に出しているという。家内がご近所にも聞いてみたところでは、器に移し替えている家など皆無だったという。(一軒だけ、夫婦そろって関西出身なので、「納豆なんて食べません!」というところがあったらしい)

「食卓に、発泡スチロール容器が乗っているだけでも、なんだか、みすぼらしいではないか!」などという考え方は古すぎるのだろうか。亡くなった母だったら、「パックのままで食べるなんて、私はあなたを、そんなはしたないことをするように育てた覚えはありません!」位、言いそうな気もするのだが。

もっとも、タカさんだって父や母に比べればそんなに古風という訳ではない。缶ビールは缶から直に飲むのが当然だと思うが、父と母は缶からグラスに移し替えてから飲んでいたなぁ〜なんていうことを思い出した。

箸の持ち方一つ、茶碗の持ち方一つにしても、お作法通りにできる人が随分少なくなっている世の中だもの、納豆の食べ方も、缶ビールの飲み方も、これが正しいお作法などということは、今や成り立たないということなのだろうか。

皆さんのご家庭では、納豆はどうやって食べていますか?

(9/15/05 10:00pm S.T.)

 

2005年9月13日

真紀子と鹿取でどうだ!

本来ならばドラゴンズ相手の三連勝だからちょっとは喜んでも良いようなものだが、どうも、今シーズンのジャイアンツに対する失望感が余りに深かった所為なのだろう、「死に馬のやけ走り」のような気がして素直に喜ぶ気になれない。

巨人に関しては、何でも前向きに受け入れてきたタカさんだけれども、今年ばかりは、どうしてもニヒルになりがちだ。

清原やローズといった打率2割そこそこの虚砲、キャプラーだ、ミセリだといったダメ外人というよりは害人、そんなダメ人間ばかり集めたフロントと、いつまでも使うことにこだわった首脳陣、毎年のように大事なところでけがをしては結局役に立たない高橋由伸、頼りなさすぎの中継ぎ、クローザー、(それに先発陣)、と文句を言い出したらキリがない。これだけダメを続けていながら、未だ最下位にいないのが不思議なぐらいのていたらくだ。あれだけ作戦ミスを重ねながらも民主党が、未だどうにか100議席はもちこたえたのと同じような状況だろうか。

選手の中で、ほめて良いのは、わずかに工藤と阿部(シーズン中、かならず扁桃腺を腫らす点はマイナスだが)、小久保ぐらいか。シコースキーやミヤディッチといったところ、それにわずか年俸700万で2勝の西村などは評価してもよいだろうが、後の選手はどれもこれも、良いといってもそれぞれの年俸に見合うだけの働きを見せたものはいない。若手といわれる連中には、期待はするものの、他球団のこの年代の選手に比べれば、今ひとつ喰い足りない。

まあ、今更、戦犯探しをしても始まらない。しかし何しろ、負け戦は負け戦なのだからトップが責任を取るというのは、当たり前といえば当たり前だろう。まだシーズン中だから、辞めるとか、辞めないとか、本人が言い出す訳にもいかないのは分かるが、堀内も、星野が阪神残留を発表したからと聞いて急にニコニコし出したなどと聞くと、本人まだ来年もやる気なのかと、民主党で岡田さんが続投を言い出したようなもので、「幾らなんでも、それはないだろうぜ!」と言いたくもなる。

そもそも、巨人も、星野だヤンキースのトーレだと、監督までも金でかき集めてこようというのはやはり止めて欲しい。OBの中から選ぶのがやはり筋だろう。だからと言って、一昨年辞めたばかりの原の復帰というのも、未だ早い。中畑、江川、などという名前も出始めてはいるが、代わり映えのしないメンツだし、そもそもこの二人なら、堀内とどっこいどっこいで、来年以降の躍進の予感など皆無だ。民主党が岡田さんの後釜に、鳩山、菅、小沢といった使い古しを出してくるようなものだ。

そう考えると、巨人も民主党も、本当に人材がいませんねぇ〜。以前、小泉さんが、安倍さんを幹事長に抜擢してサプライズ効果を出したような、画期的な人事が民主党にも巨人にもあっていいと思うが。

そうは言っても、民主党にはサプライズな人材も余り見当たらない。しょうがないから、巨人が星野に食指を動かしたように、外部から持ってくるというのはどうだろう。差し当たって、キの字の真紀子さんとか、自民党から弾き飛ばされそうな聖子ちゃんをスカウトしてくるなんていうのはどうだろうか。これなら、皆、随分とびっくりするに違いない。

巨人はーーー う〜ん、ここも、OBには中々いないな〜あ。しょうがない! 鹿取とか定岡なんていうのはどうだろうか。いや、やっぱり、名前を覚えている人も少なくなっているから、サプライズにもならないかぁ〜。

(9/12/05 10:30pm S.T.)

 

2005年9月9日

台風14号が残したもの

記録的な豪雨をもたらした台風14号の被害を受けられた方々に先ずお見舞い申し上げてから、話しを進めさせて頂く。

台風と聞くと毎回、何だか嬉しがっているように興奮しまくるテレビ報道にはうんざりするが、今回の台風14号でもそれが随分と目立った。これにちょっと文句を言いたい。

ニューオルリンズを襲った巨大ハリケーン・カトリーナの記憶も生々しい時に襲来した台風14号だったということもあるのだろうが、台風が日本に近づくにつれて「勢力はカトリーナに匹敵!」という「さあ! 大変なことになるぞ!」といわんばかりの誇大宣伝があった。

確かに、暴風雨圏の大きさと言った面でみれば、洋上にあった台風14号と、カトリーナはほぼ匹敵していたが、これぐらいの大きな暴風圏を持つ台風が日本接近したのは何もそんなに珍しいことではない。

ちなみに、カトリーナの上陸時の中心気圧は910ヘクトパスカル(hPa)、台風14号の長崎上陸時の中心気圧は970hPaだ。ハリケーンや台風が洋上にあるときの大きさを比較しても余り意味がない。やはり上陸時の大きさを比較して、大きい、小さいをいわなければ公正な比較とは言えまい。

970hPaの中心気圧の台風といえば、台風の大きさを表す5段階評価の中では、下から二番目「普通の台風」だ。5段階評価の一番上にあるのは、「猛烈な台風」と言われる、中心気圧900hPa以下のもの(室戸台風や、伊勢湾台風などがこれに当る)を指すということぐらい、プロの気象予報士なら当然知っているはずだと思うのだが、テレビ局の台風ニュース盛り上げ(?)に一役買ったのか、敢えて誰も訂正もしなかったというのはどういう訳だろう。

大きな台風、大きな被害でなければ、ニュースの視聴率も上がらないということがあるのかも知れない。しかし、「普通の台風」を「カトリーナ並み」と騒いだことには、朝日新聞の田中知事偽インタビュー記事と似たところがあるようにすら見える。

もう一つは、高知県の早明浦ダムのことだ。9月1日には、再び貯水量がゼロになったと大騒ぎしていたが、14号による降水によって、あっという間に貯水量は100%に回復したのだとか。確か、8月に一度貯水量ゼロになった後、少し雨が降り、貯水量は一旦10%に回復したと伝えられていた。しかし、それからものの一週間もしたら、又、貯水量ゼロになったという。ここが、どうも理解不能だ。早明浦ダムとやら、今回の台風が、いくら記録的な雨をもたらしたにせよ、カラになったり10%になったり、又カラになったり満杯になったり、一体どれぐらいの大きさの貯水池なのだろうか。よっぽどちっぽけな池のようなダムなのだろうか。(参照:「水不足の原因は?」8/22/05)

10%の貯水量がわずか一週間程しかもたなかったことを考えると、今は、満水になったと言っても、その内に2ヶ月も四国に雨が降らなければ、又、「早明浦ダム、再び貯水量ゼロ」と大騒ぎになるのだろうか。

そうなると、又「大変だ!大変だ!」のマスコミがバカ騒ぎする姿が目に浮かぶようだ。事象の追いかけ報道ばかりではなく、「四国では、自然保護だ、ダム建設反対だ、ばかり言っていないで、もう少し根本的に生活水の確保策を考えた方がよいのではないか」位の提言をするマスコミがあっても良さそうなものだが。

(9/08/05 10:00pm S.T.)

 

2005年9月5日

ニューオーリンズ

仕事の関係でニューオーリンズにはよく通った。今やハワイやアメリカ西海岸はもちろんのこと、東海岸のニューヨークや、中西部のシカゴ辺りでも日本人観光客が大挙して押し寄せ、そこに住む日本人も多いから街には日本食レストランも溢れているが、アメリカもディープ・サウス(Deep South)といわれるルイジアナやミシッシッピー辺りまでくると、さすがに訪れる日本人も少ない。

ニューオーリンズには、日本食レストランと名乗る店があることはあったが、中国人経営の何だかえたいのしれない感じの店だったので、注文もしないで飛び出して来たことを思い出す。

やはり、ここに来たら名物のケイジャン料理とか、クロウフィッシュというザリガニ料理を一度は試して見る手だろう。もっとも、ケイジャンというのはフランス料理が大元だとはいうが、スペインの貴族料理が大元というクレオール料理、黒人料理の代表であるガンボ料理などとこん然とまじりあってしまっていて、要するになんでもかんでもぶち込んだごった煮料理と言った方が早い。見かけもそんなによいものではないし、たんぱく好みの日本人はそう何回も食べたくなるといったものではない。(クロウフィッシュにしても、かさばかりあるけれど、ほとんど身のないザリガニだから、山盛りで目の前に出されただけでちょっとうんざりというところはある)

まあ、そんな訳で、ニューオーリンズに行った時には食べ物では一番楽しみだったのは、街中にあるオイスターバーで生がきを1ダース単位で食べることだった。白ワインをかたむけ生がきにちょっと酸味のあるオイスターケチャップをたらして味わえば最高だし、これにここが発祥の地であるというジャズの生演奏などが加わればもう言うことなしだ。

ジャズの一流プレーヤーの演奏が聞ける小さなホールは、ニューオーリンズで一番有名な観光スポット、フレンチ・クォーターに幾つもある。その中心はバーボンストリート(Bourbon St.)だ。ルイジアナ州は嘗てフランスの統治下にあった。ルイジアナとは、当時のフランスの王であった「ルイ王の土地」という意味であり、ニューオーリンズ(New Orleans)もフランスの港町オルレアンの地名からきている(新しいオルレアン)。更には、街の一番古い一角はFrench Quarter(フランス地区)だし、そこのメインストリートの名前もBourbon St(ブルボン王朝通り)という具合だから中々歴史を感じる。

最近でもグレシャムの作品「ペリカン文書」(The Pelican Brief)あるいは「ニューオーリンズ・トライアル」(The Runaway Jury)などはニューオーリンズは舞台だ。二つの作品ともに映画化されたので観られた方も多いと思うが、映画でもニューオーリンズは他のアメリカの都市以上に、近代化された豊かな最先端の部分と、開発から取り残された貧しい人々との格差が大きい街であることがうかがえたと思う。

その状況は、テネシー・ウィリアムズが60年前に「欲望という名の電車」で描いたニューオーリンズと大きくは違わないようだ。

作品の題名でもある欲望(Desire)行きの路面電車路線は廃止されているが、その面影を残す路面電車は今も市内を走っている。あの作品を思い出しながら乗ってみるのも一興だ。

ニューオーリンズのちょっと郊外に出ると、主人公ブランチが育った大農園(Plantation)と同じようなお屋敷を見ることができるが、そのスケールたるや「風と共に去りぬ」の「かしの木屋敷」を彷彿とさせる広大なものだ。没落したブランチが身を寄せる「天国」という名の貧民街とあのプランテーションの間にあったどうしようもないほどの貧富の差は今もそのままにあるようだ。

ハリケーン・カトリーヌにより全市民退去という非常事態に陥ったというニューオーリンズの映像を見ると心が痛む。ハリケーンの避難勧告にも取り残された貧しい人々が48万人の人口の1/5もいたというのだから。

全市民の避難が完了し、追々復興の槌音がしはじめるのは、まだ大分先のことになるようだ。あの魅力溢れる街が少しでも早く復興して欲しいと心から願う次第。

(9/04/05 10:00pm S.T.)

 

2005年9月2日

ナイル川とTX

ナイル川の全長は6690kmと世界一だが、源流付近と、地中海に注ぐ最下流にあたるナイルデルタをのぞくと支流が殆どないまるで雨どいのような一筋の流れだ。灼熱の地をこれだけの距離を流れ下る割には、ナイルは不思議なほど滔々と水をたたえている。それはその流れが石灰質の岩盤の上にあり、地中に染込む水量が極めて少ないという理由にもよる。

ルクソールなどの上部エジプトのナイル川は、その両河岸から数百メートル程度の幅で、緑の木々が茂り、川沿いにベルトのような耕作地がある。しかし、そのグリーンベルトの外側には、無限ともいえるほどに不毛の砂漠が拡がっている。これだけの長距離を流れ下り、これだけの水量をたたえるナイルが、わずかな緑しか育まないことに不思議な思いがする。ナイルは「線を流れる川」なのだ。

アマゾンはその長さは、ナイルに及ばないが、流域面積は南米大陸の大きな部分を占め、その流れが育む動植物の量たるや、膨大なものだ。それはアマゾンが多くの支流を持ち、網の目をはりめぐらしたように流れ、又、それらの支流が蛇行を繰り返しているからだ。アマゾンは「面を流れる川」なのだ。

道路や、鉄道も、川と同じだ。A地点とB地点を結ぶ線でしかない鉄道や道路は、その線沿いのわずかな幅での開発はあったとしても、広がりは期待できない。例えばA地点からB地点を結び、再びA地点に戻るループが出来ると、そのループの中は交通至便の地となり、面として発展する。更に、このループを中心にして放射状に幾つかの鉄道や道路を作る、あるいはくもの巣のような内円、外円網をつくれば更に開発面積は広がるだろう。

そんなことを、考えたのは8月24日に開通したつくばエクスプレス(TX)に何度か乗ってみたからだ。

新線の駅は全て新築されたもので、そのクリーンさとモダンな佇まいは丸で夢の未来にきたようだ。TX自身、噂どおり、超近代的なデザインで、揺れも少なく、スピードもあって、乗り心地は最高だ。

TXが柏周辺を過ぎてつくばに近づくにつれて、周辺の風景は、広大にひろがる一面の緑と果てしない田園に変わる。TXは高架を走るからそこに拡がる景色を眺めていると、飛行機にでも乗って拡がる草原を眺めているような気分になる。

しかし、新しく作られた新駅に降り立ってもバスの便がある訳でもなくまさに開拓地の原野に立つ思いがする。終点のつくばですら周辺地区に向かう交通網は決して便利とは言えない。そういう意味では、TXはA地点と、B地点を結ぶ線であって、決して面をカバーする交通手段にはなっていない。これではまるで、砂漠を流れるナイルと同じではないだろうか。

沿線の自然を残すべきだということもあろうかとは思うが、新線を作ったからにはこの新線をもう少し面で活用することを考えなければもったいない。

各駅から頻繁に出発するバスなどの交通網を拡充することで駅を中心にした地域をもっと面で活用することが出来るだろうし、ゆくゆくは終着をつくばに留めず、土浦辺りまで延伸して常磐線とつなぐ事で、TXと常磐線が囲む地域を面として活用することが可能になるだろう。何よりも、東京側の起点を再開発をしたとは言っても、どうしてもどん詰まりの感覚のあるオタクの町(参照:「おたくの町」02/04/05)秋葉原に留めないで、東京駅まで延伸すれば首都圏という面とTXを繋ぐことができるのにと思った。

(9/01/05 10:00pm S.T.)

 

2005年8月30日

父親は引っ込め!

女子プロゴルフの横峯さくらや宮里藍の父親が中々の人気である。今や大リーグのスターとなったイチローも松井も父親がいかに子供たちを育てたかが美談として語られた。ハンマー投げの室伏、相撲の武双山等々、子供の大成に賭けた父親の努力が、人々のハートをくすぐった。

スポーツ界ばかりではない、革新系とはいいながら保守系政治家も顔負けなほど息子の選挙にぴったり張り付いている民主党の菅さんもそうだけれど、政治家は、我が息子の事となるともうまるで物狂いの様相である。嘗ては美空ひばりや宮沢りえのようにステージママといわれる母親がしゃしゃり出ることがあっても父親の存在はめったに聞かれなかった芸能界にしても父親の進出は甚だしい。

「巨人の星」の星一徹ばりの父親がもてはやされるようになってしまったが、親ばかとしか言いようがないケースも多い。しかも、今の世の中は、こういった父親たちを皆父子鷹の美談に仕立て上げてしまう。これってちょっと行き過ぎてはいないだろうか。

二連覇の偉業を達成しながらその優勝旗を返還しなければならないかもしれないといった大騒ぎになった駒大苫小牧の一件でも、練習中エラーをしてもへらへら笑っていたという部員を叩いたという野球部長を告発し、あれだけの騒ぎの発端となったのは、野球部員の父親だった。

勿論、建前から言えば暴力をふるったのは野球部長であり、その事実を隠蔽しようとしたのは校長や教頭という連中であって彼等には弁解の余地はない(というのが昨今の世の中である)。

しかし、他の部員が一生懸命に汗を流して練習に励んでいる時に、だらだらとした練習をし、エラーをしてもへらへら笑っていたというこの三年生部員を、全くの被害者であると言えるのだろうか。まして、全国放送のテレビの前で「学校は息子と私に謝って欲しい!」と叫んだこの父親を、息子思いの立派な父親だということが出来るのだろうか。

タカさんは、この部員や父親に対して「部長に殴られたぐらいは黙って泣き寝入りしているべきだった」と言いたいのではない。しかし、少なくともこの殴られたという部員は、まじめに野球をやって二連覇を成し遂げたチームのメンバーに対して「ちゃらちゃらした練習をして皆に迷惑をかけて申し訳なかった」と謝ったのだろうか。この子の父親は、他の野球部メンバーの父親や母親に対して「私の息子がへらへらとしていたことが原因で、皆さんにご心労をかけました」と謝ったのだろうか。

明徳義塾が出場停止に至ったのも、甲子園出場メンバーに選ばれなかった選手の父親が「部員が喫煙している」とチクったことがきっかけになっているという。高校生の喫煙は禁じられている以上、その不正行為を摘発したこの父親を責める訳にはいかないかもしれないが、やはり息子が甲子園に出場できなかった鬱憤を晴らそうとしたバカな父親という思いは拭えない。

この「日々早々」でも述べた通り(参照:「高校野球と大人たち」08/24/05)、高校生なんていう年頃は多少の破目を外すこともありがちだし、それを厳しく叱る大人がいてこそ彼等もしっかりと育つということもあろう。しかしそういう高校生たちを、高野連や主催新聞社を始めとする大人たちは寄って集って食い物にしておきながら、高校野球を妙に神聖化しようとするから話がおかしくなるのだ。

それよりも何よりも、父親族はもうちょっとでんと構えて我が子の成長を遠くで見守るぐらいの度量を持ち、引っ込んでいるべきではないだろうか。

(8/29/05 10:00pm S.T.)

 

2005年8月26日

げに宗教は恐ろしい

原理主義といえばタリバンや9.11テロ犯人グループなどからすぐイスラム原理主義が連想されるが、どんな宗教もその根本原理に戻ろうとすれば全てが原理主義にたどり着く。

仏教ならば「釈尊の教えに戻れ」が仏教原理主義であり、その教えの通り生涯無一物で仏道に励む人間ばかりになってしまえば、世の中成り立たない。

ユダヤ教の原理主義は、エホバの神が選んだユダヤの民のみが神の国に行ける「人間」であり、他の民族は犬や猫と同じとは言わないが人間とは違うと考える。

イスラム原理主義はよく知られているとおり、生活の全てがコーランに書かれた通りでなければならないのだから、女性が車を運転することも、公衆の前でその素顔を見せることも当然ご法度だ。

キリスト教の原理主義は、これまた、凄い。色々な原理主義の宗派があるが、まあ、どれも、「聖書に戻れ」が原点である。アメリカ大陸に最初に移民してきたヨーロッパ人の一段、ピューリタン(清教徒)もそうだし、今も、ミシガンやイリノイにいるアミッシュと言われる一段もまさにキリスト教原理主義者だ。(アミッシュは、今も村ごと自動車も電気も使わない、自給自足の生活を続けている)

宗教の原理主義というと、ピュアーな信仰心厚い人々といったイメージを持つ人が多いと思うが、不信人者のタカさんにしてみれば、例えばアメリカ南部などで盛んなバプティスト(浸礼派)といわれるプロテスタント(と言ってはいるが、原理主義というのが実体)のミサなどを見ていると「未開の原始宗教やブードゥー教、オーム真理教とどこが違うの?」という気がしないではない。「信心深い」と「狂信」の境目はどうも分かり難い。

現代文明がもっとも進んだ社会だなどという人もいる現代アメリカでは、キリスト教原理主義が政治すら動かすほどの巨大勢力になりつつある。これもタカさんに言わせれば、「どんな文明も、その頂点に達すると次には退化する」という好例のようにも見える。

近代科学最大の成果といわれるダーウィンの進化論を「公立学校で教えるべきではない、何故なら聖書には人間は神がアダムとイブという二人の男女を創ったと書いてあるではないか、人間がサルから進化したなどという理論はとんでもない神への冒涜だ」というキリスト教団体が、今やブッシュ政権の政策を左右するまでに肥大化し、先の大統領選挙でブッシュを支援した際の約束を果たせと迫っている。

彼等の主張の通りこれが法案化されそうな州も、既にちらほら出てきている。これらの州の学校ではいずれ「人間は神が創った」「進化論は間違いだ」「人間が月に行ったというのは、あれはNASAの陰謀だ」(彼等によれば、アームストロング船長の月到着場面は、ゴビ砂漠に作られたロケ用のセットから送られた偽画像だそうだ)といった教育が行われるようになるかもしれない。

キリスト教原理主義、いやキリスト教狂信者は、聖書にある通り、この宇宙は神が7日間で創ったものでであり、太陽は地球を中心にして回っているという。いずれ、進化論と同じく、ビッグバン宇宙論も、地動説も学校で教えることを禁じられるようになるかもしれない。

「全体主義イデオロギー」という一種の宗教の洗脳によって「日本人は昔も今も悪いことばかりしてきた」と教えられた中国の子供たちが、青年になり社会人の中枢となってもそれを信じて「日本憎し」のバカ騒ぎに狂奔しているように、いずれアメリカ人も皆、バカになって中世ヨーロッパのように「我々の先祖はアダムとイブだ」「地動説を唱える奴は火あぶりにしろ!」と言い出すのだろう。

げに宗教は恐ろしい。

(8/25/05 10:00pm S.T.)

 

2005年8月24日

高校野球と大人たち

近代オリンピックの創設者クーベルタン男爵の唱えた「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」というアマチュアリズムの精神が現在のオリンピックにその残滓すら残っていないことは世界中の人が承知の上の事である。

しかし、建前としては「参加することに意義がある」だの「アマチュアリズムの精神」はしっかりと残っており、「勝たなきゃ意味ない」とか、「オリンピックで勝って、カネをがっぽり稼ごう!」は、まああんまり大っぴらには言わないに越したことはないというコンセンサスが出来ている。

「高校球児たちの汗と涙の結晶」とか「すがすがしい青春の熱闘」といわれる甲子園大会も、それを「今は、そんなことはないよ!」「プロも顔負けのどろどろしたものだぜ!」などと言う輩は、純粋な心を失った一部の汚れた大人たちということになる。

高校野球は今も高野連や主催者である朝日新聞にいわせれば「高校教育の一環」であって、決して何が何でも勝てば良いといったものではないのだ。部員の喫煙だ、暴力制裁だ、非行ということが起きれば、もちろん「教育上好ましくない」からその高校は出場停止処分を受ける。清廉潔白無私無欲の人たちばかりが集まって運営している高野連やそのスポンサーである朝日新聞社に対して「高校生なら、一度や二度、いたずらでたばこを吸ったりするものだよ」とか「運動部では、上級生の下級生のしごきはありがちだ」などという文句が通る訳もない。

高校野球は日本のスポーツ界に残された数少ないアマチュア精神の牙城だ。全国から小学生、中学生のころから目をつけておいた有望選手をかき集め、カネに糸目をつけない豪華な夜間照明つきの野球場や練習場を備え、豪華な合宿所を持ち、冬の間主力選手は暖かな九州、沖縄で合宿を組むなどという高校などある訳もないのだ。もちろん、監督は優勝請負業の半プロで、高校から高校へと渡り歩く職人―――などということもない。高校野球もクーベルタンが唱えたように、「参加することに意義がある教育の一環」だから、勝ちさえすれば良いといった試合運びはあり得ない。強打者松井がバッターボックスに立てばランナーがいない打席も含めて全5打席敬遠などという、勝つためには何でもありの作戦を取る監督はいない。そんな指示を出した監督がいたとしたら、いつの日か、部内で起きた喫煙や暴力問題を甲子園の直前まで隠し、結局それがバレて、大会直前で出場取消などということにもなりかねないのだから。

まして、そんな出場取消事件が起きている最中に、野球部長が部員を20発も30発も鉄拳制裁し、その事実を隠蔽するなんていうことはあり得ない。そんなことが後でバレたら、二年連続全国制覇の優勝旗も返還せざるを得なくなり、部員の少年たちに死ぬほどの悲しみを与えてしまうだろうから。

高校生の純粋なアマチュアリズムと、それを取り巻く大人たちのこれまた清いスポーツへの情熱を讃え続けてきた新聞社には、高校野球を食い物にして自社の宣伝に使ってやろうなどという下心はかけらもない。その証拠には、社説でも同社が煽っているとも言われた高校野球の肥大化・暴走に対して、なんとも高邁な苦言を呈していたではないか。

「高校野球を悪くしているのは大人たちだ」などという話など、全くの誤解だ。

(8/24/05 10:00pm S.T.)

 

2005年8月19日

僕ってアジア人?

地下鉄爆破テロ以降南アジア系の人々に対するロンドン市民の目が警戒感に溢れたものになっているとの記事が目についた。

色が浅黒い、ひげの濃い南アジア系とおぼしき若者がディバッグ(ちょっと前まではナップザックと言っていたはずだが、いつの間にこんな言い方になってしまったのだろう)をかついで地下鉄に乗ってくると、女性はわれ先にと車両を移ろうとするし、男性の乗客は敵意に満ちた目でにらみつけてくるという。

ニューヨークでの9.11テロの犯人グループは、中近東系(サウジやイラク、イエメンといった)が主であったために当時は、アラブ人に対する警戒感が強かったが、ロンドンテロはパキスタンなどの出身者が主だったこともあって「南アジア人」が目の仇にされているということのようだ。

ここで使われる「南アジア人」という言葉、日本では余りなじみがない言い方だけれども、欧米系の新聞では‘South Asian’という単語は普通に使われている。

日本でもコンビニ強盗などの事件が起きるとよく「アジア系とみられる犯人がーーー」といった遠まわしな言い方がされるが、これだと、韓国系なのか、中国系なのか、はたまた、フィリッピン、パキスタンと一体、どちら系の外国人なのかさっぱり見当がつかない。南アジア系といわれれば確かに「インド、パキスタン、あるいはバングラデシュぐらいかな」と大分範囲が狭まる。

ロンドンのように国際都市化してくると「南アジア人」とか「東アフリカ系」といった細かな人種分け(?)が当たり前のように使われているということなのだろう。

日本では人種というものを気にかけることはあまりないが、多くの国ではそういう訳にもいかないようだ。今でもアメリカの運転免許証には目の色、髪の色が記載されているが(目の色も髪の色もクロという人が人口の大部分を占める日本では考えられないことだが)、30年ほど前までは免許そのものには記載はなかったと思うが、免許を申請する際の申請書には、それに加えて確か人種(Race)を書く欄があったように記憶する。

自分は日本人(Japanese)だとは言えても、人種は何かと聞かれて、はたと困ったものだ。「日本人は、この欄には何と書いたらいいの?」と係員にたずねたら‘Oriental!’(東洋人だろうが!)と即座に答えが返ってきた。その時「えっ! 僕って東洋人だったんだ!」と何ともへんな気分になったものだ。

白人ならば‘Caucasian’だし、メキシコ人やコロンビア人は、‘Hispanic’黒人は‘African American’(かつてはColoredさらにもっと昔はNegroとか言っていたと思うが)という訳だ。

単一民族が国民の100%近くを占める日本人は、日常人種を意識することは少ない。それが良い証拠に、「日本はアジア共同体の一員として」とか「アジア人としての意識を持って」などと言われても、きょとんとする日本人がいかに多いかを思い浮かべてみればわかる。そもそもコンビニ強盗のニュースで「アジア系とみられるーーーー」と聞いた時に、そのアジア系の中には日本人も入っているのだとはニュースの受けてはもちろん、送り手の側すらも気付いてはいないのだ。

(8/18/05 10:30pm S.T.)

 

2005年8月12日

甘っちょろいぞプロ野球

甲子園で連日熱戦が繰り広げられている。地方予選からはじまり、どこの高校も1敗した時点で終わりというトーナメント戦、最後まで一度も負けなかったわずか1校(すなわち1/4146)が優勝というのだから、なんと過酷な、と思わないではない。

逆に考えれば4146校すべてが真剣に戦い、その内4145校は、どこかの時点で敗退して涙に呉れ、しかも三年生選手には生涯もう二度とその雪辱を果たす機会が巡ってこないというのだから、「もののあわれ」とでもいうか人生の象徴のようでもあり、このような悲劇の美学が人々を感動させるのだろう。

それにくらべれば、日本のプロ野球の、特に一部球団のなんと甘っちょろいことか。千葉ロッテマリーンズのように、監督以下一丸となって勝負に熱中する選手たちの真剣さが伝わってくる球団の人気は衰えないが、選手のわがままに言いなりになってしまう監督の率いる横浜、選手の待遇のことばかり主張してプロ野球改革の抵抗勢力になりつつある古田のワンマンチーム、ヤクルト、「どうせ金をかけていないのだから100敗してもOK」と気楽な楽天、それに、野球に対する情熱を失った金持ち選手をかかえる巨人、といったチームはどうにもならない。

日米通算200勝を達成したあの野茂でさえ、ちょっと調子を落とせばシーズン途中であっさり解雇されてしまうメジャーリーグの厳しさに比べると、これらの問題球団のふざけた現状には怒りすら覚える。

特に、最近の巨人軍のていたらくには50年来のファンであるタカさんも愛想がつきかけている。それは、決して巨人が弱いからという訳ではない。弱いというだけなら長嶋が監督になった初年度(?うろ覚えだが)は確か最下位だった。その時は巨人ファンとして悔しくはあったが腹は立たなかった。なぜなら、巨人軍が長嶋という選手を欠いていながら、一生懸命戦っている必死さがひしひしと伝わってきたからだ。しかし、今年の巨人軍はどうだ。球界トップクラスの高額年俸をとっていながら打率 .215 セリーグ打率30傑にも入らない清原や、大型扇風機にでもなってしまったローズが、へらへらといつまでものさばっている。ふんばらなければいけない投手陣(工藤を除いて)、チームの中核にならなければいけない中堅選手までもが、キャンプの課題であった基礎体力づくりを行っていなかったことが如実に表れ、皆、バテバテになっており、あちらが痛い、こちらが痛いと休んでばかり。何年ぶりにめぐってきた一軍先発のチャンスを与えられた若手(というほどではない)某選手など、二試合フルに活躍したら、腰が痛くなったとかで一軍登録抹消というのだから、こんなのプロとは言えない。そんなチームを、それでも応援しつづけるのは我ながらアホらしく思えてくる。

今シーズン限りでクビと覚悟を決めたのか堀内監督は試合の後の監督コメントで自軍選手の悪口を吹聴しまくっている。曰く「内海は工夫がない」だの、「野間口は基本ができていない」だのというが、「そんな選手を先発に指名したのはあんただろう」とか、「工夫がないというなら、キャンプ中に、コーチやあんたがなんでちゃんと教えておかなかったのだ」と突っ込みも入れたくなる。星野や野村にもそういうところがあったが、人前で自軍の選手をボロチョンにけなして若手が育つなどということがあるだろうか。長嶋や原は決して人前で自軍の選手の悪口は言わなかった。ロッテのバレンタインはチームの中でさえ打ちひしがれている選手をしかったりけなしたりしないという。だからこそ、選手が監督を慕ってついてくるのだ。部下をやる気にさせる、この程度のことはまともなサラリーマンなら皆知っている常識ではないか。

この腹立たしさを倍化させたのが9日の巨人vs横浜戦だ。清原といいとこ勝負の問題児、プロ野球の大不良債権(何億の年俸をとりながら、何の役にもたたないという意味)、大魔神佐々木がシーズン途中で引退を表明し、彼のわがままで、真剣勝負のはずのリーグ戦シーズンの真っ最中に対清原限りの登板が行われた。男清原が佐々木のフォークともいえないようなクソボールを空振り三振して涙にくれて佐々木と抱き合ったと、美談仕立てにされても、オリンピックのマラソンがレース途中突然100メートルだけ仮装マラソン大会になってしまったようなもので、そんなふざけた場面を見せられては、あきれ果てるしかなかった。

たったこれだけの為に二軍から佐々木を上げ、代りに一軍登録抹消された選手がいた訳だし、佐々木の前座で6人に投げさせられた秦とかいうピッチャーも哀れだった。

阪神と中日が首位攻防のなんとも迫力あるガチンコ勝負をしている同じ日に、横浜と巨人はこんなおちゃらけ試合をやっているというのが許されてよいものだろうか。1対0で巨人が勝ったけれど、牛島監督が「俺が責任を取ればいいのだから」と言っていわば佐々木のために捨てたゲームを、こんな得点で勝ってもうれしくもなんともない。後味の悪さだけが残った試合だった。

本当に、巨人と横浜、ヤクルト、楽天は、日本のプロ野球を沈没させようと目論んでいるとしか思えない。

まあ、仕方がない、差し当って、この週末は高校野球の熱戦に集中することにしよう。

(8/11/05 10:00pm S.T.)

 

2005年8月5日

嫌いな言葉

「国語が乱れている」などという話は今更言ってもしょうがないことかもしれない。国語は常に変わり続けてきたし、これからも変わり続けていくのだろうから、その変化を一々「乱れ」などととるべきではないのかもしれない。

現代の言葉は昭和30年とは随分違っているし、昭和30年の言葉も、大正時代の言葉とはかなり異なっていた。もし、言葉が時代とともに変化すべきではない、乱れるべきではないと言うなら、今、我々は平家物語に書かれたような言葉使いをしていなければいけないということになってしまう。

と、いった訳で、言葉の変化、乱れには寛容であろうと思っているのだが、言葉使いの「好き嫌い」ばかりはどうしようもない。

タカさんが嫌いな言葉の最たるものは、「やばい」である。こんな言葉、よほど若い一部の人しかつかわないだろうと思われる向きもあると思うが、良く耳を澄ませば、まさかと思うような紳士・淑女までもが使っている。それが気になって仕方がない。

先日、医療関係者へのアンケートで、診療に際して「やばい」という言葉を使ったことがあると答えた医者が60%あったとの記事が出ていた。

MRIの写真を目の前にしたお医者さんが、患者に対して「この部分、かなりやばいですよ!」などと言えば、高齢者ならば卒倒してしまいかねない。

そもそも、「やばい」という言葉、辞書などによれば「盗人や香具師などの隠語で、危険が迫っている、という意味」とあり、まともな素人衆が使うべき言葉ではなかった。多少粋がった若い者が、悪ぶって使うことはあっても、若い女性や、妙齢の御婦人(この言い方も古いが)が使う類の言葉ではないというのに。今や、あたかもこれがまっとうな言い方であるかのように使われていることは憤激に耐えない。

二番目に嫌いな言葉は「むかつく」である。最近は「腹が立つ」という場合、むしろ「むかつく」の方が標準国語にでもなったかのように、猫も杓子も使っているが、もともとは「吐き気を催す」という意味であることを知っているタカさんにとっては、聞くだけで実に不愉快になってしまう言葉だ。なぜ素直に「腹が立つ」といわずに「吐き気がする」と憎悪感を強調する必要があるのだろうか。喜怒哀楽の表現は控え目にという日本人の奥ゆかしさはもはや幻なのだろうか。

「やばい」と「むかつく」以外ならば許容できるだろうかと考えてみた。

そういえば、先日、マクドナルドで、前に並んだ可愛げな10代の女の子が、後ろの方にいる友達を振り向いて「お〜ぃ、何、喰うんだよ〜」と叫んだ時には腰が抜けそうになった。ジェンダーフリー教育がここまで行き着いてしまったのだろうか。昭和30年代頃のように「ねぇ〜、何をお召し上がりになる?」と言ってくれとは言わないが、若い女の子なら「ねぇ〜、何を食べるの」ぐらい言って欲しかった。

言葉の変化、乱れに寛容であろうという決心も、嫌いな言葉と耳ざわりな言い回しのオンパレードにぐらつくことが多い今日この頃である。

(8/04/05 10:00pm S.T.)

 

2005年8月4日

果敢な決断

先日、会社からの帰りだったが、バスにのって漸く駅に着いてみると人身事故の影響で全線止まっているとのアナウンスが流れていた。改札口付近には問い合わせの乗客たちが駅員を取り囲んでいる。駅員にも未だ詳しい情報は入って来ていない様子で、全線がとまってから数十分経つらしいが、何時復旧するかもはっきりしないと言う。

常磐線が止まってしまうと、他の交通手段がないことでもあり、乗客たちのイライラが徐々に高まっているようで、中には怒声を上げるサラリーマン風オッサンまでいる。

尼崎事故の直接の原因、あるいは遠因となったJR西日本の管理体制の問題は、いずれ責任者の刑事罰になるような問題でもあり、利用者が叱責や罵声をあげるのも理解できないではないが、原因が人身事故であるとなれば(どうも跳び込みがあったらしい)その状況や復旧の見通しを即座に答えられないからと言って駅員をどなっても仕方がないのになぁ〜と思った。

さて、仕方がないので駅のホームで待つこと40分余り、漸く、運転再開のアナウンスがあり、電車が来たので乗り込んだが、この電車が又なぜか中々出発しなかったが、その内どうにか電車は走り出した。暫く走ったところで、今度は車内アナウンスが、「柏・上野方面へお急ぎの方は次の駅で後ろから来ます特急にお乗換え下さい」というではないか。

タカさんは柏で乗り換えるので、特急に乗ろうが、普通で行こうが所要時間の差は通常ならばわずか7−8分に過ぎないのだが、事故でダイヤが乱れている以上は、柏には特急が先着すると言っている以上、このまま普通電車に乗っていては、又、どれだけ遅れるか分からないから、次駅でおりて後続の特急に乗ろう! と、決断した。

ところが、次駅で普通電車を降りたのは、タカさんを含めて数人しかいない。しかも、直ぐに後続するはずの特急が今度は中々来ない。10分近くたって漸く来た特急は満席でデッキに立っているしかないような状態である。この時点で、ひょっとしたらタカさんの果敢なる決断は間違いではなかったかという不安がよぎった。

そうこうしている内に特急は柏駅に近づいたのだが、後数分で到着という頃になって車内検札が廻ってきた。デッキに立っているという苛酷な状態にもかかわらず、特急料金を500円をふんだくられた。漸く柏駅で特急を下りて電光掲示板を見上げてみると、先ほど、乗り捨てた普通列車が特急のわずか2分後に着くと表示されているではないか。要するにタカさん果敢なる決断はドタ勘も良いところで、わずか2分間の柏駅先着の為に特急料金500円を払わされた訳だ。

それが分かった時、出発駅で駅員に怒声を浴びせていたあのオッサンの気持ちが分かったような気がした。

尼崎の事故の後、本欄でも述べた通り(参照:「安全で正確」05/5/11)、「日本人は急ぎ過ぎだ。少しの遅れなど気にしない、のんびりとしたアジアの国に学ぶべきだ」などという訳知り顔の言葉は、大半の日本人には戯言に過ぎないとの思いを更に強くした。

(8/02/05 10:30pm S.T.)

 

2005年8月3日

英国が羨ましい

アメリカの全てが好きだというアメリカ贔屓は多いが、逆にアメリカの全てが嫌いという人も日本にもかなりいる。ところが、英国となると、吉田健一の著作をはじめ英国礼賛者は多く、著作も降る星のごとくあるが、英国嫌いというのを余り見かけないのはどういう訳だろう。

自らの意思に従って行動する英国人、そして英国という国家に対しては、どこの国も「あいつの強固さは本物だし、何を言っても無駄」と一目置いているような気がする。何よりも英国自身が他人の評価などは一々気にしないという頑固さというか強固な矜持を持っているから、ちょっとやそっとのことではおたおたしないという紳士の素養を国民全体が身に付けているように見えてさすがと思わせるものがある。

インドを始めとして一時は世界の大半をその植民地支配に置いた英国が、かつての植民地支配を詫びたなどという話を聞いたことがない。それどころか、未だもってインドもパキスタンも「英国大好き」である。99年間の租借という名前で、香港を支配下に置いていた英国だが、香港の中国返還に当たってその植民地支配を非難する声など中国を始めどこからも起こらなかったし、もちろん「お詫び談話」などというものも出してはいない。それどころか、最後の総督が香港を去るにあたっては、99年間の英国統治に対する香港市民による感謝の祝典すら催された。

朝鮮半島に、今も使用されている鉄道や道路、学校や工場といったインフラやソフトを、日本国民の税金によって一からせっせと作って残した戦前の日本は、感謝の言葉を掛けられたこともないどころか、その一から十までを詫びても詫びても未だに非難され続けているというのに。

ロンドンで起きた地下鉄・バスに対する爆弾テロの現場映像では、血だらけになりながらも避難しようとする女性たちに道を譲り誘導している男たちがたくさんいたし、彼等がパニクらないで冷静に現場の状況を語っているのは感心した。

一般市民も又、このテロの恐怖を歯牙にもかけないかのように‘London will go on!’(ロンドンは平常どおり!)と、テロリストたちの脅しにゆるがないという姿勢を見せ続けている。

「テロはロンドンだけの問題ではない。アルカイダが日本も標的にしている。」といった三味線情報に右往左往し国民総ヒステリーに陥りそうな日本と何と違うことか。

マドリッドでの列車爆破テロを敢行し、スペイン政府からイラク撤退という成果を得たテロリスト達が、柳の下のどじょうを狙って、英国のイラク撤退を迫るためにおこなったこのテロも、頑固な英国相手では全くの逆効果だ。こうなったら英国は意地でもテロに屈した形でのイラク撤退はしないだろう。(それにしても、スペインのようにテロに屈する態度を示せば、それが次ぎのテロを生むという教訓をスペインのポピュリスト政権はどう聞くのだろうか)

映画「タイタニック」でも、船が沈む直前までクラシックを演奏し続けていたのは英国人の楽団員たちであったし、その曲を聞きながら最後の時を時間を楽しむかのように踊る老夫婦も英国人だった。そんな英国人なのだものテロリストの攻撃ぐらいでオタオタしないのだろう。

日本にも昔、「サムライ精神」というドンとしたものがあったが、いまや、政界、財界、そして一般国民にすら、そんなかけらも残ってはいない。

ビートルズもパンクも英国生まれというように、保守的なばかりではなく革新的な独創性に富んだ個性にも溢れていて、しかも頑固なほどに誇り高い英国人を見ていると、英国贔屓とまではいかないまでも、英国が羨ましいという気になってくる。

(8/02/05 10:00pm S.T.)

 

2005年7月29日

サザエさんはいくつ?

地方新聞「福岡フクニチ」に四コマまんがサザエさんの連載が始まってから来年で60年になるそうだ。その後、サザエさんは朝日新聞に移り長く連載されたが、昭和44年からはテレビアニメの放送も始まった。アニメは新聞連載が終わってからも未だに続いており、サザエさんたちは日本で一番有名な一家、国民的アイドルである。

さて、原作ではサザエさんの年齢は27歳となっているが(アニメでは24歳)、これは恐らく連載開始の時の原作者、長谷川町子自身が主人公を自分の年齢を参考に設定したものと思われる。

サザエさんは、今も24歳であり、永遠の若さを保ちつづけているが、原作者の長谷川町子は、平成3年に72歳で亡くなっている。バーチャルな存在であるサザエさんもリアルの世界にいれば、今年87歳となっている訳だ。

そんなことを思い出したのも義理の母の女学校時代、先輩に長谷川町子がいたと聞いたことがあるからだ。今も、義母に会うと「そうか、サザエさんもお母さんぐらいの歳になっているのだなぁ〜」と、ちょっと嬉しくなる。

カツオは原作では11歳だそうだから、今は71歳になっている。タラちゃんでさえ63歳と、年金受給の年齢に達している訳だ。

ちなみに磯野波平さんは今も54歳、その妻、フネさんは恐らく50歳そこそこという設定となっているらしい。ということは、タカさん夫婦は、毎週アニメでみているいかにも老夫婦風の波平・フネ夫婦よりも更に年老いた夫婦ということになる。

波平さんには、サザエという嫁に行った娘がいてタラちゃんという孫までいるものの、未だ小学5年生と小学3年生の子供がいる。タカさんが波平さんの立場ならば、「この二人を大学まで行かせて、一本立ちさせるまではまだまだ頑張らなければ」などと変に気張るだろうし、とても波平さんのように悠然としてはいられないという気もするが。そんなことにはこだわらないかのような、あの二人悠々迫らぬ生活態度はまさに尊敬に値する。

これからもまだまだサザエさんのアニメは続くのだろう。確かに彼等は、永遠の命を得て、何時も朗らかに暮らしてはいくのだろうが、良く考えてみると、何時まで経っても現実社会における悩みごとから逃げることはできないとも言える。

なるほど、そう考えてみると、永遠の若さとか、永遠の命というものは、羨ましいと思う反面、やっかいな物という気がしないではない。

人間やはり歳相応に老い、そしていつかは消えて行くというのも、そんなに悪いことではないかもしれない。

(7/28/05 10:00pm S.T.)

 

2005年7月22日

ムラサキツメクサ

野の草花、特に夏の野の草花の成長力には驚かされる。

いつもの散歩道、江戸川沿いの土手に生い茂った草を何人もの作業員が出てきれいに刈り込んでいたのがわずか半月ほど前だった。今朝、暫くぶりにこの道を歩いてみると、土手は早くもうっそうとした草むらとなっており、ちょっと前に刈り込んだ面影もない。

ひまわりは夏の間一日で20センチ以上も成長する例もあるというから、生命力の強い土手の雑草なら、半月も経てばここまで生い茂るのは驚くにはあたらないのかもしれない。

中でも目についたのは、ムラサキツメクサだ。背丈はさほどある草ではないが、ところによっては一面にびっしりと敷き詰めたように群生し、たくさんの赤紫色の花をつけている。小さい小花が集まって丸あるく擬宝珠(ギボウシ)のような形の大花を形作り、その花全体のあの鮮やかな赤紫色が、夏空に映えて、ちょっとしたお花畑のようで何とも言えず美しい。栽培された観賞用の花も確かに美しいが、こういった野の花の美しさは殊更だし、自然の神秘といったものを感じさせる。

ムラサキツメクサが半月という短い期間で成長し花まで咲かせるのは、この野草が地下茎を持っているからだ。地下茎さえほじくり返されなければ、草刈ぐらいではビクともしないという生命力の強さを持っている。

江戸川の土手の風景になじんだ夏の野草といった風情のムラサキツメクサだが、古くから日本の野山にある花という訳ではなく、わずか150年ほど前に日本に渡来した外来種だ。原産はヨーロッパで、古くから牧草として利用されているという。その成分にはイソフラボンを含み、家畜のえさとしての栄養価も高く、又、その成分を抽出してクスリなどにも利用されているとも聞く。

子供のころからノアザミやこのムラサキツメクサのような形の花、青や紫といった鮮やかな色の花が好きだ。8月の末ぐらいまでは、散歩の道すがら土手に咲くこの花が楽しめると思うと、何とも心嬉しくなって来る。

夏の間は早起きして、暑くなる前にこの道を散歩しようと思っている。

(7/21/05 10:00pm S.T.)

 

2005年7月1日

注射嫌い

子供の頃からの注射嫌い、というよりも注射恐怖症だ。これは五十になっても全く治らない。「そんな大きな図体をして」とか「男でしょ!」と、もう五十数年言われ続けている。

もっとも、注射が好きという人はいかになんでもいないだろう。集団検診の時、採血の順番待ちをしながら、他の人たちが採血されているのを見ていると、注射器がいよいよ射される瞬間、ほとんどの人は、しかめっ面をして、あさっての方を向いている。特に「大の男」にこの傾向が強いようにおもわれる。女性は若い内から、月のもので血を見るのになれているし、そもそもお産に耐えられるほど痛さには強いが、男にはそんな気丈さは備わっていないのだと聞いたこともある。しかし、切腹するのは男だし、手術のメスをふるう医者は、男が多いということを考えると、この説は、単に臆病な男の言い逃れに過ぎないかもしれない。

どうしてこんなに注射を怖がるのだろうかと考えてみると、一つには母から受け継いだ遺伝的体質で、注射をする際に血管が中々さがしづらいということがあるように思う。採血の時など、看護婦(最近は看護士といわないといけないらしいが)さんが一発で採血を終えて呉れたことがほとんどない。こちらの右腕なり左腕の根元をゴムバンドで締めアルコール棉で腕を拭いてから、看護婦さんが指で血管を探る。この段階で、中々良い血管が見つからず、看護婦さんの指が「あれ? あれ?」とさまよいはじめる。その内に意を決して、チクリと注射針を射すのだが、どうも上手く血管に当らなかったらしい。散々、ほじくった後で、「すいません、もう一度やりなおします」と、こちらの事情も省みず、又、新たな血管を捜し、チクリと注射針を射すといった作業が続くのだから、注射嫌いのこちらにとってはもうまるで地獄だ。額には脂汗もにじもうというものだ。一番酷いときは、結局、三回注射針をブスブスとさされ、漸く採血してもらったことすらある。

実は先週も、ある病院で悲しい目にあった。採血してくれるのは、ベテラン婦長さん風の看護婦さんだったのだが、この方、自分の経験と技量に相当自信を持っておられるようだった。採血に当って「僕、中々、血管の出難い体質でして」と言ったのが、どうも、彼女のプライドを傷つけてしまったようで、「ハイ、分かりました」といいつつも、いきなりブスリと来た。注射針を射しておいてから血管をさがそうというかのごとく、針先で散々ぐりぐりと突っつきまわした挙句に「血管が逃げてしまったので、やり直します」と来たもんだ。こちらは、涙目になってしまったが、有無を言わさず二の矢が来た。どうにか、二回目で採血はできたのだが、おかげで注射跡は内出血しアザが出来てしまった。

その後、看護婦さんの言ったことが凄い。「看護婦さん泣かせなのね!」だって。「ちょっと待ってよ、泣きたいのはこっちですよ」といいたかったけれど、次回、又、いたぶられてもと思ってがまんして「すいませんねぇ〜」と言っておいた。

こんな具合だから注射嫌いは益々嵩じて行くことだろう。

(6/30/05 11:20pm S.T.)


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