ここにある「プロ野球名言集1」は2004年〜2005年のシーズンオフに
「今週のプロ野球名言コーナー」と称して週に一言づつ連続更新して
いったものを再び集めたものです。プロ野球のカッコイイところ、カッコ悪いところ、
美しいところ、汚いところ、面白いところ、泣けるところなど語った
古今東西の名言集です。
お暇つぶしにどうぞ。

1 「我が巨人軍は永久に不滅です」
  長嶋茂雄(読売ジャイアンツ)
  昭和49年10月14日、長嶋引退試合での名言。 賛否両論ありましょうが、
おそらくプロ野球史上最高の名言だと思います。
長嶋を日本人誰もが知っているように、プロ野球を見ない人でも、
この有名なセリフは、長嶋が語る声とともに聞いた事があるでしょう。
ここでは、この有名部分だけ取り上げていますが、この前後も内容が
素晴らしく良く、名スピーチとして、レコードまで発売されています。

かつて、何故、長嶋は「永遠」ではなく「永久」と言ったのかと話題になった。
ある言語学者によると「永久」の方が尻上がりで響きが良く、聞き取りやすくて
人々の頭の中に「永遠」よりも残るのだそうだ。
もちろん、長嶋がそれを計算して「永久」と言ったわけではないだろうが
やはり「永遠」より「永久」の方がカッコイイ感じがする。
2 「今のは、空中イレギュラーでした」
  張本 勲(読売ジャイアンツ)
  日本一の安打製造機の張本だが、守備の方はお世辞にも上手いとは言い難く
「守っても安打製造機」と言われた。

ある試合、平凡なレフトへの打球をポロリと落球、ベンチに帰って
長嶋監督に「おい、張本、今のなんだ!」と叱責されて、
思わず出た張本の名言。気持ちは分かるなあ。
3 「月に向かって打て!」
  飯島滋弥(東映フライヤーズ打撃コーチ)
  プロ野球史上、最も情緒的な名言として知られる。
なぜ、野球に「月」が出てくるのか。

昭和43年9月6日、後楽園球場で東映-東京戦が行われた。
その試合、右翼方向に凡打をくり返していた右打者・大杉勝男(東映)が
延長11回、打席に入る前に飯島滋弥(しげや)コーチが
ダグアウトからやってきた。
後楽園球場で時期は9月、時刻は夜10時前、左翼席上空に
中秋の名月が仰角30度あたりにぽっかりと顔を出していた。
バットの先端がくるりと回転するように、わかりやすいように、具体的に、
そして情緒豊かな、この球史に残る名言を飯島は大杉に耳打ちした。

この後、大杉は本当に月に向かってホームランを打ち始め、本塁打王を
獲得するまでになる。 ドーム球場が多くなった現在、もう月に向かって
ホームランは打てないなあ。
4 「この1本をファンの皆様の
夢の中で打たせて頂きますれば
これに優る喜びはございません。 」
  大杉勝男(ヤクルトスワローズ)
  昭和58年6月3日、神宮球場でヤクルト-中日9回戦が行われた。
4回無死、4番・大杉勝男(ヤクルト)は鈴木孝政投手から中前安打した。
その時、一塁走者になった大杉の眼がうるんでいるように見えた。

大杉は東映に入団した昭和40年から49年の日本ハム時代まで、
つまりパ・リーグで安打1171本を記録した。そして昭和50年に
ヤクルトに移ってからこの日の安打で、今度はセ・リーグで
安打1000本目をやってのけた。(最終的にはヤクルトで1057本)
プロ野球が創設されて60年、両リーグでともに安打1000本台ずつと
いうのは、この大杉が第一号である。

ところで大杉にはもうひとつの、大きな夢が秘められていた。
本塁打でのパ・リーグ200本台、セ・リーグ200本台第一号である。
大杉はパ・リーグにいた10年間で本塁打287本を打った。
だが人間の運命なんて説明がつかないほど不思議なものだ。
現役19年目の最後の年、つまり昭和58年に大杉の本塁打は
21本である。ヤクルトに移ってこれで199本目、あと1本の本塁打で
両リーグ200本台の新記録が実現するところまできていたのだが
大杉の最後の打席は内野ゴロ併殺打に終わってしまう。

その後の引退セレモニーでの大杉の言葉が美しかった。

「最後に我まま、気ままなお願いですが、
あと1本と迫っておりました、両リーグ200号本塁打。
この1本をファンの皆様の夢の中で打たせて頂きますれば、
これに優る喜びはございません・・・」

その8年後、平成4年4月30日、その人柄からみんなに愛された
大杉も肝臓ガンのため47歳で息を引きとった。
その夜のフジテレビのプロ野球ニュースで、「大杉追悼特集」明けに
キャスターの中井美穂と、ゲスト解説者の大矢明彦が
号泣していたのが印象的だった。
5 「権藤、権藤、雨、権藤」
  権藤 博(中日ドラゴンズ)
  権藤は昭和36年に中日ドラゴンズに入団し、ルーキーで、いきなり35勝、
翌37年には30勝。入団からたった2年で65勝をあげ周囲の度肝を抜いた。

「今日も先発、明日も先発、雨で試合が流れると、翌日はまた先発・・・
気がついたら、権藤、権藤、雨、権藤でした。」と、権藤。

当時のプロ野球ファンで、この身震いするような言葉を知らないものは
ほとんどいない。この名言はマスコミによって脚色され、さらに後に
「雨、雨、権藤、雨、権藤」と続く。悲しいくらいに語呂がいい。

その後、権藤はついに肩を壊し、通算成績82勝でユニフォームを脱ぐことに
なってしまった。
引退後、投手コーチとなり、投手に無理な投球をさせない、
肩に負担のかからないように気を配ることで有名なコーチとなった。
6 「私がルールブックだ」
  二出川延明(パ・リーグ審判部長)
 

審判の威厳と誇りに満ちた名言と思われるかもしれないが、
この名言が出た背景は、まるっきり正反対であった。

昭和34年7月19日、後楽園球場で大毎対西鉄戦が行われた。
8回裏、二塁塁上のフォース・プレーをめぐって、西鉄の三原脩監督が
しつこく審判に食い下がった。
 
プロ野球は、走者の足と送球が同時ならば「セーフ」である。

これを、その采配ぶりから「魔術師」とまで言われた
知将・三原ともあろうものが「同時アウト」だと今まで勘違いしていた
というのが、この騒動の伏線となった。

二出川は「三原さん、野球規則6.05J項によると ”走者の脚より
ボールが速かった場合のみアウト”となっている。同時はボールが
速かったという理屈にならない。つまり”同時はセーフ”という論法になる」
と説明するが、三原は納得しない。

ついに三原は「6.05J項に”同時セーフ”が書いてあるなら、
その野球規則をいまここで私に見せて欲しい」と二出川に詰め寄った。
その瞬間、二出川は体中の血が引いていくのがわかった。
なんと、 二出川はこの日に限って野球規則を自宅に
忘れてきてしまっていたのだ。たった一日、それも初めて野球規則を忘れて
きた日に野球規則を見せてくれと迫られる何とも言えない悲しさ・・
二出川も引くに引けない。
その時である、「私がルールブックだ」という
苦しまぎれの永遠の名言が飛びだしたのは・・・

このセリフを聞くと黙って立ち去った三原も相当のサムライである。

7 「(巨人に)打たれそうな気がしなかったんで、
大したことなかったです。
シーズン中の方がよっぽどシンドかったです。
相手も強いし。 」
  加藤哲郎(近鉄バファローズ)
  89年10月24日、近鉄は日本シリーズ・第3戦に勝ち
これで巨人相手に無傷の3連勝。初の日本一に王手をかけた。
第3戦の勝利投手、加藤の勝利者インタビューで問題の発言が出た。

「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」という加藤の発言が
一般に知れ渡っているのだが、これはマスコミのねつ造。
加藤はロッテの「ロ」の字も言っていない。しかし、そう受け取られても
仕方がない発言内容なのはごらんのとおり確かで、その夜のニュース、
翌日のスポーツ新聞で加藤は袋だたきにあった。この発言に奮い立った
巨人は、第4戦から怒りの3連勝。逆王手をかけた。

第7戦、責任を取る形で先発させられた加藤は、スタンドの巨人ファン
から怒濤のヤジをマウンドで浴び続けることになる。
仕上げは、加藤から本塁打を打った駒田が2塁ベースを回ったあたりで
加藤に向かって「バ〜〜カ!」発言。ついに巨人は勝利し、3連敗後、
4連勝、大逆転・日本一を達成したのであった。

思えば、それは近鉄が一番、日本一に近づいた瞬間だったのかもしれない。
ついに日本一を経験することなく、04年シーズン終了をもって、
近鉄は消滅した。
それを考えると、プロ野球史上に残る大失言と言っていい。
8 「おい、誰か、野手で投げれるヤツはいないのか」
  長嶋茂雄(読売ジャイアンツ監督)
  昭和53年7月6日、札幌・円山球場で行われた巨人-広島戦で
巨人ファンは、50分もの間、悪夢を見続けることになった。

2回表、巨人先発、浅野は広島の先頭バッター、四番・山本に
いきなり四球、次の水谷のショートゴロの間に山本は二塁へ。
続くギャレット、衣笠、水沼に3連続四球でまず1点献上。ここで巨人の
長嶋監督は角(すみ)投手に交代させる。しかし
角は、投手の北別府にも
四球を与えて2点目。 次の高橋は打ち取ったが、正垣に四球を与えて
3つ目の押し出し。そしてライトルには2点タイムリーをあびてしまう。
打者一巡して、山本は再び四球で満塁に。ここで長嶋監督は角から
田村に交代させるが、その田村が水谷、ギャレット、衣笠、と3連続四球。
なんと1イニング10四球6押し出しで、計8失点。
ベンチで長嶋監督がぼやいたという日本ワースト記録の誕生であった。

余談だが、なぜか角投手1人が10四球を与えたと勘違いしている
プロ野球ファンが多く、ノーコンピッチャーというイメージが不幸にも
付いてしまったワンシーンだった。
9 「涙でサインが見えへんから、投げる球はひとつや」
  村山 実(阪神タイガース)
  昭和48年3月21日、炎の闘将、村山実の引退試合が行われた。

巨人V9戦士 、高田、末次、王に対戦する前に
「サインはどうしますか?」と、マウンドに駆け寄った
キャッチャー、田淵の問い掛けに こう答えた村山。

もちろん球種は渾身のストレート、見事三者三振に切って取り、現役生活に
別れを告げたのだった。
10 「ダイナマイトに火がついた」
  藤村富美男(阪神タイガース)
  ミサイル打線、水爆打線、ブルーサンダー打線、ビッグバン打線、
マシンガン打線・・数々の打線あれども、やはりインパクトが強いのは
阪神の「ダイナマイト打線」だろう。
1番・呉昌征、2番・金田正泰、3番・別当薫、4番・藤村富美男、
5番・土井垣武・・と続く強力打線だった。

戦後の物資不足で縦じまユニフォームが調達できず、
紺一色の通称「黒いユニフォーム」がインパクトに拍車をかけていた。

当時、高山方明というプロ野球記者がいて、記事の中に次のように書いた。
「プロボクシングの米国重量級チャンピオンにジョー・ルイスという
男がいる。ルイスの右フックはダイナマイト・パンチと言われ、当たれば
相手はたおれる。今の阪神打線もダイナマイトのような爆発力がある。」

この記事が出た直後、昭和21年7月27日、西宮球場で阪神-巨人戦が
行われた。スコアは4対4のまま、6回阪神の攻撃に移った。
この時、藤村は2、3枚の新聞紙をまるめると、マッチで火をつけ
燃える新聞紙を右手でぐるぐると回し、巨人にむかってどなった。
「ダイナマイトに火がついた〜〜!」 まさにショーマン藤村の真骨頂。
おそらく藤村は高山の記事を読んでいたのだろう。
このパフォーマンスが良かったのか、
阪神はこの回にあれよあれよと
勝ち越して試合に勝った。

これに味をしめたか、このあと、阪神ナインは2、3度、ダグアウトで
新聞紙を燃やしてダイナマイトに火がついたと騒いだが、
「危険だからやめよう」とすぐやめたそうである。
遠い昔の話である。
11 「代打、ワシじゃ!」
  藤村富美男(阪神タイガース監督)
  昭和31年、6月24日、甲子園球場で阪神-広島戦が行われた。
広島先発の長谷川の好投で8回まで、0対1で完封されていた阪神だが
9回裏に、その長谷川を攻めて2死満塁にまで持ち込んだ。

そのチャンスに、三塁コーチャーズボックスにいた藤村監督が球審のもとに
歩み寄り「代打、ワシじゃ!」とコール。そのままバッターボックスに
入ってしまった。観客はヤンヤの大騒ぎ。それで終わらないのが流石、藤村。
なんと、長谷川の初球をたたいた藤村の打球はレフトスタンドへ。
おそらく空前絶後だろう「代打逆転満塁サヨナラ監督ホームラン」を達成。

そして、それが、あの長嶋茂雄があこがれたという、
初代ミスタータイガース・藤村の生涯最後のホームランとなったのであった。
12 「われ人生 24歳にして尽きる」
  石丸進一(名古屋軍)
 

内野手としてプロ入りした石丸は、選手不足の穴を埋めるため投手陣に加わる。
強肩と柔道2段の粘り腰で、昭和17年に17勝、翌18年にはエースの座をつかみ
10月12日の名古屋対大和11回戦では、戦前最後のノーヒットノーランを
達成した。

記録達成の2ヶ月後、海軍予備学生として招集された石丸は航空隊に配属され
特攻隊員となった。現役生活はわずか3年で幕を閉じる。

特攻命令が出ると、石丸は仲間と最後のキャッチボールをした。
石丸の球を受けた仲間は、そのたびに「ストライク!」と大声でコール。
それがどんなに外れたボールになっても、あらぬかぎりの声をあげて
「ストライク!」とコールしてあげた。

昭和20年5月11日、出撃の日、石丸は、零戦に愛用のグラブとボールを持って
搭乗した。機体を滑走路に入れたとき、はち巻きをほどいてボールに巻き付け
地上へ投げた。白いはち巻きには

「われ人生 24歳にして尽きる」と書いてあった。

13 「イメージと補球位置との間、
20センチぐらいの誤差が出るようになりました。
プロとしては失格ですよ」
  高田 繁(読売ジャイアンツ)
  高田はプロ野球史上、最高の左翼守備を見せてくれた選手と言っても
過言では無い。「へい際の魔術師」というニックネームがカッコいい。

やはり「2塁打を単打にしてしまう」と形容された、フェンスに当たった
クッションボールの処理センスは卓越していた。3塁線を抜いた打球が
左翼フェンスのどこに当たり、どの角度で跳ね返るか、どの球場でも
把握していた。そしてゴロを補球した後、今度はどの位置に2塁ベースが
あるのか反射的に頭の中にあり、目をつぶっても2塁に送球できたという。

その高田の引退理由がすごい。「打球の落下点に到達し、ぱっと振り返ると
打球が顔の位置に落ちてくる。自分の描いたイメージと3センチと
ズレがない。ところが55年(引退した年)は20センチの差があった。」
素人目には20センチの誤差などわかりはしない。
しかし、「へい際の魔術師」高田にはそれが我慢できなかったのである。
14 「もっと騒げ・・・」
  足立光宏(阪急ブレーブス)
  昭和51年のプロ野球は、まさに巨人一色に染まっていた。
ミスター長嶋茂雄が率いる巨人は前年最下位から一気にリーグ優勝、
「この勢いで日本一も」とファンのフィーバーぶりも最高潮に達していた。

しかし、日本シリーズで迎え撃つパ・リーグの覇者、阪急ブレーブスにも
負けられない意地がある。巨人V9時代、阪急は5度日本一に挑み
いずれも敗れ去った。巨人の主力選手に衰えの見える今回のシリーズは
阪急にとって巨人を破っての日本一の大きなチャンスだったのだ。
阪急有利の前評判通り、まず阪急がすんなり3連勝するものの
「あと一勝」のプレッシャーから、その後3連敗してしまう。
こうなると勝負の流れは完全に巨人ペースである。
3連敗からの4連勝という、いかにも長嶋巨人ぴったりのドラマチックな
幕切れを確信し、11月2日、第7戦・後楽園球場は99%巨人ファンで
埋め尽くされ、阪急ナインは5万人の観衆をも敵に回しての戦いとなった。

すでに阪急のエース、山田久志も山口高志も連投に次ぐ連投で崩れ、
孤独のマウンドには36歳のベテラン、足立光宏が登るしかなかった。
巨人のチャンスになると怒濤のようなジャイアンツコールが球場全体を
つつむ。その異様な雰囲気の中「騒げ、もっと騒げ・・・」と
足立は四面楚歌のマウンド上で不敵につぶやき、冷静なピッチングを披露。
見事、完投勝利をあげ、長嶋巨人の日本一を阻止したのである。

その時、観衆は思い出した。最強の巨人V9時代、5度敗れ去った
阪急にあって、チームのシリーズ通算勝ち星8勝のうちの5勝を稼いでいたのが
足立光宏。彼がシリーズ史上に残る巨人キラーだったということを。
15 「きみには何かが一つ足りない」
  秋山幸二(西武ライオンズ)
  平成2年、12月の契約更改の日、当時西武ライオンズの中心打者だった
秋山幸二の狼狽ぶりは尋常なものでなかったに違いない。

このシーズン、秋山は西武の主砲として、35本塁打、91打点をマークし、
51盗塁で初の盗塁王も獲得した。長年の実績から考えても、今回の
契約は1億円を下るまい、秋山はそう確信していた。すでに更改を終えた
5年後輩の清原が1億円プレーヤーになったことも、自信の裏付けになっていた。

ところが、球団の提示額は9800万円。成績ではどっこいどっこいの
後輩清原より200万円も下回っているのだ。自分の予想とあまりにも
かけ離れた金額提示に、秋山は思わず逆上する。

「どうしてなんですか」と問い詰める秋山に、交渉相手の清水球団代表は
ピシャリと言う。

「きみには何かが一つ足りない」

この清水代表の言葉は、以来、秋山の頭にこびりついて離れなくなった。
自分に足りないものとはいったい何か、それを必死で考えた。
一言で言えば、それは勝負強さである。
秋山は、たしかに球界屈指のスラッガーであるが、ここぞという場面や
重要な試合では非常に成績が悪く、大舞台に弱いという一面があった。
その点が彼をスーパースターのイメージから遠いものにしていたのだ。

「これじゃあいけない。変わってやる」

そう決心して、秋山は翌年のシーズンに臨んだ。
その年の成績は、打率0.297、35本塁打、88打点。そして日本シリーズの
大舞台では、シリーズ記録に並ぶ4本の本塁打をかっとばし、みごとに
シリーズMVPに輝いた。もちろん、その年の契約更改では1億円をはるかに
突破して、清原を抜き、球団トップに躍り出た。

結果的に見れば、秋山が華麗なる変身をとげるきっかけとなったのは、
「きみには何かが一つ足りない」という清水代表の一言だったのであった。
16 「指令ではない。強い要望なんだ」
  金子 鋭(プロ野球コミッショナー)
  あの江川事件を御存知だろうか。
簡単にいきさつから説明する。
昭和53年、なにがなんでも「巨人」に入団したい江川は、
前年のドラフトで自分を引き当てたクラウン(西武)との交渉を
かたくなに拒否していた。

当時の野球協約には「その球団がドラフト交渉権を得た者と
次の年のドラフト前々日までに選手契約を結べなかった場合、
そのドラフトの交渉権は喪失する」と規定していた。

巨人、江川サイドは「前々日」という表記に注目、「前日」なら
どこの球団にも属さないので、自由に契約できるものと考え、
巨人はドラフト「前日」に江川 卓と電撃的に契約を結んだ。
いわゆる「空白の1日」である。機構側は当然、即座に却下。
しかし、巨人は抗議のため、翌日のドラフトをボイコット。
巨人不参加で始まったドラフトで江川の交渉権を得たのは阪神だった。
巨人は「12球団全員出席のもとでないドラフトは無効」と
さらに難癖をつけ、リーグ脱退も辞さないかまえ。もう無茶苦茶である。

日本中が騒然とする中、昭和54年1月31日、金子コミッショナーより、
「江川は本日をもって阪神に入団し、そして即日、小林 繁投手(巨人)と
交換トレードする」という裁定が下った。

小林の人権もクソもあったものではない。
プロで一球も投げていない者と、巨人のエース級である自分とが
トレードされるのだ。 そして、
もちろんこれは野球協約の
「新人はその年の6月1日まで、トレードしてはいけない」に抵触する。
協約の番人であるコミッショナーが自ら協約を破るのである。
「これは指令なのか」12球団関係者が追及すると、金子は思いっきり
机をぶったたいて「指令ではない。強い要望なんだ」とどなりつけた。
悪名高き「強い要望」発言である。

なぜ金子はこれほどまでして江川を巨人に入団させたのか。
それは金子が超熱烈巨人ファンだったからである。
17 「復讐するは我に在り」
  小林 繁(阪神タイガース)
  昭和54年1月31日、巨人の小林繁投手は、宮崎キャンプに向かうため
羽田空港にやってきた。その小林が空港ロビーに着くと、待機していた
巨人球団職員に都内のホテルへ連れていかれ、江川との交換トレードを
言い渡された。

小林には本当に迷惑な話である。迷惑どころの話ではない。
江川がいくら超大物でもプロの体験はない。小林はそれまでに巨人在籍
6年間で62勝の実績を持つ。それが何故、江川のワガママの犠牲になるのか。
小林は球団幹部から深夜に及ぶまで説得を受けた。

そしてついに「同情はされたくない」と無念の涙を隠して阪神入りを了承、
小林のその態度は世間に称賛された。阪神・小林のデビューは4月10日
甲子園球場での対巨人戦だった。まさに鬼気迫る投球で白星を挙げると
この年、対巨人戦に8連勝、トータルでは22勝9敗、投手部門の
タイトルを総ナメ、沢村賞も受賞し巨人への復讐を見事に果たし、男をあげた。

一方、巨人は、江川入団によるチーム内の不協和音も響き、前年2位から
5位に転落。(阪神は4位。ちなみに巨人球団史上、5位は、2回しかない)
また、江川事件に失望した多くの巨人ファンが、巨人(またはプロ野球)から
去ってしまった。

巨人にとって「江川」は、高い買い物になってハネ返ってきたのである。
18 「これから割れる茶わんを置いておけ!」
  星野仙一(中日ドラゴンズ)
 

「あの星野仙一投手(中日)が声をあげて泣いた話」である。

昭和49年5月23日、広島球場で広島対中日7回戦が行われた。
星野と外木場義郎というエース対決だった。5回表、中日の攻撃が終わった時点で
3対2、中日が勝っている。ところが5回裏、広島は無死満塁としたあと、
山本浩二がバックスクリーン左に満塁本塁打して逆転、星野をKOした。
ロッカーにもどった星野は、瀬戸物の湯のみ茶わん5、6個をコンクリートに
叩きつけた。

それから9日後の6月1日、札幌円山球場で大洋対中日6回戦が行われた。
スコアは6対6の同点で、9回裏の場面から星野が登板した。
山本に満塁本塁打されて以来、9日ぶりのマウンドだ。しかし2つアウトをとってから
長崎慶二にサヨナラ本塁打された。星野はまた湯のみ茶わんを叩き割った。

さらにそれから3日すぎた6月4日、ナゴヤ球場で中日対阪神10回戦が行われ、
星野が先発した。男の運命なんて不思議なものだ。満塁本塁打-サヨナラ本塁打と
つづいた星野が、1回表あっと気がついたとき、一死満塁に追いこまれた。
そして、遠井吾郎に初球を右翼席満塁本塁打された。

負け投手となり、ロッカーにもどってきた星野は、いきなり湯飲み茶わんを
コンクリートの床に叩きつけた。
だが、茶わんは割れなかった。 瀬戸物ではよく割れる。経費がかさむので、
球団側が気をきかせ、プラスチック製茶わんに代えていた。
茶わんは瀬戸物のようにカチャーンと割れてこそ、割りがいがある。

「カンカラカーン」床をころがっていく、空しい音を聞くと
星野は少年のように声をあげて泣きだした。
それから、こうどなった。

「おいマネージャー、これから割れる茶わんを置いておけ!」

19 「仰山(ぎょうさん)ホームラン打って、
王さんを見返しておやり、と母は泣きました」
  清原和博(PL学園/西武ライオンズ)
  昭和60年11月20日のドラフト会議は日本中が注目していた。
PL学園の両雄、清原と桑田のうち、どちらが巨人入りするのか。
しかし、大筋では大学進学を明確に打ち出している桑田は早大。
当時の王監督 からサイン色紙までもらっていた清原は巨人・・というのが
一致した見解だった。

しかし、早大進学説は他球団をあざむく、巨人と桑田との密約で、
巨人は桑田を指名。清原は西武に指名された。その夜、清原は母親弘子さんと
焼き肉を食べに行った。しかし、清原は胸がいっぱいで食が進まない。
いまとなっては、王のサイン色紙がうらめしい。
すると、弘子さんがこの名言を語って傷心の清原を励ました。

時は移り、昭和62年11月1日、所沢球場での日本シリーズ・西武-巨人
第6戦、 西武日本一が目前にせまった9回表2死、一塁守備位置で
ハラハラと落涙する清原の姿があった。なんの説明もいらない。
清原は、「王監督の背中が丸く見えた。今まで僕の胸にあったものが
ふっきれた」と、後に回想している。

余談だが、桑田巨人入りで一番コケにされたのは早大である。
この事件以降、PL学園から早大進学ラインは途切れたままだという。
20 「素晴らしい野球人生だったと、胸を張れます」
  藤井将雄(福岡ダイエーホークス)
  平成11年、藤井は中継ぎエースとして最多ホールドのタイトルを獲得、
師と仰ぎ兄と慕う工藤と、無二の親友の若田部とともに、王ダイエー
初の日本一に大きく貢献することとなった。

しかし翌シーズン、藤井は肺ガンに倒れる。
リーグ2連覇の瞬間は病室で見た。自分の背番号「15」を付けた
マスコット人形が胴上げされているのを見て涙が止まらなかったという。
その6日後、藤井は天に召された。(享年32)そのあまりにも
早すぎる死にナインはさよならを言うことすら出来なかった。

奇しくも日本シリーズ第1戦で投げ合うこととなった
工藤(巨人)と若田部は、藤井の右肩の骨をそっとポケットに忍ばせた。
「全力投球」それが志し半ばで夭折した藤井への、せもてもの手向けである。
藤井が病室で書いた手紙には、ナインへの最後の言葉が書かれてあった。

現在、福岡ドームの15番ゲートは「藤井ゲート」と呼ばれている。
21 「自分の手の平は取りかえるわけにはいきません」
  中 登志雄(中日ドラゴンズ)
  プロ野球選手は平均して2年に1個ぐらい、グラブを買いかえる。
しかし、中登志雄はなんと11年間、同じグラブを試合で使い続けた。

昭和37年2月、阪神から左腕・西尾慈高投手が中日に移籍してきた。
西尾が中日にきて数日後、中は西尾の新しいグラブに気がついた。
当時としては珍しく米国製で、移籍を機会に買い求めたという。
左投げの中は何気なく借りて右手にはめてみた。
「気味が悪いほど、このグラブが私の右手にピタリと密着したんです」(中)

中は西尾からこの新品米国製グラブをゆずってもらった。そのかわりとして
新品国産製を買ってきて西尾に渡した。西尾は投手だから、とくに
グラブにはこだわらない。中の守備は名人芸と言われた。守備範囲が
広く、一度グラブに触れた打球は絶対に落球しない。

中のグラブは、そのうちボロボロになって破れ、タコ糸で縫い合わせた。
さらに使っているとグラブの革が乾ききって、試合直前、ダグアウトの
水道でグラブをぬらして守備位置に走った。最後には手の甲に当たる部分を
半張り補修して使っていた。

いつしか「破れグラブの中」というニックネームがついた。
なぜグラブを取りかえないのかという新聞記者の質問に、
中はポツリとこう答えるのだった。

昭和47年、破れグラブとともに、中は現役引退していったのだった。
22 「迷ったらストレート」
  中島 聡(オリックス・ブルーウェーブ)
  「江夏の21球」とともに有名な「小林宏の14球」というのがある。
ただ、江夏が5人の打者に対して21球を投げたのに対し
小林の14球は、たった1人、ヤクルトの4番打者、
トーマス・オマリーに対してのみに投げた球数であった。

平成7年10月25日、神宮球場で日本シリーズ、ヤクルト対オリックス
第4戦が行われた。第3戦までは、ヤクルトの3連勝、
「がんばろう神戸」を合言葉に1年間やってきたオリックスとしては
ぎりぎりの瀬戸際である。スコアは1対1のまま延長11回裏、
ヤクルトは一死1・2塁のチャンスに持ち込んだ。そして打席には
4番・オマリーが入る、マウンドに立っているのは小林宏投手である。

小林は25歳、年棒1200万、前年度は3勝3敗。
オマリーの年棒は1億7500万、なによりも選手としての格が違う。
しかし、結論から言うと、小林はオマリーに対して投球数14球、
空振り三振にとった。この14球のうち、右翼ポールすれすれの
大ファール2本を打たれ、息を飲むシーンの連続だった。

この試合で小林をリードしていた中島聡捕手は14球全部に迷い続けた。
オマリーに打たれたらオリックスは4連敗、シリーズは終わる。
「フォークでいくかスライダーでいくか迷うばかりでした。でも、
迷ったらストレートだと自分に言い聞かせたのです。全力のストレートを
打たれたのなら、あきらめもつきますから。」
それゆえ、中島は続けてストレートのサインを出し、小林もまた一世一代の
渾身のストレートを投げ続けた。
時間にして12分10秒。極上の真っ向勝負に観衆は酔いしれた。

この小林の勢いに乗って、次の12回表に先頭打者、オリックス4番、
D.J(ダグ・ジェニングス)は決勝本塁打を放ち、
オリックスはヤクルトに一矢を報いたのであった。
23 「捕殺数というのは、少なければ少ないほど
誇れる数字なんです」
  平野謙(西武ライオンズ)
 

ゴールデングラブ賞9度のプロ野球史に残る名外野手の平野謙は、
ちょっと意外な言葉を残している。
「捕殺数というのは、少なければ少ないほど誇れる数字なんです」と彼は言う。

外野手にとっての「捕殺」とは、ヒットや外野フライなどで進塁を狙う走者を
返球によって刺すプレーを言う。その意味では、捕殺は外野手としての
むしろ腕の見せ所、特にホームベース上でのクロスプレーはプロ野球の華でもあり
外野手にとって「捕殺の数は多ければ多いほどいい」というのが普通なのである。

だが、名手平野はそうは考えない。
走者が次の塁を狙って走ってくるのは、ナメられている証拠なのである。
「平野のところにボールがいったら、進塁は無理だ」とハナからあきらめて
くれるのが理想だというのだ。

もともと投手出身の平野は、強肩と送球の正確さには定評があり、
以前は、捕殺数も多かった。しかし平成元年、自己最高の年間21捕殺を
記録したのを最後に、翌年は10、さらにその翌年は5と、半減してきている。

そういえば、高い盗塁阻止率を誇るヤクルトの強肩捕手・古田も、
以前こんなことを言っていた。
「阻止率より、盗塁企画数そのものが減って、誰も走ってこなくなるのが理想だ」と。

これは守備の名手と言われる選手たちの偽りのない心情である。なぜなら、
彼らのプレーには、周囲も、そして彼ら自身も、完璧であることを求めるが、実際に
ボールをやり取りされるプレーでは、100%走者を殺すことは不可能だ。
だがそれを、もし相手が自分からあきらめてくれるのであれば、これ以上
確実に敵のチャンスを封じる方法はないからである。

24 「ホームランのサインがわからんのか!」
  杉浦 清(中日ドラゴンズ監督)
 

昭和39年のある試合、3塁コーチャーズボックスにいた
中日の杉浦監督からバッターにサインがでた。

両手でマルを作り、頭の上にかかげた「いいとも」の友達の輪の
ポーズである。 バッターは初めて見るサインなのでキョトンとしている。
しかも2アウトランナー無し、サインが出る場面ではない。
結局、凡打してチェンジになると、3塁から血相を変えて杉浦監督が
ベンチに飛んできた。

「サインがわからんのか!」
「なんのサインですか」
「ホームランのサインがわからんのか!」・・・・

プロ野球史上、「ホームラン」のサインを出したのは
この時の杉浦しかいない。 もちろんシーズン途中で解任された。

25 「頑張れば、3分で終わるかもしれない
じゃないですか」
  大石大二郎(近鉄バファローズ)
 

勝負の世界は時として、敵でも己でもなく、ルールそのものが
勝利の前に大きく立ちはだかることがある。
昭和63年10月19日、川崎球場で行われたロッテ-近鉄最終戦は
まさにそんな一戦だった。

ダブルヘッダーの第1試合をモノにした近鉄は、これでマジック「1」となり、
次の第2試合となる最終戦で勝てば近鉄の優勝となる。
しかし、引き分け以下なら、すでに全日程終了している西武が優勝という、
とんでもない情況である。

さて、試合は勝ち越せば追いつく好ゲームとなり9回表を終わって
4-4の同点、近鉄はもはや延長戦に望みを託すしかなくなった。
ところが9回裏、2塁ランナー古川の牽制球タッチアウトの判定に
対してロッテの有藤監督が執拗な抗議を続ける。

パ・リーグの規定では、試合開始後4時間を超えて勝負がつかない場合、
延長戦の新しいイニングには入らず、時間切れ引き分けとなる。
試合時間はすでに3時間半を回ろうとしている。引き分けでは優勝の
目がない近鉄ナインは、抗議が長引くにつれて苛立ちはじめる。
観戦していた私も「有藤、もうええやん、試合再開してやれよ」と
腹が立ったのを覚えている。

後に、この抗議を批難された有藤は「当然の抗議」と反論したが、
その場の空気を読むのも監督の才能である。
すでに最下位が決定しているロッテにとってこの抗議に
いくらの価値があるのだろうか。
あまりにも無意味な抗議であった。

結局、抗議による中断は9分間におよび、10回表を迎えたとき
もはや残り時間は15分を切っていた。10回表、先頭ブライアントが
出塁し望みを繋ぐが、一死からバッター羽田の打球はセカンドゴロ
併殺となった。規定の4時間まで余すところ、わずか3分。
この時点で、近鉄の優勝は絶望的となった・・・

しかし、茫然と立ちつくすナインに選手会長の大石が、声をかけた。
まだ、終わったわけではない。もしかしたら11回までやれるかも
しれないというのだ。もちろん、奇跡は起きず、この回で時間切れ
引き分けとなった。しかし、勝利の可能性が万に一つでも残されている
かぎり、その可能性にかけてみようという、この大石の言葉は
近鉄ナインを感動させたに違いない。

26 「こればかりはご婦人にはわからない
痛さでして・・・」
  小西得郎(プロ野球解説者)
 

昭和30年6月7日、後楽園球場での巨人-中日戦が行われた。
6回裏一死でバッターは巨人の藤尾茂。中日投手・杉下茂の内角シュートは
その藤尾の股間へ当たり、藤尾はその場でうずくまってしまった。

ネット裏ではNHKのアナウンサー、志村正順がこのシーンを描写しはじめた。
「当たりました、当たりました、杉下のうなる剛球が
なんとこともあろうに藤尾のキ・・・」
志村はここまで放送したが、さすがに「キ」の後の言葉が出ない。
なにしろ時代は今から50年前、NHKで「キ」の次の3文字を
しゃべってしまったら、えらい事件になる。

そこで志村は、横で解説していた小西の靴をけった。
小西も何か言わなければいけない。
「そりゃあもう、なんと申しましょうか・・・」ここで間をかせぎ
ひと呼吸してからポンっと言ってのけた。
「藤尾君の今の痛さばかりは、ご婦人には絶対わからない痛さでして・・」
これが男に受けた。本当に女性にはわからない。

その夜、当時の明仁皇太子殿下(現天皇陛下)の教育的立場にいた
小泉信三先生から小西の自宅に「NHK放送史上に残る名解説でした」と
電話があったそうである。

27 「長嶋は向日葵(ひまわり)の花、
どうせ私は日本海に夜咲く月見草」
  野村克也(南海ホークス)
 

野村の自虐的名言として名高い。
いくら長嶋より好成績を残して活躍しようが世間の注目は常に長嶋。
野村は日本海に近い京都竹野郡網野町出身なので、日本海の夜に
だれ知ることなく咲く月見草が自分のイメージとシンクロしたのだろう。

昭和50年5月13日、後楽園球場でのロッテ対南海戦で
野村は日本初の通算2500本安打を記録した。
この名セリフは、その後の記者会見で飛び出したものである。

「ねたみ、そねみ、やっかみ、ひがみ・・」日本人の誰にでもそんなものが
心の奥底で渦巻いているのだが、それをストレートに表していて、
共感できる名言といっていいでしょう。

ちなみに、野村が「2000本安打」を達成した時でさえ、翌日のスポーツ紙の

一面は「長嶋の決勝犠牲フライ」だった・・・。そりゃ、ひがむわ。

28 「罰金なし、門限なし、サインなし」
  大川博(東映フライヤーズ・オーナー)
  昭和42年11月25日、「青バット」こと天才打者、大下弘が
東映フライヤーズの監督になった。監督就任の記者会見の席で
大下は途方もない構想を発表した。

天才はユニークな発想をするものだ。それは分かっている。
分かっていても記者たちは仰天絶句した。
「私の野球には罰金なし。門限なし。サインなし。
つまりこの三つがないから、三無主義ですね。」

罰金なしや門限なしはいいとして、野球に「サインなし」なんて
とんでもない話だ。それでは「大下監督の仕事」はスタメンを決めたら
プレーボールと共にベンチに居なくてもいいということになる。
「三無主義?」 記者会見で、それを聞いた記者達は
そんな荒唐無稽な構想があるものかと何度も大下に聞き返した。
その度に大下は「そう、三無主義・・」と、くり返した。
この時、大下は悲しかったに違いない。

さて、大下の「三無主義」野球はどうなったか。
昭和43年8月4日の時点で大下東映は、試合数80、30勝46敗4分
勝率3割9分5厘で最下位に落ち込み、大下は途中休養、後任には
飯島コーチが昇格した。「そら見たことか」と、
世間は三無主義の大下を袋だたきにした。

だが、これには真相があった。
昭和42年11月25日、大下は「打撃コーチ 」として呼ばれ
球団事務所にやってきたら「監督をやれ」と言われた。
その日に水原監督が突然、解任されてしまったのだ。
この時点で無茶苦茶な話である。さらに大下は記者会見前に
大川博・東映オーナーに呼ばれ、こう言われた。

「なあ、大下君。映画で儲けるか損をするかは宣伝で決まる。
その宣伝もただの宣伝では困る。世間をあっと驚かせるような
宣伝ができるかできないかで決まる。そこでこれは私からの
お願いだが、罰金、門限、サインなしの三無主義を
君の創案として発表してもらいたい。」

大川にしてみれば、当時の巨人・川上監督が「石橋を叩いて渡る作戦」で
管理野球のようなお堅いゲームをしていた。その対比として
自分の東映フライヤーズは「自由奔放」な野球を狙った。
映画会社の社長なんて勝手なものだ。映画は世間をあっと驚かせる
宣伝で決まる。だからプロ野球も「三無主義」であっと驚かせる方法を
考えついた。大下こそ気の毒な被害者と言っていい。

人のいい大下は「実はオーナーに言われて三無主義野球をやったのです」と、
途中休養した後も公表することは無かった。
だから世間はしばらく荒唐無稽な「三無主義」は大下のアイデアだと
思い続けていた。

大川博が真相を語り残して他界したのがせめてもの救いだった。
29 「ベンチがアホやから野球ができん!」
  江本孟紀(阪神タイガース)
 

昭和56年、8月26日、甲子園球場で阪神対ヤクルト19回戦が行われた。
先発江本はプロ11年生。34歳、この時点まで113勝126敗、
見事なローテーション要員である。スコアは4対1、阪神が3点リードのまま、
8回表ヤクルトの攻撃に移った。
江本の球威は落ちてきて、シュートも切れが悪くなってきた。江本はこの8回、
4番大杉勝男には左前安打、さらに5番杉浦亨、6番渡辺進に連打され、
4対2と詰め寄られた。
すでに投球数は140球近い。江本はマウンドから、ちらっ、ちらっと
阪神ダグアウトに視線を走らす。「投手交代してほしい」という、
心情的サイン発信である。
だが中西太監督は知らん顔している。サインに気がつかないのか、気がついても
知らん顔のフリをしているのか。江本はなお8番水谷新太郎にも右前安打され、
4対4の同点、8回終了まで投げ、9回から池内豊投手と替わった。

投球数156球。近代野球の感覚でいえば、江本は7回でマウンドを降り、
8回からリリーフ池内が常識である。新聞記者にかこまれた江本は、
腹の立つままに中西批判をした。

「ベンチがアホやから野球ができん!」

このセリフが翌日のスポーツ紙一面を飾り、江本は岡崎義人球団代表から
球団批判の責任をとらされた。要するにクビである。
指揮官がアホだと、部下はやってられない。4対1で勝っているのに、
34歳の先発を8回、投球数156球投げさせるなんて、名指揮官とはいえない。

ただ、この有名な江本の言葉は、マスコミのねつ造だったとする説もある。
江本本人談によると「アホ!」「やっとれるか!」という単語は言ったが
「ベンチがアホやから野球ができん!」という文章にしてしまったのは、
トラ番記者だというのだ。

真相は薮の中である。

30 「それなら、野村をデッドボールで討ち取れ!」
  西本幸雄(阪急ブレーブス監督)
  ゲンコツの似合う熱血漢、西本だがもちろん言葉も熱かった。

南海戦で阪急の打者がバッターボックスに立つと
南海のキャッチャー・野村克也がお得意の「ささやき戦術」で
打者に話しかけてくる。「次、内角来るで、当てたるで。」
実際、狙って球を当てて死球にするわけではなく言葉だけだが
阪急の打者は、たまったものではない。自然と腰が引けてしまう。

ミーティングで打者からこの事を聞いた西本は激昂して
「なにぃ、それなら、野村をデッドボールで討ち取れ!」と、
阪急の投手陣に指示を出した。
西本は大戦中、輜重(補給)部隊の名中隊長として死線をくぐりぬけてきた。
まさに言葉通り「討ち取る」のニュアンスである。生半可な迫力ではない。

このセリフを伝え聞いた、南海・鶴岡監督は西本のもとに血相を変えて
飛んできて「野村にはもうしゃべらせんから」と言ったという。
31 「おまえとじゃなきゃ、終われないんだよ」
  村田兆治(ロッテオリオンズ)
 

「昭和生まれ、明治男」と言われた頑固一徹、「マサカリ投法」の
村田兆治。その女房役は、常に袴田(はかまだ)英利だった。

82年、村田は右ヒジじん帯を痛め、再起不能と言われた。
当時、右ヒジにメスを入れることはタブーであったが、それを承知で
村田は米国に渡りF・ジョーブ博士の手術を受けた。
袴田は「帰って来るまで待ってますから」と村田を送りだした。
その後、見事にカムバックを果たした村田だが、誰でも引退の時は来る。
袴田も若手に正捕手の座を奪われ2軍で引退までの日々を静かに
過ごしていた。

90年10月13日、川崎球場での村田の引退試合。
ブルペンで村田の球を受ける袴田の姿があった。村田は、引退試合の
女房役に袴田を指名。それは袴田の引退試合にもなった。
袴田は初めて村田の球を受けた時に着けていた記念のミットを用意。
「兆治さんの球を受け止めて辞めることができる。こんな幸せなことは
ない。」

見事、引退試合を完封勝利(!)で飾って、2人の現役生活は終わったのだった。

32 「振らなければ、当たらんぞ」
  川上哲治(読売ジャイアンツ監督)
 

ある試合で、代打に送った淡口憲治が見逃し三振をしてベンチに帰ってきた時
前を通りすぎる淡口に川上監督が言った。
「振らなければ、当たらんぞ」

代打に送られた選手が一番してはいけないことは「見逃し三振」である。
結果は同じでも「空振り三振」とでは、ベンチに与える印象は
天と地の差ほどもある。「なんのために代打に送ったのか」となってしまうのだ。

そういうわけで、この川上の言葉ほど「代打の本質」をとらえたものは無い。

川上哲治というと「ボールが止まって見えた」という、
いかにも 打撃の神様らしい名言があまりにも有名であるが、
私はこちらの分かりやすい言葉の方が好きなのである。

33 「あの1球目も、にわかの腹痛だったんです」
  鶴岡一人(南海ホークス監督)
 

鶴岡一人監督(南海)は「親分」といわれ、三原脩監督(当時西鉄)はのちに、
「魔術師」とよばれた。ニックネームを持つほどの男は腹が大きいという話である。

昭和29年8月16日、平和台球場で西鉄対南海14回戦が行われた。
西鉄は3回一死後、5番・関口清治の右翼席本塁打で2対0としたあと、
6番・河野昭修が大神武俊投手の前にライナーをとばした。
これが大神の右足首を直撃、大神は倒れて動けない。
あわてた鶴岡監督は、二番手に白崎泰夫投手を送り込んだ。白崎はプロ2年生、
この29年はそれまで一度も登板していない。
白崎は7番・高倉照幸への初球を投げた。
次の瞬間、当日の観客1万3000人は、口をぽかんと開き言葉がない。
ボールは松井淳捕手の数メートル上空を通過、バックネットの中段あたりに当たった。
「あかん---」
たった「1球」の暴投で鶴岡監督はまた飛び出し、エース宅和本司投手にかえた。
その後、試合は5対4で南海が勝った。

ところが試合終了後3分、当日の公式記録員、針原 稔はあるミスに気がつき、
ふるえあがった。
この試合が無効試合になるかもしれない途方もないミスである。

野球規則3.05(b)につぎのような1項が明記されている。
「ある投手にかわって救援に出た投手は、そのときの打者または代打者が、
アウトになるか、一塁に達するか、あるいは攻守交代になるまで投球する義務がある。
ただし、その投手が負傷または病気のために、競技続行が不可能になったと
主審が認めた場合を除く」

白崎はたった「1球」の暴投が理由で宅和と交代したのだから
100%野球規則違反である。

真っ青になった針原は、鶴岡と三原、それに主審の川瀬 渡の3人を呼び、
野球規則を見せながら事情を説明した。うなって聞いていた、鶴岡と三原は
沈黙3分、やがて鶴岡が言いだした。

「実はな針原さん、川瀬さん、白崎には妙なクセがありましてな。にわかの腹痛を
おぼえると、ボールが無茶苦茶、高い暴投になるんですわ。あの1球目も、
にわかの腹痛だったんです」

すると黙って聞いていた三原もしゃべりだした。

「にわかの腹痛---もっともです。白崎は投げ終わったあと、右手で腹を
おさえていました。にわかの腹痛、当然ですな」

野球規則3.05(b)にも病気なら仕方がないと書いてある。
こうして主審も両監督も公式記録員も気がつかず、マスコミが騒ぎ立てれば無効試合に
なったかもしれない試合は成立した。

ところで「にわかの腹痛」にされてしまった白崎は、この29年、試合数1、
投球回数3分の0、投球数1球のまま二度と登板していない。
にわかの腹痛が長期療養生活と同じようになってしまったのだった。

34 「おまえは気が小さいんじゃない、優しいんだ」
  藤田元司(読売ジャイアンツ監督)
 

巨人の斎藤雅樹投手は、新人時代からすばらしい球威を持っていたが、
コントロールにやや難があった。それを藤田監督はサイドスローからの
投法に変えさせて、みごとに一軍で通用する投手に仕立て上げた。
しかし、それでも斎藤にはまだ弱点があった。「ノミの心臓」と呼ばれる
生来の気の弱さである。

ちょっとしたピンチを迎えたり、重大な局面に立たされると、とたんに
あわてふためいて思うような投球ができず自滅してしまう。
そうした精神的なもろさの故か、王監督時代には中継ぎや敗戦処理に
回されることも多く、十分に活躍する機会を与えられずに
くすぶり続けていた。

平成元年、王政権が幕を閉じて、再び巨人軍監督に就任した藤田は
そんな斎藤を立ち直らせようと、彼にこう言い聞かせた。
「おまえは気が小さいんじゃない、優しいんだ。だからもっと自信を
持てばいいんだ。」
また、藤田は、斎藤が先発する試合では正捕手の山倉ではなく
有田とのバッテリーを組ませた。有田は強気のリードで知られた捕手で
その有田の強気が斎藤の「弱気の虫」を封じ込めてくれると
考えたからである。

その後の斎藤の活躍は語るまでもないだろう。
「ホームベースを真横に横切る」と謳われたスライダーはホントすごかった。

半分ダメになりかかっていた投手を、わずか1年足らずでセ・リーグを
代表するエース投手に仕立て上げたのだから、藤田の手腕は大いに
評価されていい。
短所をあげつらわず、むしろそれを長所に転化してほめ上げることによって
斎藤の能力を一気に引きだしたのである。
なんとも愛情あふれる指導ぶりではないか。

35 「野球は害毒である」
  新渡戸 稲造(教育者、農学者)
 

旧5千円札で有名な新渡戸について意外と知られていない話がある。
彼は野球が大嫌いなのである。

例えば、東京朝日新聞社が明治44年8月29日から9月19日に
いたるまで実に22回にわたり「野球害毒論」というタイトルの
連載企画物を紙面に載せた。数人の著名人が交代で書いたものだが
新渡戸はなかでも野球嫌いの急先鋒だった。

「学生は野球に夢中になって勉強しなくなる。また肺を悪くするなど
健康上もよくない。野球は害毒がありこそすれ、いいことはひとつもない」
もちろん肺が悪くなるなど根拠の無い暴論である。
しかし、このころの世相からか、この野球害毒論は当時の
旧制一高野球部、早稲田、慶応野球部に衝撃を与え、賛否をめぐって
一種の社会現象になった。

歳月は流れ、野球害毒論を22回にわたって世に問うた朝日新聞社が
高校野球を販路拡張の金看板としている。
新渡戸稲造は墓の中でどんな顔をしているのだろう。

36 「甲子園は清原のためにあるのか!?」
  植草貞夫(ABC朝日放送アナウンサー)
 

これは、プロ野球の名言ではなく高校野球のものだが、
高校野球放送史上に残る名言なので取り上げてみた。

85年、夏の高校野球・第67回大会の決勝、
宇部商(山口)-PL学園(大阪)戦での名言である。

6回裏、バックスクリーン左へ飛び込む豪快なホームランを清原は放つ。
この試合、4回に続き清原2本目のホームランである。宇部商がいくら
突き放しても清原のホームランであっさり追いついてしまうのだ。
以下は、この時のあまりにも有名な植草アナの実況である。

「さあ、移ったセンター・藤井のところに飛んだ〜!」
「藤井が見上げているだけだ!」
「ホームランか?」
「ホームランだ!」
「恐ろしい!」
「両手を上げた!」
「甲子園は清原のためにあるのか!?」

清原の甲子園通算13本塁打、29打点は未踏の記録である。
桑田とともに5期連続甲子園出場、そのうち4度決勝に進出し、2度優勝した。
桑田の甲子園通算20勝も戦後最多。天才肌で豪快な清原に対して
努力型で緻密な桑田と、対照的な2人が競い合い黄金時代を築いたのである。

37 「蝶の舞う、春の野原でボールを追うから”野球”」
  中馬 庚(教育者)
  野球殿堂入り者名簿を見ていると、「この人、誰なんだ?」と
思うことがあるが、中馬庚はその最たる人物だろう。

明治時代の中期、東大(当時帝大)に中馬庚(ちゅうま かのえ)という学生がいた。
中馬は明治6年にすでに伝来していたベースボールをこよなく愛していた。
中馬はこのベースボールという名前を、日本語に翻訳したいと
いつも思っていた。中馬は頭の中であれこれとベースボールを連想した。
その結果「春の野で蝶とたわむれながらキャッチボールする。
秋にはススキの穂の中でボールを追う。・・・野球には詩がある」

こうして中馬は明治27年8月に「野球」という訳語をつけ
さらに明治30年7月30日に、日本野球史上、初めて「野球」という
タイトルの単行本(野球を最初に体系的にとらえた本)も出版した。

私たちは何気なく、いまプロ野球、プロ野球と口にする。
その「野球」という名の名付け親が中馬である。

中馬は実技者としては三流だったから「野球」という名翻訳だけで
野球殿堂入りしたといっていい。

 

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