ピアノ愛好家の、ピアノ愛好会による、ピアノ愛好家のためのウェブサイト Atelier Pas de Chat ~アトリエ パ・ド・シャ~

ピアニフル デイ

第36話  ――ダンスフル デイだった日々へ ~前篇~

今回と次回はピアノの話ではなく、ちょっと昔話をさせてください。

ピアノを復活させるさらに10年ちょっと前、私はバレエを復活させていました。幼稚園年長組から中学1年まで続けたモダンバレエ。本当は、クラシックバレエを習う予定でしたが、当時はまだ近所にクラシックバレエスタジオなどなく、母もバレエ情報には疎かったので、通っていた幼稚園を借りていたモダンバレエ教室に通ったのです。

遡れる一番最初の将来の夢の記憶がバレリーナ。幼稚園の頃、テレビで見た「白鳥の湖」に感動して、自分もオデット姫になると思ったのが始まりでした。けっこう書いていることなので、ご存じの方も多いかな。そして、これもだいぶ以前に書いたことがありましたが、小学校5年、目立つ役をもらった発表会の練習中に太ももの肉離れを起こし、以後1年間レッスンを欠席しました。本当は1カ月で痛みはひき、2カ月後には復帰もできたのですが、実際に復活するまで1年かかりました。でも、復活はしましたが、ちょうど体が変化を始める頃と重なり、体は重くなり、やる気はなくなり、中学でバスケットボール部に入ると、そちらのほうが楽しくなり、やめてしまうのです。

それでもやはりバレエは好きなわけです。いつかレッスンを復活したいと心のどこかで思っていました。でも、10代後半から20代半ばまでは、レオタードが似合う体型になるまで復活したくないと、愚かな言い訳で始めもしないでいたのです。まず練習に練習を重ねない限り、体型なんて変わるはずないのですが、当時の「若さ=バカさ」だった私は、何かにチャレンジするにもわざわざもっともらしい理由が必要でした。

転機は20代最後の年。30代は若くないと思っていた頃(それもまたバカさ故ですが…苦笑)、当時勤めていた会社帰りに通えるスタジオを見つけたんです。レオタードが似合うようになるまで待っていたら間に合わないと、ふと直感でここだと思ったスタジオでした。そこにいらっしゃったのが岩村信雄先生。岩村信雄先生は、業界では知る人ぞ知る人だったのですが、不勉強な私は名前すら知らない人でした。ちょっと年配だけれど、見本の動きがすごくキレイ。ふとしたムーブメントがすごく優雅に見える。何故? ポール・ド・ブラがすごく上質に見える。こんな人に習いたい…というのが始まりでした。面白くて、すごく厳しいレッスンの始まりです。岩村信雄先生のレッスンは、「お稽古ごととは何か」みたいな哲学、そしてそれに伴う躾的な話も入ってきます。ワタシ的には、絵空事ではないウンチク、本人の体験も含まれている実践的哲学って面白いと思うんで、ウェルカムなんですけれどね。

その当時に聞いた話ですが、母が通っていた洋裁教室で、昔、バレエをやっていたか、好きだったかのお婆ちゃんがいて、その方が岩村信雄の大ファンだったのです。ブロマイドも持っていたそうです(笑)。ハンサムで、そのお婆ちゃん曰く、「今の熊川哲也並みかそれ以上だったのよ」と。小牧バレエ団で、今で言うプリンシパルダンサーとして多くの王子様役をやっておりました。ニューヨークへも留学し、メトロポリタンだったかな、舞台に立ったりしておりました。あのABTで講師もしたし、当地ではバレエだけではなく、ジャズ、タップも習得し、帰国後それらをいかしたショービジネスの世界や映画界でも活躍しました。

当時通っていたスタジオの人が、「先生は若い頃より角が取れて丸くなったのよ、あれで…」と言ったことがありました。怒ると、凄まじいほどの怒りパワーがスタジオじゅうに充満して、生徒一同が青くなったりしたものでした。喜怒哀楽が激しいのです。でも、それは芸術家の特徴なんだと思います。ある意味、それはしょうがない。そういう起伏のない芸術家なんて私は知らない。

そんな先生に29歳で出会いました。どうなったか? ハイ、ハマりました。それはもうドップリと。最初週2回のバレエだけのレッスンが、半年後にはジャズ、タップが追加。その半年後には週3回へ、そして4回へと増え、ついにはほぼ毎日。それどことか、スタジオに泊まってそこから出勤する日もけっこうありました。そして、ついに会社も辞めてしまう(苦笑)。バイトしながら、毎日レッスンの30代前半(苦笑)。そのスタジオだけではなく、いろいろなスタジオの体験レッスンやワークショップに顔を出しましたっけ。
 一番の放蕩娘時代の到来でした。

後篇につづく

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