杉並の通史 古代

The History of Suginami City

最終更新 2003/11/03

杉並の通史 古代

トピック 古代 中世 近代 現代

1.旧石器時代の杉並

先史時代、杉並は海の中だった

古く歴史をたどると杉並は海の中でした。ですから、人間は住めるわけはありませんよね。杉並にヒトが住み始めたのは地球の歴史から見るとつい最近のことです。

地球の歴史を45億年としてそれを1年間にたとえると、ヒトが生まれてからの200万年は、大晦日の最後4時間ほどになります。ちなみに1年のほとんどは、先カンブリア時代(9分の8)が占めます。

関東地方は海の底でくぼみだったようです。そこにまわりの山から石や砂が運ばれて堆積します。この間、古多摩川が大量の砂や石を運んで扇状地を作りました。現在の多摩川は、扇状地の南端を流れています。その後地面の隆起や海面の下降があり、火山灰が降り積もり、関東ローム層を形成して、現在の武蔵野台地ができます。

杉並にヒトが住み始めたのは約3万年前

杉並にヒトの痕跡があるのは今から約3万年前です。大晦日の最後3分30秒程度です。このことは遺跡の発掘からそのように考えられています。下高井戸塚山遺跡から発掘された「局部磨製石器」は、約3万年前のものと考えられ、この種のものでは武蔵野台地最古とも言われています。(郷土博物館のカタログには日本最古とありますが、誤りと思われます)

どこからこの人たちが来たのかですが、北方系漁労民という説もありますし、アイヌ系の人たちという説もありますが、私は日本海側から碓氷峠や多摩川上流を経由して来たのではないかと考えています。

2.縄文時代の杉並

縄文時代 東日本は文化の中心

気候(温暖)や地形(平野が広い)の関係からその当時東日本は文化の中心だったと考えられています。つまり自然による食料の生産量が多かったということです。クリ・コナラなどの実が多く採れ、川をさかのぼるサケも手に入りやすかったのです。人口も西日本と東日本を比べると縄文中期東日本が96%、西日本が4%というデータもあります。そのようなわけで、杉並区内にも、神田川、善福寺川、妙正寺川のまわりを中心にたくさんの遺跡が残っています。

ちなみに約6000年前は気温が現在よりも高く、海面が約6メートルも上昇し、関東平野の中にも海が入り込みました。(縄文海進)

縄文後期 人口の激減

縄文時代、人口が増え、自然の人口支持力いっぱいいっぱいで生活していたところに大きな気候変動がきます。

4,500年前から2,500年前にかけてそれ以前と比べて約3度程度気温が低下します。そのためこの頃関東では、人口が激減しました。南関東と東山では90%も減少したそうです。その反対に西日本では2倍に増加したといわれています。

その原因としては、気候変動による食糧不足、大陸からの疫病の流行、人口の移動などが考えられますが、はっきりしたことは分かっていません。

縄文後期から弥生中期にかけて杉並区内には遺跡が発見されていません。

3.弥生時代の杉並

関東に弥生文化がきたのは西暦100年頃

この時代大陸から弥生文化と呼ばれる稲作を中心とした文化が伝わります。そして、だんだんと北海道を除く全国に波及していきます。関東地方に伝わったのは100年ごろと考えられています。

杉並区内では弥生後期から

杉並区内では、弥生前期・中期の遺跡は発見されていません。後期になって神田川・善福寺川・妙正寺川の流域で稲作が行われたことが分かっています。

それにともなって貧富の差もできてきたのでしょう。大宮八幡宮北側の台地上に方形周溝墓跡があり、そのころの地域の首長クラスの墓といわれています。広口の壺、勾玉、カラス玉などが出土しています。

4.奈良時代の杉並

武蔵国の成立

645年、大化の改新がおこり、国郡制がしかれ武蔵国に国司が派遣されました(646)。府中市の大国魂神社のあたり(?)に国府(後に国衙(こくが)とよばれる)が設置され、741年には現在の国分寺市に国分寺が作られました。杉並区は、武蔵国多磨郡に含まれました。多磨郡10郷の中で海田(あまた)郷に含まれました。

武蔵国は、従来北部勢力が強かったので、中央の足場としてすでに屯倉が寄進されていた南部を選んだといわれています。しかも全国に先駆けて改新の翌年大化2年に行われたのは、それだけ東国が注目されていたということでしょうか。

帰化人(渡来人)の活躍

武蔵国には朝鮮半島からの渡来人が安置されます。彼らのために、高麗郡と新羅郡が建郡されます。また、浅草寺付近、狛江付近、深大寺付近も彼らが活躍した場所といわれています。

彼らは、仏教、馬の飼育、調布の技術などを伝えたといわれます。また、新開の地を一生懸命開拓したのだろうと思います。

乗潴(あまぬま)駅(天沼?)に、伝馬十匹が置かれる

武蔵国は東山道に属していましたが、東海道に属すことになり、それに伴って武蔵国府(府中)を中心とした交通路が出来上がっていきます。その中の一つに、武蔵国府(府中)−乗潴(あまぬま)−豊島−井上(墨田区寺島)−茜津(松戸)−常陸国府(石岡)というルートがありました。

タイトルにあるように天沼に駅があったとする説もありますが、真偽の程は定かではありません。

奈良時代、国郡制がしかれ府中を中心に多摩川沿いは発展したと思われます。しかし、ほとんどが荒野だったと思われる杉並区は、稲作ができる地域を除いてほとんど人が住んでいなかったのではないかと思われます。

ありがとうございました
(open2003.6.29)