任侠映画と義理人情

 

 任侠映画とは実録路線に転換する以前に東映が量産していた所謂やくざ映画 をさす。私が学生の頃全盛を極めていたのだが、それとの出会いは私に強烈なイ ンパクトを与えた。もう二十年以上も前のことであるから、この作文も今となっ ては昔話の類にすぎないが、思い出のために書き残す。笑い話として聞いてもら おう。

 インテリぶった人の大半がそうであるが、やくざ映画というと、「なんだそ んなもの」という態度をとる。私自身も「どうせたいしたものではあるまい」と はじめは思っていたが、友人にしつこく薦める者があり、それほど言うなら念の ためにと、一度見たのがやみつきになった始まりである。(当時大手のマスコミ は任侠映画を暴力肯定映画と決めつけて徹底的に無視しており、新聞に映画批評 が載ることもなかったので、どんなものか見てみないことには見当もつかなかっ た。)

 現代劇とも時代劇ともつかぬ奇妙な雰囲気のなかに、独特の世界が造形され ているのにまず驚かされた。今となっては別に珍しくもないのだが、当時として は非常に新鮮な印象だったのだ。私はもともと映画ファンではあったが、大学生 になってからはなにかと忙しく、あまり映画館には通っていなかったのだが、そ れ以来、忘れていた映画館通いが復活したのだ。

 最初に見たのは、忘れもしない「緋牡丹博徒」の「一宿一飯」、「花札勝負 」の二本立であったが、私はこれらの映画に素直に感動した。実際に涙があふれ てとまらなかったのだが、そういうことは滅多にあることではない。そして、同 じ感動をまた味わいたいがために、また映画館に行かないではいられなくなって しまった。麻薬中毒のようなものだ。 いくら面白くつくられた映画でも、波長 の合わない映画とか、ただ目の前を通過するだけの映画というものがある。だが 、これらは違っていた。私の心のひだにぴったりと食いついて離れず、私と完全 に一体化してしまったのだ。ほとんど恍惚の境地である。

 任侠映画のモチーフは、図式的には近代に対する前近代からの反逆ともいえ ようが、スクリーンから苦しい喘ぎのように繰り返される悲痛な反近代の呼びか けは、近代主義的ガラクタ思想の掃き溜めと化していた私の頭を直撃し、壊滅的 な打撃を与えたのである。  
 「義理だとか、人情だとか、そんなものにふりまわされるような人間はダメ だ。知性と理性にもとづいて行動しろ」というのが、小学校以来学校の先生から 教えこまれた考え方であった。これは近代主義の立場である。そして、ずっとそ のような考え方を正しいと思って生きてきたのだが、ここへ来て突然アンチ・テ ーゼを突きつけられた格好となった。
 素直に反省してみると、近代主義は、所詮は私の表層を飾っていたものに過 ぎず、私にとって血肉化したものではないことが理解された。それどころか、知 性や理性と称するものがいかに人間社会に害毒を流してきたか、そして義理とか 人情とかいうものが、人間社会にとっていかに大切なものであるかということを 、あらためて考えさせられた。

 東映任侠映画の中心思想は「義理を守り、人情を大切にしてこそ人間。義理 も人情もないような奴には身を捨てて抵抗せよ」という道徳律である。通俗的、 浪花節だと嘲笑されそうであり、実際そのように嘲笑するのが現代の一般の風潮 である。「義理人情に動かされるような人間ではだめだ。理性と知性にしたがっ て行動せよ」というのが近代主義の教えるところであり、私自身もかつてはその ような思想に呪縛されていた。 

 だが、理性的判断・知性的判断は、単にその時点で正しいと思えるという一 種の錯覚であるにすぎない。学問が理性や知性のうえにしか成立しないことは認 めるが、理性や知性にもとづく判断は人間の生き方の指針とはなりえない。知性 や理性はつねに部分的なものとしてしか存在せず、学問はつねに部分知であるが ゆえに、将来否定されるべき誤った認識である運命をまぬがれることはできない 。

 戦後日本民主主義は、過去の価値観の崩壊に対して近代主義をもってこれに 代替しようとした。しかし近代主義は人間社会の道徳律の確立に失敗し、エゴイ ズムを粉飾するこざかしさの競合をもたらしたにすぎない。その意味で義理・人 情の道徳律を実践的処方箋として提供する東映任侠映画は人生論の立派な教科書 であり、教育映画なのである。

 そういうわけで、任侠映画は私のその後の生き方にかなり大きな影響を与え た。「馬鹿馬鹿しい」と笑われるかも知れないが、いくら大量の哲学書を読んで も得られないほどの教訓を私は任侠映画から学んだのである。やくざ映画を見る ように私に薦めてくれた友人には、何とお礼を言ってよいか分からないほどであ るが、残念ながらその友人が今どこで何をしているか私は全然知らないのである 。

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