27 ルネサンス=ヨーロッパにおける文明の復興
[1]ギリシア・ローマ文明のゆくえ
ゲルマン民族の侵入後の西ヨーロッパにおいては、ギリシア・ローマの古代
文明は忘れさられたものとなり、西ヨーロッパは世界文明の辺境となった。ヨー
ロッパ統一の英雄、フランク王国のカール大帝すら、王となるまで読み書きがで
きなかったという。古代ギリシア・ローマ文明はゲルマン民族の侵入後、どのよ
うな運命をたどったのであろうか。
ローマ帝国の東西分裂後、5世紀に西ローマ帝国は滅亡したが、東ローマ帝
国(ビザンツ帝国)は生き残り、ビザンツ帝国はギリシア・ローマ文明の直系の
相続者となった。さらに8世紀以後、イスラム世界がビザンツの領域を侵食する
につれて、イスラム世界はその文明を積極的に取り入れ、消化していった。たと
えば、アッバース朝のカリフ、マームーンは、830年頃、バグダードに「知恵
の家」という研究所を設立し、ここはギリシア古典のアラビア語への翻訳の中心
地となった。また、10世紀の後ウマイヤ朝(イベリア半島)のカリフ、ハカム
2世は、バグダード、ダマスクス、カイロなど各地に図書収集の係官を派遣し、
40万冊の書物をコルドバの図書館に集めたという。また、ビザンツ領のシチリ
アもイスラムに征服され、10世紀に開かれたカルブ朝(ファーティマ朝の総督
の建てた半独立的王朝)のもとで、文化的に繁栄した。こうして古代ギリシア・
ローマ文明はビザンツ帝国およびその遺産を継承するイスラム世界によって保存
されたのである。
ところが、その後イスラム世界と西ヨーロッパ世界とが、各地で接触するに
つれ、イスラム世界に保存されてきたギリシア・ローマ文明が、西ヨーロッパ世
界に紹介されるようになり、ここにヨーロッパにおける古代文明の「再生」、す
なわち「ルネサンス」と呼ばれる現象がおこることになる。(「ルネサンス」と
はフランス語で「再生」のこと。イタリア語では「リナーシタ」である。)
[2]12世紀ルネサンス
アラビア語に翻訳され保存されてきた、ギリシア古典のラテン語(当時のヨ
ーロッパ世界の共通語)への翻訳は、12世紀に活発となった。アリストテレス
、ユークリッド、アルキメデス、プトレマイオスなどの著作が、主としてアラビ
ア語からラテン語に翻訳されたのはこの時代であり、これを「12世紀ルネサン
ス」(アメリカの中世史家チャールズ・ホーマー・ハスキンズの命名)と呼ぶ。
その中心となった地域は、@イベリア半島、Aシチリア島、B北イタリアで
ある。
イベリア半島は、後ウマイヤ朝が支配していたが、11世紀には小国家に分
裂し、キリスト教徒とイスラム教徒の争いの場となった。1085年、トレドが
キリスト教徒の手におちると、ここは西欧側のアラビア文化吸収の一大中心地と
なり、アラビア文献のラテン語への翻訳が活発に行なわれた。1086年には、
モロッコのイスラム王朝ムラービト朝がイベリア半島に侵入し(有名なエル・シ
ドの活躍はこの時のことである)、さらに12世紀に入ると、北アフリカから新
たなイスラム王朝ムワッヒド朝が侵入したが、トレドを奪回することはできず、
西欧側のイスラム文化研究の中心地の地位をたもった。また、印刷術の前提であ
る製紙法は、中国からイスラム世界に伝えられたのち、イベリア半島からヨーロ
ッパに伝えられたのである。
シチリア島はギリシア植民地からポエニ戦争を経てローマの属州、さらにビ
ザンツ領となったが、827−902年にかけてイスラム勢力のアグラブ朝(ア
ッバース朝支配下でチュニジアの支配を認められた王朝)に征服された。909
年アグラブ朝が滅んでファーティマ朝がおこり、917年シチリアは一旦ファー
ティマ朝の支配下に入った。しかし、その後ファーティマ朝がエジプトに移動し
たため、シチリアはその総督の開いたカルブ朝の支配下にはいり、そのもとでイ
スラム文化がおおいに繁栄した。11世紀後半、ノルマンディーのノルマン人が
シチリアに侵入し、さらに南イタリアを支配下において両シチリア王国を建てた
ため、シチリアはキリスト教徒の支配下に入ることとなり、ここに、イスラム文
化とキリスト教世界が接触することになった。ノルマンの歴代君主には文化を愛
好する者が多く、ここでアラビア文献のラテン語への、またはギリシア原典から
ラテン語への翻訳活動が活発に行なわれることになった。
ヴェネツィアやピサなどの北イタリア諸都市は、コンスタンティノープルと
商業活動を通じて接触していたため、ギリシア文化が移入され、ここでは、ギリ
シア原典からのラテン語への翻訳が行なわれていた。
このように12世紀を通じてギリシアの古典が主としてアラビア語から翻訳
され、ヨーロッパにおける、哲学、科学の復興をもたらした。とりわけ、アリス
トテレスの哲学は、キリスト教を革新し、トマス・アクィナスのスコラ哲学を生
み出す原動力となった。また自然科学の著作の翻訳は、ヨーロッパにおけるその
後の科学の勃興の基盤を育成した。
12世紀のギリシア文化への知的探求を出発点として、その後の14−6世
紀のイタリア・ルネサンスが生まれたのである。
[3]イタリア・ルネサンス
14世紀末から16世紀前半にかけてのイタリアで、美術・文芸などの文化
面に新しい傾向が現われ、その著しい発達が見られた。これを「イタリア・ルネ
サンス」(単に「ルネサンス」という場合、これをさすことが多い)と呼ぶ。
すでに12世紀以来、ヨーロッパはイスラム世界からギリシアの古典を学び
、科学的・合理的思考を学んでいたが、それが、商業活動によって繁栄していた
イタリアで、文化的な結実を見たのである。イタリアは当時小規模な都市国家に
分裂しており、封建的な束縛から比較的自由であったこと、また、遠隔地商業を
中心とした生活が、人々を因習や偏見から解放し、合理的な発想や自由な思考を
養ったことが、イタリア・ルネサンスの原因であろう。
中世文学からイタリア・ルネサンスへの過渡期を代表する人物に、フィレン
ツェの人ダンテ(1265−1321)がいる。彼は、当時知識人の使う言葉で
あったラテン語ではなく、イタリア語によって叙事詩「神曲」を著し、ヨーロッ
パ最大の詩人の一人と称される。「神曲」は、ダンテがその敬愛する古代ローマ
の詩人ヴェルギリウスとともに、地獄・煉獄を遍歴し、さらに恋人ベアトリーチ
ェの案内によって天国に至る物語であるが、その内容にはマホメット昇天の伝説
などイスラム思想の影響が強く認められるという。
つづくペトラルカ(1304−74)は、ラテン文学を最高の文学と考え、
自らもラテン語で長編叙事詩を執筆し、「最初の人文主義者」と呼ばれる。人文
主義(ヒューマニズム)とは、イタリア・ルネサンスの特徴をなす傾向であり、
古代ラテン語を理想とし、その文体を模倣しようとする態度をさす。それが「人
間主義」とか「人道主義」とかいう意味に転用されるようになったのは、古代に
おいてこそ真の人間らしさが存在すると考えられたためである。しかし、ペトラ
ルカの作品で優れているのは、ラテン語の作品ではなく人妻ラウラへの想いをイ
タリア語で書いた恋愛の叙情詩であるというのは皮肉である。
ペトラルカと同時代のボッカチオ(1313−75)の場合も、ラテン文学
・ギリシア文学の研究から出発し、ラテン語の著作も多いが、彼の名を一躍高め
たのはイタリア語で書かれた「デカメロン」(十日物語)であり、これはヨーロ
ッパにおける最初の小説であるとされる。
その後に現われた人文主義者のなかでは、「君主論」の著者として著名なマ
キアヴェリ(1469−1527)が異彩を放っている。彼は、君主は欺瞞や暴
力を用いることを恐れてはならないと説き、後世、マキアヴェリズム(権謀術数
を用いた汚い政治のやり方)の語を生むことになるが、彼は政治を道徳や倫理の
観点からではなく、現実の姿に即して分析し、イタリアの政治の安定を願ってこ
れを書いたのである。
イタリア・ルネサンスは、また、美術の面で著しい飛躍を見せた。遠近法の
導入と、人体に関する解剖学的知識の発達により、人間美の表現が追求された。
ルネサンス美術を準備した画家にチマブエ(1240頃−1302頃)がい
る。彼は、それまでのビザンツ美術の様式のうえに斬新な構図を加え、ルネサン
ス美術への橋渡しをした。彼の弟子となったのがジョット(1266頃−133
6)で、ビザンツ様式を克服しルネサンス様式を確立した最初の人とみなされる
。その後150年ほどを経て、ルネサンス美術は最盛期を迎え、三大巨匠といわ
れるレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452−1519)、ミケランジェロ(14
75−1564)、ラファエロ(1483−1520)が現われて、活動した。
彼らは単に絵画や彫刻に腕をふるったばかりではない。ルネサンス期の画家とは
、一種のスーパーマンであり、ダ・ヴィンチなどは、機械の製作、建築・土木工
事、新兵器の考案などなんでも来いの活躍ぶりであった。彼らの生活は、フィレ
ンツェの支配者メディチ家や、ローマ法王の保護によって成り立っていた。
[4]北方ルネサンス(西欧ルネサンス)
イタリア・ルネサンスは三大巨匠の活躍した16世紀の前半を境に、急速に
衰退した。その主な理由は、いわゆる新航路の発見により、ヨーロッパにおける
東洋貿易の覇権がイタリアからスペイン・ポルトガルに移り、イタリアの衰退が
起こったことにある。しかしイタリアで花開いたルネサンスは、その影響を北方
のヨーロッパ諸国に与え、いわゆる北方ルネサンス(または西欧ルネサンス)を
生んだ。
イギリスのチョーサー(1340?−1400)は、イタリアに旅行してル
ネサンスの影響を受け、大作「カンタベリー物語」を書いた。この著作により、
中世英語が完成し、また、英詩の新しい形式が生み出された。
ドイツでは16世紀の初め頃人文主義が盛んとなった。宗教改革を行なうル
ター(1483−1546)も人文主義者の一人であり、人文主義者たちから英
雄視された。ドイツのルネサンス絵画の巨匠デューラー(1471−1528)
もルターに同調していた。
フランスでも古典の研究がさかんとなり、「福音書」(「新約聖書」の一部
)の原典を研究する者もあり、その影響下にカルヴァン(1509−64)らの
宗教改革者が生まれた。また、古典研究者のなかから、ラブレー(1494−1
553)が現われ、「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」を著し、フラン
ス・ルネサンスを代表する作品となった。
オランダの人文主義者エラスムス(1466−1536)は、ラテン語の「
格言集」を刊行して人気を得、「愚神礼賛」を著して俗物をこきおろした。彼は
はじめ宗教改革に同情的であったが、その狂信的な性格を嫌い、新旧キリスト教
を和解させようと努めたが、その努力は実を結ばなかった。
また、スペインのセルヴァンテス(1547−1616)が書いた「ドン・
キホーテ」は、世界最高の古典のひとつに数えられている。
[5]17世紀科学革命
アラビア語・ギリシア語からの自然科学に関する文献の翻訳は、ほとんど1
2世紀ルネサンスの時期になされ、14−16世紀のイタリア・ルネサンスおよ
び北方ルネサンスの時期には、見るべき成果はあまりなかった。ルネサンス期の
科学的成果としては、ポーランドのコペルニクス(1473−1543)による
地動説の発表があるくらいで、この時期の業績はほとんど芸術関係のものである
。しかし、17世紀に至り、ヨーロッパにおいて続々と自然科学に関する業績が
あげられるようになった。そして、このことを「科学革命」(イギリスの近代史
家ハーバート・バターフィールドの命名)と呼んでいる。
この科学革命の特徴は、合理的ではあるが実証的裏付けを欠いたギリシアの
科学の遺産を受け継ぎながら、合理的であると同時に実験的・実証的である「科
学的方法」を生み出したところにある。ルネサンスを経るなかで、学問的伝統と
職人的伝統とが融合し、このようなことが可能となったものであろう。
近代科学の方法論的基礎付けを行なったのはイギリスのフランシス・ベーコ
ン(1561−1625)であり、「経験的能力と合理的能力の結婚」を科学的
方法であるとした。彼は経験主義者と言われその方法は帰納法であると言われる
が、彼と対極にあると通常みなされている合理主義者デカルト(1596−16
50)も、手工業的な実践・技術には強い興味と関心を持っていたという。
地動説のために宗教裁判にかけられたイタリアのガリレオ・ガリレイ(15
64−1642)は、近代科学の原理的方法を樹立し、「科学革命」のチャンピ
オンとなったが、その彼も、実践的・技術的問題に強い関心をもっていた。
さらに、17世紀後半になってイギリスのニュートン(1642−1727
)が、万有引力の法則を発見し、近代力学を完成して、その後の物理学の発展の
基礎を築いた。
このような西欧の科学革命が、その後の産業革命を可能とし、西ヨーロッパ
による世界支配をもたらし、近代以後の世界史を西欧の時代としたのである。
(参考文献)「岩波講座世界歴史 8、10、11」、西嶋定生他編「世界歴
史の基礎知識」、他。