スパイ87





スパイ87(ハチナナ)は誰も真似できない、強い意志を持った奴だったよ。

あれは87がビルの一室に侵入したときだった。そのとき87は気づかなかった。なんの変哲もない、普通の部屋だったんだからね。椅子があって、机があって、本棚があって……取り立ててなんということのない普通の部屋だった。ただちょっと違ってたのは、部屋の真ん中にちょっとしたスペースが空いてて、それが不自然といえば不自然だった。そこに両足を乗せた瞬間、「カチッ」ってスイッチが入ったような音がしたんだ。87はすぐ悟ったよ。罠だってね。床を見ると「落ちますぜ」と丁寧な切れ目が入っている。87は息を止めた。ちょっとした振動を察知、パカッと開いて奈落の底へご案内、ってなわけだ。息もできない。
87の侵入した部屋は一室まるごと罠だった。あまりに普通の部屋なんで油断するけど、普通すぎるのが異常だった。部屋を使う人の体臭がちっともしなくて、モデルハウス以上に嘘くさかった。ちょうど落とし穴へと誘導するように机や椅子が配置されてたけどね。
さて87は、振動を敏感に関知する落とし穴の上で、じっと息を止めていた。87のすごいのは落ちないためにずっと息を止め続けたことだよ。普通はそんなことできやしない。「息を止める」っていう人間の意志が、「息を止めれば死ぬ」っていう自然の摂理にぎりぎりまで抵抗したんだ。もちろん最後まであらゆる脱出の可能性を探していた。ジャンプできないかとか、ロープを引っかけられないかとか。生き延びる可能性を高速で考えた。だがすべての可能性は断たれていた。計算された罠だったから、脱出の可能性は初めからなかったんだ。

87は最後まで息を止めて、声も出さずあの世に行ってしまった。魂の抜けた後、抜け殻が床の上にドサリと倒れ、そのまま口を開いた落とし穴に消えていった。気になったのは死にたくない一心で息を止めていた、その意志はいったいどうなってしまったのかってこと。消えてしまったのか? いや、どうだろう。おれに説明できない戦慄が走ったことだけは確かだ。87は今もなお、穴の上であらゆる可能性を探しているだろうよ。おれにはあいつが幽霊になっても、高速で粘り強く考えているように思うんだがね。



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