スパイ65
スパイ65(ロクゴ)は、結局スパイには向いていなかったんだ。
65がビルに侵入してその光景を目にしたとき、心臓が止まってしまうんじゃないかと心配したよ。65の目の前に立っていたのは、エプロンをしてパスタを茹でている女性だった。「か、加奈ちゃん?………」加奈ちゃんと呼ばれた女性は、65の幼なじみだった。彼女は、65の美しい思い出に保存されていた少女の面影を残しているが、どこか生活に疲れた暗い影が浮んでいた。彼女はエプロンで手を拭くと、65を驚いた顔で見つめた。そして立ち尽くした。「ママ、どうしたの?」と、彼女の幼い息子が声をかけて現れた。彼女は息子の頭を抱えながら、65に精いっぱいの微笑みを浮かべて見せた。
パーフェクトな演技だろう。そして巧妙なシチュエーション。疑わしい点はいくらでもあるのに、65はあっさりひっかかってしまった。いや、65だってバカじゃない。それがトラップだってことにはとっくに気づいていたはずだ。だが65はずっと騙された振りをしている。けなげじゃないか、嘘でもいいから幸福になりたいだなんて。思えば65は昔からそういうところがあった。スパイも、いわば過去のトラウマかコンプレックスをバネになんとか任務を遂行してきたが、結局のところ65が求めていたものは加奈ちゃんだったというわけだ。
65の欲望はすっかり満たされてしまっていた。今では加奈ちゃんと、だれの子かわからない息子と仲良く、ビルの一室で幸福な生活を送っている。
「いってきまーす」「いってらっしゃい」仕事は車の営業販売に変わった。しかし疑問に思わないのだろうか。ビルの一室に住み着いていることに。そして加奈ちゃんと呼ばれる女性は間違いなく敵側のスパイなわけだが、ずっと一緒に暮らしているならば、それはもはや仕事ではなく、案外幸せにやってるのかもしれない。まあ他人がとやかく言うことではないだろう。本人が幸せならば。
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