●北岡編



ソバ屋の暖簾をくぐると客も店員も見当たらなかった。
北岡は入口に突っ立ったまま店内を見回した。


厨房の奥の方からおばさんが数人喋る大きな声が聞こえていた。
「いやぁキムタクはいい男だよ」
「そうかい? あたしには色気が感じられないねぇ」
「いやいや、あんな男らしい人はいまではいないよ」
「そうかねぇ。そういえばいつも八時頃にやってくる坂下さんって知ってる?」
「あぁ、あの着物で現れる初老の人だね」
「あの人なんかはいつも一人で現れて、必ず日本酒を注文してソバを摘んで帰っていくでしょ。
ああいうのが色気だねぇ。粋だよ」
「そうだねぇ」


昼飯の時間をとうに過ぎていたので
北岡は店がやっているかどうか不安で恐る恐る店内に入ったのだった。
予想通り北岡は予想外の客であるらしかった。
北岡が「すいません」と声を掛けると店員のおばさんが慌てて奥から出てきた。
「あぁいらっしゃいませ。ごめんなさいね、待たせて。
どうぞ、お好きなところに座って、どうぞ」
北岡は案内されるままに腰を下ろした。
「カツ丼は今できませんので他から選んでくださいね」
北岡は「はぁ」と言いながらお品書きを目をやるとすぐ目的のものを見つけた。
ざる1300円。
「ざるください」
「はいっ、ざる一丁!」
静かすぎる店内におばさんの大きな声が響き、誰もいないと思っていた厨房に男の人影が現れた。


*     *


北岡はソバができるまでのあいだ、昨日のことを思い出していた。
「阿佐ヶ谷に有名なうまいソバ屋があるの知ってる?」


昨日北岡はひどく疲れていた。
新宿で森田社長と飲んでいたときのことなど少しも思い出すことができなかった。
森田社長と飲んでいたとき、北岡は最近ないほど酔っぱらっていた。
ビールしか飲めない北岡がそのときはウィスキーやブランデーをストレートで飲んでいた。
ウィスキーやブランデーはちっともおいしくなく、酔っぱらった北岡には水と変わらなかった。
饒舌になにかを喋っていたが、なにを喋っていたのか思い出せない。
当惑した表情で話を合わせてくれていた森田社長の顔は覚えている。


今朝目覚めたとき雷を受けたような激しい頭痛が北岡を襲った。
会社に電話をして勤めてから初めての休みをもらった。
マミが受話器越しに「森田さんも今日はゆっくり休めって。いいなぁ、お墨付きだね」
と皮肉らしく言っていた。
「明日はさぼっちゃ駄目だよ」
マミの声は北岡には心地よく感じられた。
受話器を置いてから昨日森田社長になにを言っていたんだろうと考えると怖くなった。
北岡を襲った頭痛は二・三時間過ぎると嘘のように消えていた。
そして腹が減った。
北岡はズボンのポケットにしまっていたぐちゃぐちゃになったメモ用紙を取り出して、ここを訪れた。
テーブルでメモ用紙を眺めていると北岡は昨日の出来事を思い出してきた。


そのとき話題は北岡の家の近くにあるというソバ屋の話に変わっていた。
「……かなりうまかったよ、あそこは。評判いいとこがうまいとは限らないんだけど。
今度一回行ってみるといいよ。おれもたまに行くけどね。
森田さん、こないだ行ったって言ってましたよね」
「うん、うまかった。でも高いですよねあそこは。
一杯千三百円とか、それくらいしなかったっけ」
「え?、ざるで千三百円?」
「しかも、こんだけ……こんくらいしか入ってないですよね、松本さん」
「そうですねえ、食べ始めたと思ったらすぐなくなっちゃいますからね」
「あれじゃいくらうまくてもメシ食った気にならないよな」


そのとき沈黙が訪れた。
ちょうどテープがA面からB面に切り替わるところで、音楽が途絶えた。


沈黙の中、北岡は松本の顔に惹きつけられた。
惹きつけられたというよりは、突然目の前に松本の顔が突き出されたような気がした。
「まったく……ソバぐらい腹いっぱい食わせてくれ!」


これまで親切だが、なんとなく距離を置いて接していた松本が初めて距離を失ったようだった。
距離を失って初めて北岡は松本との距離を知ったと思った。


店にサラリーマンが二人入ってきた。
二人は上司と部下らしかった。
「ざる、二つね」
上司と思しき年輩の方が店員に言った。
「空いてますね」
「ここはソバ好きなら知らない奴がいないほど有名な店なんだよ。この時間に来るのが通なんだ」
「うわっ、ざるが1300円もする!」
「驚いちゃいけないよ。
うまいソバ食いたけりゃそれぐらい当たり前だよ。
ここはねぇ水がいいんだ。
ソバ粉も国産で挽きグルミの香り高いのを使っているしね。
なんと言っても手打ちだよ。手打ち」
店員のおばさんが北岡にざるとソバ湯を持ってきた。
目の前に出されたソバは森田社長が言っていたよりも少なくて、こじんまりとせいろに載っていた。
「ごゆっくりどうぞ」
ごゆっくりもなにもあっという間に食い終わっちまうよ!
北岡は不満な表情でソバを食い始めた。
店内にソバを食う音が響き始めた。


*     *


「おいっ、ソバは香りを楽しむものだぜ。
お前みたいにそうたっぷりツユにつけちゃ香りを殺しちゃうんだよ。
こうやってソバの先だけつけて」 威勢よく上司はソバを啜った。
部下は「それが通ですね」と言って真似してソバを啜った。
「勢いよく啜ると鼻にソバの香りが拡がるだろう?」 「ほんとですね。
こんなにうまいソバを食ったのは初めてですよ。
人生損していたなぁ。
でも量が少なくないですか? 値段も高いし」
「ばぁか、さっと食ってさっと帰る、そこがいいんじゃないか」


北岡はとっくにソバを食い終わっていた。
隣の話は少しも聞こえてこず、北岡は森田社長や松本、マミの顔を思い出していた。
重苦しい気分になり、頭痛が再び襲ってくるようだった。
食い終わっても腹は少しも満たされなかった。
余計に腹が減ったようだった。
相変わらず厨房の奥では店員たちが大声で世間話をしている。
隣ではサラリーマンが蘊蓄を語りながらソバを食っている。
北岡はますます腹が空いた。
「すいません」
北岡は口を開いた。
店員は声を掛けられるとは思っていなかったらしく、大声を出さなければならなかった。
「はいっ、はい」
「おかわりください」


*     *


店員はみんなで北岡を見守っていた。
「あんなに食べるなんてねぇ」
「でも痩せてる人の方がたくさん食べるでしょ。
テレビの大食い選手権なんかで」
「優勝する人はみんな痩せてるよねぇ」
サラリーマンは二人、ツユをソバ湯で割って飲んでいる。
二人とも黙ったまま北岡を見つめていた。
北岡はすでに三杯のざるを平らげていて、四杯目に取り掛かっていたところだった。


とりわけ北岡が大食いだったわけではない。
むしろ小食の方だが、ソバはいくら食っても腹が膨れることはなかった。
金の心配はなかった。
昨日、森田社長と別れるときタクシー代と言われてもらった、
タクシー代にしては足が出るお金がポケットには入っていた。
北岡はタクシーを使わずに歩いて帰った。


サラリーマンは金を払って出ていった。
二人とも変な顔をして北岡を一瞥し、去っていった。
露骨に店員の話し声が北岡の耳に聞こえていた。
「まだ食べる気かねぇ」
「あんな客は初めてじゃないかい?」
「お金は持ってるんだろうね」
「いや、若いのに立派なもんだよ」
北岡は四杯目を食べ終えたところで、立ち上がって金を払った。
「またお越しください!」
おばさんは物珍しい顔をして北岡の顔をじろじろ眺めながら言った。
北岡は少し照れたように笑みを浮かべて店を出た。


北岡は歩き出した。
腹がいっぱいになったわけではなかった。
きりがないからやめただけだった。
「ソバは腹いっぱい食うと笑われるんですよ」
北岡はそう松本に報告してやりたいと思った。
そして歩きながら、再び松本や森田社長、マミの顔が浮かんできた。
北岡にはもう重苦しい気持ちはなかった。
腹は満たされなかったが、気分が晴れていた。
ソバを食うようにテンポよく、北岡は会社へと足を向けた。


そして、人生は続いていく。



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