ソバぐらい腹いっぱい食わせてくれ
  written & arranged by SOLENOID   last update : 01.03.15




テレビ東京系バラエティ『愛の貧乏脱出計画』の単行本原稿を入稿し終え、
一息ついている編集プロダクションのオフィス。
ステレオからは雑誌企画でインタビューするラテン・ミュージシャンのテープが流れている。
見習いの北岡はビール瓶片手に椅子を滑らせ、寿司の櫃に手を伸ばす。
社長の森田は恰幅の良い体躯を背もたれに乗せて、微笑を浮かべている。


森田の創業時からの盟友、松本がコーヒーカップに注がれた岩手の地酒を飲みながら口を開く。
「でも良かったですね森田さん。何だかんだ言っても、ねえ、締切までにあげられて」
森田社長は酒で少し頬を赤らめて、微笑を浮かべたまま黙ってうなずく。
OLのマミが飲めない酒を一口だけなめた。「松本さん今月すごいスケジュールでしたよね」
プロダクションは森田社長、松本、マミ、北岡の4人で構成されている。
「だって、単行本と、博報堂の冊子でしょ、上智のパンフもあったし……あとカドカワか。
4つ同時進行してたもんね。しかも“貧乏”がすごい急だったじゃないですか」
松本は品の良い婦人のようにおっとりとした口調で応える。
「そうだねえ、月初に企画書づくりの依頼が入って、入稿が月末だもんね。
おれも最初はどうかと思いましたよ、ねえ森田さん」
森田社長は何度か小さくうなずく。
「でもまあ、『一時間でわかる進化論』のときの方がたいへんだったし、
今回はマミちゃんと、北岡君もがんばってくれたしね。みなさんのおかげですよ」
松本が後輩たちを気遣う。
北岡は、そんなことないっすよ、おれなんか全然わかんないことばっかりで
かえって足引っ張っちゃって、などと謙遜している。
「あたしはデジカメの本があったからあんまり松本さんの方は手伝えなかったけど、
そうですよね、進化論のときは同じくらい忙しくてしかもいまより一人少なかったから……
ん、おいしい」
おいしい、とはいまマミがつまんだウニのことだった。
「あれ、マミちゃんウニだいじょうぶなんだっけ?」
「ウニ超好きですよあたし。ウニだめなのは森田社長じゃなかったっけ。あたしがだめなのはエビ」
「そうだっけ。北岡君もエビだめって言ってたよね」
「いや、おれはカニがだめなんすよ」
森田社長がにこにこしながら「みんないろいろあってわかんねえな」とつぶやいている。


「今日マミちゃんは、お昼何食べたの」
少人数のプロダクションでは一人ずつ交代で昼食をとらなければならないため、
その日に食べたものが話題となることはしばしばあった。
「あたしあそこ、ガソリンスタンドの隣にカレー屋あるじゃないですか。
千円ぐらいするから、ココっていうときの自分へのご褒美のときしか行かないんだけど」
「あの、インド人が店員してるところでしょ」
「そうそう、一回行くと割引券くれて、それ使えば八百円ぐらいで食べられるから、
高いのは“いちげんさん”だけですよ。
でもほんとにすごいおいしい。あそこで食べちゃうと、しばらく他のとこでは食えないって感じ」
マミは嬉しそうな顔で、早口だが柔らかい声で話す。
松本は定食屋で五百円の鯖の塩焼きを食べたことを話し、北岡に話題を振った。
「おれは……どこだっけ、ああ、下のラーメン屋で済ませちゃいました」
「ふうん……北岡君はあんまりいろんなとこに食べに行かないの?」
「そうすね、わりと一回行って良かったとこは何回も行っちゃう感じで……」
松本はゆったりとした所作でカップを口に運ぶ。
森田社長や北岡と違い、浅黒い肌は酒を飲んでもほとんど顔色が変わらない。
「北岡君は、中野だったよね、住んでるとこ」
「そうすね」
「阿佐ヶ谷に有名なうまいソバ屋があるの知ってる?」
食に無頓着な北岡は知らない。
「かなりうまかったよ、あそこは。評判いいとこがうまいとは限らないんだけど。
今度一回行ってみるといいよ。おれもたまに行くけどね。
森田さん、こないだ行ったって言ってましたよね」
森田社長は社長席からゆっくり立ち上がり、松本たちの席に近づいてくる。


「うん、うまかった。でも高いですよねあそこは。
一杯千三百円とか、それくらいしなかったっけ」
マミが「え?、ざるで千三百円?」と驚いている。
森田社長は大きな手で小さな輪を作り、
「しかも、こんだけ……こんくらいしか入ってないですよね、松本さん」
「そうですねえ、食べ始めたと思ったらすぐなくなっちゃいますからね」
「あれじゃいくらうまくてもメシ食った気にならないよな」
ステレオのテープがB面に切り替わる間、音楽が途切れた。
松本がカップをデスクに置く。
少々勢いよく置いたため、オフィスに音が響き、地酒がわずかにこぼれた。
「まったく……ソバぐらい腹いっぱい食わせてくれ!」
松本はカップを手にしたまま、上目づかいに窓の方を見つめている。
遠くでサイレンの音が聞こえる。
森田社長は北岡の隣に椅子を持ってきて、そっと腰を下ろした。
スピーカーから再び南米の音楽が奏でられた。
「そうですよね、原価だってたいしたことないんでしょうし」
森田社長は3本目のビールをあけている。
マミが醤油の小皿を重ねながら言う。
「でもでも、その少なさがいいんじゃないですか?
あんまりてんこ盛りだったらありがたみがないっていうか」
北岡はメモ用紙を一枚手にして、
「じゃあおれも今度そこ行ってみますよ。地図書いてもらえます……?」


4人はその後行きつけの居酒屋に場所を移し、祝杯をあげた。
マミが帰ろうとしたのをきっかけにその夜は解散し、4人はそれぞれの家路につく。


森田社長、マミ、北岡らは道中みな、
その夜松本が何気なく口にした一言について、
あれこれと思いを巡らせた……。



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