コメディアンの肖像
  written by S.NUNOI / arranged by SOLENOID   last update : 01.03.11




つまらんわあ……。
清志の向かいに座る老人がテレビを観ながらつぶやいた。
テレビの中では若手の芸人たちが「ビール一気飲み対決」という企画で盛り上がっていた。
ビールを飲んだ小柄な芸人が酔っぱらってふらふらする姿を見て、
出演者たちが手をたたいて笑っている。


清志がしばしば「お忍び」で訪れる上海料理店は、いつものように客が少なかった。
繁華街のはずれにあり、食品レプリカの店頭展示もないことから、
清志も初めて店に入ったときには
さほどうまいものは食えぬだろうとたかをくくりながら「炸醤麺(ジャージャー麺)」を注文した。
一口食すと、急激に口の中に唾液が溢れてくるような空腹感に襲われ、
あらゆる角度から押し寄せてくる「うまみ」に、息継ぎも忘れるほどの勢いで一皿平らげてしまった。
以来、清志はこの小さな店にスケジュールの空きを見つけては訪れるようになった。


「たしかになあ、おもんないなあ」
清志は水餃子を頬張りながら老人のつぶやきに同意した。
「あないなら、わざわざテレビで観んでも道頓堀にぎょうさんおるわ」
エビチリを食べる老人の言葉に、清志も同感だった。
老人は「いつ頃からやったなあ、テレビがこないしょぼくさなったん」と寂しそうに目を細めている。
清志はあまり年輩の客にばかりうけるのもどうかと思っていたが、
やはり自分が最も華々しく活躍した時代のテレビを肯定してもらえるのは嬉しかった。
いまの清志はまぎれもなく「大御所」である。
しかし大御所であることと笑いを取れるかどうかというのは別の話だった。
清志の語りに熱が入る。


「きょうびの芸人らは“ユーモア”っちゅうもんがいっこもわかってまへん。
お笑いやねんからめちゃめちゃ言うとってもかめへんねんけど、
根っこんとこにはきちっとハート据えとかなあかん。
怒りでも悲しみでも愛情でも、何でもええけども、そないなもろもろを、
笑てまうほど激しく伝えるのが芸人の仕事やないですか」


清志はぐっと水を飲み干す。
老人は聞いているのかいないのか、遠くを見るような目でテレビの方に顔を向けている。
「やっぱわいはヤスキヨが好っきゃなあ……
Wヤングもおもろいねんけど、靖史はなあ、顔見てるだけで笑いがこみあげてきよんねん。
あないな芸人はおらんなあ」
ヤスキヨ、とは清志が靖史と組んで二十年続けている漫才コンビの名前である。
破天荒な靖史が暴走して、清志が絶妙な合いの手で舵取りする二人の芸風は、
後の漫才ブームの先駆けであった。
「おおきに。でも顔見ただけで笑い出したらどつかれまっせ」
相方を褒められて、清志も悪い気はしなかった。
老人はテレビを観たまま話を続ける。


「靖史にならどつかれてもええわ。一生の思い出になるわ。
わいはほんまに靖史の大ファンでなあ……他の芸人なんかもう、どうでもええわ」
最初はヤスキヨのファンと言っていたのに、途中から靖史のファンに変わっているのが清志は気になった。
「ほうでっか、ほな、靖史に伝えときますわ。
そないに熱烈に支持してもろたら、あいつかて何や励みになるかもわからへん」
老人は「伝えたってや」と小さな声で言ってからため息をついた。
そして勘定を済ませて店を出ようとしたので、清志は思わず立ち上がってしまった。
「ちょう待ってえな、あんさん、目ぇ患っとりますのん?」
目ぇはごっついええで、と老人。
清志はプライベートではいつもつけている眼鏡をはずし、自分の顔を指さして笑顔を作った。


老人は怪訝な顔で「何でわいがおんどれに飯奢ったらなあかんねん」。
「ちゃいますがな、奢ってくれなんて言うてへん……そやな、その、なんや」
老人は、なんやねんと言いながら、急いでいることを示すために腕時計を見た。
清志は所在なげに眼鏡をかけ直し、「靖史に、伝えときますわ」。
「そない何べんも言うたかておもんないで。われみたいなんが靖史に会うてもらえるかい。眠たいんか」
ここで初めて清志は、老人がヤスキヨの靖史しか知らないのだということに気づいた。


ヤスキヨは靖史の方が目立つし、清志を知らない視聴者に会うことも初めてではなかった。
しかし老人がヤスキヨのファンであることが、清志には痛手だった。
ヤスキヨのファンが、たった二人しかいないメンバーの一人である自分を知らない。
そんなことがあり得るのだろうか。
清志は大きい目をさらに大きく見開いて老人を見る。
実際にはあり得ないはずのことなのに、どこかでこんな経験をしたような気がして不思議だった。
テレビには酔っぱらった芸人の寝顔が映っている。


*     *


あほかい、そないなジジイしばいたったらええねん。
清志の家で話を聞いた靖史の第一声がそれであった。
「ジジイをしばけるかいな」
茶をすする清志に、靖史は眼鏡の蝶番を指で持ち上げながら続ける。
「漫才いうんはボケとツッコミで成り立っとんねん。
われのツッコミがあらへんかったらわいがボケたって何のこっちゃようわからへん。
われが“まとも”の役をやってくれとって、初めてわいがワルやっとれるんちゃうんかい。
二人してワルやっとったらただのヤクザやんけ。そない基本はガキかて知っとるわ。
いい歳こいたジジイが何ぬかしとんねん。わいが直接会うて説教くれたるわ」


*     *


椅子に片足をかけて、膝を立てた姿勢でビールを飲む靖史。
苛立たしげに煙草をもみけして、時計を見る。
清志に聞いていた通り、閑古鳥の鳴いているような店だった。
料理もまた聞いていた通り、信じられないほどうまかった。
日本語のほとんどわからない店主に向かって早口で喋り続ける靖史。
三本目のビールを空けたとき、ついに件の老人が現れた。
老人は靖史を見た途端、手に持っていた荷物を落とした。


「ようやっと現れよったかい」
靖史は老人に手招きして、同じテーブルに座るよう促す。
老人は荷物を取り直すと、白日夢でも見ているような顔つきでゆっくりと近寄ってくる。
唇がわなわなと震えている。
「まあ座り、おじい。何でも好きなもん頼めばええがな。今日はわいが奢っちゃるさかい」
老人はなかなか座れない様子だったが、突然靖史の側に寄り、その手を強く握りしめた。
狼狽した靖史は頬を赤らめながら手を振りほどき、老人の頭をはたく。
「何さらすねん、いきなり。
いくらわいの大ファンかって握手してええかぐらい聞くのが礼儀っちゅうもんやないんかい」
老人ははたかれた頭を撫でて、つい感極まってしもた、えろうすんまへんと詫びる。
「しかし……感激やわあ、靖史はんにお会いできるなんて。頭までどついてもろて……
ええ冥土の土産ができたっちゅうもんや。もういつ死んでもええわ」
ファンとは聞いていたがこれほどとは思っていなかった靖史はすっかり面くらい、調子が狂ってしまった。
「まあええがな、はよ座り」


老人はもじもじしてなかなか座ろうとしない。
「どないしたん。飯食い来たんちゃうんかい」
靖史はん、と老人の声が高くなる。
「冥土の土産ついでに、もういっこだけお願い聞いてもらえまへんか」
靖史は瓶で椅子の方を軽く指してから、老人のために用意してあったグラスにビールを注ぐ。
老人は座ろうとせず、
「自分の家が、ほん近所にありますねん。ここ出て、角曲がったら着きますよって」
「あかん」
「後生やから、十五分だけ。ぜひともお見せしたいもんがありますよって。お時間取らせまへん」
「あかんいうとるやろ、怒るでしかし」
老人は言葉を失って、ただ懇願するような顔で靖史の顔を見つめている。
「あかんて。ここでええがな」
老人は固まってしまったように、同じ表情のまま動かない。
情にほだされた靖史が見せたいものとは何か聞くと、老人の顔がぱっと明るくなった。


「自分、絵ぇ描きますねん。ちょう前まで小学校でガキどもに教えとってん。
靖史はんがあんまりおもろいええ顔しとるから、肖像画描いたんですわ。
いま自分の部屋に飾ってありますねん。
先の短い老いぼれのためや思て、一回だけその絵ぇを見てもらえまへんか」


靖史もいままでに図々しいファンには何人も会ってきたが、目の前にいる老人はそれらの誰とも異質だった。
いつもなら「おもろい顔」などと言われた瞬間に頭をはたいているところだが、腹を立てる気にはなれなかった。
靖史の気持が揺らいでいる隙を突いて、老人が餌をまく。
「ごっついうまい酒もぎょうさんありますよって……」
その言葉に、靖史の眉が動いた。


*     *


老人一人で住むには大きな木造の家だった。
全体に清潔なのにどこか埃っぽいようで、靖史は懐かしさに襲われる。
「しかしこないなごっつい家に一人で住みよんのかい」
靖史は部屋にあるものを次々と手に取って見る。
木彫りの孫悟空や日光江戸村のイメージキャラクター「にゃんまげ」のマスコットなどが
箪笥の上に並んでいた。
「けったいなもんばっかりやな、ほんまに」
老人が台所から一升瓶を持ってくる。
「地酒ですわ。あてに生こんにゃくの刺身もありますよって」
靖史は肴には興味がない様子で、「地酒でっか、すんまへんなあ」と顔をほころばせる。


地酒を空けていつもに増して饒舌になった靖史は、
老人に身の上話をさせる隙も与えないほどの勢いでお笑いの何たるかを語り続けていた。
酒で身体が火照って、額に汗が浮かんでいる。
「野球のポジションみたいなもんや。
清志はな、ガキの頃からずうっとピッチャーやっとるやつみたいに、ずうっとツッコミやっとんねん。
ピッチャーがどんくさいことばっかりやっとったら、バッターがなんぼ点取ったかて負けてまうやろ。
ツッコミあってのボケ、いうことやがな。わいなんかツッコミやれ言われてもできひん。
つっこむ前に自分のおもろい話したなってまうねんから。
せやからわいのファンいうんは正直嬉しいけども、清志を知らんいうんはあかんで。
清志あってのヤスキヨっちゅうことや」


老人は話の内容よりも靖史が目の前で話していることに感激しているふうで、
目に涙すら滲ませながら聞いていた。
靖史は音が立つほど強くグラスをテーブルに置く。
「泣いたらあかん! 泣いたらあかんでおじい。男が泣いたら終いやがな。
そら辛いこともぎょうさんあるやろけど、ぐっとこらえて楽しゅう生きていかなあかんねん」
靖史は自分の言葉に自らの胸を痛めたように目を赤くした。
老人はうつむいて指で目をこすり、すっきりした顔を上げる。
「ほんまに、今日はええ話ぎょうさん聞かせてもろて……
あとは靖史はんの絵ぇさえ見てもらえれば、思い残すことありまへんわ」
靖史は嫌なことを思い出し、少し酔いがさめた。
それを忘れとった、帰ろかな、とも思ったが、老人が気の毒に感じたこともあり、
「おうおう、そやったな、はよ見せえや」
案外男前に描いてあるかもしれへん。


靖史の絵が飾ってあるという部屋の前まで行くと、老人は急に照れ始めた。
「やっぱ何やこっ恥ずかしいわあ。靖史はん本人に見てもらえるなんて思てなかったさかいなあ。
あんまり似てひんかもしれへんけども、かんにんしてなあ」
何をギャルみたいに照れとんねん、気色悪いわボケと、靖史は思ったままを率直に言う。
「ここまで来て何ぬかしとんねん。怒るでしかし。ええからはよ見せんかい。
へちゃに描いとったらどつくでほんまに」
靖史は照れ隠しの悪態をつきながら眼鏡の蝶番を持ち上げた。
男前に描いてあったら買うてもええかもしれへん、いつくたばってもおかしない人生や……
靖史は絵を見るのが少し楽しみになっていた。


老人が襖を開く。
大きな額の中にスーツ姿の人物が描かれている。
肖像画の人物は、大きな目をびっくりしたように見開いて老人と靖史を見下ろしていた。
「何やねん、これ……」
靖史は絵を見て呆然とする。
眼鏡が汗で滑って、少しずれた。
「清志やんけ」
老人は満足げな笑みを浮かべている。
「……なんでやねん」
生まれて初めてのツッコミは、自信なさげにか細かった。



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