新しい物語
最終ラウンドのゴングが鳴った。
ポイントは圧倒的に不利。左右の腕は子供が一人ずつ取り憑いているように重い。頭が割れるように痛いのは、ほんとうにヒビでも入ってるからかもしれない。顎は痺れて感覚がなくなっているけど、味覚はしっかり血の味を捉えている。猛烈に眠い。
野郎が近づいてくる。もう何度倒されたか憶えてない。フリーノックダウン制じゃなかったら1ラウンドで試合は終わってた。なんでおれは立っているんだろう。なんでレフェリーは止めないんだろう。
誰かがリングに入ってきた。野郎のトレーナーか。やっとレフェリーが試合を止めてくれたらしい。すべて終わったのか。何かの間違いでおれの勝ちにしてくれないかな。
トレーナーが野郎に抱きつくと、野郎は振り返って、なぜか相手に左フックをお見舞いした。トレーナーはマットに叩きつけられる。野郎はフラフラと二、三歩あるいて、やがてばったりと倒れてしまった。
野郎のトレーナーがリングに入ってくる。……あれ? じゃあいま殴られたヤツは誰だ?
よく見れば、野郎の脇腹から血が溢れ出ている。リング上は血の海だ。野郎の隣に倒れてるのはトレーナーじゃない。誰だこいつ。見たことない。手に刃物持ってる。
オヤッサンがおれの腕を強く引っ張る。リングを降りろと叫んでる。警備員たちが次々とリングにあがってきた。野郎のトレーナーがドクターを探して怒鳴ってる。
なんなんだよ、誰だあいつ。なんで野郎を刺したんだ。なんでこのラウンドに、おれじゃなくて野郎がマットに這いつくばってるんだ。わめいてる客たちは何て言ってる? おれはどうすればいい? この試合の勝者は誰だ? 明日の新聞の見出しは?
答えの出た疑問もそうでないのもあるが、いずれにしても、おれにとってはすべて無意味だ。
確かなのは、おれが必死に生きてきた物語の糸は突然ぷっつりと切れてしまって、「被害者の対戦相手」という新しい物語が始まったことだけだ。
■ BACK TO "SOLENOID" TOP