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メタモルフォシス・バイブレイション、あるいは《死の勝利》
written by S.NUNOI / arranged by R.TAKEMURA last update : 01.05.15 |
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おまえが化け物だろう、とレディAは医者のせり上がった額を見下ろした。 小さく背中を丸めた医者は、こぼれ落ちそうにせり出した目玉をどんよりと光らせて、レディAを上目に見ながら、口の端をわずかに歪めた。 レントゲン写真を通した光に照らされて、二人の顔が青白く透き通っている。 医者は、ところどころビニールの剥がれた回転椅子のアームに肘をかけ、ほんとうに見たいの?、と念を押す。 やめておいた方がいいよ、きっと後悔するよ。 そして干からびた手を椅子の方に差し出し、レディAに座るよう促す。同情を寄せる表情をつくろうとしているが、皮膚の下が透けて見えるくらい明白に喜び、勝ち誇っていた。 苛立つレディAは椅子には一瞥もくれず、だいじょうぶだって言ってるでしょ、早く見せなさいよ、と声音を突っ張らせる。どうせ見せたくて見せたくてウズウズしてるくせに、わたしがここでじゃあ帰りますって言ったら必死で引き止めるんでしょ、わかってんだよ、早く彼のいる部屋に案内しな……とまでは口に出さなかったが、レディAは顔中の筋肉を強張らせて医者を圧迫した。 いや、でもねえ……きっとおまえが思ってる以上にひどい状態だよ、彼は。 レディAは「おまえ」のところで眉をひそめる。 彼だっておまえに見られたくはないだろう、あんな姿を。ひどい頭痛がするって言ってるしさ。それに、そうだな、その、何というか……。 医者は首を傾けながら目を閉じて、言葉を選ぶフリをしている。レディAは医者の横っ面をひっぱたきたくなっていた。この男は昔からこうだった、専門的なプログラムに則って長期間トレーニングされたように、人の癇に障る振る舞いをすることができる。レディAは、どうしてわたしはこんな妖怪みたいなひねくれたジジイと一時でも結ばれていたのだろう、と過去の自分に絶望した。 そのとき、レディAの娘が研究室に闖入してきた。 何してるのノックもしないで、待ってなさいって言ったでしょ? 娘はレディAの叱責を無視してどんどん二人に近づき、無言でボードに貼り付けられたレントゲン写真を指さした。 おやおやお嬢ちゃん、これが何だかわかるのかな? 医者はアメーバのように顔をぐにゃぐにゃと曲げて娘に微笑みかける。娘は指先を固定したまま医者の方を見た。 うーんとね、お医者のおじちゃん? ブー。 ママ? ブー。 わかった! パパ! 医者はレディAの顔色を伺いながら、さあさあお嬢ちゃん、もうちょっとだからね、さっきのお部屋で待っていなさい、ママに怒られるよ。 わかった! 化け物だ! レディAが娘の頭を軽くはたく。 化け物だ! 化け物だ! 娘は嬉しそうに繰り返す。 いいから早く出なさい! 鎮まった娘は頭を手でこすり、レディAを睨むようにして見上げている。 天使のような、幼児としては完璧な容姿が生む迫力に押されて、レディAはたじろいだ。 わかったわよ、じゃあいてもいいから、おとなしくしてなさい。娘はレディAを祝福するように微笑んで、医者の向かいの椅子に飛び乗った。 レディAはため息をついて、医者の方に向き直る。さて、それで……何だっけ? 頭痛がして、あの、その、の続きね。 医者は嫌な話題に戻ってしまったとでも言いたげにこめかみのあたりをかき、その、何というか……率直に言うとだよ、などと口ごもりつつ、なかなか言おうとしない。 ニオうんだよ!、ひどく。もう鼻がもぎれそうなくらい、とんでもねえニオイだ。おれなんか、彼の「変身」が始まってから、二十回は吐いてる。鼻の孔を縫合しちまおうかと本気で考えたよ。それくらいひでえんだ。 そしてまた、言いたくはなかったという風情でうなだれて、首を小さく横に振る。まったく、弱い市民の味方の、いい弁護士さんだったのに……。 レディAは茫然とした。見た目はいくらひどくても我慢できると思っていた。しかし「ニオイ」は、予想の外だ。「とんでもねえニオイ」は、自分の戦意も希望も良心も根こそぎ奪い取ってしまうかもしれない。そう想像すると、レディAは口をつぐむことしかできなかった。 たしかに彼の「変身」が始まってしまった責任はすべて、自分にある。良心の呵責を感じている。しかしそんなひどいニオイに耐えなければいけないほど、自分のしたことは邪悪だっただろうか。あんなに美しい夜を、自分は何もせずに通り過ぎなければならなかったのか。自分が人妻の身であることを忘れ、彼が「人権弁護士」であることを忘れ、一時の情熱に身を任せたことは、そんなに深い罪だったのか。いやそれよりも、いったいどんなニオイなんだろう? レディAの「良心」は、実際に彼のニオイを嗅ぐまでもなく、医者の脅しだけでグラグラと揺らいでいた。 くさいの? その化け物。 娘がレントゲン写真を指さしながら、医者に質問する。 医者はわざとらしく目を細めて、消え入るような声で、とってもね、と答えた。 レディAは娘の言葉で目を覚ましたように、化け物なんて言っちゃいけません、と厳しく窘める。でも、この外見でひどくくさいなら、とレディAもレントゲン写真を見る。ほんとうに化け物じゃないか。 化け物なんて言っちゃいけないよ、お嬢ちゃん。 医者が娘の肩に手をかけて、レディAはぞっとした。どうしてこの男は医者のくせにこんなに不潔な感じがするのだろう。 このおじちゃんはね、……そう、これはおじちゃんなんだよ、化け物じゃない……このおじちゃんはね、お嬢ちゃんのお母さんと一緒に、ちょっとだけ悪いことをしちゃったんだ、ほんとうに、ちょっと魔が差しただけなんだよ、でもね、このおじちゃんは勇気がないから、そのことを誰にも言わずに隠してるんだ、お母さんはおじちゃんの名前を出さずにみんなに謝って、ちゃんと償いをしてるのに、この男だけ黙ってシラを切ろうとしたんだよ、ひでえ野郎だね、胸くそが悪くなるね、それでね、このおじちゃんは毎晩自分を責めたんだ、ひどいことをしてしまった、おれは犯罪者だ、おれは卑怯者だってね、あんまり毎日毎晩そんなことを考えてたら、ご飯はノドを通らなくなるし、眠れなくなるし、もうゲッソリやつれちゃって、ぼくの勤めてる病院に……ここじゃないよ、ここはぼくの研究所だから、とにかくぼくのところに相談しに来たんだけど、ぼくはあんまり心配だから、そういう症状によく効く秘密のお風呂に入れてあげたんだ、お風呂のおかげでだいぶ良くなったよ、 でもやっぱり軟弱な野郎だったから病気に負けちゃったのかな、こんなクソ醜い化け物になっちゃったんだ、 怖くはないんだよ、エサをやってればおとなしくしてるからね、かわいそうでしょう?、かわいそうなおじちゃんなんだよ、だから化け物なんて言っちゃいけないよ、ちゃんと「かわいそうなおじちゃん」って呼んであげるんだよ、いいね? うん!、と元気良く返事する娘。手を離して、とレディAが医者を牽制する。医者は娘の腕を指でなぞるようにしながらゆっくりと手を降ろし、さて、と椅子の背もたれに体を預ける。どうするの? 見る? やっぱり帰る? 悠然としていやがる。レディAは悔しさに歯ぎしりする。そのとき再び、研究所を訪れたときの戦意がふつふつと沸き上がってきた。外見は我慢できる、ニオイだって息を止めていればどうってことない、こいつの目の前で彼を抱きしめてやろう、親子三人で抱き合って、家族の絆を見せつけてやろう、もうおまえはわたしの主人でも何でもないんだ、わたしをコントロールすることはできない。 レディAは娘の手を取った。 通してよ、彼の部屋に。 * * 彼の部屋のドアには「6号室」と書かれた札がかけてあった。医者個人の小さな研究所に部屋が六つもあるわけがない。報復のための部屋であることをアピールしたいのか、ロシア文学に通じた医者の笑えないジョークに、レディAはうんざりする。 「ニオイ」はドアの外までは届いてこなかったが、外から錠がかけてあったのが気になった。医者がレディAの顔色をうかがいながら鍵をはずす。 ねえ、おとなしくしてるって言ったよね。 医者は満足げに笑いながら答えた。 うん……性格は以前の彼とあまり変わらないし、一時は取り乱してたけど、いまはむしろ明るくなって、安定してるよ。腹が減ってるときは気をつけなきゃならないけどね。まあ、ぼくのことは信頼してくれてるから。 ためらうレディAを気遣うように、医者が率先してドアノブに手をかける。待って、とレディAが制する。わたしが開けるよ。 ドアノブに手をかけると、何か粘液のような感触があって、レディAは素早く手を引っ込めた。ノブが濡れている。レディAの背骨を冷や汗が伝う。思わずニオイを嗅いだが、ただの水だった。どうしたの? と問いかける医者の手にスポイトが握られている。ほんとうにひっぱたいてやろうかこのジジイ。 気を取り直して、そっとドアを開く。 広い部屋だ。 大きなベッドが見える。 布団がめくれている。 枕がベッドの脇に転がっている。 思い切ってドアを全開にした。 彼は、いなかった。 ベッドは、もぬけの殻だった。 ちょっと、どういうことよ。 安堵のため息もそこそこに、背の小さい医者に詰め寄るレディA。部屋の様子が見えない医者は、なんだよ、なんのことだよと後ずさりする。そのとき、ママ!、と娘が叫んだ。 あそこにいるよ、化け物! レディAの背筋は氷を押し当てられたように硬直した。娘の指は天井を指しているようだった。振り返るのが恐ろしかった。 ほら、いるってよ、ちゃんと見なきゃ。 医者が上唇だけを持ち上げる卑屈な笑みでレディAを挑発する。 ちょっと、なに天井指さしてんのよ、天井に何かいるの? レディAの声が緊張で数オクターヴ低くなっている。娘はレディAの質問に答えず、包帯、包帯と繰り返している。 包帯? なに言ってんのよこの子は、天井から包帯がぶらさがってるの? レディAはまだ振り返ることができない。 そのとき部屋の中から、よう!、という威勢のいい挨拶が聞こえてきた。テープの再生スピードを最低にしたような、重く低く、少し割れた声だ。レディAが知っている彼の声ではない。 医者は動けなくなったレディAの横をすり抜けて、先に部屋に入ってしまった。 おはよう、今日は調子が好さそうじゃないか、顎はだいじょうぶか? あやすような医者の口調は不快だったが、緊張感を和らげてくれる。 あぁ、今日は雲一つない空のように気持がいいんだ! 当人は気持いいかもしれないが、彼の不気味な声を聞いているレディAの気持はどんどん暗くなっていった。 娘が医者に続いて部屋に入っていくとようやくレディAも覚悟が決まり、とにかく体だけでも中に入れてしまおうと歩を進める。それでも顔は下を向いたままだった。 おお、来てくれたのか! やはり彼の声ではない。彼はこんな低くこもった声ではなかった。レントゲン写真の映像がレディAの脳裏に浮かぶ。カブトガニのような殻に被われ、ソーセージのような触覚が左右に伸びた彼の頭部は、少なくとも人間のそれではなかった。仮に実在するとしたら、「ハリセンボン」や「アリジゴク」に匹敵する凶悪そうな名前に違いないと確信できた。その彼が、いま自分の頭上にいる。 ええ、こちらでお世話になってるって聞いて、心配だったの。 レディAは思いのほか普段通りの声が出せたことに、安心する。声が震えたりしたら、彼が興奮し始めるかもしれない。彼の感情の起伏は最低限におさえてもらわねば。上を見るんだと自分に言い聞かせるが、首が固まってしまって動かなかった。 すごいねママ、トカゲみたいに天井にとまってるよ、あたしもあんなことできるようになるのかな! いいなぁ! 娘は目を輝かせて彼を見ている。レディAはそんなわけないだろうと思ったが、何と答えればいいのかわからなかった。 もちろん! なれるとも、お嬢ちゃん! 大きな影がレディAの見つめる床を横切って、何かが壁に張りつくような音がした。天井から飛び移ったに違いない。レディAは心臓が三倍くらいに膨れ上がったような気がして、胸をおさえた。 どうやったらなれるの? おじちゃん! 娘は全然平気のようだ。医者がレディAの顔を覗き込んでいる。 だいじょうぶ? 無理しないでいいんだよ、今日はもう帰ろうか。 医者の声は、二人の夫婦生活がいちばん暖かかった頃のものに戻っていた。レディAは地獄に仏を見たような気持になり、思わず医者にすがりつきたくなってしまう。しかし、ちらりと見た医者の顔が相変わらずの薄笑いを浮かべていると、怒りの気持が恐怖に先立って、再び勇気が湧いてきた。レディAは胸に手をあてたまま、思い切って顔を上げる。 彼は、そこにいた。 壁にとまって、こちらを見ていた。 触覚が頭髪を捻ったような動きで揺れて、何かを確かめている。 顔の上半分がカーキ色の殻に被われて、目は隠れているようだった。 頭から、顎を吊るようにして幾重にも包帯が巻かれている。 あら、とレディAは声をあげる。思ったほどグロテスクじゃないじゃん。 彼の姿は、悪くても子供向け特撮アクションの悪者、良くとれば正義の味方に見えないこともなかった。「バットマン」や「スパイダーマン」の仲間に彼が入っていてもわからないのではないかとレディAは思った。医者が言っていた「とんでもねえニオイ」とやらもしなかった。むしろオレンジに似た甘い匂いがする。しかし少なくとも、彼が以前の彼ではないこと、そして人間以外の何物かであることだけは確かだった。 彼は壁からおりて、床に直立した。鉤爪で乾いた足音を立てながら歩み寄ってくる。 そうか! お嬢ちゃんもぼくみたいになりたいのか! ふつうに歩いているだけなのに、筋繊維の躍動感が尋常ではない。いま後ろから殴りかかっても一瞬でベッドの向こう側まで飛び退いてしまうだろうと想像させるほど、見るからに敏捷そうだった。逆に自分が彼に殴られたら、太い鞭を叩きつけられたように簡単に骨が砕けてしまいそうだ。 うん! なりたい! だっておじちゃんすごくかっこいいんだもん! 娘の感覚からして「かっこいい」と見えるのは、わかる気がした。でも「なりたい」なんて言っちゃいけない、近寄っちゃだめ……レディAは娘を自分の背後に隠したかった。 ねえ、どうすればなれるの? ついに娘は彼の腕をつかんでしまった。上半身裸の彼は筋骨逞しく、皮膚が全体に緑がかっている。娘は彼の腕を前後に揺すりながら、ねえ教えて、とおねだりしている。 簡単にはなれないんだよ、お嬢ちゃん。 医者が口を挟んだ。 このおじちゃんみたいになるにはね、修行しなくちゃいけないんだ。何日も眠らなかったり、ご飯を食べなかったりするんだよ。そうやって、もう生きるか死ぬかというギリギリのところまできたら、この研究所にあるお薬入りのお風呂に、ゆっくり、ゆっくり浸かるの。そうすれば、このおじちゃんみたいに、強くてかっこいいスーパーマンになれるんだよ。 医者は、なっ、そうだよなっ、と彼に媚を売る。さっきは「クソ醜い化け物」とか言ってたくせに、とレディAは力いっぱい軽蔑の視線を医者に送った。 彼は音もなくベッドのパイプの上に飛び乗ると、爪先で立ったまま、ああドクター、だけどそれだけじゃない。 彼の大きな体が細いパイプの上で危なげなくバランスを保っている様子は、映像として不自然だった。裸足の足には細長い鉤爪のほかに、太い毛が何本か生えている。毛は微かに動いていたため、それでパイプを知覚しているであろうことがレディAにも直感で理解できた。顎の包帯が弛んで、解けかかっている。 それだけじゃないよドクター。寝ずの行や断食をしているあいだ、ぼくはずっと自分を責めていたんだ。このぼく自身の、罪深さを。おまえは最低だ、この卑怯者、恥知らず、裏切り者、おまえの罪深さを知れ、知って苦しみ悶えろ、地べたを這いずりまわれ、泥を喰え、乞食の小便を飲め、って。ぼくは言葉で自分に鞭打ってたんだ。ふふん、まあ、きみたちなんかには到底耐えられない苦痛だよね。体中のすべての細胞に眠っていた良心を総動員して、このぼくの汚れた魂を袋叩きにしてやったんだから。ぼくは泣いた。泣いて許しを請うたよ。それでもぼくの良心は、とことんぼくを痛めつけた。もう気が狂って死んでしまうんじゃないかと思って、とにかく手足を動かして意識をつなぎとめようとしたんだ。それで、気がついたらなぜか、病院ではなくこの研究所にいたってわけだ。 彼は再び床に舞い降りた。包帯がとれそうだ。口がしっかり閉じられないようで、言葉が聞き取りにくくなっている。 医者は、そうそう、あのときのあんたの顔は真っ青で、幽霊みたいだったよ、と深くうなずいている。 あのときすぐ“バイブレイション・タンク”に入らなかったら、あんたは今頃死んでただろうね。 やっぱりそうか。 レディAは口を閉ざしたまま医者を睨んでいる。やっぱりこいつのいかがわしい研究が、彼をこんな姿にしたんだ。 医者はレディAと別居する半年前に、「研究費を出してもらえる」との理由で、あるカルト教団に入信した。 教団は政治、経済からスポーツ、ショウビジネスまで、広く世界中に信者の根を張り巡らせた巨大なピラミッド型組織で、その頃にはカルトとは思えぬほどにポジティヴな広報活動を展開していた。医者は教団の南米支部で「薬草」と称したドラッグの研究を指揮する重役を任されたが、レディAはモントリオールを離れる気はないと主張し、医者が「単身赴任」することになった。レディAが人権弁護士の「彼」と情事を交わし、娘を私生児として出産し、世間の冷たい目に晒されながら何とか三歳まで育て上げたのは、すべて、医者の留守中に起きたことである。医者の帰国は研究で何らかの「成果」をあげてのことだろうと想像していたが、どうやらそれが“バイブレイション・タンク”なるものらしい。でも、よりによって彼がその実験台になるなんて……レディAは、自分の知力や想像力では俯瞰することのできない巨大な迷宮に放り込まれたような不安感で、眩暈がした。 おいおい、包帯がとれかかってるぞ、ほら、いま直してやるから。 医者が笑顔で彼に近づく。彼の口は、顎がはずれたように大きく開いたままだ。 医者の手が彼の顔に触れるか触れないかというところで、包帯が完全に解けた。 娘が「あっ」と声をあげるのと同時に、彼の顎が床に落ちた。 口をおさえて叫び声を殺すレディA。 顎がついていたところから、透明の球体がのぞいている。 球体はだんだん膨らんできて、彼の顔半分が水風船のようになった。透明の風船の中で、エメラルド色の液体が揺れている。 医者の顔が恐怖に強張った。 ほらほら、なっ、動かないで……。 彼は医者の言葉を無視して両肩を捕らえ、引き寄せる。 医者の頭の上に、液体の入った球体が乗せられた。玉は氷嚢のように柔らかく歪んでいる。 医者が小さい声で「やめろよ」と言ったとき、風船が割れた。 流れ出すエメラルド色の液体は、医者の頭を、肩を、そして体全体を、雪だるまに湯をかけたように、あっという間に溶かしてしまった。 レディAは無我夢中で娘を抱き寄せた。 医者は断末魔の叫びをあげることもできぬまま、白骨に吐瀉物をかけたような姿に変わり果てた。 彼の顔の、風船がついていたところから掃除機のホースのようなT字型の口が現れ、ヘドロと化した医者を吸飲し始める。食道の筋肉が食物を胃に送るような動きで、彼の細長い口もまた運動していた。一口吸い込むたびに、彼の肌の色つやが良くなるのが目に見えてわかるようだった。 お医者のおじちゃんが骸骨になっちゃったよ! 娘の実況中継に、レディAは小刻みにうなずくことしかできなかった。 すごいよ! 肉が溶けちゃった! 床にバラバラになった白い骨が崩れ落ちている。骸骨に変わり果てた医者は、いやらしい笑みを浮かべることなく、虚ろに口を開いている。床に転がる白い骨はそれが生き物であったことが信じられないほど、ただ転がっていた。骨のぬらぬらした表面が徐々に乾いていく。 娘は事態の恐ろしさをわかっていない、自分が娘を抱いて彼から逃げ切ることなどできるわけがない、溶かされて、喰われてしまう、娘だけでも助けなければ……。 レディAはわずかな時間で最低限の冷静さを取り戻した。かつての夫が殺されたことなどを意に介しているゆとりはなかった。そして、彼に理性が残っていることだけに望みをかけて、必死で言葉をつないだ。 この子はあなたの娘、わたしはこの子の母親、あなたは父親、わかるでしょ?、お腹がすいてるなら食べ物ぐらい他からいくらでも持ってきてあげるから、わたしたちを食べないで、お願い、あなたがすごく苦しんだのはわかってる、わたしだっていろんな人に責められて、この子だって父親がいないからいじめられて、つらい思いをしてきたんだよ、だから許してよ、つらかったのはあなただけじゃない、ね、話し合おう、そうでしょ、話し合おうよ、わたしと、この子と、親子三人で。 彼は背筋を伸ばして、緩慢なところのない動作でレディAに近づくと、その肩に手をかけた。触れられている感覚はあるが、重さは感じない。 レディAは祈るような目で彼を見つめた。娘は相変わらず、おじちゃんあの風船ちょうだい、などと言っている。 だめなのか、だめだろうな、どこがおとなしいんだよあのヤブ医者、やっぱり会いに来るんじゃなかった……そう思っていると、意外にも彼はレディAの肩を軽く叩き、頭を小さく縦に動かした。 顎がないのでハッキリそうだとはわからないが、うなずいているように見えた。 娘は小さな赤い靴で転がる骨を蹴っている。頭部の骨が顎とわかれて転がった。 * * 彼はレディAと娘を別室に案内した。 広い部屋の中央に、棺桶ぐらいの大きさのドームが3台ある。彼がこの研究所に来てすぐに入れられたタンクだ。先程彼が空腹のあまり食べてしまった医者は“バイブレイション・タンク”、または“Vタンク”などと呼んでいた。 マウスみたいだね、とレディAの娘が喜んでいる。たしかに、タンクのデザインはコンピュータのマウスによく似ていた。 彼は娘の頭を撫でる。 そうだ、これからお母さんとこのタンクに入って、お父さんみたいに変身するんだ。ちょっと気持ち悪くなるから、タンクの中で何度か吐くかもしれないけど、そんなこと気にしなくていい。吐いた物も、タンクの中の溶液やおまえの体と混ざり合って、エネルギーとして再利用される。暗くて怖いだろうが、お父さんがついていてあげるから安心だ。お父さんは一人で耐えたんだぞ。 彼はそう伝えたかったが、顎がなくなってしまったせいで、シュッ、シュッ、という威嚇するような音しか出せなかった。音と一緒に緑色の唾液が垂れるので、それもレディAたちを怖がらせているのではないかと不安になったが、娘はなにもわからないように口を尖らして「しゅっ、しゅっ」と彼の真似をしている。背中がむず痒い。 彼は何とか自分の意志を伝えようと、“バイブレイション・タンク”のフタを開いて中身を指さす。 さあ二人とも、早く服を脱いで、このタンクの中に入るんだ。いま……夜中の一時か。じゃあ三時ぐらいまでには、ぜんぶ終わるな。裸になって、タンクの溶液に浸かりながら、自分がいままでに犯してきた罪を洗いざらい懺悔するんだ。そして精一杯、言葉の続く限り自分を罵れ。つらいのは最初の四十分だけだ。そのあと、これまでおまえたちが経験したことのないような快感が津波のように押し寄せてくる。変身の始まりだ。全身に力がみなぎって、卵の殻を破るようにタンクをぶっ壊して外に出たくなる。早くおまえたちにもその感覚を味わわせたい。そしたらぼくたちは、究極の家族になれるはずだ。究極の家族! どんな聖人よりも無垢な心と、軍人やアスリートよりも強靱な肉体を併せ持った家族だ。夢みたいじゃないか。こんな幸福がほかにあるか? 彼は熱弁したが、サイドワインダーが尾を鳴らすような摩擦音が繰り返されるだけだった。 そのとき突然、レディAが娘を抱きかかえ、部屋の外に駆け出そうとした。 彼の触覚に、レディAが動いたことを知らせる風が届く。 最初彼はパニックになったが、すぐレディAたちの方に跳躍し、行く手を遮った。 なぜ逃げるんだ! 彼はそう言ったつもりだった。しかしレディAたちには「グルグル」とか「プシュプシュ」とかといった異音が激しく発せられているだけとしか聞こえなかった。 言葉が通じない。 立ちすくむレディAと同様か、それ以上に、彼もまた往生した。娘だけが楽しげに声をあげて笑っている。彼は苛立って、せわしなく背中を掻いた。 言葉が通じなければ、どうやってあのタンクの、変身の素晴らしさを伝えればいい? 筆談だ。 彼はそうひらめいて、何か書く物はないかと周囲を探したが見つからず、仕方ないので医者の体液を爪ですくい取って、壁に文字を書くことにした。 ちょっと待ってくれ、いますべて説明するから。手短に、簡潔に、箇条書きにするよ。 彼は濡れた爪を壁にあてる。まず第一に……。 第一に、と書こうとしたが、爪が鉤状になっているのでうまくいかない。いやそれよりも、と思って彼は脱力した。文字が思い出せない。 アルファベットはおろか、数字まで思い出せない。たしかこんなカーブを描いて、このあたりに線が一本入ると思ったが……ぼんやりとイメージは浮かぶものの、それを壁に書こうとしても、誰も見たことのない、無意味な記号になってしまう。焦りとか混乱とか、そうした類の原因ではなさそうだった。もっと決定的に、彼の中で言語を構成するためのプログラムがそっくり消去されてしまったような感覚があった。背中の痒みが痛みに変わってきた。 タンクのフタを閉じる瞬間の医者の顔が、彼の脳裏をよぎる。タンクの使用を即決した医者は、彼の目を見ながらフタを閉じるとき、ほんの一瞬だけ、何か躊躇するようなそぶりを見せた気がする。どうしていまそんなことを思い出すのかわからないままガリガリと壁を引っ掻いているうちに、自分が何をしようとしていたのかもはっきりしなくなってきた。 何かを描いて、レディAと娘に伝えなければならない。すぐにわかってもらえる。伝えるぞ。伝える……。タンクの中に入れる……。水に浸ける……。伝える……。 彼の背中のケロイド状の皺が、布を破るような音を立てて裂け始める。 裂け目から、萎んだ花びらのような柔らかい束が露出した。 彼は背を丸めて、両肩を交互に上下させる。 束が震え、粘液が壁や床に飛び散った。 彼は驚かなかった。文字や言葉を忘れた代わりに、自分の体が次にどのように変化するのかは自明のことになっていた。 羽根を伸ばさなきゃ……。 レディAの顔が青ざめた。 娘は、ママ、見てママ!、と彼を指さして飛び跳ねている。 傘の骨のような筋が伸びて、彼の背中に大きな羽根がひろがった。 薄いブルーとエメラルドグリーンを基調にした、虹色の羽根だった。 仰天しているレディAの傍らで娘は、きれい……と呟いた。 薄暗い部屋に虹色の羽がオーロラのように輝いた。 * * タンクの中は完全な暗闇だ。 スチームバスのようで体温と同じくらいに温かく、これから自分の身に起きるであろうことへの心配を忘れれば、快適ですらあった。 外部からの物理的な刺激は、彼の「声」だけに限定されていた。 最初レディAは、頭上のスピーカーから響く音を気にすることなく、溶液の感触や呼吸の具合などを確かめていた。 ニオイもないし、ちゃんと息もできるみたいね……。あの子だけでも助けてあげたかった……。 しばらくすると、スピーカーの音以外のすべてがレディAの意識から消えた。 空気の振動が描く細かい波模様を脳にダイレクトにプリントされているような、無力感、屈辱感があった。耳を塞いでも、無駄だった。 何を言っているのかはわからない。 しかし彼がレディAを責めていることだけは、はっきりとわかった。 弁護士の彼は、検事、いや牧師に転身して、説教をしていた。言葉ではなく、音で、レディAの罪状を連綿と読み続けていた。 嫌な音だった。 飛び降り自殺をしてまだ中空にある人間が意識を失う直前にあげる微かな呻き声を、何百人、何千人分も折り重ね、つなぎ合わせたような「声」が、途切れることなく延々と続いた。 レディAの脳に、ブリューゲル《死の勝利》にも似た映像が焼き付けられる。 レディAは死神たちを指揮して、馬上で大鎌を振るっていた。目は愉悦に満ち、口元は裂けるほどつり上がっている。通りという通りの柱や杭、民家、畑の垣根に、宗教裁判で火刑にされ、絞首、斬首にされた死体が、収穫期の果実のようにぶらさがっている。 レディAは泣きながら嘔吐した。 彼の念仏を掻き消すために絶叫した。 しかし彼の「声」はますます大きく響くだけだった。 タンクの中の溶液がもう一人のレディAとなって、レディAを抱きかかえ、耳元で何か囁き始める。スピーカーの音が二つに分裂した自分の声のように感じられる。誰にも聞かれることのない胸の内の声を集音器で増幅し、スピーカーを通して聞くようだ。内部と外部の区別は感じられなくなっている。レディAは彼と混じりあっている錯覚に陥る。 これがおまえの罪だ、おまえは正直者ぶって罰を受けたつもりだろうが、その足下では這いつくばる彼の背中を踏みにじってたんだよ、罪をうち明けられない者の苦しみをおまえはわかっていない、彼だけじゃない、あの醜い死に様をさらした医者だったそうだ、おまえはいつもそうやって、いままでに出会った何人もの人間たちに同じことをしてきた、おまえは気づいていないだろうが、おまえと出会わなければ自殺せずに済んだ人間が何人いると思う、おまえが朝目覚めて新聞を読みながらコーヒーをすすっているときに、何人の人間たちをそうとは知らずに殺しているか考えてみたことがあるか、彼らが骨を砕かれ、内臓を破られ、五体を牛裂きにされているあいだ、おまえは午後の陽気の中で鼻歌でも歌いながら娘の衣服の刺繍なんかをしていただろう、彼らが絞首にされて命を失うまさにその瞬間に、おまえは声をあげて笑っていなかったか、おまえが生きていることの罪は、いやおまえが死んでもおまえが存在したことの罪は、未来永劫消えることはない……。 レディAは、責苦の言葉をすべて受け入れた。 全身を締め付けていた苦痛は麻痺へと変わり、表情を失ったレディAは、ただただ早く誰かが自分を殺してくれることだけを、静かな心で願っていた。 そのとき、暗闇に光が射し込んだ。 やがて光はレディAの世界全体に満ち溢れ、目には清廉な白一色だけが映った。光の中に、神としか思えないようなシルエットが浮かび上がる。彼は言った。よく耐えた、よくぞそこまで正直に罪を告白し、自分を責め抜いた、いまやおまえは誰よりも清い心を持った聖者だ、さあ立ち上がれ、世の罪深き者たちを救うのだ……。 レディAの全身に力がみなぎってくる。 そうだ、わたしは地獄を見てきた、自分の罪に無自覚な者たちとは比較にならないほどの苦行を積み重ね、天上の神々のような聖性を身につけたんだ、わたしは預言者だ、わたしの全能をもって、世の迷える子羊たちを救わなければ! 起き上がったレディAの体はタンクに入る前とさほど変わらなかったが、皮膚にうっすらと青白いウロコのようなものをまとっていた。 * * 裸の娘が彼に抱きかかえられている。 娘はまだ変身が始まっていないようだ、レディAは舌なめずりしながらそう考えた。 しかしよく見ると、口のまわりにブロンドの毛が生えていた。 ママ! おはよう! 娘は相変わらず元気が良かった。研究所の外はまだ夜中だったが、究極の家族の夜明けに相応しい、晴れ晴れとした挨拶だった。レディAも、おはよう、と言葉を返してから、じきにこんな確認の儀式をせずに心を通わせることができるようになるのね、と続けた。彼が大きな羽根をゆっくりと動かしている。 気持良かったね、あのお風呂! ぶーんっていう音がうるさかったけど。 娘は彼の腕からひょいと飛び降りて、レディAの裸体に抱きついた。 レディAは首を傾げる。この子にはあの地獄絵図が見えていなかったのかな。 彼が焼けた石に水をかけたときのような音を立てて、前屈みになった。右の手−−ほとんど節足動物の前足だが−−で首筋をおさえている。 どうしたの? レディAは尋ねるが、彼は口がきけず、首根っこのあたりを爪で掻いたりさすったりしている。彼に対する恐怖心は、もうなくなっていた。わたしたちは家族だ、レディAはそう思いながら彼に近づき、腕をつかむ。ほら、見せてごらん。 彼もおとなしく従った。見ると、首の皮膚に深い裂傷を負っている。なによ、この傷、ところでまだ肉や血は赤いのね、とレディAは笑った。彼のホースのような口が白っぽく変色していることに、レディAは気づいていない。 さっきわたしがおはようのキスをしたのよママ! 娘はレディAの太股にしがみついている。 キスしただけであんなふうになるの? レディAは口のまわりのヒゲと何か関係があるのかと思い、ちょっと見せてごらんなさい、と娘の頬をつかまえた。 ヒゲは長くて、少々太めだが、触覚ではないようだった。柔らかい体毛だ。 どうしたのママ、わたしのおヒゲに何かついてる? 娘が喋るときに、口の中に何かチラチラと光るものが見える。 ちょっとあんた、アーンしてごらん。 娘は言われるままに、あーん、と口を開いた。中を見て、レディAは驚いて思わず手を離してしまった。 何よ、あんた、悪ふざけはやめなさい! 口の中に何入れてるの? 娘はなおも、あーん、と口を開いて、舌を出す。 たしかに舌を出すような動きだったが、口から出てきたのは舌ではなかった。 人の親指のような、亀の頭のような、とレディAは心の内で形容しようとしたが、口に出すときには率直に、ペニスじゃないの、と言った。レディAの知識の中で、いまの娘の舌にいちばん似ているものは何かと聞かれれば、それしかなかった。彼はうつむいたまま、涎をすするような音を立てている。 よく見ると、娘の新しい舌にはクワガタムシのツノのような刃が両側に二本生えていた。 人の皮膚、いや彼の緑色の皮膚でも簡単に深い傷をつけられそうなほど、鋭利な刃だ。舌の先端が赤くなっているのは、彼の血液が付着しているに違いなかった。娘は吸血動物に変身したようだ。 ものすごいディープキスをされてしまったわけね……。 レディAが彼の方を見ると、何か様子がおかしい。さっきまでと、外見が変わっている。 まず、あのホース状の口がなくなって、その部分に人間の顎のようなものが見え隠れした。彼の顔から落ちた口が、抜け殻のように生気を失って床に転がっている。肌の色もおかしい。いや、おかしいというより、以前の彼のような、ピンクがかった白い肌に戻りつつある。彼は「うう、うう」と唸っていた。 ママ! どうしたの?、ママ! 娘がしきりに尋ねている。 さあ、どうしたんだろ、あんたのキスのおかげで、具合がおかしいみたいよ……。 レディAは娘の方を見ずに答えたが、娘は、そうじゃないよ、ママがおかしいのよ!、と叫んでいる。 まったくうるさいねこいつは。 見ると、何がおかしいのかがわかった。娘のつかんでいる太股から、全身、レディAのウロコが濃いブルーに変色して、高質化している。変身のスピードが彼よりもはるかに速いことに、レディAは自ら驚いた。“バイブレイション・タンク”の効果には、各々かなりの個人差があるようだ。 娘は舌を突き出してレディAの皮膚を傷つけようとしているが、ウロコにはじき返されて叶わない。やめなさい! レディAは娘を突き飛ばした。 いた、いたたたたた……。 声をあげたのは、彼だった。 透き通るようだった羽根も干からびたレタスのように萎んで、背中から落ちそうになっている。彼は頭部の殻を脱ごうとしていた。 いてっ、てててて、いて! ヘルメットを脱ぐように、殻は彼の頭からきれいにはずれた。 おぉ! いてて! そしてその下から、以前の彼の端正な顔が現れた。 ふうっ、いたかったぁ……。 * * どうしたの? ママ! キスしようとして突き飛ばされた娘が、レディAを睨んでいる。 彼の頭は長い眠りから覚めたときのように鈍痛を抱えていたが、記憶はしっかりとしていた。 首筋に触れてみる。 爪はまだ完全には生え替わっていなかったが、指先の感覚はかつてのものに近くなっていた。傷口はほとんどふさがっている。 タンクから出てきた娘に、チクリとやられたんだ。それから頭がぼうっとしてきて、レディAがタンクから出てきたときには、体が回復を始めてた。最初透明だったレディAのウロコは、ぼくの回復と同じぐらいの速度で、くっきりと目に見えるようになったいった。顔つきもヘビみたいに変わってきた。以前の彼女なら、娘を叩くことはあっても、床を転がるほど突き飛ばしたりはしなかったはずだ……。 彼は身の危険を感じた。 おそらくこれから彼女は、数時間前の自分がそうだったように、言葉を忘れていくだろう。人を殺すのも、食べるのも、何とも思わなくなるはずだ。そうなったら、丸飲みにされてしまう。いや、ぼくよりもまず、娘が危ない。ぼくの娘が。 彼は体に少しだけ残っている昆虫のような身軽さを発揮して、娘のところまで一足で飛び移った。そして細い舌をチロチロと出すレディAを横目に、娘を抱きかかえ、全力で部屋から駆け出た。 レディAは追ってこなかった。 ただ、娘を抱えた彼が研究所のドアから飛び出すとき、人間のものとは思えぬ笑い声のような、甲高い鳴き声を発するのが聞こえてきた。 * * −−十年後。 ある患者の報告。 「ええ、レディAの教団での振る舞いはまるで女王のようでした。誰も彼女には逆らえません。いくら教祖でも無理です。教祖は彼女の牙を恐れ、彼女も教団の表向きの活動を維持するために教祖を必要としています。教祖とレディAは逃れることのできない協定を結んでいます。もちろん教祖の方は逃げたくてしょうがない様子でした。教祖は蛇が苦手でしたから」 「はい、レディAの人気はかなりのものでした。いまのわたしには理解できませんが、薬を投与される前まではわたしも変形のタイプは昆虫類蜘蛛型でしたからわかるんです。レディAにはとても強い魅力がありました。美しい女性、というわけでも、もちろん人間でもないのですが、それは恋とも友情とも尊敬とも違う強い魅力がありました。いま思えばただの蛇女なんですけどね。しかしわたしが昆虫類蜘蛛型であったときには、蛇とは思わなかったし、蛇だから嫌悪するということはけしてなかったんです。あえていうならば、それまで感じたことのない可能性というか、未来というか、そういうものを感じていたような気もするのですが、それがなんであるのかはわたしにもよくわかりません。ただわかりやすく説明するならば、それはやはり恋愛に似ていて、わたしは夢中になっていたので、恋愛が終わったいまとなっては自分をバカだったなと慰める他は手がないのです。情けない話ですね」 「そうですね。早く本当の薬が完成してほしいですね。いまとなっては彼女から抽出される薬だけが希望ですから。もちろん試験段階の現在使用されている薬もずいぶん効果はあるみたいですが。喋っているわたしは健常者と変わらないでしょ? 言葉を取り戻すのにはずいぶん長いリハビリを必要としましたが。しかしまだ体全体が堅い殻のように乾いているし、いまとなっては無用となった四本の脚も先の方は白く乾いてきて、瘡蓋のようになっていますが、医者の診断では表面だけは死んでいても、内部はまだ生きているらしいのです。しかし彼女から抽出される酵素はとても不思議なものですね。詳しくはわかりませんけど、最悪の花粉症みたいなものですよね。治すための酵素が、かえって体に悪いどころか、死にさえ追いやるのですから。それでも彼女から抽出された薬を、薄められたものではなく直接、彼女を襲ってでも注入したいという人は多いようですよ。やはり、死んでもいいから昔の自分の姿に、人間の姿に戻りたいという人がほとんどですからね。でも皮肉ですよね。変形を自ら進んで望んだ者が、いまでは死んでもいいからもとに戻りたいと願うのですから」 「わたしですか? わたしも当然戻りたいですよ。ときどき自分が怖くなるんです。まだ歳も若い──十三歳ですか──彼女を殺してでも薬を注入してほしい衝動に襲われます。ええ、だからわたしは要注意人物なんですよ。全身拘束されているのはそのためです。変形するときもわたしは命がけでしたが、もとに戻るときにも必死になるのは当然でしょ? たとえその先に死が待っていてもです」 「へたな希望などなければいいんです。へたに希望があるからそれ以外に方法がないと思い込んでしまう。死んでしまうとわかっているのに一瞬だけ昔の自分の姿を取り戻せるからと薬に飛びつく。いまのわたしをもっとも苦しめるものは希望です。わたしはどうせ拘束されているのなら、希望である彼女が死んでしまえばいいと思っています」 * * レディAの娘は墓石の横に腰をおろし、頬杖をついていた。 おかしな陽気だ。薄暗くて、じめじめするのに、雨は降らず、いまが朝なのか夕方なのかもわからない。わけもなく胸がいっぱいになってきて、墓石を撫でる。 わたし、これからどうしよう、お父さん。 墓地は研究所のすぐ裏手にあった。 研究所、といっても、“バイブレイション・タンク”を発明した医者の研究所ではない。タンクによって変身させられた「患者」たちを治療するための、研究所だ。十三歳の娘は、そこで宝石のように珍重されていた。 娘の男性器のような舌は、タンクの薬効によって変形した細胞を自殺に追い込み、人体への回復を促すための酵素を生成することができた。しかしその酵素は、タンクのウイルスに感染した細胞を死滅させるとすぐに健康な細胞の殲滅に取りかかり、結果としてすべて殺してしまうため、「患者」は完全に人体への回復を遂げた後で、必ず死に至ってしまうのだった。 研究者たちは、娘の生成する酵素を改良して、自殺させる細胞とそうでない細胞を区別する機能を持たせようとしていた。 一方、蛇女と化したレディAは、医者が入信していた教団で幹部となり、教祖と同等の権限を握っていた。 彼女の牙は、一刺しで“バイブレイション・タンク”に長時間浸かるのと同じ効能を発揮した。さらには、女王蜂のように、変身させた者に忠誠を誓わせることもできた。レディAの「イニシエーション」によって昆虫や魚類、鳥類、爬虫類の亜種となった「実行部隊」の者たちは、世界中から次々と人間を誘拐してきては、レディAのもとに引き出した。 娘のいる研究所に連れてこられるのは、警察や軍隊に捕獲された「実行部隊」の者たちだった。 * * 娘はため息をついて立ち上がり、腕時計を見た。 白い手首に走る血管が目に入った。 血管を流れる血液の色が、以前研究所で医者の頭の上で破裂したエメラルド色の液体と同じだと思った。 娘は懐かしい気持ちに襲われた。エメラルド色の液体はとてもきれいだと思った。 どこか遠いような近いような、距離を失った場所から人々のうめき声が聞こえてきた。無数のうめき声が娘の耳元で「死ぬ、死ぬ」と繰り返した。同時に「生きる、生きる」と繰り返した。無数のうめき声は母親の声にも似ていたが、自分の声のようにも感じられた。 “バイブレイション・タンク”で聴こえてきた声だった。「死ぬ、死ぬ、死ぬ」としわがれた老人の低い声で、錆びた金属の音を響かせながら打楽器のように繰り返す。リズムに合わせて「生きる、生きる」とピッコロに風が吹き抜けるように聴こえてくる。やがて言葉の意味は消え、声は硬質な音となり、詩の朗読のように聴こえてくる。娘の知らない国の人が、娘の知らない国の言葉で詩を朗読しているように聴こえる。硬質な響きを発するドイツ語に似ていると娘は思う。詩の内容は様々な物語や歴史、人類の長い歴史のようだ。耳がくすぐったい。耳元で一つの歴史が語られると、その合間合間に小さくささやかな音楽が挿入される。それはなんということのない小さなメロディだったが、色のついたメロディで鮮やかなエメラルド色だった。朗読の合間にエメラルド色した小さなメロディが一瞬現れては消える。詩の朗読が長ければ長いほどエメラルド色は輝度を増し、軽やかに澄んだ色となっていく。 娘は舌を出して、その先をそっと手首にあててみる。不安は少しもない。 刃が食虫植物のように、オートマティックな動きで娘の手首に突き立てられた。 しばらく後、冷たい墓石の上で娘は仮死状態となり、動かなくなった。 |