<1> 千客万来
2003年5月某日、フォックスヴィル。
バックス・ヘアーズはフォックスヴィルの最も由緒ある一族の長老であった。 もっともこの十年は引退同然に高台の広壮な邸宅に閉じこもり、顔を見た人間はごくわずかな使用人と、弁護士と医者ぐらいなものだと噂されていた。
その慣例を破って、今日はなぜか彼の元に多くの来客が押し寄せてきている。
「あはは、伯父さん、ご機嫌はいかがですか?」愛想笑いを満面に貼り付けて現れたのは、甥のピーター・ヴェリーだ。「ちょっと、お時間を拝借」 「あいにくだが予定が詰まっている」バックスはじろりと見やっただけでそっぽを向いた。 「おやおや、それは……でも、喜ばしいことです。お元気な証拠ですから。そう言えば、あさっての誕生日で90歳でしたっけ? いやいや、この分だとまだまだ何年も長生きできますよ、羨ましい。万歳。目指せ、100歳!」 無闇にテンションが高いのは下心があるからに決まっている。バックスは言い捨てた。「用があるなら早くしたまえ。私は人を待っているのだ」 「はあ」ヴェリーは帽子を取り、こねくり回した。「……先日お願いした献金の件ですけど」 「おまえは私の援助を一切受け取らないことを謳い文句に町長に就任したのだろうが。政治家たるもの、初志貫徹できんでどうする」 「もちろん、私の政治理念に揺るぎはございません」 予想通りのつれない返事だったが、ヴェリーは敢えて反駁を試みた。「身内へ安易に金を出さないというあなたの身上も、重々承知しておりますです。けれども伯父さん、ここはひとつフォックスヴィルへの投資と考えてはくださいませんか。あなたの愛する郷土、その未来と発展のために。僕個人ではなく……」 「帰ってくれ。これ以上は聞く耳持たん」バックスは遮った。「おまえには口を利く間も惜しいくらいだ」 「伯父さん……」
汗びっしょりになりつつ、それでも懸命に言葉の接ぎ穂を探るヴェリーの背後から、聞き覚えのある声がした。
「こんにちは。《ブラス・ハウス》のヨッシュです」 振り向いたヴェリーの顔が嫌悪に歪む。忌々しい。待ち人とはこいつなのか。 ヨッシュ・ロブスターは再従弟だが、ふたりの仲は決してよくなかった。優等生の彼とはハイスクール時代から何かと比較されることが多く、ヴェリーは常にコンプレックスを抱いていた。ことに去年ひと目惚れした、メイ・クイーン・コンテスト(優勝賞品じゃが芋1年分)女王のリサ・グレイがロブスター家の住み込み家庭教師だと知ってからは、反感は蒸留され、まじりっけなしの敵愾心へと変化していた。 「じゃあ、今日はこの辺で」ライヴァルには渋面、館の主には笑顔を残して、ヴェリーは精一杯取り澄ましながら会見の場を辞した。
門のところで、出会い頭にデス・ウルフと鉢合わせしそうになって、慌てて逃げる。フォックスヴィルの警察署長で、妹モペットの夫でもあるデスは、ヨッシュとはまた違ったタイプの苦手な相手だ。むしろアレルギーに近い。
後も見ずに走り去りながら、ようやく彼はデスがひとりでなかったことに思い当たった。一緒にいたのは……あれは確かクリーニング屋の女店員だったな。
ヨッシュは荷物を広げ、ケースに収められた鳥の剥製を取り出した。「えー、鑑定結果が出ました。琉球カシドリの剥製、台座にエラリイ・クイーンの献辞入り。値段は……そう、500ドルと言ったところでしょうか」 バックスは目を剥いた。「ばかな! おまえの目は節穴か。クイーンのサインだけでもその10倍は下らないはずだ!」 「ええ」したり顔のヨッシュ。「ですがそれは偽筆でしてね。肝心のカシドリにしても、それほど価値はありません。よく見ると尾羽に傷が多数あって――そう、千匹の猫に引っかかれたみたいに。私の目が節穴かどうかは、それを確認してから判断なすってもらいましょう」 「……解った」 バックスは憮然としながらも、大人しくケースを引き取った。それから大勢を変えるように言った。「それより、ペイシェンス・スネークの未発表作品はまだ行方がつかめんのか」 「はあ」とたんにヨッシュも不景気な顔になる。
『家計法廷』や『無駄の窓』などの金融ミステリで知られる覆面作家ペイシェンス・スネーク。寡作だが、銀行や証券会社で起きた殺人を、ヒロインのつましい主婦が節約の知恵を武器に解決するスタイルが受けて一部読者に人気があった。が、素顔を明かさぬまま一線を退いて早や数年。しかし最後に発表した『メッツの厚着』がそれまでとは一変して、舞台はマネー・ゲームとは無縁の服飾業界、ストーリーも元大リーガーの投手が中心という異色作だったので、あるいは名を変えて別の路線で執筆を続けているのではとも囁かれている。
その彼女についてとある噂が流れた。未発表原稿が流出したと。こつこつ書き止めておいたプロットが何者かによって持ち出され、密かに取引されているらしい。バックスは飛びつき、ヨッシュに入手を命じた。すでにそのための資金も相当額渡してあった。 「経費の問題なら、これを」 バックスは小切手帳を開き、ペンを走らすと切り取って相手に突きつけた。 「私はファンだから、彼女の作品のためならいくらでも出す。だが、それはあくまで将来読めることを前提にした限りだ。もしそれが敵わないのなら、この金は返してもらうぞ」 「全力を尽くして捜してます。だから、もう少し待っていてください」
そこへドアがノックされ、執事のコリンズが次の訪問客の到来を告げた。ヨッシュは部屋を出、替わってデスとローズ・ダイヤモンドが招きいれられた。
「……あんたがこの前持ってきたオキナワの鳥の剥製な、まがい物だったそうだ」 バックスは顎をしゃくった。ローズは真っ青になる。 「そんなはずはありません! あれは母が父から結婚祝いにもらったもので……何かの間違いです。母も父も嘘をつくような人じゃ……」それ以上言葉が続かない。 「言い訳はいらん。引き取ってもらおう。今後何を持ち込むにしろ、金策には応じかねる。解ったな」 「まあまあ、そんなにきつく言わなくても……」 「デス、おまえも思慮が足りない」 絶句し立ち尽くすローズの脇から割って入ったデスにも、バックスは厳しい言葉を浴びせた。「何ゆえそこまで彼女の便宜を図るのか、理解に苦しむぞ。公職の身であるからには私情を挟むな」 「町民の福利厚生を慮るのは公務員として当然では――」 「町に頼めば済むことだ。それともピーターに頭を下げるのが厭か」 なすすべもなく論破され、デスは途方に暮れて視線を宙に泳がせるばかり。と、それがバックスの手元に落ちた。見る見るうちに顔色が変わる。 「ん? どうした」バックスは相手の目の先を追い、すかさず小切手帳を取り上げると閉じた。「君らには無関係なものだ。自分の金をどう使おうと、とやかく言われる筋合いはなかろう。
さあ、用は済んだ。私はまだまだ忙しいんだ」
ローズと門前で別れたデスは、不安に苛まれながら帰途についた。バックスは素早く小切手帳を片付けたが、すでにデスの鋭い目は記述のすみずみまで読み取ってしまっていた。振り出し先、金額、その用途までしっかりと。 ペイシェンス・スネーク、それは紛れも無く、彼のもうひとつの顔だった。殺人事件ひとつ起こらぬ平和な勤務時間の合間を縫って、書き上げた小説数作を出版したのが10年前。きっかけはほんの出来心だった。女名前の筆名からして、あくまで余芸に過ぎなかった証拠である。が、作品は思いがけず熱狂的好評を博してしまう。初めはそれでも少しばかり誇らしかったが、作者の正体を突き止めようとするマニアが現れるに至り、彼は慌てた。何しろ名義に合わせて、ふざけ半分に若かりし頃の妻の後ろ姿を著者近影として載せてしまっている。いまさら中年男だとばれてはまずい。彼はペイシェンスを殺した。筆を折り、影法師を永遠に封印したのだ。 しかしいったん火のついた人気は容易に収まらない。諦めないファンは、新人作家がデヴューすればペイシェンスの別名義ではないかといちいち疑ってかかり、作風が少しでも似通っていようものなら鬼の首でも取ったかのごとく騒ぎ立てる。最近では未発表原稿流出なるデマまで、まことしやかに流れている始末。デスはそのたびに身の縮む思いを味わっていた。やれやれ、くわばらくわばら。 それにしてもバックスがあんな大金を注ぎこんでまで、“彼女”の作品を捜しているとは。ならば、まだ手元にある原稿を売り込めば、あるいは金を都合してくれるのではないか。そうしたらローズを支えてやれる。 だが、真実が白日の下に晒されたら――公務員の副業はけしからん云々と、あのヴェリーが必ず難癖をつけてくるだろう。幻滅したバックスが激怒する危険も否定できない。下手したら署長の地位すら追われることになるかも! バックスに知られることだけは断じて避けなければ。デスは拳をぎゅっと握り締めた。
応接間の入り口で、キーリーン・ホワイトはふと足を止めた。廊下を曲がろうとする若い女の影がちらっと目の端に映る。誰だろう? 見かけない姿だが。けれど、部屋の奥から主の呼ぶ声がする。彼女はそのまま中へ踏み入った。「今のお客さん、どなた」 それに対するバックスの返事はやや意外だった。「ボストンのボランティア団体の使いだそうだ。寄付金を集めに来た」 「まあ、そうなの」 色めきたつキーリーン。寄付に応じるだけの余裕があるとは、老人はどうやら機嫌がいいらしい。 だが彼女が用件を切り出す前に、相手はすげなく釘を刺した。「銀行からの借入金に関する話ならお断りだ」 キーリーンは膨れた。「相変わらず身内には渋いのね。他人には気前がいいくせに」 「身内だからこそだ。誰かを頼って自助努力を怠れば結局共倒れになる」バックスは手を振り、それとは口に出さず帰るよう促した。彼女は肩を竦め、踵を返した。 仕方ない。出直すとするか。そうだ、あさってはバックスの誕生日だ。ここはひとつ、とびきりおいしいバースデーケーキを奮発するとしよう。そしたら態度も軟化するかもしれない。
キーリーンとほとんど入れ替わるように現れたのは、ハリエット・キャプランだった。「こんにちわあ」彼女は元気よく歩みより、カタログを差し出した。「紳士帽の最新モードよ。どう、試してみない」 バックスは受け取ると、そのままちょっと手を上に上げる素振りで簡単かつ事務的に謝意を示した。 「ところでね」彼女はぐっと近づくと、小声で囁きかけた。「実は伯父さんに会って欲しい人がいるんだけど」 バックスの片眉が上がる。「再婚相手か」ハリエットは苦笑した。「違うわよ。若い女の子」 「メイドなら間に合ってる」 「そうじゃなくて」 ハリエットは言いよどんだ。何とかしてバックスを、《ファントム・レディー》まで連れ出す方便はないものか。家出した再従兄ベンジャミンの娘、的涼鹿との面会にこぎつけるまで詳しい事情は伏せておきたい。「とりあえず、今度店に来て。たまには外出しないと身体に毒よ。そうだ、あさって、《ダブル・ダブルダイナー》でお茶しない? ささやかながら誕生日のお祝いするから」 バックスはふんと鼻を鳴らした。それが拒絶か承諾か判断しかねたが、深追いして逆に引かれてはまずい。「じゃあね、約束よ」 ハリエットは希望的観測を捨てまいと努めつつ、屋敷を出た。
「まだ来ない……」 バックスはため息をついた。目の前にいるのはアイザック・ビートル。もちろん待ち人ではない。そのアイザックは帽子をもみくちゃにしながら、何か仕事は無いかと媚びてくる。 「とにかく、帽子をいじくるのはやめろ」見てられなくて彼は遮った。「ピーターを思い出すではないか」 「へ、町長を?」すかさずアイザックは食いついた。ほとんど外出せず、他人と会う機会も少ないバックスが、なぜよりによって好きでもない甥のことなど連想したのだろう。もしかして。「……ここに来たんですか?」 「ああ」バックスは無愛想に認めた。 「だったら」彼はここぞとばかりに売り込みに拍車をかける。「俺がお役に立てますよ。勘のよさは今の推理でお判りでしょう? ボディーガードなんてどうかな。迷惑な客は全てシャットアウトします。ですから――」 「悪いが君を雇うつもりはない。帰りたまえ」バックスは冷ややかにドアを指差した。「……この場の空気ぐらい読めるだろう。本当に勘がよいならな」 みるみるうちにアイザックの顔が赤くなった。恥じたのではない。侮辱された怒りがこみ上げたのだ。しかし何か言い返そうとしても言葉はまとまらず、結局帽子を頭に載せると無言のまま引き下がった。
この調子なら、ひとりでいる方がどれほどましかとバックスが思い始めた頃。デスクの上の電話が鳴った。期待に満ちて傾けた耳に、受話器は想定外の声を送り込んだ。「……俺だ」 長幼の別をわきまえないスタイルは他でもない。クロノ・レイヴンだ。バックスは失望のため息をついた。「今頃何だ?」だが次の瞬間、全身に緊張が走る。彼は慌てて受話器を握りなおした。「例の取引を白紙にって――まさか」 「腎臓移植の件だ。提供は断る」 「冗談じゃない!」バックスは爆発した。「もう養子縁組も済ませた。少なからぬ代価を支払ったんだ。約束は守ってもらわねば」 「縁組の発効がアンタの死後でもか?」相変わらず嘲弄するような口調。 「待て、結論を急ぐな。納得するまで話し合おう」 「厭だ。アンタは信用できん。とにかく気が変わった。これ以上話すことはない」 「こら、切るな、切る前に聞け。だったら一度こちらへ来い」バックスは必死に怒鳴った。 それからトーンが説得からやや脅迫へとシフトした。「必ず来るんだぞ。さもなくば貴様は契約を一方的に破棄した上、相手に直面せず逃げた卑怯者だと言いふらしてやる。いや、手術されるのが怖い臆病者だと」 「……何とでも言えよ」 クロノが心なしか圧されたように思えたのは気のせいか? バックスはさらに嵩にかかって攻め込む。「腎臓は頂く。私はまだ死ぬつもりはないからな」 息つまるような沈黙のあと、ふたりは同時に電話を切った。
「……おじさま」 か細い声に振り向くと、若い娘がデスクの前に立っていた。リサ・グレイ。 「ありがたい、よいところへ来た」バックスは大きく相好を崩した。こんなむしゃくしゃする時は、美しいものを眺めるに限る。彼は手招きした。「おいで。おまえのきれいな顔をもっとよく見せておくれ」 だが彼女は根が生えたように動かない。そして、思いつめたように言った。「お願いです。もう私と別れてください」
「おじさまにはとても感謝しています。私のお給料だけでは母を支えきれなかった。でも私、好きな人ができたんです。その人のためにも、これ以上おじさまの――」声が途切れる。 「それは赦さんぞ、リサ」みなまで言わせずにバックスは声を荒げた。 この2年間、彼は彼女を密かに囲っていた。しかし最初こそ火遊びでしかなかったが、日増しに美しくなるリサにいつしか後妻に迎えたいという願いが募って、数日前に正式に求婚したのだ。それなのに…… リサは真っ青になる。バックスはにじり寄った。先刻からの苛立ちが形相をさらに険悪なものにしていた。 「私は欲しいものは決して諦めない。“求めよ、さもなくば握りつぶせ(Ask
or jam
it)”をモットーにこれまで歩んできたんだ、一度手に入れたら未来永劫手放さぬ。まして、どこの馬の骨だかにくれてやったりするものか。忘れるな! おまえの夫になるのは私だ、肝に銘じておけ!」 バックスはリサに掴みかかった。リサは死に物狂いで抵抗する。が、抱きすくめようとするバックスの動きが止まったのに気づいて自分もその視線を追い、とたんに悲鳴を上げた。 戸口に立ちつくす女の姿。 リサは渾身の力でバックスを振りほどくと顔を覆い、廊下に向かって突進した。目撃者の脇をすり抜け、一目散に逃げていく。 その後ろ姿をぼんやり見送りながら、バックスは新たにやってきた相手に向き直り、のろのろと呟いた。 「いつからそこにいたんだ、マーサ?」
マーサ・ダークホウクは答えなかったが、嫌悪に満ちた表情が事の全てを見届けたことを雄弁に物語っていた。 「そんな目で見るな。誤解だ、曲解だ」バックスは喚き、くるりと踵を返すマーサに慌てて問いかける。「待ちなさい。用件を聞こう」 マーサは吐き捨てた。「もういいの。単なるご機嫌伺いだったんだから」 「こら、まだ行くな」老人は懸命に引きとめようとする。「……判っているとは思うが、今見たことは一切他言無用だぞ」 「当たり前でしょ。こんな汚らわしい話、口にしようものなら舌が腐るわ。よくもまあ年甲斐も無くふしだらな真似を」彼女は棍棒を振りかざし、相手の顔にぴたりと照準を当てた。しかし正義感からとは言え、少々度を越してしまったらしい。 「おい、言葉が過ぎはしないか」 あからさまな非難にバックスも色をなした。 「疚しいことなど何ひとつしておらん。独身なのだから誰と恋愛しようと後ろ指差される謂れは無い。だが今度、改めてふたりの関係にけじめをつけるつもりだ。天地神明に誓って私は潔癖だ!」 「だったらそれでいいじゃない」マーサは言い放ち、すたすたと歩き去った。
だが膝はいささか震えていた。 怒りに燃えたバックスの形相の恐ろしさ。完全に我を忘れている。何をするか知れたもんじゃない。そう思わせるだけの迫力に満ちていた。 老人の鋭い眼光が背中を貫くのが痛いほど感じられる。まるで刃のようだ。実際、本物があれば突き立てたいと考えているに違いない。この醜聞が漏れることを防ぐためなら何だってやりかねないだろう。
バックスは大きくため息をついてデスクに戻った。そして思わずどなった。 「まだ来ない! いったい、何をしているのだ!」
<2>へ続く
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