災難の町:Accident Town

最終章@―by matorjiska




  7月21日「デス署長自身の一番長い日」


 その男は香港で生まれた。
 激動する経済都市・香港。貧困階級に生まれながら、天性の才覚と体力に恵まれていた彼は、たちまち頭角を現した。英語と広東語に加えて北京語も流暢に話す彼に、事業の障壁は存在しなかった。香港のみならず台湾にも手を広げた彼は、あたかも時代の後押しを受けているかのようだった。
 しかし、彼の目標は常に太平洋の向こう側に向けられていた。だが最初の挑戦は挫折に終わる。立ち直るには今までの何倍もの努力を要したが、やがてより大きな権力を握ることに成功した。人々は彼の財力を畏怖し、密かに仇名した。
 “マネー”。
 それでもなおかつ、彼の情熱は揺るがなかった。
 そんな折り出会ったひとりの女。彼女の身の上が天啓となり、光明を見出した彼は入念に計画を練った。それから10年の月日が流れ、計画は着実に進み、いよいよ大願成就も間近のはずだった。
 だが今、その野望が阻まれかけている。
 彼は部下に電話をかけた。「壁好手(ビィ・ハオショウ)か。私だ」



 リヨを引きずってきたヴェリーは停めておいた公用車のリンカーン・コンチネンタルにたどり着くと、今度は涼鹿にピストルを突きつけた。「携帯電話を運転席へ投げ入れろ。そしたら後ろに乗れ。ぐずぐずするな」
 涼鹿は躊躇いながらも、ポシェットから電話を取り出して指示に従った。ヴェリーは彼女が後部座席に座ったのを確かめると、ネクタイを外し、いきなりリヨの手首を捻りあげた。痛さにリヨは悲鳴を上げた。
 涼鹿も叫ぶ。「何てことするのよ!」
「当然の用心だ」ヴェリーは委細かまわずネクタイでリヨを後ろ手に縛ると、助手席に押し込んでさらにシートベルトで括りつけた。そして自分も運転席に納まると、嘲笑を浮かべて言い放つ。
「おまえたちふたりを後ろで一緒にしとくわけにはいかんからな。かと言って、脇で運転を邪魔されても困る。涼鹿、リヨが心配だったら妙な真似するんじゃないぞ。おとなしくしてればそのうち帰してやるよ」
 リヨは屈辱に顔を歪め、泣き出したいのを必死にこらえた。
「こんなことして何になるって言うの」
リンカーンが走り出し、『ファントム・レディ』が遠ざかっていく。リアウィンドウを食い入るように見つめていた涼鹿は振り向きざま抗議した。「あの手紙を訳してほしいんなら、最初からそう頼めばいいじゃない! 何もこんな手荒なことしなくたって……」
 ヴェリーは切り返す。「ふん、ハリエットやポッターの婆さんから、さんざん俺の悪口を吹き込まれているくせに! おまえにはこれくらいでちょうどいいんだよ。それからどちらの窓にも近づくな。真ん中でじっとしているんだ」そしてアクセルを踏み込んだ。
 涼鹿は無力感に打ちひしがれながら、一縷の救いを求めてあたりを見回した。どうやら庁舎ではなくヴェリーの自宅に向かっているらしい。今や無人となったあの屋敷に連れ込まれたら……いったい何を企んでいるのか判らないが、そう簡単に自由にしてはもらえまい。
 この小箱と手紙を投げ捨ててしまおうか。だがリヨが人質だ。マーサがあの時の不自然な空気を感じ取っているかもしれないので、ヴェリーも警戒してしばらくは手出ししてこないだろうが、怒らせてはますます不利になるばかりだ。
 その間にも、車はどんどん通りから離れていく。
 赤信号。一旦停止する。つまらない交通違反で足止めされてはまずいからか、ヴェリーはことさら慎重だ。
 と、その時眼に飛び込んできたもの。向かい側の歩道を歩いてくる見知った青年の姿――とっさに涼鹿は判断を下すと、ポシェットから何かをつかみ出すが早いか窓を開け、大声を張り上げた。
「きゃあ! 厭だ、助けて! 助助我(ジュジュウォ)!!」
 そして何やら追い払うように腕を大きく振り回しながら、彼めがけて放り投げた。血相を変えて向き直ったヴェリーに弁解してみせる。
「……ものすごいおっきな蜂がいたの。紛れ込んでたのね。ああ、怖かった……」
 ヴェリーは疑り深く彼女をねめつけていたが、「――ならさっさと窓を閉めろ。二度とこんなことしたら、蜂に刺された方がましだってな目に遭わせてやるからな」と脅しつけて、またハンドルに向かった。
 涼鹿は愛想笑いを浮かべながら、ガラス越しに様子を窺った。ジミーに渡し損ねていたシーサーのお守り。うまく注意を惹けたかしら。中国語で私だということは判ってもらえたかも……その時、拾い上げた相手とちょうど視線がぶつかった。涼鹿は瞳に万感の思いを込め、手を合わせた。
 お願い! 気づいて、アルマン!



「この際だから単刀直入に言わせてもらう」クロノは診察室にローズを呼び出した。「ジミーは本当にアンタが産んだ子なのか」
 わけが解らず、ただ頷くローズ。クロノは畳み掛けた。「で、父親は確かにハリーとかいう男なんだな」
「もちろん――ちょっと、それどういう意味、クロノ・レイヴン!」ローズは気色ばんだ。「口の利き方に気をおつけ。いくらジミーの主治医だからって、言っていいことと悪いことがあるわよ。私が何ぞ疚しいことしたとでも!?」
 クロノは片手を挙げて謝った。「すまぬ。聞き流してくれ。しかし、となると……」口の中で何やら呟きを繰り返す。「……もうひとつだけ。産院で取り違えられた可能性はないのか」
「ありえないわ。だってあの子、びっくりするほどハリーと瓜二つなのよ。実の親子じゃなかったらあそこまで似るはずないでしょう?」
 そこで初めて相手の深刻な表情に気づいて、声を落とす。「まさか……あの子に何か?」
 クロノは黙り込んだ。
 やがてX線連続写真を何枚も取り出して並べて見せる。「とりあえず、緊急手術の必要はなくなった。ごらん、こちらが4月に小学校に編入した時受けた、臨時健診のものだ。そしてこれが今日撮影したもの。何か気がついたことは?」
 ローズはわが目を疑った。「……三尖弁が正常に戻っている!」

 人間の心臓は左右の心房と心室とに分かれ、心房と心室の間は弁で区切られている。血液はいったん心房にたまり、心室へ押し出される。ジミーの病気は、右心房と右心室の間にある三尖弁の位置が先天的にずれている「エプシュタイン型心奇形」の一種だった。そのため弁が正しく合わさらず、隙間が生じて右心室から右心房への血液逆流や鬱滞、肺動脈への循環阻害などの支障を引き起こす。さらに不整脈を合併しやすいので、心室細動に陥れば突然死に至る危険が高い。
 原則として三尖弁形成手術が行われるが、ジミーの場合は弁の変形が著しいため、人工弁との置き換えが必要だった。だが、機械弁では血栓を防ぐ抗凝固薬の長期服用が欠かせなく、ウシなどの弁膜を利用した生体弁では劣化に伴う再手術が必要となる。加えてジミーはAB型なので、一般的には輸血上の問題はないとされるが、虚弱体質を慮って手術の際には自己血輸血の方針が取られることになっていた。アメリカではAB型の人間は少なく、血液の備蓄量に不安が残るためもある。しかし少年の、それも通常より小柄なジミーから充分な採血が可能だとも考えにくい。
 クロノに白羽の矢が立ったのはそのためだ。彼は機械弁、生体弁のどちらも使用せず、患者自身の心臓弁組織を残したまま病変部分だけを、しかも極めて短時間で修復し遂げる数少ない技能の持ち主だった。
 その三尖弁が回復していた。本来あるべき位置に、あるべき形態で。いつのまにか。

「救急医の先生は、心音の異常はないって……」目頭を押さえるローズ。
「……心室の閉鎖不全が解消されたからな。第一音及び第二音の分裂、収縮期雑音等の所見がなくなったのは当然だ」
「でも、どうしてこんなことが?」ローズは潤んだ瞳で問いかけたが、彼はただ首を横に振るばかりだ。しかし原因などもはや問題ではない。これが結果であり、さらに重要なことに、現実なのだ。
 こみ上げる喜びを噛み締め、幸福にひたる彼女を見ながら、クロノは新たな事実を告げるべきか悩んだ。あるいは再び谷底に、それもよりいっそう深く突き落とすことになるかもしれない。けれども……
 彼は心を鬼にし、重い口を開いた。「聞いてくれ。知っておいてもらわなきゃならないことがある」



 ハリエットやマーサとさんざんおしゃべりを終えて、戻ってきたキーリーンは店の前で男と鉢合わせした。『フレンドリー・ランドリー』店主、ジョージ・“ウォッシュ”・ウォレスだった。「ローズ、来てますかい」
 どうやら昼休みからまだ戻ってこない従業員を心配して、出向いてきたらしい。彼はガラス越しに視線を投げかけた。ほんのひと握りの客、相変わらず空いていて見通しのよい店内。
「それがね、実は」キーリーンは手早く一部始終を語った。ウォレスは眉を顰めた。
「……なるほど。未だに連絡がないところを見ると、どうやら大事かも。じゃ、病院へ連絡してみます」
 そのまま踵を返して去ろうとする彼を、キーリーンは呼び止めた。
「待って。ついでに持ってってもらいたいものがあるんだけど」店の奥へ駆け込み、喪服を引っ張りだしてくる。「ヨッシュの葬儀の後でクリーニングに出したんだけど、あんまりきれいになってないのよね。もう1回洗い直してくれない? サーヴィスで」
 ウォレスはさすがに厭な表情になった。「もう1回って、そりゃアンタ殺生だ。あれからひと月近くになりますぜ。なぜもっと早く言ってくれなかったんです?」
「いいじゃない、こっちだって忙しいんだから。お互い様よ」彼女は構わず押しやった。「それとも、“フレンドリー”ってのは看板倒れだとも?」
「い、いやありゃ単にオーナーの名前をもじってるだけ……」と反論するその顔へ喪服が被さる。払おうとした手が自然受け取る形になって彼は喚いた。「えーい、仕方がない、解りましたよ! でも今度だけですよ」
「じゃ、よろしく」後半は聞こえなかったふりをして、キーリーンは手を振った。とびっきりの営業スマイルで止めを刺す。これで洗濯代が1回浮くと言うもんだ。ウォレスには悪いが。
 とは言え、『フレンドリー・ランドリー』がそれほど技術が高くないのも事実である。キーリーンの思考は漠然と正当化に転じた。前にあったクリーニング店『ミスター・アライのドライクリーニング』はとかく仕事が丁寧で客受けもよかったが、日系人のオーナーが権利を譲り渡してこの春帰国してしまい、後を継いだのが『フレンドリー・ランドリー』だった。最近急成長のチェーン店だと言うが、商売のきめ細かさでは、規模が小さくても個人商店の方が一枚上手なのかもしれない。
 「あ」そこまで考えてはたと気がついた。「あの連中ったら。食い逃げ!」



 リンカーンはがたがたと揺れながらヴェリー邸の門をくぐった。女が出迎える。涼鹿は目を見張った。「キャシーじゃないの」
 もっとも、戸惑っているのは相手も同様だ。ヴェリーは車から降りるとリヨを助手席から下ろし、命令した。「しばらくこの子を頼む。ただし戒めはほどくな。あとで連絡するから、それまで逃げないように見張っててくれ」
「ちょっと、ピーター!」抗議するキャシー。「いきなり呼びつけて、これ、どういうことなの? まさか誘拐? そんな手伝いなんて、私、厭だから!」
「なに、しばらくここで待っててもらうだけだ。迷惑はかけないから安心しろ」ヴェリーは宥めた。けれども穏やかな口調とは裏腹に目は笑っていない。そしてリヨには小声で凄んだ。「夕方には家に帰してやる。だがここであったことは誰にも話すな。さもないと、二度と先生に会えなくなるぞ。解ったな」
 続いて涼鹿を助手席に移動させ、青ざめたリヨと不安げなキャシーを残してリンカーンは再び発進した。今度はまっすぐ庁舎へ向かう。ことさら自然なふりを装いながら、ヴェリーは涼鹿を町長室へと追い立てた。ドアを閉めるや否や、噛み付くように迫る。
「さあ、宝のありかを教えてもらおうか、的涼鹿先生」
 涼鹿は精一杯強がった。「こんな目に遭わされて、あたしがハイそうですかって言いなりになると思う?」
「思うさ」ヴェリーは平気の平左だ。
「おまえたちは互いに人質なんだ。いや、むしろ危ないのはあんたの方だぜ。リヨみたいな子供がいつまでも帰らないとなると問題だが、大人のおまえならどうってことない」相手の顔色が変わるのを認めてほくそえむ。「何なら二、三日ご逗留いただいても結構だ」
「……解った。手紙を訳せばいいのね」彼女はうなだれてデスクに向かった。椅子に着いて小箱の文を広げる。小声で読み上げながら、ノートをもらって英訳を始めた。
 ヴェリーはしばらくその姿を眺めていたが、ふとつかつかと歩み寄るとデスクの前から乗りかかり、耳元で囁いた。「王藍」
 涼鹿のペンが止まる。けれどヴェリーを見上げた顔は、まさしく狐につままれたような表情だ。ヴェリーはやにわにその首根っこを掴んだ。「おまえ、本当は王藍の身内じゃないのか?」

「聞いたこともないような顔したってだめだ。どうもおまえは王藍を髣髴とさせる。その口の利き方、身のこなし――」ヴェリーは詰め寄った。「それに、これを見てみろ」雑誌を取り出し、ページを開いてみせる。
 都会の一場面という趣の写真がいくつか載っていた。彼はそのひとつを指差した。「7月7日、独立記念イヴェント明けのボストンの風景だ。これはおまえじゃないか? そしてこの男」
 涼鹿は仰天した。ピントがずれているため漠然としているが、スナップの端に写っているのは確かに自分だ。よく見ると、他の写真にも彼女の姿が捉えられている。そのうえ驚いたことには、彼女の後方ほどない位置に、必ず男が立っているのだ。まるで彼女を見守るかのように。
「こいつはな、王藍の秘書兼ボディーガードで、最大値(ツイ・ダーチ)というんだ」
 ヴェリーは断言した。
 涼鹿は必死に反論した。「知らないわ。こんな人、見たこともない。あの日はパドルダックさんの事務所へ行ってただけよ。写真だって撮られてたなんて……」
「雑誌に掲載されたのは偶然だろうさ。でも、王藍の幹部が側にいたのも偶然か? 与太も休み休み言え。とにかく奴らと深い関わりがあるのは間違いない。あるいは仲間かも知れんな――詐欺の」
「まだあたしが騙りだって言い張るのね」合点がいった。昨日病院に押しかけてきた理由もそれだろう。
「まあ、今となってはどっちでもいい」彼は鼻で笑った。「もし本当にベンジャミンの娘なら、それこそ俺に借りがあるってもんだ。あいつが逃げ出したおかげで、俺はタビタを背負い込む羽目になったんだからな。親父の償いをしてもらおうじゃないか」
 その時、執務室のドアが勢いよく開け放たれた。ぎょっとして振り返るヴェリーの鼻先に拳銃が突きつけられる。
「彼女を解放しなさい。そうすれば今回だけは見逃してあげます」
 戸口に立っているのは女探偵ヴァネッサ・ホーン。その後ろにデス署長、さらにアルマンと彼に手を引かれたリヨの姿。デス署長は苦々しげに言い渡した。「指示に従え。本来なら未成年者略取・拉致監禁・強要の現行犯で逮捕するところだが」
「しないのか?」しぶしぶ手を挙げながら、ヴェリーはそっと義弟の表情を窺う。
「もう保釈金の当てはないだろうに」しっぺ返しに彼はぐっと詰まった。「そのうち厭でも司直の迎えがくるだろう。無駄遣いせずに取っておけ、“レナード”」
 ぽかんとするヴェリー。涼鹿も事態の急転を把握できず取り残されていたが、我に返ると慌ててデスクの上の手紙やノート類をかき集め、救出者の元へ急いだ。デス署長が口添えした。
「アルマンに感謝しなきゃいけないよ。君の様子がおかしいからって、庁舎を調べるよう主張したのは彼なんだ」
 青年は屈託なく笑った。「なに、一度パトカーって奴に乗ってみたかったんでさ」


 憤懣やるかたないヴェリーを尻目に、庁舎を後にしたデス署長一行は二手に分かれた。
 実際は、涼鹿が必死の演技でアルマンに訴えるまでもなかった。彼女は知らなかったが、ダブル・ダブル・ダイナーに赴く前から、ヴァネッサが護衛についていたのである。ヴェリーが去ったあと、ヴァネッサはキャシーを説得してリヨを救い出した。一旦は協力を約束したとは言え、あまりの強硬さに腰が引けてしまったキャシーはふたつ返事で従った。それから、次は庁舎と見当をつけて向かった先でやはりアルマンに引っ張り出されたデス署長と合流し、一緒に踏み込んだのだった。
 精神的ショックの大きいリヨは、ジミーに会いたい気持ちも手伝って、ヴァネッサに付き添われて病院へ向かった。残る3人はパトカーで警察署へ急ぐ。もっとも署長は涼鹿だけを連れ帰るつもりだったのだが、彼女がアルマンにすがりついて離れないため、やむを得ず同行を許可したのだ。今や彼女にはヘアーズ一族でない人間の方が安心できるらしい。
 町長を告訴するかと尋ねられて涼鹿はかぶりを振った。「私、あの人とはあんまり関わりたくないんです」それよりも、事情が許せばフォックスヴィルを離れたかった。「その件はリヨやジミーに任せます」
「――で、ヴェリーはいったい何を要求してきたんだ?」運転しながら、デスは続ける。涼鹿はかいつまんで説明した。「でも、どうってことのない文章だけど? 何だって町長はあんなに興奮してたのかしらね。まるで宝の地図でも見つけたみたいに」

「何て書いてあったんすか」と脇からアルマン。
「『徐福伝説(シューフーチュアンシュオ)」という、中国の言い伝えにまつわる話らしいんです。紀元前210年、始皇帝の時代に徐福という男が不老不死の妙薬を求めて、大船団で海へ漕ぎ出した――そして“平原広沢”という場所で王となったと。で、この書付によれば徐を名乗る人物が浜辺に流れ着いて、自分は平原広沢なる莫大な財宝の眠る土地から来たと告げたそうよ」
 アルマンはひゅうっと口笛を吹いた。「そいつはいかにも豪勢な話だ。だけどそれ、フィクションでしょ?」
「そうとも言い切れないんだけど。徐福自身は実在したらしいわ、でも平原広沢がどこかは諸説あって、確認されてないの。それに当時の船舶は海岸沿いに移動するか、せいぜい海峡を渡るぐらいの性能しかなかったはずです。なのに町長ったら」涼鹿はダイナーでのヴェリーの様子を詳しく再現してみせた。「どう考えたら、その宝がアメリカの、それも手の届く場所にあるなんて結論が出るのかしら。どこの浜辺とも書いてないのに。百歩譲って徐福が太平洋を横断できたとしても、上陸したのは当然西海岸てことになるんじゃない? その頃はまだパナマ運河はなかったんだもの。ロジカルじゃないわ、ラジカルよ」
 今度はデスが質問した。「中国では、徐福がたどり着いたのはどこだったとされているのかね」
「日本のどこか、というのが定説です。実際に日本のいろんな地域で徐福伝説が伝えられています。だから、“平原広沢”っていうのは少なくとも日本じゃないかしら。それなら辻褄が合うし」
 彼はひとりごちた。「ふぅん――これは、ひょっとすると……」
 そこへ無線が入った。報告を受けたデスは血相を変え、後部座席の涼鹿に告げた。「悪いがここで降りてくれ。何ならアルマンとふたりで署で待っていてもいいが」
「何かあったんですか?」
「籠城事件だ。コン・コーナー村の民家に男が押し入って膠着状態が続いてる。怪我人も出たらしい。今から応援に向かう」署長はブレーキを引いた。が、その時再び無線。レシーバーを耳に当てる。次の瞬間、「なに!?」
 デスは絶句した。
 そしてのろのろと言い足した。「さっきのは取り消しだ。君にも来てもらいたい」



 ジミーは検査入院することになると告げられ、ローズは呆然と待合室に戻った。ソファーベンチで合図するアイザックの姿も目に入らない。やっと気づくと、彼女は小声で打ち明けた。「変な話なの。ジミー、心臓が治ってるんだって」
 目を丸くするアイザック。「本当かい!? でも」と、つい高くなったトーンを慌てて落とす。「だったら、一件落着じゃないか。もう手術の必要はないんだろ」
「うん――それに関してはね。だけど……」ローズはたまらず顔を覆った。嗚咽が漏れる。
「……W・W病の兆候が現れてるらしいの。何てこと! せっかく、せっかく……命が助かったのに……」
 アイザックは言葉を失い、その場に立ち尽くした。クロノと同じ病気とは! 記憶がフラッシュする。湿地帯に停めた車の中での彼のもがきよう、『グリモルディ』付近で出くわした時の死人めいた生気の無さ……ジミーもあの苦しみを味わい続けることになるのか? 必死に話題の接ぎ穂を探る。「まさか、手の施しようがないってわけじゃないだろ? だって昨日までは何とも……」
「ごく初期の段階だって、クロノは言ってる。けど進行を止める方法がないのよ。たったひとつを除いて――」彼女はわっと泣き出した。「そんなの、ジミーが可哀相。あの子リヨちゃんが好きなのに」
「とにかく、俺は事務所に戻るとしよう」アイザックは辛そうに言った。「それとも、送っていこうか?」
 それに対してローズは礼を言ったが、同行は辞退した。「しばらくひとりにしといて。落ち着いたら……電話するから」
「じゃ」後ろ髪を引かれながら、アイザックは立ち去った。ローズはぼんやりと見送ると、倒れこむようにソファーに身を沈めた。再び涙がこぼれそうになった時、不意に誰かの気配を感じて顔を上げる。
 穏やかな微笑みがそこにあった。なぜか、ローズは気持ちが安らぐのを覚えた。
「またお会いしたね、奥さん。どこか具合でも悪いのかい」
「あ、あのゴミ拾いの時の……」
 隣に座っているのが、先日ダイナーの前で出会った老人だと思い出すまでそれほど時間はかからなかった。



 ヴェリーが大人気ない行動に出て、年端もいかない病弱な少年に大怪我をさせたというキーリーンの話に、つい町長糾弾派として反応したハリエットだったが、今は考え直していた。昨日もゴットフリート・ヴァールに忠告されたばかりではないか、出馬するなら家庭を持てと。「ロブ……」彼女は呟いた。
 3年前の愚かな自分が悔やまれてならない。なぜあの手を離してしまったのか。決していい妻だった自信はない。それでも変わらぬ愛情で、至らない自分を支えてくれたあの夫を。
 子供ができないのが苦痛だった。彼女の両親は不仲で、父は高飛車な母に愛想を尽かして別居してしまい、半ば片親で育ったようなものだった。だから、自身の家庭は暖かいものにしようと決心していたし、母親になりさえすれば9年間待たせ続けたロビンにも報いてやれると考えていた。なのにいっこうに身ごもらない。恐ろしい疑惑が頭をもたげた。あたしは彼の子供なんて、本当は欲しくないんじゃないだろうか……? あたしが愛しているのはロブじゃなくて、やっぱり……
 考えれば考えるほど深みに嵌まっていく。胸のうちに依然として残っている、ほとんど唯一身近な男性だったベンジャミンへの思慕が、未練ではないと言い切ることはどうしてもできなかった。
 迷いはその後もくすぶり続け、懐妊してからはなお強くなった。非常に暑い日が続く夏場で、体調を崩したハリエットは酷い悪阻に苦しめられていた。疲労した神経に魔が忍び込む。こんなに辛く感じるのは、あたしが心のどこかで産みたくないと思っているからでは……? 母親になりたくないからでは……? 妄想はさらに悪化する。もしこの子が「あの人」の子供だったら、あたしはこんなに苦しまないかも――?
 そのため、突進してくる車のクラクションに気づくのが遅れたのだ。
 病室で意識を取り戻し、もはや子供は望めなくなったと聞かされた時は激しく後悔した。赤ん坊と一緒に死ななかったことを嘆き、天を恨み、それにもまして自分を呪った。申し訳なさで夫を直視できなかった。ましてその理由なんて口が裂けても話すことはできない。一生かけて背負わなければならない重い秘密なのだ。ひとりきりで。
 どんな罰を受けても、彼を取り戻すことはできないだろう。決して償いきれるものではないのだから。


 閑古鳥の鳴き声ってどんなのかしら。
 徴収し損ねた飲食代の計算を終えてキーリーンは物思いにふけった。最後まで残っていた客も店を出たあとは当分他にやることもない。
 涼鹿と子供たちは注文前だからいいとして、ローズもアイザックもまだ戻ってこない。ジミーの具合がよっぽど悪いのかしら。まあ、ローズについては次に来た時でもいいか。アイザックは、いつだったかそれまでのツケをいっぺんに払ってくれたことがあったけど、最近またためるようになってきた。そろそろ締めてかからなくちゃ。ヴェリーはどうしよう? 前に花束をもらったっけ。いまいちタイプじゃないけど、向こうがそのつもりなら出方を考えようか。2、3日様子をみて、踏み倒すようならそれから請求しても遅くない。
 だけど、口が滑ったのは我ながらお粗末だったわ。彼女は渋面を作った。そういう時に限って必ず突っ込んでくる奴がいるのよ、それこそアイザックやヴェリーみたいなのが。その後の騒ぎでどうやらうやむやになったようだけど、万一覚えていたら……
 あの晩の楽屋での、ローズと涼鹿の衝突を彼女が知っていた理由。簡単だ。まさにその時、廊下にいて一部始終を立ち聞きしていたのだから。そのうち涼鹿が出てくる気配がしたので急いでトイレに隠れた。ほとんど入れ違いに、トイレの前を足早に過ぎる影がドアのすりガラスに映った。続いて何かがどさりと倒れる物音がし、それから女性のものとは明らかに違う重たい足音が遠のいていく。
 急に恐怖がこみ上げてきた。もはやクラブへ忍び込んだ目的などどうでもよかった。彼女の頭にあるのはただひとつ、誰にも見つからずに抜け出すことだけだった。
 そもそもローズが悪いのよ、と彼女は自分に言い訳する。私はむしろ便宜を図ってやろうとしたんじゃないの。そうよ、あの時も――キーリーンの回想は2ヶ月ほど遡る。確かトマトがヴェリーに連れられて、初めて食事に現れた日だった。そのことをローズに話したら、急にアレックスに興味を持ち出して、次にあの子が来たら連絡してくれるよう頼んできた。目つきがただ事じゃなかった。あの時のローズが何か企んでなかったなんて誰にも言わせない。その後はどういうわけか、気が変わったみたいだけど……

 とにかく、あたしとローズとどれだけ違うっていうのさ。彼女は自分の手を見つめ、平常心を取り戻そうと努めた。 その時、ドアチャイムが鳴った。
「あら、もう終わったの」
 馴染みの顔を認めたキーリーンの表情がそのまま凍りつく。来訪者の手には拳銃が握られ、真正面から彼女を狙っていた……


 一行を乗せたパトカーはフルスピードでコン・コーナー村に到着した。デスは現場の裏手に車を停め、指示があるまで外に出るなと後部座席のふたりに言い渡すと一足先に下車して坂を駆け下っていった。
 涼鹿とアルマンはそっと周囲を窺った。
 高台の林の中から現場を見下ろす位置だった。10メートルほど下にやや大きめの古びた田舎屋敷が見える。その周りを遠巻きに見守る人々。時々銃声が聞こえる。監禁されかけたばかりの涼鹿はぞっとして身体がすくんだ。不意にアルマンが息を呑んだ。
「ここ……! 顔役の家だ。ライオネル・コン。この村で一番発言力のあるお宅ですよ」それから傍らの彼女を見てそっとつけ加える。「ついでに奥さんのベアトリスはあの町長んとこのポッター婆さんの娘です」
 涼鹿は悲鳴を上げた。「じゃあ、あのお婆さんもここに来てるかもしれないの?」
「おそらく」アルマンは頷いた。「町長が彼女をお払い箱にしたって話、聞いてますよね。あの婆さんは未亡人で、おまけに住み込みだったから、追い出されたら頼るのは娘の嫁ぎ先ぐらいしかないでしょう。何てこった」舌打ちする。
「厭だ。そんなの」彼女は涙ぐんだ。「あの人、あたしにとても親切にしてくれたのよ。どうしよう、酷い目に遭わされてたりしたら……気の毒なお婆さん」
「いや、ちょっと様子が違うぞ――」
 アルマンはあまり窓に近づかないように注意しながら、瞳をこらした。「涼鹿さん、安心していいよ。ほら」と一点を指差す。「ポッター婆さんはあそこだ。婦警のヴィオラが側についてる。娘さん夫婦も一緒だよ」涼鹿は急いでその方向を追い、彼の言葉を確かめた。「その代わり、シープが怪我してるみたいで頭に包帯が巻かれてる。それに最古参のナトキンがいない。あるいは人質の交換がされたのかも。でも……」彼は言葉を打ち切り、自問した。何だって署長は彼女まで連れてきたのか?
 隣を盗み見ると、心なしかいっそう怯えた顔で食い入るように眼下の屋敷を見つめている。ふと、不吉な想像が彼の脳裏をかすめた。
 一方、デス署長は犯人を刺激しないよう身をかがめ、人目を避けながらようやく部下たちの元に辿り着いた。ファゴット刑事が報告する。
「犯人は本日午前11時半頃、庭先に潜んでいたところを家人に発見され、逆に居直った模様です。この家の主婦のベアトリス・コンとその母親エリザベス・ポッターを人質に、二階に立て篭もりました」
「通報したのは夫のライオネルだな」すでに報告を受けている事項だが、念のため再確認する。
「はい。3人は一緒に外出するところで、彼はたまたまガレージにいて難を逃れたんです。玄関で車を待っていたふたりが貧乏籤を引いた形ですね。戻ってみるとちょうど男が妻と義母を家の中に押し込んでいるところだったと供述しています。
 犯人は現金5万ドルと逃走用車両を要求し、やがて女性たちがヒステリー状態に陥ったため、人質の交代も要件に加えてきました。検討した結果、ナトキン案で行くことになって現在に至っています」
「シープはどうして怪我をしたんだ」
 ファゴットのため息。「食料を差し入れる段になって、奴が運び役になったんですが不用意に近づきすぎたらしい。逆に拳銃ごと奪われ、階段から蹴り落されました。ですが、落ちる前にそいつの顔を見届けたのは手柄と言ってやってもいいかもしれない」
 デスは顔を顰めた。「了解した。で、犯人は――」声を低くする。「……あの男に間違いないんだな」
 ファゴットは頷いた。

 涼鹿が突然わなわな震えだした。どうやら最悪の結論に達したらしい。やにわにドアを開けようとする。アルマンは咄嗟にその腕を掴んで引き戻した。「まだ降りちゃいけないって、言われただろ」
「離して!」涼鹿は抵抗した。「立て篭もってるのはパァパなのよ、だからデス署長があたしを連れてきたんだわ。説得して投降させるために!」
「まだそうと決まったわけじゃない!」アルマンは怒鳴った。「下手に動いて、流れ弾にでも当たったらどうするんだ? だいたい、署長は娘の目の前で父親を逮捕させるような人じゃないよ。とにかく、ここはおとなしく待とう――あ?」
 抑える手から力が抜ける。その急変振りに涼鹿も思わず相手を見た。アルマンの目は遠方の一点に釘付けになっていた。「今、裏から誰か屋敷に入ってったような……」
「突入部隊?」
「違う、ひとりだった。それも平服……」
 そのとたんに状況が一変した。激しく物が倒れる音、続いて爆発。割れたガラスから立ち上る煙。警官隊が一斉に駆け込んだ。やがて犯人と思しき男が引きずり出されてくる。負傷しているらしく、上半身は朱に染まっている。そのあとから付き添われて現れたのは人質だろうか。
 その隙に涼鹿は車を飛び出し、一目散に駆け出した。アルマンも慌てて後を追った。

 拘束された男の顔を見ても眉ひとつ動かさなかったデス署長だが、続いてやってきた人質の様子にはさすがに胸が詰まった。「苦労をかけてすまなかった」彼は相手を労った。「とにかく、あとで署で話を聞かせてもらおう」
 救出された男は疲れた表情でかすかに頷き、向きを変えた。
 その目が大きく見開かれる。彼は絶叫した。「ドリー・ルウ!」




「ジミーの心臓病が、いつのまにか治ってたんですって?」入ってくるなり開口一番、ジャック・ソールが尋ねる。クロノは連続写真を指し示した。「ああ。信じられんがその通りだ。こんなことがありえるとは――」 
 しかしそう言えば自分自身、最近発作らしい発作を起こしていない。直近が6月12日、その前が5月27日。過去の経験則からすると6月末には最低もう1回、発作が起きてもおかしくなかった。だが今まで何もない。その時期の体調がすぐれなかったのは事実だが、いつもと違って、人目を避けねばならないほどの激変には見舞われなかったのだ。これもまた原因不明である。ヘアーズ邸での集団生活による緊張が好結果をもたらしたのか? そんなばかな。
「ホントだ。奇跡だわ。世の中不思議ね」ソールは小首をかしげて写真を眺めていたが、突然ぽんと手を叩いた。「ちょっと待って。確か、同じような病床例記録がなかったかしら」
 眉を聳やかすクロノ。「弁の再形成がか? 心房あるいは心室の中隔欠損症が自然治癒するってケースなら知ってるがな」
「んま、これでもアンタよりキャリアは長いんだから。こ・う・ご・き・た・い」ウィンクを残してソールは書棚の方へ歩いて行き、文献を漁りだした。クロノは首をすくめると再びカルテに目を凝らす。
 しかし、再形成が実際に起こったのだとすると、心筋細胞が何らかの原因で活性化したことになる。その時、琴線に触れるものがあった。ジミー、W・W病……ローズ、日系米人、オキナワ……ヴェトナム――
「ぽんぽこ山か!」彼はあっけにとられた。まさか。自ら導き出した結論とは言え、途方もない偶然の連鎖を前提とする。とても肯けるものではない。
 だから戻ってきたソールが背後に立っても、気に留める余裕がなかった。
「ごめんね、ダーリン」
 肩に何かを押し付けられたが早いか、次の瞬間すさまじい電撃が全身を駆け巡った。悲鳴を上げる余裕もない。硬直したクロノは椅子から転げ落ち、大の字に横たわった。ソールはスタンガンを白衣のポケットに戻し、ぐったりと重い身体を抱き起こすと耳元で囁く。
「アタシだってホントは厭なんだけど、こうするしかないのよ。だって、アンタを失いたくないんだもの」
「“十傑衆の名に賭けて”……だな」
 いつの間にか、ドアが開いて4人の男が立っていた。声の主はアラン・イール、その両脇にバークレー・ヒポポタマスとルシフェル・グラディウス。そしてその背後にもうひとり。
「ええそうね」とソール。歩み入ってきた第4の男を見やる。身の丈2メートル、重さ150キロは優にありそうな黒髪の巨漢、ただしその容貌はサングラスに遮られてはっきりしない。
 男は放心状態のクロノを軽々と担ぎ上げると彼らに会釈した。「ご協力、感謝する」
 その時、待合室の方で大音響とともに怒号と絶叫がこだました。



 事情聴取の間、デス署長は半狂乱の涼鹿を宥めるのにおおわらわだった。彼女はベンジャミンの名を呼び続け、父親を投獄するなら自分も一緒に牢に入ると駄々をこねた。あくまで参考人として取り調べるだけだからと言っても信用しない。すっかり11歳の子供に戻ってしまっている。彼はついに匙を投げ、嵐が過ぎるのをひたすら待った。やがて祈りが天に通じたか、ようやく涼鹿はしゃくりあげるのをやめ、涙を拭った。
「少し落ち着いて考えれば解るだろう、現時点ではどんな意味でも、君のお父さんは容疑者じゃない。むしろ人命救助と犯人逮捕の功労者として、感謝状でも贈りたいくらいなんだ」
 人質の交換が提案された際に、実際に身代わりになったのはベンジャミンだったのである。
 コン家で事件が発生したことを知ると、彼は現場に駆けつけた警官隊の前に名乗り出、ぜひとも犯人に接触させて欲しいと切望した。籠城しているのが、3日前の涼鹿殺害未遂者だと信じる理由があったからだ。もしそれが正しく、なおかつ取り逃がすことにでもなったら再び彼女が狙われないとも限らない。愛娘の安全のために、彼は捨て身の戦法に出たのだ。
 立て篭もっているのが単独犯であることは、シープの証言から明らかになっていた。そのため協力者と見せかけて、実は相手方の一味かもしれないと申し出の意図を怪しむ声も上がったが、現在の人質解放を優先するナトキンの意見が通ってベンジャミンは彼の制服を借りて警官になりすまし、後ろ手に手錠をかけられた姿で屋敷に入った。そして一介の村人を装うことでうまく犯人の注意を逸らしたナトキンが催涙弾と発煙筒を手に忍び込み、呼応して突入した仲間とともに格闘の末、ようやく取り押さえた。
 逮捕されたのはハリー・ダイヤモンドだった。2ヶ月前に脱獄し、行方をくらませていたローズの夫はついに悪運尽きて司直の手に落ちたのである。
「彼に訊きたいことは山ほどあるから、確かに時間はかかる。身体を壊してもいるようだから、それも配慮しなきゃいけない。君が焦れるのは当然だ。でも、14年間待てたんだから、父娘の再会がもう少し先に延びたとしても、辛抱してくれないか」
「――すみません。取り乱したりして」涼鹿は俯いたまま小声で詫びた。
 場を保たすべく、デスは話題を変えることにした。「それはそうと、さっきの徐福伝説云々の話だがね」小箱を開けて手紙を納めると、丁寧に蓋をしてよこす。「これはもともと、ローズが持っていたんだったね」
 涼鹿は頷いた。「私の単なる想像だが」デスは言った。
「徐福一行の漂着先――平原広沢――がどこにせよ、その一派もしくは末裔が後世のオキナワに流れてきたということは考えられないだろうか」

「オキナワ! つまり――かつての琉球王国ですか?」
「そうだ」デスは一言一言確認するように言葉を継いだ。「あの地の歴史は私も少しばかり勉強して知っている。昔から中国とは交易を通して結びつきの深い間柄だ。さらに平均寿命の長い日本の中でも特に長寿と健康で有名だ」
 トマト殺害事件の直後、ヨッシュに連れられて彼を訪れたローズの青ざめた顔がまざまざと浮かぶ。脱獄した夫がよこしたらしい母の形見……その時、問われるままに小箱の由来や沖縄のこと、ハリーと出会うきっかけとなった父の死、そして中国マフィアに追われている経緯を打ち明けたのだった。
「徐福が琉球王の家系とどう繋がるかは不明だが、そう考えると話が見えてくる。実はフォックスヴィルにも日本人の入植者がいたことがあるんだ。しかしその後日米情勢の険悪化で減ってしまったがね。そう言えば確かオキナワ出身じゃなかったか」
 デスは資料室から『フォックスヴィルとサムライ』を探してくると、ページを繰り始めた。「ふむ。やはりそうだ。19世紀の終わり頃、大佐間(おおさま)何某という琉球生まれの男がこの地に来たのが始まりらしい」

 現在沖縄県及び奄美諸島と呼ばれる一部の島々は、かつて“琉球王国”という独立した国家だった。1609年、大名・島津義久の侵攻・占領で薩摩藩に併合されたが、制約を受けつつも独立した王政を保っていた。
 1871年の廃藩置県で「鹿児島県」の一部となる。だがこれを日本政府の琉球占領ととらえた住民は中国(当時の清)に救援を求めて抵抗した。事態を重く見た政府は鹿児島県の管轄から琉球地域を分離し、琉球国の首脳が管理する「琉球藩」を置いて鎮静化を図った。しかし、それでも琉球人の日本に対する不満は根強く、ついに日本政府は1879年3月首里城へ大量の警察官と兵隊を突入させ、琉球藩を強制的に廃止し、日本政府直轄の「沖縄県」を設置する……

「“尚王の配下である大佐間氏は明治政府への臣従を潔しとせず、軛を逃れんと渡米した。以後、彼を追うようにしてかの地からの入植者が相次いだ。移住者は主に山間部に居を構え、鉱業に携わった。その影響が当時『ガラスの丸天井』と呼ばれていた鉱山に見出せる。外形が彼らの故国特有の愛玩動物の腹部を連想させるという理由で、いつしか『ぽんぽこ』と通称が変わった”――のだそうだ。
 著者は日本国民を“サムライ”または“ゲイシャ”と言う概念で引っ括っているようだから、内容の正確さについては眉唾めいた点がないでもないが、当時の日本政府の方針への反発が出奔の動機だったのは事実だろう。さらに20世紀初頭にはオキナワに限らず、他の地域からも人が来て働くようになり、それに伴って多様な文化や生活様式がもたらされた。キティー渓谷沿いのきつねの石像もそのひとつだな。
 その後の入植者については珠田(じゅだ)、耶麻祢(やまね)、宇栄(うえい)、洗居(あらい)、下村(しもむら)、伽汰毘羅(きゃたびら)と言った名が挙がっている。おそらくこの中のひとりがローズの身内に当たるのではなかろうか」
「徐福ゆかりの旧琉球人が、不老不死や財宝の秘密をフォックスヴィルにもたらした――そして子孫のローズの手に委ねられた……というわけですか。そのとおりかも。お詳しいんですね、署長」
「わがウルフ一族は、ヘアーズ一族よりもこの町では古いんでね」デスは少しばかり得意げな面持ちになった。「あとはムーンライト一族か。あの家系は先住インディアンに繋がるんだ。霊感が強かったり、卜占に長けていたりするのは血筋なんだろう。あ、そうそう、これも返しておこう」
 彼は小包を取り出し、シーサーのお守りを添えて手渡した。「マスコットはアルマンからだ。元気になったらまた店に寄ってほしいと伝言していった。それからこっちは、君がポッター婆さんに預けたものだそうだな」
 それは彼女があの無署名の“殺害予告”を受け取った日に、ポッター夫人に宛てて郵送した小包だった。もし自分が殺されたらしかるべき筋に渡してくれるよう、依頼した手紙を同封して。あの時は他に頼れる相手がいなかった。そう、一時はハリエットすら信じられなかったのだ、“ルウ”という名が祖父バックスに因んで“鹿”をも意味することを、涼鹿自身の口から教えたことがあったのだから! もっともその後、指示どおりに脅迫状が来た事実を公表してくれたので、疑いは晴れたのだけれども(だってハティーがFOXなら、犯行の妨げになる手伝いを進んでするはずないじゃないの)。
「お婆さんの具合はどうなんでしょう? 今度のことがひどく堪えなければいいけど」
「万一に備えて検査を受けることになってるが、今日のところは自宅で過ごすようだ。犯人のハリーが、怪我の治療のために先に病院に送られているんでね、同じ場所にいたくはないだろう」
 涼鹿はそのまま包みをしまい込んだので、開封を半ば期待していたデスは拍子抜けした。まあ、本人にその気がないなら仕方がない。昨日の警察署での、夫人の供述の裏を取るのは後日でも間に合うだろう。
 と、いきなり机の上の電話が慌しく鳴り出した。反射的に受話器をひったくったデス署長の顔が紅潮した。「解った、すぐ出動する」そして思わず口走る。「くそっ! 何て日だ」
 ヘアーズ記念病院が何者かに襲撃されたという通報が入ったのである。


 同じ頃、ピーター・ヴェリーはまたしても町長室で両手を挙げていた。やれやれ、一日に二度も拳銃を突きつけられるとは。
 相手は顎をしゃくって外へ出ろと促した。表へ歩を進めようとすると、強制的に裏口へ回らされた。待ち受けていた古いクーペの後部座席にいやいや乗り込みながら、彼は運転手に向かって捨て台詞を吐いた。
「幹部直々のお出ましか、最大値。やはりあの娘は貴様たちの仲間なんだな」
 王藍の秘書は囚われの男を一顧だにせず、無言で車をスタートさせた。



 爆破された正面玄関から、覆面姿の異様な人間が5、6名、武器を手に駆け込んできた。居合わせた見舞い客や患者、通りがかりの看護婦らが悲鳴を上げて逃げ惑う。闖入者はそれらを威嚇し、蹴散らしながら奥へと突進してくる。
 その一瞬前に、ローズは先刻の老人に引きずられるように待合室を飛び出していた。
 彼女は惑乱していた。とても老人とは思えぬ足の速さ、手を引く力の強さ。むしろ彼女の方が足がもつれて遅れがちになるのである。確か、最初に会った時には腰が悪いとか何とか言ってたはずなのに。
「急ぎなさい。あいつらに捕まったら今までの苦労が水の泡だ」
「何ですって!?」たまらずローズは掴まれた手を振りほどいた。「お爺さん、あなたいったい誰? 何を知ってるっていうの?」彼女は真っ青になって後ずさりした。「厭よ、私ここを離れないわ。息子が入院しているんです。あの子を置いて逃げるなんてできない! ジミー! ジミー!!」
「静かに!」老人はローズの口を手で塞いだ。「私は味方だ、悪いようにはしない。とにかくここを出るんだ。向こうでタイガーが待っている」
 その言葉は魔法のように効き目を表した。タイガー! いつかのあのインド人か!
 老人は驚きに目を見張るローズに向かって頷いた。その時反対側から若い男がひとり走ってきた。ローズは慌てて老人の背に隠れたが、彼は泰然自若としている。手招きして側まで呼ぶと何やら指示を下した。
 どうやらこれも味方らしい。ネイティヴ・アメリカン系の精悍な顔立ちは使命感に溢れている。
「彼女を頼むぞ、バファロー」
 青年はローズの手を取ると病院の外へと急いだ。老人は踵を返し、院長室の前まで来ると迷わずドアを押し開けた。中にはヒポポタマスしかいなかったが、老人はやんわりと切り出した。
「ジミー・ダイヤモンドの病室を教えてもらえないか? ゴダード」
 あっけにとられたヒポポタマスの顔面に新たな衝撃が走った。彼は喘いだ。「――生きていたとは……」

 中庭に面した病院のラウンジで、イールは自動拳銃を、ソールはメスを構えたまま並んで襲撃者と対峙していた。グラディウスはすでにクロノらとともに安全な場所に避難している。ソールは油断なく狙いをつけながら誰何した。
「アンタたち何者……? 《チェシャー・キャット》じゃないわね。もしかして《バンダスナッチ》? どっちにしろお門違いよ。アタシはそれほどの医者じゃない」
 黒い男らは首を振った。「お門違いはこっちの台詞だ。我々の目的はローズ・ダイヤモンドだけだ。あの女さえ引き渡せば速やかに退散してやる。さ、ご案内願おう」
「知らないわ。患者じゃないもの。来たとしてもとっくに帰ったはずよ」
「我々は彼女がまだここにいるという情報を握っている。逆らうなら一部屋ずつ改めさせてもらうが、いいか」
「だったら手術室からにすれば?」彼はメスをきらめかせた。「ついでに開腹してあげる。麻酔なし、縫合なし、請求なしの大盤振る舞いよ」続いてイールも撃鉄を起こす。対照的に寡黙だが、ふたりとも充分な威圧感だ。
 と、不意に襲撃者のひとりが叫んだ。「いたぞ!」庭を指差す。その先に一目散に掛けていく男女の姿。
 瞬間、目にも留まらぬ速さでソールの手を離れたメスが敵の手首に突き刺さる。同時にイールの銃が火を噴き、さらにひとりを倒した。すかさず着ていた白衣を脱いで投げつけるソール。その白衣が蜂の巣になるわずかな隙に、ふたりは窓を破って外へ逃げだした。

 ローズはバファローと呼ばれた男とともに必死で走った。恐怖だけが彼女を突き動かしていた。背後から厭でも耳に入ってくる、怒号交じりの追跡者の足音――ジミーのことは気がかりだが、今はあの老人を信じるしかない。とにかく、一刻も早くタイガーのもとへ辿り着くのだ。
 急ブレーキの音。行く手に一台の車が現れる。運転者を認めたローズの顔が安堵に緩んだ。「てん……」
 だがそのとたん、バファローが彼女の前に飛び出した。はっとする間もなく、次の瞬間彼は胸に銃弾を受けて足元に崩れ落ちた。ローズは立ちすくんだ。この人がまさか? だがどう言い繕っても救助者であるはずがない。その証拠はがんじがらめに縛られ、猿轡をかまされて後部座席に転がされたキーリーン。そして運転席からまともに彼女を狙っている、まだ硝煙の立ち昇る銃口。
「さっさと乗れ。さもないとキーリーンが痛い目に遭うぞ」
「……こんなことって……」あまりのことに声が出ない。ジョージ・ウォレスは車を降りると彼女の腕を掴んだ。「灯台下暗し、だな。まさか自分の上司が敵だとは思いもしまい。さあ来い。ボスがお待ちかねだ」
 絶望のあまりローズは失神した。ウォレスは舌打ちすると彼女を担ぎあげるべく、屈みこんだ。
 そこへハリー・ダイヤモンドが体当たりしてきた。さすがのウォレスも掴んだ腕を離さざるを得ない。彼らはもつれて数メートルほど転がり、取っ組みあった。馬乗りになったハリーは石で敵の頭を殴りつける。が、鈍い銃声とともにその身体が硬直し、ウォレスに覆いかぶさったまま動かなくなった。噴き出す血しぶき――ウォレスが相手の脇腹を撃ち抜いたのだ。
 彼はハリーを押しのけてよろよろと立ち上がると、気絶したローズに向かって再び歩みだした。
 その間隙をついて裂帛の気合が彼を襲った。「印度六千年の真髄をとくと見よ!」
 衝撃波をまともに受けたウォレスは吹っ飛んだ。そこへ遅ればせながら警察が到着する。形勢逆転に慌てふためくマフィアに、タイガーのカラリパヤットが追い討ちを掛ける。まもなく、一味はことごとく捕縛され、連行されていった。
 タイガーは男たちの傷の具合を確かめる。バファローは重体だが命はとりとめそうだ。だがハリーは手遅れだった。駆けつけたソールにふたりを託す。そしてぐったりしているローズに活を入れて蘇生させた。ようやく正気づいた彼女に、タイガーは言った。
「もう安心だ。さあ、坊やと一緒にひと休みするがよい」
 激動の7月21日が幕を下ろそうとしていた。


 デスは署長室で唸り声を上げていた。大変な一日だった。
 まずヴェリーによる涼鹿とリヨの拉致。アルマンの機転とヴァネッサ・ホーンの協力で大事に至る前に救い出したと思ったら、今度はコン・コーナー村で籠城事件。しかもその犯人は何と逃走中のハリー・ダイヤモンドだった。加えて逮捕に尽力したのが、長年生死不明だったベンジャミン・ヘアーズだというのだから空いた口が塞がらない。
 さらにヘアーズ記念病院が襲撃された。犯行グループはかねてからこの町に出没していた中国マフィアだが、直接の指揮者が『フレンドリー・ランドリー』店主のジョージ・ウォレスだったとは気づきもしなかった。そのウォレスは逮捕後黙秘を貫いている。背後関係の解明にはまだまだ時間を要するだろう。
 しかし、警察の到着前にローズを助けたあの男たちは何者なのだろう? タイガー、バファロー……本名だろうか。またジミーの病室へ出向くと、ついさっきまで見かけぬ老人が付き添っていたらしいが、知らない間に姿を消したという。おまけに庁舎から町長がいなくなったという通報が入った。ヴェリーの奴、告訴を恐れて逃げ出したか!?
 涼鹿はようやく帰ったので彼はほっとしていた。ハリエットが迎えに来なければ、そのまま居座りかねないところだった。そのハリエットは去り際に、ある人物に関する資料だと言って、分厚い調査報告を彼に預けていった。リヨはジミーに会うことはできなかったが、診察の結果問題なしと判断され、元気も回復したのでヘアーズ邸に戻った。ローズは夫の死を聞いてさすがに打ちのめされ、そのまま入院した。キーリーンも大事を取って検査を受けている。
 電話が鳴った。マーサからだ。「クロノから連絡なんだけど」
「どうした?」
「しばらく家を空けることになるから、その間リヨに注意してやってって。それから25日のお昼にヘアーズ邸に来てくれって。ねえデス――」マーサは言いよどんだ。「ハリエットから聞いたんだけど、ベンジャミンが生きていたってホント!? じゃあピーターの家で死んでたのは誰なのよ」
「解らん。いやその、伝言については解った。じゃあ25日だな」彼は約束して、受話器を置いた。
 ため息が漏れた。25日――その日がまた波乱に見舞われるような予感がして、一向に落ち着けなかった。



  7月25日@「死者と生者と」


 7月25日午後12時。ヘアーズ邸大広間に一族及び関係者が集まった。しかし彼らはそれぞれのグループに分かれ、互いに接触しようとはせず微妙に距離を置いている。中央に退院したばかりのローズとジミーの母子、彼女たちからやや離れてキーリーン。その反対側にリヨとジェニファー・グレイ、テーブル脇に青ざめた顔のキャシー・ダークホーク、それにマーサ。涼鹿とハリエットは窓際に並んで腰を下ろしている。さらにずっと奥にはヴェリー、涼鹿を見る目がいつにもまして不機嫌そうだ。最後に弁護士。いつものパドルダックに加えて今日はケップも控えている。壁にもたれながらアイザックはふと思った。勢力地図みたいだな。
 だけど、肝心の暫定当主さまはどこなんだ? 彼は訝った。この集合を呼びかけたはずのクロノがいない。それにデス署長もまだだ。捜査が捗っていないのかも。そう言えば22日の深夜にかなり大きい地震があり、余波を受けて山崩れや地滑りが多発したそうだ。ぽんぽこ山の廃坑も落盤で埋まってしまったらしい。中国マフィアが証拠隠滅のために爆破したとの噂もあるから、目の回るような忙しさなのだろう。
 その代わり、なぜかヒポポタマスが臨席している。重々しい雰囲気の中、飲み物を持って回るメイドのシイラ・へリングの姿だけが心休まる光景だった。
 30分ほど過ぎ、部下の刑事数名を従えてデスが到着した。その傍らにはベンジャミン・ヘアーズの姿もある。ざわめきの中、弾かれたように涼鹿が父親の胸に飛び込み、大声で泣き出した。羨ましげなリヨの視線に気づいたベンジャミンは娘を慰め、そして満面の笑顔で近づいてきたハリエットに手を差し出した。「ハティー・キャップ! 見違えてしまったよ。それもそうだな、何しろ最後に会った時、君は9歳だったんだから」
 ハリエットは瞳を潤ませ、万感の思いをこめてその手を握りしめた。「久しぶりね、ベン」
「ドリーが大変世話になったらしいな。デスから聞いたよ。お礼の言いようもない」
「そんなことより、今頃になってのこのこ出てきた理由を言うのが先だろうが」ヴェリーがやけくそで吠えた。
「お黙り、この人さらい!」ハリエットが噛み付く。「せっかくの父娘対面に水を射そうっての?」
 その時になってようやくクロノが戸口に現れた。隣に見知らぬサングラスの巨漢が控えている。「スイスから来たセザール・フー博士」クロノはいささか面倒くさそうに紹介した。「これで全員そろったか? ……何だ、まだ足りんじゃないか。ハリエット、旦那はどうした」
「用事があって遅れるらしいけど、もうじき来ると思うわ」
「まあいい、そろそろ始めよう。教授、大人、どうぞ」クロノは脇に移動し、客のために道を譲った。
 最初に入ってきたのはルシフェル・グラディウス。続いて現れた人物を見た瞬間、ヴェリーと涼鹿は椅子から飛び上がった。あの雑誌の写真の男、王藍の秘書の最大値(ツイ・ダーチ)。そしてその彼に支えられるようにして最後に登場したのは……
「お爺さん!」ローズが喘いだ。ヴェリーがぎょっとして目をこらした。「あんた……まさか……王藍か!? 白人じゃないか!」
「確かに、それも私の名だ」老人は静かに答えた。
「だがいい加減正体を明かすとしよう。バークレー、若い衆に私の本名を教えてやってくれ」
 バークレー・ヒポポタマスは厳かに告げた。「この人は、バーニー・ヘアーズ(Bernie Hares)。故バックスの弟だ」


 蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。そのため、遅れてやってきたロビン・コックリルに誰も気づかなかった。肩を叩かれて初めて相手を認めたハリエットは涼鹿父娘の側を離れ、ふたりでそっと後ろの方へと下がった。
 真っ先に質問の口火を切ったのはローズだった。「バーニーですって!? じゃああなたは私の、本当のお祖父さまなの……?」
「そうだよ、ローズ。やっと孫と呼ぶことができるな」バーニーは微笑んだ。「そしてジミーは私の曾孫だ」
 わななく指をつきつけるヴェリー。「アンタは中国マフィアの親玉じゃなかったのか!?」
 バーニーは冷ややかに見据えた。「違う。私はただ中国で事業に成功しただけの男だ。とかく他の国のこととなると十把一絡げに考えてしまうのは悪い癖だと思わないかね。第一、その私から金を借りている君はどういう男なんだ? 甥よ」ヴェリーはぐっと詰まり、目を白黒させる。バーニーは語調を変え、周囲を見渡した。
「長い話になるが、どうか最後まで聞いてもらいたい。ベンジャミンとドリー・ルウには特に。私が兄と決裂した 経緯を――」


 1歳違いの兄弟だったが、性格は水と油ほどに違っていた。二代目ラーブルは引退に当たって息子たちが事業を引き継ぐことを望んだが、バーニーは関心を示さず、バックスは友人のマクドナルド・ヴェリーを共同経営者に選んだ。しかし5年後マクドナルドは業績の不振に乗じて株を売り抜けし、逐電する。善後策に追われたバックスは金のために大胆な手を打った。自分の精子を研究材料として売り渡したのである。その売却先を傘下に置くのが《ジャバウォック》の生殖医療研究班で、そのリーダーの名を取って通称《バンダスナッチ》と呼ばれていたグループだった。
 何とか再建の目処をつけ、また他人に懲りたバックスは弟を説得して副社長に迎えると、従来の染色織物業以外の開拓を彼に任せることにした。バーニーは特産の蛍石に注目し、加工して得られるフッ素の利用を思いつく。こうして虫歯予防効果の高い「ドラゴン歯磨き」を完成した彼は、次々にアイディアを提供して兄を助け、業績向上に大いに貢献した。だがその一方で、兄弟の仲はいつしか隙間風が吹くようになっていた。
 それまでもジャバウォック寄りの言動が目立つバックスだったが、妻フロプシーの出産を機に彼は公然とジャバウォックに資金提供するようになる。バーニーの目にはそれがいかにも危ういものと映った。と言うのも、彼が肩入れするのは主にバンダスナッチ、即ちジャバウォックの中でも急進的で、医療技術向上のためなら手段を選ばない一派だとの噂があったからである。事実、臨床例を増やすため放射能やダイオキシンの実験をも密かに行っているのではと囁かれていた。
 やがて1963年、新しい染料によるデニム製品がもとで兄弟は衝突する。バーニーはアイディアの優先権を主張し、バックスは実用商品化にこぎつけたのは自分と反論した。これがきっかけとなり、バーニーは事業から一切手を引き、株の配当で生活を送るようになった。
 さてその2年後、日本人と結婚したバーニーの息子ジミーが帰国し、ロサンゼルスで空手教室を開いた。経営も軌道に乗った1971年の秋、中国人がカンフーも教えないかと業務提携を持ちかけてきた。折からのブルース・リー人気に目をつけたジミーは承諾する。だがいつの間にか教室は乗っ取られてしまい、彼は町を去るはめになった。諦めきれない彼は妻子と離れて再びロスに戻り、相手の正体を探りにかかる。衝撃的な事実が明るみに出た。敵は台湾に拠点を置くマフィアの舎弟で、狙いはスポーツを隠れ蓑に攻撃用員を養成することだった。だが、深入りし過ぎた彼は敵の手に落ちてしまう。しかも悪いことに相手の政治的背景まで暴いてしまった。
 当時、アメリカはそれまで敵対していた中国との関係改善を求めて、歩み寄りを模索していた。もし両者が和解し国交正常化することにでもなれば、アメリカの援助を当てに中国から分離独立を目指す台湾の立場が危うくなる。相手が過激派であると知ったジミーは脱出を試みたが失敗し、消息を絶った。逃亡中に辛うじて父親にかけた一本の電話が、最後の言葉になった。絶望に満ちた悲鳴とともに断ち切られた通話――あの直後に捕らえられたと思われる。死体は発見されていないが、生きている可能性は限りなくゼロに等しい。
 息子の災難を知ったバーニーはジャバウォックの政治力に望みを託して、バックスに力添えを懇願するが拒絶される。ついに彼は兄との絶縁を宣言した。株をすべて換金し、嫁と孫娘を探したが、マフィアの注意を惹くわけに行かないため手間取っているうちに、彼女らの行方も判らなくなってしまった。
 1972年、時の大統領リチャード・ニクソンは中国を訪れ、周恩来・毛沢東らと会談する。これによって過去20年間の米中のアジアにおける冷戦に終止符が打たれた。
 彼は息子の仇を討つために、中国の味方になろうと決心した。もはやアメリカにはいたくなかった。彼は中国で再出発を切り、名前もキング・インディゴと変えた。藍の王、つまり自負を込めて家業の象徴を第二の名としたのである。やがて風の噂に、孫娘が日本で歌手デビューしたことを耳にしたが、すでに大物実業家となっていた彼は逆に身軽に動ける立場ではなくなっていた。それに嫁もこの世を去っていた。祖父だと打ち明けられないまま徒らに月日が経過し、人気の落ちたローズは日本を離れアメリカへ渡る。
 運命の糸が中国マフィアを通じて、彼らを再び結びつけるまでにはさらに10年以上の歳月を必要とした。

 最初、その女に見覚えがある理由が彼にはどうしても解らなかった。しかしある日ふと思い出す。メリッサ・バタフライ、兄の部下のかつての浮気相手だ。生まれた子供は従妹のエリノアが引き取り、女は手切れ金をもらって町を出たはずだ。その彼女がどこをどう流れ歩いて辿り着いたか、香港にいるとは。
 巣を作ることなく、一生日陰者で終わるよう生まれついているのだろうか。彼女はとある豪商の愛人に納まっていた。一見何不自由ない暮らしぶり。だがもしかすると、自分を邪魔者扱いしたヘアーズ家の男たちに深い恨みを抱いていないとも限らない。その日からバーニーは公の場に出ることを控え、鉄の仮面で素顔を隠し、キング・インディゴではなく王藍と名乗るようになった。
 そのうちメリッサを囲っている男が、中国茶輸入業を隠れ蓑にするマフィアであることが解ってきた。さらに、かつて息子を罠にかけた台湾過激派をも牛耳る立場にあるらしい。バーニーは密かに調査を始めた。やがて相手の目ざす先がフォックスヴィルであるという報告を受けた時、天啓を得たと感じた彼は、先手を打って用地買収の準備にとりかかる。
 事態は彼の想像以上に錯綜していた。孫娘が祖国で結婚していたこともさることながら、息子を破滅させた同じマフィアに狙われる立場にあることを知ってバーニーは仰天し、部下を派遣して監視と内偵を命じた。
 双方を追ううちに疑問が涌いてきた。ローズに気づく余裕がないのは無理もないが、ある時点から急にマフィアの出方が変化しているのだ。追い詰めておきながら、なぜか寸前で手を緩めてわざと逃がしている。捕らえるのはわけもないことなのに。猫が鼠を弄んでいるのか? そればかりでもなさそうだ。ひょっとしたら……

「ニッポンのお祖父さんとお祖母さんのことを憶えているかい?」
 急に矛先を向けられてローズは途惑ったが、すぐに答えた。「もちろんよ。お祖父さんはオキナワの空手家でクウイン・ヨシモト、お祖母さんはカネ。会ったのは数えるほどだったけど」
「そのカネさんは、実は私たちの幼馴染だった。だからおまえの父さんを日本に出す時、いろいろと便宜を図ってもらったんだよ」
 バーニーは言葉を継いだ。「彼女は結婚前の名を大佐間かね(Ohsama Kane)と言って、徐福ゆかりの家の出なんだ」

 マフィアの目的が判ったように思った。
 かつてフォックスヴィルにいた大佐間家の人々。主人は鉱山技師でヘアーズ邸の裏手に住んでおり、娘のかねとは少年時代よく遊んだものだ。だが日米間で戦争が勃発すると、日系人の立場は微妙なものとなり始める。カリフォルニア州など西側では強制退去や強制収容が行われ、12万人もの罪無き人々が住居や財産を失った。東側では特に人種に絡む抑圧はなかったが、呼応するようにある日突然一家は日本に帰っていった。やはり居づらかったであろうことは否めないにしても、あまりに急な帰国に、彼らは実は工作員だったのだと、まことしやかかつ無責任に唱える者もいた。やがてどこからか、かねの父親が金鉱を発見したらしいという噂が流れ、その金にものを言わせて逃げ出したに違いないと人々は囁きあった。
 しかしかつてかねから聞いた「徐福伝説」が本当なら、発見されたというものが文字通り“金鉱”であるとばかりも言えなくなる。不老不死の秘薬、あるいは金など問題にならないほどの莫大な財宝。その秘密の一端が明るみに出たのか、それとも大佐間家が窮地を脱するために切り札を使ったのか。いずれにせよジミーは結婚して彼らの一員となった。ローズはその娘だ。彼女の新たな利用価値を見出した彼らは、狩り立てると見せて実はフォックスヴィルへと誘導しているのではないか? そうに違いない。
 バーニーは急遽渡米し、彼女の力になろうとした。ところが中国名が災いして彼は当のマフィアと混同されてしまう。おまけにローズの側には見知らぬ中国娘がおり、さらに殺人事件までが起きる。鳴りを潜めざるを得ず、警察の干渉にも悩まされたが、彼は辛抱強く事態の把握に励み、敵方の妨害に努めた。特に涼鹿とヴェリーに対しては慎重を期した。ふたりはバーニーの兄妹の子孫で、ローズにとっても特に近しい身内なのだが、同時に彼ら自身が敵の協力者か、または別個の敵そのものである可能性も否定しきれないからだった。

 目下世間を騒がせているFOX にしても、ヴェリーなら資格は充分だ。失恋の恨み、遺産目当て。2番目の被害者は彼の犯行について何か掴んだため消された、とも考えられる。その彼が身辺警護を依頼してきたので、バーニーはテストを試みた。一旦は快く応じ、頃合いを計って見張りを全員引き上げさせたのである。泡食ったヴェリーがアリス・ホテルに駆け込んだので、少なくとも怯えが本物であることは確かめられた。また彼に頼りきっている点からしても、敵方の手先ではありえないと判断を下した。
 クリーニング店が怪しいことが判ってきたので、ローズにはそれとなく店を辞めクラブ歌手になることを薦めてみた(彼女の経済状態もあってこれは成功したとは言い難かったが)。涼鹿とヴェリーには見張りをつけ、場合に応じて護衛し、必要なら拘束してでも身柄を確保するよう言い渡しておいた。
 よりによって曾孫のジミー・ジュニアが入院した日にマフィアが行動に出たが、バーニーにとってある意味では天の配剤とも言えた。十傑衆という思いがけない援護を得られ、そのうえかわいい曾孫に初めて付き添ってやることができたからだ。もっともジミーの病室を訊く際、ヒポポタマスを病院長と間違えたため馬脚を現してしまったのは仕方がない。ジャック・ソールが院長に就任したのは、バーニーがフォックスヴィルを離れてからのことで、1972年当時はまだゴダード・ヒポポタマスが院長を務めていたのだ。その弟のバークレーが院長室に避難していたのは偶然なのだが、事情を知らないバーニーは当人だと思い込んで「ゴダード」と呼びかけ、その結果素性を見抜かれることになった。
 いや、ちょうどいい潮時なのだと彼は思う。王藍もキング・インディゴも所詮偽りの名だ。そろそろバーニー・ヘアーズに戻る頃合なのかもしれない。

 デスが尋ねる。「それで、本当の中国マフィアの頭目は誰なんです」
「香港での私の商売上のライヴァルで、李財富(リ・ツァイフ)という男だ。英名はフレデリック。もっとも本名かどうかは定かでない。奴の腕にJ.Bという刺青を消した痕があると聞くし、一説によると若い頃アメリカで5人も殺しているらしいが、そんな名の受刑者はいないそうだからね。まあ確かめる術もないが。
 とりあえず、今は英語圏で活動する時は主にフレッド・リー、特に最近では綽名も入れて、フレッド・“マネー”・リーと名乗っているそうだ」
「フレッド・リー……『フレンドリー・ランドリー』。ああ、ウォレスがオーナーの名前から取ったって言ってたのは、そのことか」キーリーンがひとり納得して呟く。
 バーニーは頷いた。「そう、そのウォレスだが、あれも実は香港生まれのイギリス人だ。だが李財富に傾倒するあまり、わざわざ中国風の名をこしらえたんだ。壁好手(ビィ・ハオショウ)と」彼は秘書からノートをもらって次のように殴り書きした。

  壁 + 好手 → Wall + Ace → Wallace

「クリーニング・チェーン経営というのは、利用の仕方によってはその地域の居住者に迫る手っ取り早い方法だ。品物の引き取りや配達を通して、生活環境に密着できるし、同業他者との競争も日用食料品店に比べれば少ない。彼らはローズがフォックスヴィルの“宝”への鍵だと睨んでいたから、即座に抹殺はせず、ぎりぎりまで泳がせておくことにしたんだ。もっとも近頃は、商売敵の王藍の孫だということを悟ったらしくて、しばしば強硬手段に出てきたようだがね」
「タイガーやバファローは、どういう繋がりがあるのかしら」これはローズ。
 タイガーはジミーの友人だとバーニーは説明した。自己の技術をさらに高めんと武者修行で世界を回っている途中に沖縄で知り合い、意気投合した。ゆくゆくは格闘技を通じて国際交流の場を設けたい、そんな夢も話し合った。しかし互いに帰国した後は音信が途絶え再会も果たせず、ついには叶うはずもなくなってしまった。バファローはタイガーの弟子で、ともに《オリエンタル・ゾディアック》という武闘集団の一員だという。彼らは今回バーニーの要請を受けて、ともに行動していたのだった。
「そうだったの」ローズはため息をついた。そして改めて祖父の顔を見つめた。
 町長宅で死体が発見された朝、かかってきた中国訛りの電話を思い起こす。あの時はついに敵に追いつかれたかと震え上がったが、よく考えればそうでないことはすぐ解ったはずなのだ。相手は
 ――あんたが創立記念祭の“のど自慢”で『南の島のクイーン』を歌ったんでボスが気がついた。
と言ったのだが、自分がマフィアと関わったのは歌手を廃業した後だ。何年も前に日本で多少売れた程度の歌謡曲を、アメリカにいた彼らが知っている道理がない。その頃から彼女を見張ってでもいない限り。

 電話の主は最大値だったそうだ。「こいつは英語があまりうまくなくてね」とバーニーは謝った。「英語にだって、敬語表現はあるということをなかなかマスターできんらしい。かなり柄が悪かったようだから、ローズにもドリーにもよけいな心配をさせてしまったのではないかな」


 今度は涼鹿が質問した。「二爺爺(アルイェイェ)、あなたたち兄弟が不仲なまま別れたとすると、ひょっとして爺爺はあなたを恐れてはいなかったかしら」
「ありうるね、ドリー」バーニーは答えた。「ジミーを見捨てたことで、バックスが良心の咎めを感じていなかったとは言い切れんだろう。あるいは強迫観念にまで達していたかもしれん」
 涼鹿は手を叩いた。「それよ! それで意味が通るわ。叔叔(シュウシュ)、あのビデオよ。あの中に暗号が隠されていたじゃない。“私は……」
 後を奪ってクロノが続ける。「……ベンに殺されるだろう”。おい涼鹿、どう意味が通るってんだ。爺さんが告発しているのは息子であって弟じゃない。そうそう、それでおまえのことがいっそう判らなくなったんだ」
 もともと彼にとって、涼鹿が実の姪かどうかは二の次だったが、父の妻と称するトマトに再三面会しようとしたことから、本物だろうと受け止めていた。偽者なら却って化けの皮を剥がされかねないため、逆に距離を置こうとするはずだからだ。しかし町長宅の死体発見の様子で疑念が生じ、さらに彼女が襲われた翌日、「何かあったら証人になるように」と言われていたリヨから彼の部屋でビデオを見たことを明かされた。しかも「ビデオが何を言いたいのかわかった」からには例の暗号も解いたはずで、それでも平然としているのは実はベンジャミンと無関係だからではないのか? だとしたら彼女の正体は? その目的は?
 涼鹿は肩をすくめた。「もう一度見ようよ。そしたら正解が判るから」

「この類の品があるだろうってことは、予測がついていた」クロノはビデオを涼鹿に渡した。「俺との養子縁組でも、爺さんは専らビデオを介して交渉に当たっていたからな」
 周囲の好奇のまなざしの中で、三度目の再生が始まった。『Fantasy(宇宙のファンタジー)』に続いて音楽が切り替わる。「ロバータにお任せ」のコーナーだ。イントロは4拍の手拍子。
「『In The Navy(イン・ザ・ネイヴィー)』ね、これ。ヴィレッジ・ピープルの」涼鹿が指摘する。「知ってる」頷くクロノ。「続けてタイトルをチェックしてて」と涼鹿。
 ロバータがタオルを手に踊りだす。一同は動きを追いかけた。やがてコーナーは終わる。クロノは言った。
「曲のタイトルだが、『イン・ザ・ネイヴィー』の後は次のとおりだ。

  『Waterloo(恋のウォータールー)』  アバ
  『Beat It(今夜はビート・イット)』  マイケル・ジャクソン
  『Knock Three Times(ノックは三回)』  ドーン
  『Born To Be Wild(ワイルドで行こう!)』  ステッペンウルフ

そして最後はクイーンの『Bohemian Rhapsody(ボヘミアン・ラプソディー)』だ。頭文字をつなげるとIWBKBBとなる。つまり、“I will be killed by Ben”(私はベンに殺されるだろう)じゃないのか。踊りもそうなってる」
「ううん」涼鹿はかぶりを振った。「最初はあたしもそう思ったの。でもよーく見て」彼女はテープを巻き戻した。「I will be killed by ―-―まではその通り。だけどその先が違うの!」
 いよいよ肝心の場所だ。「ほら、ここ!」涼鹿がスロー再生に切り替える。映像の中のロバータ・アイビスは右手をまっすぐ横に、左手を下に下ろしている。次に今度は右手を真下に、左手を斜め上方に上げた。最後に手を左右とも下方45度に下ろす。
「順番に“B”“E”“N”の手旗信号だ。BEN、つまりベン。実際に彼が何をしたかとは無関係に」クロノはベンジャミンを見やった。「爺さんが彼を危険視していたのは間違いない」
 彼女は意に介さない。コマ送りにする。「“E”と“N”の間に何かがあるわ」
「え!?」
 目を剥くクロノの前で、“E”のポーズを取るロバータの両手が真横に開き、一瞬静止した。そして流れるように“N”へと移る。これがタオルを持ってでなく、本来の手旗による表現なら、そしてリズムやテンポに制約されていなかったら見落とさなかったに違いない。
 クロノはのろのろと言った。「――“R”だ……」
 バーニーは面白そうに笑った。「BERN、バーンか。兄貴は人の名前を約める癖があったからな。ベンジャミンのは遺伝だろう」



 ヴェリーが痺れを切らした。「王藍のことはもういい。そっちの話を聞かせてくれ」彼はベンジャミンに指を突きつけた。「あんたが本物らしいことは見りゃ判る。でもその女の親父だってのは眉唾だな」涼鹿を睨む。「何しろフロプシー伯母さん自身の言葉があるんだ、あんたは子供を作れない身体になったって」
「相変わらず強気だな、ピート」ベンジャミンは苦笑しつつも、悪びれず涼鹿の肩を抱く。
「いいとも、すっかり話そう。さっきの叔父上の話にも出てきたが、父がジャバウォックに傾倒していった原因は私にあるんだ」彼はかがんできれいに刈られた頭をみなに示した。
「つむじがふたつ」涼鹿が嬉しそうに言う。
「いやドリー、ひとつはつむじじゃない。分離手術中に誤ってついた鉗子の痕だ」
 ベンジャミンは周囲を見回し、爆弾発言を行った。「私はシャム双生児だったんです」


 妻が双子を宿していることはバックスも承知していた。しかし何度目かの検査の時、その異常が露わになった。ふたりの胎児の身体が一部結合・吸着した状態にあることが判明したのである。このような奇形の子供が生まれればヘアーズの家名に傷がつく。何よりフロプシーに計り知れない打撃を与えるだろう。
 彼は直ちに手を打った。極秘裏に妻をヘアーズ記念病院から退院させると、ジャバウォックに委ねたのである。執刀したのはルシフェル・グラディウス。彼は分娩が完了すると直ちに手術を行い、やがて健康な男児を無事バックスにもたらした。その際、もうひとりの赤ん坊は神経や臓器が未発達のため救いようがなかったと説明した。
「しかし……」とベンジャミン。「“弟”は生きていたんですね、教授。培養液に浸かって」
 グラディウスはこともなげに返答した。「そのとおり。手や足の半分足りない子供をバックスがありがたがると思うかね? とは言え、現にまだ息のあるものをむやみに殺す必要もあるまい。どうせなら、この子にもチャンスを与えてやろうと思ったのさ」
「アンタの専門は生物工学全般で、細胞複製技術を研究してたんだったな」クロノが言い足した。ベンジャミンは話を続ける。
「バンダスナッチ派の天才科学者、グラディウス教授――あなたは、“弟”の体細胞からクローン胚を作り、胚性幹細胞(ES細胞)へと誘導させた。そして欠けている腕や下肢、臓器を培養して移植し、完全な人体の復元に成功したのです。彼はアーロン・ドードーと名づけられ、21歳になるまでそこで密かに育てられてきました。
 一方、私は同じ年に重い耳下腺炎にかかり、ピートの言うとおり生殖能力を喪いました」
「そうだろうとも」にんまりするヴェリー。涼鹿は真っ青になり、父の顔を見つめた。だがベンジャミンは明るく笑う。
「そこでまた教授の出番になるんだよ。父は私の障害を知るとすぐにジャバウォックに相談した。そして、成体幹細胞の複製技術を使えばまたもとどおりの身体になれることが判り、私は移植再生手術を受けたんだ」
「何だって!?」
 グラディウスを除く一同が絶句する中、ベンジャミンは涼鹿をしっかりと抱きしめた。
「公表できることじゃないから真相は母にも妻にも話せなかった。だがドリー・ルウ、もう心配はいらない。おまえはまぎれもなく私と律楠の娘だ」


 ※2001年8月現在、アメリカは大統領令によりヒト胚性幹細胞の使用研究に公的助成を認めたが、新たなヒト胚性幹細胞の作成は認めていない。


「クローン胚を応用した臓器培養。アンタのやりそうなことだ、教授」特に揶揄するでもなくクロノが言う。グラディウスは片眉をそびやかした。
「断っとくが若いの、おまえはクローンじゃないぞ。正真正銘バックスの冷凍精子の産物だ。そのことは自分でも判っていように」
「当然だ」クロノは平然と答えた。「A型の爺さんのクローンがO型になるか? いつかのはかまをかけたまでさ。もっとも、他の小細工で遊んでたみたいだがな」そう言って、意味ありげに隣の巨漢に目をやった。セザール・フー博士は終始無言で教授とベンジャミンを眺めている。
「ベン」ハリエットが呼びかけた。
「あなたたちが本当の親子だと判って、私もとても嬉しいわ。でも、あの地震以来いったいどこへ行ってたの? おかげで涼鹿がどれだけ傷ついたか。とんでもない女は現れるし、誰かさんは分け前を狙って結託を図るし」
 ヴェリーはもはや何も言えず、ひたすら苦虫を噛み潰すばかり。
 ベンジャミンの表情が暗くなった。そして搾り出すように答えた。「服役していたんだ。強盗の容疑で」


 誰かが自分を尾行している。数日前からそんな不安が消えなかった。どういうわけだ。サンフランシスコには仕事関係を除いて、特に知り合いがいない。また高価な商品サンプルを持ち歩いているわけでもない。にもかかわらず、彼をじっと観察する視線の存在をベンジャミンは確信していた。背後で舌なめずりしている様子さえ感じられた。
 偽電話で呼び出されたのはその晩のこと。ホテルを出た直後にホールドアップされ、車に乗せられた。どことも知れぬ部屋の椅子に縛り付けられる。やがて襲撃者が覆面を取った時、ベンジャミンは自分の正気を疑った。毎朝鏡で見ているのと寸分違わぬ顔がそこにあった。だが続いて聞かされたのはさらに驚くべき話だった。
 襲撃者はアーロン・ドードーと名乗り、ベンジャミンと一緒に生まれたフロプシーの双子だと言い放った。ベンジャミンより“発育”が遅れていたために、ヘアーズ家にも知らされずにジャバウォックの施設内で育てられたのだという。しかしアーロンはそれなりに幸せだった。弱い身体を“補って”くれるグラディウスは神に等しい存在だったし、何より比較の対象を持たなかったのだから。もし、耳下腺炎の後遺症のためにベンジャミンが教授を訪れなかったら、きっと穏やかな気持ちで一生過ごせたに違いない。
 だが運命の日はやってきた。自分とまったく同じ顔の若者を垣間見て驚愕したアーロンは、ジャバウォックの資料漁りに没頭した。そして全てを理解した時から、彼の頭には激しい妬みと復讐の念以外存在しなくなった。同じ富豪の家に、時を同じくして生まれながら、わずかな状況の違いで天と地ほども開いてしまった境遇の差。不完全な身体ゆえに親に慈しまれる機会を永遠に逃し、これからも望め得ない自分と、親の愛情を一身に受けて育ち、身体の不具合さえ金の力で解決可能な兄! そもそも双子というのが本当なら、彼を長男とする根拠はどこにもない。バックス・ヘアーズの跡取りは、他ならぬアーロンであったってかまわないはずなのだ。
 言い知れぬ憎しみを湛えた眼差しが、ベンジャミンを金縛りにした。

 アーロンは捕虜に宣告した。不公平は是正されねばならない。本来なら自分がベンジャミンに成り代わって、彼が独占してきた恩恵を享受するのが一番だ。とは言え、30年以上も経過した今となっては不可能である。だから、と彼は酷薄な笑みを浮かべた。おまえには今後アーロン・ドードーの運命を引き受けてもらう。
 彼はベンジャミンのズボンのポケットに何かを押し込むと、そのまま彼は立ち去った。
 何とか脱出しようとベンジャミンはもがいた。だが戒めは固く、夜が明けるまで暴れても揺るがない。悪戦苦闘の果て、やっと縄をほどいたその瞬間、突如激しい揺れとともに天井が落ちてきて彼は気を失った。1989年10月17日、ロマプリエタ地震がサンフランシスコを襲ったのである。
 どれくらい時が経ったのか。瓦礫の下から這い出、仰ぎ見る街は一変していた。とにかくホテルに戻らなければならない。そう思って歩き出した時、いきなり群集に殴りかかられ、警官に助けを求めたら反対にその場で逮捕された。混乱に乗じて町中に強盗や略奪が横行していた。そして、彼としか思えないほどよく似た男があちこちで商店に押し入り、金品を奪って逃げているという訴えが出されていたのである。 
 被災者になおも追い討ちをかけるような血も涙もないやり口に、群集の怒りは頂点に達していた。とても弁明を聞いてもらえる状況ではなかった。さらに悪いことにホテルは倒壊し、一切の荷物が焼失してしまっては、彼の言い分を裏付けるものは何もない。残っているのはただひとつ、去り際に押し付けられたアーロン名義の免許証だった。
 ベンジャミンはジレンマに陥った。自分が強盗犯人でないことを証明する手立てがない。それに、酷似している男の存在を声高に主張すれば、やがては37年前の秘密に到達する。父母の名が大きく取り沙汰されることになるのだ。忌まわしさに彼は身震いした。愛する母が奇形児の産みの親として無神経な好奇の目にさらされ、あげつらわれるのは我慢できない。それよりも父だ。すでに自分は結婚問題で期待に背き、失望させている。これ以上父に迷惑をかけたくない! 何があろうとも、ヘアーズ家の名は出すわけにはいかない!
 断腸の思いで我が身を殺すことに決めた彼はアーロン・ドードーの名で有罪判決を受け、刑に服した。しかし、良好な態度が酌量されて刑期が短くなったものの、出所したのは5年後。すでにニューヨークから妻子の姿は消えていた。ベンジャミン・ヘアーズとして生きる気力を失った彼はベンジー・フォックスと名を変え、日雇い仕事などで糊口を凌ぎながら、惨めな日々を送っていた。

「あの時すでに母が亡くなっていたと知ったのは随分後になってからだったが、そうであろうとなかろうと、母を世間の目にさらすのは子として耐えられないね。でも、思えばそれもアーロンの計算だったのだろう。もしこれが殺人だったら死刑の可能性もあるので、いくら親思いでも我が身かわいさで暴露しないとも限らんからな」ベンジャミンは語り終えると大きく息をついた。
「可哀相なパァパ」涼鹿は自分と両親の、辛かった14年間を思って涙ぐんだ。
 デスが尋ねる。「では、町長宅で死んでいたのはその男だな」
「おそらく」ベンジャミンは頷いた。「アーロンには私に成りすまそうという考えはなかったと思う。いくら同じ顔だと言っても押し通せる道理がない。あまりにも無謀だ。私見だが、海外へ逃亡したのではないだろうか。いつまでもあの地に留まっていて、万一人目についたら私の人違い説に信憑性を与えるからね。
 それがどうしてピートの家で死体になっていたのかは知らない。だがもし彼なら、全身に臓器移植の痕跡があるはずだ。教授にもデータを提出してもらって、照らし合わせてみればすぐ判るのではないかな」
 デス署長は鑑識に連絡を取り、冷凍保存されている死体の再調査を命じた。それから替わって話しだした。
「警察での事情聴取では、あんたは救護施設である慈善家と出会って人柄を見込まれ、仕事を手伝うようになったんだったな。それがコン・コーナー村で殺された画家で、身寄りのない彼女は自宅その他の持ち物を“弟子のベンジー”に残した。望郷の思いもあってあんたは受諾した。そしてずっと隠れ住んでいたんだ。くそっ」
 最後の悪態はベンジャミンに対してではない。籠城事件のあったコン家の主、ライオネルに向けた鬱憤だ。彼は行方不明のベンジー・フォックスが山に潜伏し、捜査が下火になって見張りが引き上げてからは元の家に戻っていたのを百も承知していながら、知らん顔で口をつぐんでいたのだ。署長が抗議すると彼は悪びれもせず言い返した。
 ――フォックスヴィルの連中に協力したって何になる。
と。明らかに去年の合併未遂騒動を根に持っている。いや、それを言うなら9年前の画家強殺事件に彼らが介入して、村人の面子を打ち砕いてからずっとか。とどめに姑が転がり込んできた原因までフォックスヴィル発なのだから、反感を解消するのは容易ではあるまい。
 町長宅の殺人で、再びベンジー・フォックスの存在が重要視されだしたのを知ったベンジャミンはまたも山へ逃げ込んだ。その頃には娘の涼鹿がヘアーズ邸で暮らしていることも耳にしていたが、愛おしさと会いたさが募る一方で、尾羽打ち枯らした姿を見られるのは忍び難かった。さらに彼女が殺人鬼の新たな標的となったことも聞き及んだが、どうすることもできずにいた。そんなある晩、ほとぼりが冷めた頃を見計らって山を下り家路を急いでいると、無人のはずの自宅から灯りが漏れ、庭に停められた不審な乗用車を照らしている。こっそり近寄って様子を窺うと、驚いたことに見知らぬ男が上がりこんで中を物色しているではないか。しかも、側には脱ぎ捨てたと見られる血まみれの服が。手負いの野獣の凶暴さを見て取ったベンジャミンはそっと山へ引き返し、遠くから監視を続けた。フォックスヴィル・ジャーナルが涼鹿の事件を報じたのはその翌朝だった。

「涼鹿の衣服に付着していた血液が、ハリー・ダイヤモンドのものと一致したよ」
 デスの言葉にローズとジミーは俯いた。「どうしてあの人が……」そういうのもやっとである。
「思うに、ローズを取り戻したかったんだろうね」デスは労りをこめて解説した。「そもそも妻同様、マフィアに目をつけられていてもおかしくない彼が、脱獄してわざわざ危険な世間に舞い戻った理由が解せんが、最近あの刑務所は中国系の収監者が増えているそうだから、却って不安を煽られたのかも知れんな。とにかく、ハリーとしてはローズが目当てだったんだ。ところが楽屋から出てきた女に接近した時、身なりこそ似ているが別人だと気づいた。気取られずに身を隠すにはもう遅い。やむなく殴り倒した。
 その後で相手が涼鹿だと判って、さらって身代金を取ろうと思いついたんだろう。けれどもそううまく事は運ばなかった。どういうわけかアルバトロスに見つかって、格闘になったんだ。なぜそんなところに彼がいたのかはまだ謎だが」
「そのことなら、私が説明してやれるよ」口を挟んだのはバーニー。
 デスは驚いて老人を見つめる。バーニーは言った。「アルバトロスを逃がしてやったのは私なのだ」


  7月25日A「犯人は誰だ?」



 ローズらの窮地を救った数日後、ぽんぽこ山でバーニーたちとマフィアとの小競り合いが起きた。用地買収で遅れをとったため買占めはかなわず、何箇所かは他者の手に渡っていた。その相手方が襲撃してきたのだが、《オリエンタル・ゾディアック》が撃退し、逆に攻め込んだ。不意を突かれたマフィアは大した反撃もできず、タイガーに手玉に取られ数珠繋ぎに縛られた。が、その時バファローが奥の部屋にもうひとり、捕らえられている男を発見したのである。それがアルバトロスであった。
 実はアルバトロスは誤ってマフィア側のテリトリーに迷い込んでしまい、見つかって拘束されたのだった。しかしバーニーたちにはこの白人男性が仲間割れした敵の一味か、それとも不運な捕虜か判断が付きかねた。それで解放は見合わせ、警察に連絡したのである。ここでも最大値の下手な英語がデスを悩ませた。つまり「王藍もうだめ」とは、「(手に負えないから)あとはそちらに任せた」との意味でしかなかったのだが。
 本人の届出はなかったが、ローズが襲撃された時たまたまダイナーに居合わせたデスは、直後に入店してきた事件の目撃者から関係者の人相などの情報を得ていた。そのため迷うことなく彼らを逮捕し、ついでにアルバトロスも拘留した。
 その後バーニーはアルバトロスの身元を洗い、敵ではないと見極めをつけたので、バファローを使ってアルバトロスに接触し、自由と引き換えにローズの身辺警護を持ちかけた。アルバトロスは承諾し、バファローは隙を見て逃亡を幇助した。
「しかし、彼はむしろローズよりはドリーの方が気がかりだったらしい。バファローがそんなことを漏らしていた」
 その後は推測するしかないが、ジャズクラブへ向かったアルバトロスはそこでハリー・ダイヤモンドと出くわしたと思われる。さらわれようとしている女性が誰であるか見分けられたかはともかく、彼は阻止すべくハリーに立ち向かった。そして涼鹿の身は守り通したものの、命を落とすことになったのである。
「でも」涼鹿が首をかしげる。「私が襲われたのが単に人違いだったのなら、あのFOXの手紙はどういうことなのかしら。それともやはり、ローズのご主人がやったことなの?」
「ああ、それはこうなんだ。くそっ」デスは再び舌打ちし、今度は相手が女性だったと気づいて慌てて謝った。「あの日庁舎へ出向いたのは、何もアルマンに説得されたからばかりじゃないんだよ。それなりの理由があったんだ」次いでヴェリーをすごい目で睨む。「何しろ、書いたのはピーターなんだからな。ポッターの婆さんが何もかも打ち明けた」
 名指しされたヴェリーも含めて絶句する一同に彼は言い添える。「と言っても、真相は実にばかばかしいんだがね」




 あの日の署長室での驚くべき暴露。エリザベス・ポッターは繰り返し善意を強調し、罪に問われるならそのまま帰るとまでごねて、ようやく了解を取り付けると今度は堰を切ったようにまくし立てた。
 涼鹿にマザー・グースの手紙を送ったのは彼女だったのである。
 ヨッシュが非業の死を遂げてからしばらく経ったある日、家政婦は掃除中にとんでもないものを見た。町議会の公用箋の書き損じ、だが中身は何とマザー・グースのパロディーではないか。それも一首や二首ではない。「仔鹿に乗った中国娘」「経帷子を縫うカブト虫」「バラは赤いスミレは青い」「わがまま通すのがお好きなレディ」……これはひょっとしてFOXの次の犯行予告ではないのか。ということはヴェリーが……遺産争い、町長選をめぐる対立、動機には事欠かない。やがて彼女の危惧は決定的なものとなった。ヨッシュ・ロブスター宛ての草稿に出くわしたのである。
 彼女は恐怖に震えつつも雇い主を告発せんと奮い立ったが、そこへヴェリー自身に手紙が届いて出鼻を挫かれた。ではあれは単なる願望の現われか。後始末が不充分なのも、所詮遊び半分だからとすれば筋は通る。彼女は考え直し、経過を見守ることにした。しかしヴェリーは結局命拾いする。
 そういうことか。つまりは世間を欺く茶番に過ぎなかったわけだ。となると真の目的、次に狙われそうなのは誰だろう?
 順当に行くならクロノだ。けれど手元の“下書き”の中に彼を暗示するようなものはなかった。キーリーンは対象外。ヴェリーなら殺す前にまず籠絡することを考えるだろう。ならばアイザックか。でもクロノがぴんぴんしてる限り、排除する意味がない。だが……
 涼鹿だ。彼女は結論を下した。男より女の方が倒しやすいということもある。現に彼女を想定したとしか思えない文章が書かれているのだ。少なくとも血筋の点で、彼女はアイザックより脅威に違いない。

 そこで彼女は文章を敷き写して手紙を送った。涼鹿に警告を発したわけである。さらにフォックスヴィル・ジャーナルに広告を載せてヴェリーの反応を窺った。その結果かどうかは不明だが解雇されることになり、ますます確信は募った。「あれでいよいよ尻尾を掴んだと思ったね」とポッター夫人。
「FOXの署名がなかったのはそういうわけか」一部始終を聞かされたデスはぼやいた。老女は至極当然という顔である。「いくら何でも、そこまで決めつけるような真似はできないさ。万一見込み違いだったら、あたしだって寝覚めが悪いじゃないの」

「それで何もかも説明がつく」デス署長はため息混じりに締め括った。「無署名だったのも、見立てが崩れていたのも。リサの時は靴、トマトの時はタルト。ヨッシュは首を斬られていたし、町長宅の死体にはピーマンが添えられていた。だが涼鹿には何もない。歌詞に合わせて帽子なりカップ麺なり残してあってもよさそうなのにな。理由はひとつ。いい大人の悪ふざけとお先走りが事態をややこしくしちまったからなんだ。
 ただ、現に涼鹿が町長の車でどこかへ連れていかれたとなると別の可能性が出てくる。即ち、今まさに第五の犯行の最中なのかもしれない。だから大急ぎで駆けつけたんだよ」
「でも署長」声を荒げたのはリヨだ。「ピーターはパパ宛ての手紙も書いたわけよね。だったら殺したのもこの人なんじゃないの?」
「いや」彼は証拠を出して見せた。「ピーターの下書きはこんな歌だった。実際に投函されたのとは違う。

     金持ちになりたきゃ 5時には起きろ    He that would thrive must rise at five;
     もう金持ちなら 7時まで寝てよし      He that hash thriven may lie till seven;
     金持ちなんて柄じゃなければ         He that will never thrive
     11時まで寝てられる               May lie till eleven.

『いっそ永遠に眠っていろ!』とでもいうつもりだったんじゃないのかな。それに」とデス。「あの時まだ屋敷にはシーザーがいたんだ。しかも連れ戻されるのを嫌がって暴れ回ったそうじゃないか」
「あ、そうだったっけ」
「つまり、仮にピーターが殺害目的でこの家に忍び込んだ場合、もしシーザーに見つかったらどうなる? それこそ家中を叩き起こす羽目になるだろう。確かにヨッシュの相続確定は間近に迫っていたが、何もあの日に決行する必要はなかった。むしろシーザーを自宅に引き取ってからの方がずっとやり易かったはずだ」
「でもパパは、寝室の戸締りは日を改めてより頑丈にするつもりだったのよ」
「だが、そのことをヴェリーが知っている道理がないんだよ。彼が屋敷を訪れたのは夜の9時過ぎ。その頃には鍵は新調されたものになっていた。特に言われない限り、急ぎ取り替える必要があるとは思わないだろう。
 少なくとも、ヨッシュ殺しの犯人は他にいる」そう言うと、デスは自信ありげに聴衆を見渡した。
 ロビンが手を挙げてデスの注意を喚起した。「その言い方だけど。さっきから、FOXという言葉を使わないで“犯人”と言ってるが、何か理由があるんですか」
「ある」デスは厳かに答える。
「FOXとひとつの名でまとめると誤解が生じるんだ。つまり今度の一連の事件は単独犯によるものだという印象を与えてしまうんだよ」

 そもそもなぜ予告状が必ずくるのか。これが事件当初から彼が頭を痛めていた謎だった。匿名の手紙には幾通りかの動機が考えられる。

  1、 単なる憂さ晴らしで、騒ぎ目当ての愉快犯によるもの。暴露によって復讐欲・支配欲を満足させる、あるいは劣等感を癒そうとする心理。
  2、 さらにその騒ぎによって、本来の目的を隠蔽しようというもの。“それどころではない”という雰囲気を作り上げ、事前に起こした、またはこれから予定している物事への関心を削ぐ。
  3、 広く第三者の好奇心を煽り、個人では得られない情報や効果を得ようというもの。例えばマスコミが大きく扱えば、関連記事の掲載や専門家の介入などが期待できる。

「他にもあるだろうが、概ねこんなところだな。だがこういった動機の場合、手紙は普通出されっぱなしで終わる。要するに騒ぎを起こせば用済みだからだ。ところが今回の場合、主目的は内容の実行にある。だから差出人は標的にわざわざ予備知識を与えてやっているわけで、却っておのれの首を絞めるも同然の真似をしてることになる。もちろん差出人が実行動に出るパターンは、恐喝目的という場合もあるが、見立てに縛られる点で、困難の度合いは比べ物にならない。最初の1回ぐらいは何とか切り抜けられるだろうが、度重なれば遂行はより成し難いものになる。
 しかし――それぞれの事件の犯人が、実は全員違うとしたら?」
 涼鹿の事件がヒントになったと署長は解説した。書き手も差出人も実行者も、またその意図さえどれも一致しなかった。となると他の事件にもあてはまるのではないか。あの予告状は同一モチーフの使用で単独犯を装うカムフラージュ。多少の共通要素はあっても、本来は別々の事件を強引にひと括りにしようという目論見が働いているのではなかろうか?
「そう思い至ったら、目からウロコが落ちたよ」デスは再び一同を見渡した。「涼鹿は以前、便乗犯の可能性を否定していたが、他の事件で完全に身の証しが認識されていればその限りじゃないんだ。もちろん、死人でさえもだ。
 後は個々の事件に動機を持ち、犯行が可能な人間を洗い出せばよい」
 重い空気が、その場を支配した。


「もう一度ベンジャミンの話をまとめてみよう。彼には双子の弟がいて、逆恨みしたそいつに陥れられた。父母の名誉のために敢えて泥を被り、出所後は篤志家の計らいでコン・コーナー村に住むようになった。警察から逃げ回ったのは、取り調べられて本当の身分が明るみに出るのを嫌ったから。けれども涼鹿が危険にさらされていると知って、表に出る決心をした。そこまでは判っているし、裏付けも取れている。
 しかし、問題はあのトマトという女だ。彼女もフォックスと名乗っていたが、あんた同様嘘の名だった。その正体や村に現れた経緯などは何も知らんのか。それに2ヶ月前の失踪の理由が腑に落ちん。あの時はまだ殺人事件も何も起きていなかったのに」
 ベンジャミンは一瞬黙ってからおもむろに口を開いた。「女については薄々見当がついている。ある日いきなり現れて、遠い従妹だと自己紹介したきり、そのまま居座った。疑う理由は特にないし、私も実はヘアーズ一族だなんて知られたくないから、フォックス姓の身内が現にいれば素性を隠すのに都合がいいと思って居候を許しただけだ。互いに部屋に篭って、ろくに話もしなかったよ。聞くところによると私の妻だと触れ込んでいたそうだが、もちろん結婚なんか、どんな意味でもしちゃいない。
 ただ一度だけ、畑から帰ってくる時に若い男を送り出しているところを見かけたな――」
「あ、それ俺かも知れない」アイザックが口を挟んだ。「バックスの爺さんに頼まれてたんだ。ベンジャミンの内妻とその子供のことを調べてくれって」
「いや、君じゃなかったよ」ベンジャミンは部屋の隅を指差した。「抱き合ってキスしていた。あの男と」
 いきなり事実を突きつけられて、ジェレミー・ケップは狼狽のあまり反応が遅れた。我に返った時はすでに遅く、マーサの棍棒が顔面に命中していた。失神した彼を見下ろしながらデス署長が呟いた。
「そうか。こいつがあの三文芝居の共犯者なんだな」

 意識を取り戻したケップは関与を否認したが、結局、重要参考人として連行されていった。
「あの男自身に面識はないが、聞いた名前に覚えがあった。ケップ。へアーズ家の顧問弁護士だ。となると私の正体を見破るかもしれない。そう思ってなるべく家に寄り付かないようにしたんだ」ベンジャミンは言い添えた。
「そういや、トマトは遺言状発表の時、いやにそわそわしてたな」アイザックが膝を打つ。「解ったぞ! あの時成り行きで俺とトマトとケップが一堂に会してしまったんだ。トマトは俺が相続人だとは知らなかっただろうし、ケップはトマトを調べている探偵が俺だとは思わなかったに違いない。もしふたりでいるところを見られてて、万一俺が人相を覚えてたら……」
 今度はクロノが鼻を鳴らした。「それで奴は俺の出生をバラしたわけか。そうすりゃ頭に血の上った俺が一発お見舞いすると期待してのことだ。痣のできた無残な顔をまともに見つめる人間もおるまい。高校時代に弁護士を半殺しにした話は有名だからな。ふん、いつまでもそう青くはないぜ」
「でも殴ったじゃないか、結局」と突っ込むデス。クロノはしれっとして返事した。「あの席じゃどうせ殴り足りなかったさ」

 ローズがおずおずと質問した。「話を元に戻すけど、ハリーが涼鹿を殴るのに使ったのは何だったのかしら。まさか、最初から凶器を用意していたなんてことは……」
 仮にも夫が、自分に危害を加えることも辞さないつもりだったとは信じたくなかった。彼女を助けようとして、ウォレスの凶弾に斃れた今となってはなおのこと。デスは説明した。「『ア・サウザンド・アイズ』の廊下に、小さなテーブルがあるだろう? ライヴスケジュールを印刷したリストを積んであって、客が自由に持ち帰れるように」
「ええ。あ、判った」キーリーンが指を鳴らす。「リストが崩れて散らばらないように、上にペーパーウェイトが乗せてあったわね。狐が寝そべっている形をした」
「ちょっと待った、キーリーン」デスが聞きとがめた。「何でそのことを知っている?」

「こ、こないだ店で見かけたのよ」キーリーンは慌てて釈明した。「ほら、ローズの初舞台の日。みんなでお祝いも兼ねて応援しに行ったでしょ。あの日よ」
「それはおかしい」デスの目がすうっと細くなる。
「ローズがデヴューした11日、あそこにそれがあったはずはない。なぜならまだ7月の前半で、8月のスケジュールは確定していなかった。だから押さえなきゃならないほどの量じゃなかった。18日になって初めてペーパーウェイトが必要になったんだ、7月分の残りと、新しく刷り上った8月分のリストを押さえるために。あんた、ひょっとしてあの晩クラブにいたんじゃないのか?」
「そう言えば」ヴェリーが思い出したように叫ぶ。「ローズと涼鹿が直前に言い争っていたことも知ってたな。なのに理由を認めようとしなかった」
 水を打ったように座が静まり返った。今や周囲の目がキーリーンに注がれている。うろたえた彼女は口走った。「な、何よ、それがどうしたって言うの! 涼鹿を殴ったのはハリーでしょ、アルバトロスを殺したのも。あたしじゃないわ。どこにいたっていいじゃない!」
「そうはいかない」デスの声音は無情だった。「アルバトロスの背中と喉の傷の食い違い、これは凶器が二通りあったことを意味する。もしあの場にいた理由を説明できないとなると、署へ来てもらうことになるが、いいか」
「何か知っているんだったら、正直に話した方がいい。無用な隠し立ては却って自分を不利にするだけだ」とヒポポタマス。
 キーリーンは突如反撃に出た。いきなりローズに掴みかかり、ハンドバッグをひったくると有無を言わさずかき回す。そして何かつまみ出すと、ぐいとデスに突きつけた。「これのことでローズと話があったのよ」
 眩いばかりのダイヤモンドの指輪。
「ちょっと、それ見せて」リヨが手に取る。瞬時に息を呑んだ。「リサちゃんの婚約指輪だわ!」
「これが証拠よ!」キーリーンは金切り声を張り上げた。「リサを殺したのはこの女よ!」

「この人、あの日ステージでこれを嵌めてたわ」キーリーンは勝ち誇った。「どうせコスチューム・ジュエリーだと思われるとたかを括ってたんでしょうね。でも私、見覚えがあったの。目が離せなかったと言うのが正しいわ。あの婚約披露パーティー……」涙声になる。「もしかしたら、あれをもらってたのは私だったかもと思うと……」
「わ、私……」ローズは後が続かない。代わりにジミーが抗議した。「何かの間違いだよ!」
「おや、そう?」口調が辛辣になる。「間違いで持ってるにしては随分な品よね。リサを殺して盗んだに違いないわ。ダイナーでシープを気にしていたのはこのためだったんでしょ。そうそう、前にもこんなことがあったのよ」キーリーンはいつかのローズから依頼された件を聴衆に告げた。「アレックスに近づいてどうするつもりだったのかしら?」
 ローズは限界に近づいていた。がたがた震えるその肩に、バーニーが手を置いた。「言い分があるなら、はっきり言いなさい」そして厳かに指摘する。「指輪を隠していたからって、即、リサ殺しの犯人と決まったわけじゃない。ちょうどキーリーンが現場にいたからって、アルバトロスを殺したとは言い切れないように」
「解ったわ、お祖父さま」彼女はわっと泣き出した。「すみません! 指輪はねこばばしたの。アレックスのことは――リヨちゃんを呼び出す手伝いをしてもらうつもりだったの。誘拐して、ヨッシュを脅迫……」彼女は顔を覆った。「どうしてもお金が欲しかったんです! ジミーのために」
「母さん!」ジミーの叫びは悲痛だった。
 リヨもショックを隠しきれないまま、泣きじゃくるローズを見つめていたが、やがてジミーの側に駆け寄るとその手を握り締めた。「ローズが何をしようと、私たちは友達だからね。パパの借金の話があった日にジミーが言ってくれたこと、私、絶対忘れないから」

「リヨちゃん、ごめんなさい」ローズは啜り上げた。「でもね、誘拐はすぐに思い直したのよ。だってヨッシュはジミーを快く預かってくれたんだもの。指輪だって、食堂に落ちてたのを拾っただけ。殺してなんかいない!」
「そんな出来過ぎた話がある? ひょっとして、ヨッシュもあなたが殺したんじゃないの?」畳みかけるキーリーン。
「違う!」ローズは絶叫した。「ヨッシュは他にもよくしてくれた。5万ドルもくれたのよ、亡くなる前の日に。あの人は恩人だわ。その彼を殺すなんて、私にはできない!」
「その5万ドル」ロビンが口を挟んだ。「私が届けたものじゃないかな。そうか、ローズに渡す金だったんだ」
 キーリーンはなおも納得行かない様子である。「くれる理由は聞いたの」
「ううん、ただジミーの手術の足しにしてやりなさいって。本当はその時指輪を返すべきだった。けど……」彼女は身震いした。「今のキーリーンみたいに、勘繰られるかもしれないし、手術にもっとお金がかかるかもしれない――だからもうしばらく持っていようと……でも、あんまり素敵な指輪だから、つけてみたい誘惑に勝てなくて……」泣き崩れる。
「お願いです。これ以上母さんを責めないでください」ジミーは懸命に母親を庇った。涙で一杯の目で訴える。「みんな僕が悪いんです。僕さえこんな身体に生まれなければ……」
 今になって腑に落ちる。中国人に襲われ、リヨまで拉致されかけたのにローズは警察へ届けることを渋った。あれは自分自身後ろ暗かったからなのか。
「まあ、落ち着こうじゃないか」ようやく主導権を取り戻すべくデスが口を開いた。「ローズには後で供述してもらう。殺人に関わったかどうかは別としてだ。それにキーリーン」彼はぴしりと決めつけた。「指輪に気づいたのが2週間も前なら、その間黙っていたあんたも褒められたもんじゃないぞ。ローズを強請る腹だったのか?」
 キーリーンは不貞腐れた。「好きに考えればいいわ。とにかく、あたしは本当のことを言ってるんだから」



「でもね、私思うんだけど」それまでおとなしく座っていたキャシーが沈黙を破った。
「私はそのパーティーに出なかったから、伝聞でしか知らない。けどどうも理解できないのよね。リサが消えたっていう手品の話よ。ナンカ金髪さんらしくない」
「どういう意味だ?」手品に散々付き合わされたアイザックが尋ねる。
「だって、婚約祝いのおめでたい席だったわけでしょ。それに呼ばれていながら座興に《人間消失》? しかも主役は当日のヒロイン? 縁起でもない。金髪さんって、そーいうことする人だったわけ?」
 確かに、控えめに言っても無粋、もっと率直に表現するなら悪趣味な話である。
「とどめにフィアンセを包んで『持ち帰りのお土産』だなんて、失礼もいいとこ。相手は招待主よ。よく場が白けなかったもんだわ」
 そう言われてシュトラウスを知るクロノとアイザックは顔を見合わせた。「……なるほどな。下準備を考えれば、その場の酔狂ってことはありえない。だから当初は心中説もありだと思ったんだが」
「だったらパーティーの後でもよかったはずだ。手品の最中に行う理由はない」
 その時か細い声がした。消え入りそうな声音なのに、不思議と全員の耳を射抜く力があった。「……リサの考えだったのかもしれません」
 リヨは驚いて声の主を凝視した。ジェニファー・グレイだった。「恥を忍んでお話しますが、リサはずっと疑っていました――自分は、実の父親を愛してしまったのではないかと」

「ヨッシュ・ロブスターは高校の先輩に当たりますが、その頃から趣味を同じくする親友でした。やがて私は彼の従弟のポールの妻になりました。しかしポールは仕事が忙しく、また大の演劇好きで近くの町で公演があるとよく私を置き去りにして出かけてしまうことが多かったのです。対照的にヨッシュは骨董店の経営が軌道に乗らず、落ち込む日々が続いていました……」
 互いに慰めあうかつての親友同士に道を踏み外させたものは、彼女の寂しさと、彼の焦りだった。その後ヨッシュはジェニファーとの結婚を強く望んだが、彼女は同意しなかった。
「ヨッシュが厭なのではありません。でもあの時の私はただ、抱きしめてくれる人が欲しかっただけ。身を任せたのだって計算ずくでした。すでにリサがお腹にいたのですから。ヨッシュはヨッシュで、子供はできないと確信する理由が実はあったのですが、そんなふたりが形だけ結ばれたところで、何の意味がありましょう?」結局ヨッシュは従妹のジェインと結婚し、ジェニファーはポールの妻のまま母となった。

 ところがヨッシュが遺産を相続して、リサとの婚約話が新聞に取り沙汰された日。青い顔で母親を訪ねてきた娘はいきなり質問を投げつけた。自分の父親は、本当にポール・グレイか? ジェニファーはヨッシュの恋人だった時があるのではないのか?
 思い当たるふしがあった。ポールはヴァチカン劇場に芝居を見に行って火災に巻き込まれ、植物状態となり半年後に亡くなったのだが、その間彼女は狼狽のあまりついヨッシュに宛てて手紙を書いた。夫の容態が心配だ。ひとりでいると絶望しそうになる。側にいて支えてほしい。不安定な精神を鎮めるための方便でしかなかったのだが、投函せず日記帳に挟んでおいた3通の手紙を、どうやら娘が見つけていたらしい。
 ジェニファーは杞憂に過ぎないと断言した。心配はいらない。あの号外記事は自分も読んだ。大事な娘が血を分けた父と結婚するのを、黙って見過ごす母親がどこにいる? 大丈夫、安心してよい。
「それで、いったんは納得したようです。プロポーズされたと報告してきた時は本当に幸せそうでしたから」
 だがその後、ジェニファーとの過去を話したとヨッシュ自身が打ち明けた。リサは再び疑心暗鬼に陥ったのではないか? ふたりともリサの出生に関して確証があったが、彼女が信じたかどうかは別問題である。リサは結婚を躊躇いだした。しかし婚約は公になってしまい、もはや後戻りは不可能である。そこへシュトラウスから、パーティーで手品をやらせてほしいとの申し込みが舞い込んだ。
「リサの方から《人間消失》を持ちかけたということは考えられます。あの娘は逃げ出す機会を探していたのじゃないでしょうか」
 ジェニファーは目頭を押さえた。

「でもそれにしたって、何も衆人環視の中で消えることないじゃない」父親の新たな秘密を知り、気が遠くなりそうになりながらもリヨが異を唱えた。「シュトラウス先生の人柄を言うなら、リサちゃんだって同じ。パパの体面を潰すことぐらい、察しがつくはずよ。私信じない」
「シュトラウスの手品の腕前はどの程度か知ってるか」デスがヴェリーに水を向けた。ヴェリーは眉間にしわを寄せ、しばらく記憶を辿ってから答えた。「決してうまくはなかったな。下手の横好きという奴で、よくケンに指導されてた」
「アルバトロスの方が上だと?」
「いや」ヴェリーはかぶりをふる。「自分じゃやろうとしないんで、その点は判らん。言えるのは相当な教えたがりだってこと。少なくともトリックの知識は豊富だな」
 そこで口を閉じたのは政治家としての分別が働いたためだ。自分も2、3手ほどきを受けたことがあるなんて漏らしたら痛くもない腹を探られかねない。教わったのは簡単なテーブル・マジックだけと説明しても通るかどうか。キャシーに実演してみたのは図に乗りすぎだったと反省しながら、でも鉄壁のアリバイがあるはずだと彼は思い直した。いざとなったらその一点にしがみついてやる。
「となると、そもそもシュトラウスにそんな大技がこなせたかどうかが焦点になるな。だとしたら……」デスは考えこんだ。やがて部下のナトキンに耳打ちする。ナトキンは頷いて広間を出て行った。
 デスはジェニファーとリヨに向き直った。
「誰の発案にせよ、共演のリサやアルバトロス以外にも相当数の協力者がいなければあの手品は無理だ。まだ推測の段階だが、こんなトリックだったんじゃないだろうか。
 まず布をかぶせる段階だが、シュトラウスがそれを広げてリサの前に立つ。その裏側の中心には広げたら直径30センチぐらいになる折り畳み傘式の骨と柄がついていたとしたらどうだろう? シュトラウスの動きに合わせてかがんだリサは傘を開き、布をかぶるふりをしながら柄を伸ばして立てる。そしてテント状になった布の中から準備テーブルのクロスの下に潜り込むんだ。そこで着替える」
「え!?」
「私は女性の服にはからきし疎いが、どうも衣装代の請求が2万ドルとはちと高いような気がしたんでね、クララ・デパートに問い合わせてみた。そしたら案の定、リサは早変わりでスーツになるドレスを特注していた。創立記念祭のパレードで着るという口実でね。上身頃とスカートが面ファスナーで繋がっていて、一瞬で取り去れる。上は裏返せばジャケットになる。スカートの下はズボンになっていて、折り上げておいた裾を下ろす。襟元は付属の当て布で覆う。髪は制帽で隠す。靴も予めそこに用意しておけばいい」

「ちょ、ちょっと待って。制帽って……」遮ったのはハリエット。「じゃあ……」
 デスは言った。「そう。早変わりした後のリサは、一見警備員スタイルだったんだよ。隙を見てテーブルを抜け出し、間に紛れ込む。もちろん、ガードの警備員たちには事情を説明済みだ。さもないと手品の妨げになるからな」
 籠城事件での、衣服の交換によるベンジャミンとナトキンの入れ替わりがヒントになったと彼は説明した。
「一方、シュトラウスはこれもリサを包んでいるような演技を続ける。当然中身は空っぽだからすかすかの梱包になるが、観客は相手が若い女性だから身体に触れないよう手加減しているものと思うだろう。そして、アルバトロスの合図を待つ。噴水にしかけた花火を爆発させるんだ。観客の注意がそれた隙に、暗幕の裏に用意しておいたヴィーナス像と擦り替える。さて開けてみたらびっくり仰天……というわけだ。本物はどこか離れたところにいて、適当なところで帽子を取ってアピールするはずだったのだろう。
 ところがその予定が狂った。どういうわけか噴水にアレックスが現れて、クライマックスがめちゃめちゃになった。さらに肝心のリサがいつまで経っても出てこない。シュトラウスは不安に襲われる。とにかく噴水を見てこよう――ヨッシュへの軽口は、確かに品のない冗談だが、動揺を隠そうとしていたのなら肯けなくもない」
「あの警備員たち……偽者だったのよね」震えながらリヨが言う。
「そうだ。たぶんリサは廊下へ出たところを襲われ、気絶した状態で厨房に連れ込まれたのだろう。夜の10時近くでもう食事の時間じゃないから、おそらく無人だったはずだ。犯人は制服を脱がせてドレスを着せる。その時ズボンのポケットから着替えの邪魔になるので外しておいた指輪がこぼれ落ちたんだろうな。そして意識のない彼女の頭を流しに押し込み、喉笛をかき切ったんだ。死体を防水布でくるんでワゴンに詰め込む。補充に見せかけてワインセラーに降りていき、死体を放り出す。現場にしては出血が少ないのをごまかすため、ワインを何本か割る。ついでシュトラウスを待ち受けて殺す。
 ワゴンを押していても不自然じゃないのは……」そこでデスはメイドを見つめた。
 シイラ・ヘリングは盆を取り落とし、半狂乱になって叫んだ。「私じゃありません! 確かにアルバトロス先生からテーブルの下に残された靴とスカートを回収してワゴンに隠す役目を言い付かってました。でもそれ以上のことはしてません! 本当です!」
「なに、あんたが実行犯だとは思っちゃいないさ。むしろ、私の想像を裏付けてくれて礼を言うよ」デスはあっさり引き下がった。「女のあんたが、リサの指輪に無関心でいられるとは思えん。手を見れば無くなってることが判るから、いくら時間に追われていようとあたりを探すはずだ。遺留物を残して犯行現場を特定されるわけにはいかないからな。ゆえに男だ。ウェイターの格好をしていれば人目をごまかせる。ああ、ナトキン。間に合ったか」
 デスは戻ってきたナトキンから渡されたメモを読んだ。「……やはり。学生時代に演劇部に所属していて、素人俳優の知人が多い。こちらはクララ・デパートの外商担当からの報告だ」
 今こそ正念場だと彼は思った。
「ここまで言えば判るが、犯人はもちろん《人間消失》が行われることを知っていた人物だ。警備員に変装するために、制服のデザインをリサに教え、同時にリサが着用するのと同じドレス(ただし普通の)を注文できる人物。ヘアーズ邸の改装を手がけた関係で、邸内の間取りや構造を把握していた人物。ウェイターに変装できる人物、つまり男性」
 パドルダックは憮然とした。「私がリサ嬢を殺したと言うおつもりですか」
「いえ、それは無理でしょう。なぜならあなたはパーティーにご本人として出席していた。犯人はその場に“いない”はずの人物でなければならなかったはず。つまりケップ氏ですよ」







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