| 最後の女(The Last Woman In The Tribe)@―by matorjiska |
―― あるいは第三の糾弾 マトリョーシカ最終章Further Version ――
彼は竜の牙を地面に蒔いた。すると畝の間から、鉄の武具を身に着けた兵士達の一
群が飛び出してきた。カドモスは隠れて彼らに石を投げつけた。彼らはお互いの間で
戦いを始め、ほんの一握りの生存者しかいなくなるまで、戦い続けた。
(バーナード・エヴスリン『ギリシア神話小事典』 小林稔訳)
「われわれが問題にしているキャドマスは、例の遺言書を書いたときに、いくつかの
ドラゴンの歯を蒔いたのだ」とクイーンがいった。
(エラリイ・クイーン『ドラゴンの歯』 青田勝訳)
1
ヴェリーが停めておいた車に辿り着いて、ほっと息を抜いたその瞬間。「……安全装置、外れてないんだけど?」
ぎくりとして手元に視線を移した時はすでに後の祭りだった。電光石火、リヨが向こう脛を蹴り上げた。日本風に言うなら弁慶の泣き所である。ヴェリーはピストルを取り落とし、呻き声をあげてうずくまった。
リヨは直ちに次の行動に出る。自由になるや否や、涼鹿の元へ駆け寄った彼女は小箱を受け取り、中身を掴み出すとヴェリーに向かって突きつけた。
「近寄るな! さもないと、手紙を破くからね!」
「この!」歯噛みするヴェリー。だがリヨの顔つきはそれ以上に悔しそうだ。
「子供だからって見くびらないで! いい? あたしはね、もう父も母も死んじゃって、おまけに文無しよ。これからは厭でも頭使って身体張って、ひとりで人生の荒波を乗り越えていかなくちゃならないの」一喝する。「そんじょそこらのオコサマとは覚悟が違うんだから! 一緒にされたら迷惑だわ!!」
涼鹿も加勢する。ポシェットからライターを取り出すと点火し、宣言した。「撃てるものなら撃ってごらんなさいな。その前に……」すっと手紙に近づける。ピストルを拾って握り直すのと、どちらが早いかは一目瞭然だ。
ヴェリーは舌打ちしながら起き上がると、銃を収め、改めてリヨと涼鹿を睨んだ。「判ったよ。この場はこっちの負けだ。だがな」
そのまま後ろ向きにドアを開けて車に乗り込む。「学ぶんなら早いに越したことはないぞ。人生、時には長いものに巻かれた方が賢明だってことをな。せいぜい、そのお嬢ちゃん先生に教わるがいい!」
負け惜しみと排気ガスを残して彼は走り去った。リヨは思いっきりあかんべえをし、それから涼鹿の手元を覗き込む。「へえ、先生って、煙草吸うのね。知らなかった」
と、なぜか涼鹿は一瞬ひるみ、ライターを握った腕を後ろに引いた。しかしすぐに掌を開いて見せる。「違うわよ、これはデス署長の。ほら」
そこに乗っているのは、華奢な女性の指にはなるほど似つかわしくない、大振りな男性用の品だった。いっぱいに羽を広げた蝶の図柄が象嵌されたエキゾチックな意匠で、下部にイニシャルと思しき飾り文字が彫られている。リヨは声に出して読んだ。「ええと、D・W……かな?」
涼鹿が説明を付け足す。「こないだ病院にお見舞いに来てくれた時、忘れていったの。今度会ったら返そうと思って」
「――あ、そ」
リアクションは心持ち遅れた。
それに被せるように涼鹿が手を鳴らす。「そうだ! 病院と言えば、ジミーはあれからどうなったんだろ。ねえ、私たちも行ってみない?」
言うなり彼女は踵を返し、先頭に立って足を速めた。その後ろについて歩きながら、リヨは首をかしげた。
どうして先生はさっき、ライターを隠すような真似をしたんだろう? まるであたしの眼から遠ざけようとするみたいに……
リヨは疑問で頭が一杯だったので、さらにふたりの背後から彼女らを見守る、ある視線には気づかなかった。
店へ戻るとキーリーンはシャッターを下ろし、「臨時休業」の札をかけた。さっと身を翻して奥へ駆け込む。
(こうしちゃいられない、急がなくっちゃ。お宝、お宝)
以前図書館から借りた『フォックスヴィルの伝承・風習』。斜め読みしてすぐ返却してしまったが、その中に先住民族が隠匿した財宝に関する記述があった。その記憶が先ほどの騒ぎで蘇ったのである。
何しろ、当てにしていたバックスの遺産はこのままクロノに持っていかれそうな雲行きなのだ。かくなる上は自力で活路を切り開かねばならぬ。狙え一攫千金、掴めフォックスヴィルのセレブの座。目指すは――
(……確か、バードウッドの森からぽんぽこ山にかけての一帯だった……)
そこで支度の手が止まる。不安がちらりと脳裏を翳めた。何だっけ、気味の悪い噂があったよね、あそこ。どうしよう? ひとりで行って大丈夫かしら。アイザックが帰ったら護衛を頼んでみようか。理由は適当にごまかして。
でも、それじゃ宝が見つかった時は却って都合が悪い。独り占めできないどころか、横取りされちゃうかも――
しばし躊躇の後、キーリーンは腹を決めた。あたしのアイディアなんだから、自分の力で全部やる。
(負けるもんか。そんじょそこらの未亡人とはワケが違うのよ)
その頃、ヘアーズ記念病院の診察室では、クロノがローズにジミーの新たな病気を告げていた。残酷な現実に直面したローズは度を失って、天を呪いながら何度も息子の名を呼んだ。
「嘘よ! ああ、ジミー、ジミー、可哀相な坊や! いえ、何かの間違いよ。そんなはずが……」
「あったんだ」クロノの口調にはかけらほどの救いもない。
嗚咽交じりにローズが言い返す。「厭! それじゃ不公平すぎるわ。こんなのあり!? 許せない!!」
クロノは両掌を上に向け、首を竦めた。「まあ、今すぐ命がどうこう言うわけじゃないが、事実は事実だ。許されるも許されんもない……」と、相手の様子の異常に気づいて叫ぶ。「おい、どうした!」
ローズの表情が一変していた。目がすわり、ぞっとするほど青ざめた顔に激しい罪の意識が浮かんでいる。彼女は髪を掻き毟り、口走った。「赦す……まさか――これがその報いなの? ジミーが……つまり私が……だから!」
呟きはだんだん甲高くなり、断続的な悲鳴に変わる。そのまま彼女は失神した。クロノは急いで応急処置を行い、心療内科の医師に連絡を取った。直ちに入院手続きが取られ、ローズは運ばれていった。
ひとりになるとある考えが生まれた。彼はしばしそれを追うのに没頭した。それから警察へ電話して義理の従兄を呼び出し、要請を伝える。「……に関わる重大な問題だ。よろしく頼む」
デス署長はしぶしぶ引き受け、受話器を置いた。
「ちょいと、こっちの事件はどうなったのさ」
文句が飛ぶ。ローズ母子への感懐を断ち切られ、デスは憮然として向き直った。「……今調査員を派遣している」
「シープ・ジョーキングだろ。悪いけどあのお兄ちゃんじゃ、それほど頼りにゃできないんだけどね」
いかにも不当な仕打ちに耐えているといった面持ちで、エリザベス・ポッターはため息をついた。
「しかしな、婆さん」デスは一応弁護する。
「あれだってれっきとした警官だし、ジョーキング一族のひとりだ。あんたにとっちゃ主人筋だろ。それに、不審な男が家の周りをうろついてたってだけじゃ、事件とは言えんぞ」
「中国人だったんだよ、中国人」
相手の言葉に覆い被せてポッター夫人は反駁した。「20歳ぐらいの。東洋人は若く見えるから、実際はもっと年行ってるかもしれないけど。人殺しが野放しになってる昨今、これが事件でなくて何だって言うんだい。あたしに2回も足を運ばせて、ったく、認識不足も甚だしいったらありゃしない」
こっちが呼んだわけじゃない。
次から次へと絶え間なく溢れ出る不平。放っておいたら、その青年が老いさらばえる頃まで続いていそうだ。「……とにかく、今日はこれでお引き取り願おう」彼はうんざりして遮った。
「戸締りを厳重にすること。相手が誰だか判らないうちはドアを開けないこと。それでなおかつ心配なことがあったら、連絡してくれ。警戒に当たらせる」
「やれやれ、じゃあ早いとこ家に帰って、閉じ篭るとしましょかね」彼女はどっこいしょと立ち上がった。「ホント、警察は事件が起きてからじゃないと動かないってのは至言だわさ」
捨て台詞にデスは苦笑した。この婆さん、だんだんヴェリーに似てきたぞ。
この際、シープはポッター家に回して引き続き張り込ませるとしよう。ローズが入院したなら、当面ボディーガードの必要はないわけだからな。
それで先ほどのクロノからの電話を思い出した彼は、いそいそと準備に取り掛かった。
午後8時。ヘアーズ一族の面々はそれぞれの場所で夜を迎えた。
ヴェリーは町長室をシャットアウトし、残業と称して小箱と手紙を奪い取る算段に余念がなかった。ローズとジミーは鎮静剤を与えられ、それぞれの病室で休んでいた。リヨはふたりを見舞った不運に衝撃を受け、涼鹿と悲しみを分かち合おうとしたが、彼女が再びキャプラン家へ戻ってしまったため、自室でひとり物思いにふけった。
その涼鹿もひとりでいた。ハリエットは町長のリコールを推し進めるため、マーサの元へ出かけて留守だった。マーサは従妹と一緒になって憤慨し、次期選挙戦の話題にも触れ、もし必要なら資金面の協力は惜しまないとまで言い切った。大満足のハリエットが帰宅した時には、涼鹿はやることを終えてとっくに眠りについていた。
デスはクロノに調査資料を送った。クロノはそれを検分して仮説の正しさを確かめ、さらに論理を飛躍発展させて空中楼閣を築き始めた。
アイザックの元には、ニューヨークでの調査を依頼する電話がかかってきた。なぜか、懸念を覚えた彼は即答を避けあれこれ思案に暮れたが、結局懐の寂しさが全てに優先した。応諾するとガソリンの残量を確認し、その他雑事を片付けると、隣町のターミナル駅発最終列車に乗るべく事務所を出た。
キーリーンは遅くなっても帰らず、家は依然として空だった。そして主不在のまま夜は更けていった。
翌日22日の明け方、フォックスヴィルの町を大規模な地震が襲った。人的被害はなかったが、多くの建物で家具調度品の破損が相次いだ。
ぽんぽこ山の廃坑が落盤で埋まったというニュースが警察に届いたのは、その3時間後。午前8時のことだった。
まもなく、キーリーンの不在が明らかになった。地震の影響で台所に被害を受け、朝食の支度ができなくなって『ダブル・ダブル・ダイナー』に押しかけた住民が「臨時休業」の札に不審を抱いたのである。儲かることだったら何にだって目の色を変えるあの女将が、こんな絶好のチャンスに店を開けていないとはどうしたわけだ!?
ウェイトレスのミミも、コックのロジャーも困惑していた。ふたりの話によれば、昨日いきなり理由も言わずに店を閉めたきり、雇い主の姿は見ていないという。その時、ミミがはっとして叫んだ。「もしかしたら!」
直ちに捜索隊がぽんぽこ山に向けて出動した。
10時。ハリエットが出勤した後のキャプラン家に、突然パドルダック弁護士が現れた。涼鹿に面会を申し込む。「あなたにとって非常に重大なお話です」
彼女は躊躇った。彼との間にはわだかまりがある。プロポーズを断った時の場の空気は、決して円満なものではなかった。その相手とこの家の中でふたりきりになるのはできれば避けたい。ハリエットの留守を狙いすましたかのような訪問も不安をかき立てた。「それでしたら、私が明日事務所の方に伺います。今日のところはお帰りください」
「いえ、今ここでお話しする方がよろしい」パドルダックは手を振って取り合わなかった。そして意味ありげに付け加える。「他人の耳に届くところでは、却ってあなたがお困りでしょう」
立ち去ろうとした涼鹿の足が止まった。パドルダックは重々しく宣言した。「あなたが次のヘアーズ家の当主です……クロノ・レイヴン氏は権利を剥奪されるのですから」
2
ようやく応接間に通された弁護士は、事務的に経過を語った。
「愚かにも、レイヴン氏は義務の履行を怠りました。相続条件に背いてフォックスヴィルを離れ、何度もボストンへ出向いていたことが発覚したのです」
涼鹿は息を呑む。「でも……でも……あの制限は相続が正式に決まってから発効するのではなくて?」
「いえ、遺言状には“遺産を受け取った者”と書かれているのみです。いつ相続したか、またそれが暫定か否かは問題ではありません。したがって欠格となり、相続は取り消されます」彼は満足げに、にんまりと笑った。
「それでも、どうして私が相続することになるの?」当然の疑問が口をついて出る。「シュウシュの次はキーリーンでしょう? それからアイザック。まさかこのふたりが辞退したわけじゃ」
「さよう、まだ権利放棄の意思表示はありません。レイヴン氏の失格をご存知ないのでね。しかし、知っていても……」笑みが陰惨な翳を帯び、彼は急に大声で笑い出した。
「いやあ、実にタイミングが悪かったですな。現在、ホワイト夫人もビートル氏もこの町にはおられないことが判っています。つまりアレックス少年と同じく、条件の“相続権が生じた時点にフォックスヴィルに住んでいなければその権利は剥奪されるものとする”に該当し、おふたりともすでに資格を失っているのですよ」
そしてすばやく涼鹿の隣に移動すると、熱っぽく囁きかけた。「私はまだ諦めてはいない。結婚してください。妻になると約束してくれたら、私はレイヴン氏の違反を公表し、あなたを当主の座に導いてあげます」
抱きしめようとする。警戒していたおかげで、間一髪で腕の届く範囲から逃れた彼女は飛びのき、言い返した。「厭だと言ったら?」
「それなら黙っているだけです。財産は彼のものになり、あなたの手には入らない」
彼はまくしたてた。「よぉく考えなさい。財産に関与する道はこれしかないんですよ、ドリー・ルウ。バックス老の孫でも何でもない、ヘアーズ一族とは赤の他人のあなたがね!」
涼鹿の顔が強張る。パドルダックは語調を変えた。その穏やかさが彼女には爆弾の導火線を伝う火花のごとく不気味に響いた。
「ベンジャミン・ヘアーズはバックスの子ではない。妻のフロプシーが夫を裏切った。生まれたのは義弟のマクドナルド・ヴェリーとの間にできた、呪わしい罪の結晶だったのです」
「嘘!」
「本当です。なぜベンジャミンとピーターがああも瓜ふたつなのか、不思議に思わなかったのですか? 従兄弟同士にしても似すぎている。実は同じ父親の血を分けた異母兄弟だからと考えて、初めて筋が通ります。フロプシーとマクドナルドが関係を持つに至った経緯については不明ですが」
「信じないわ! 信じるもんですか、そんな穢らわしい話」涼鹿は耳を塞いだ。
だが心の奥底で、打ち消し難い、これは真実なのだという叫びがこだましていた。それを見透かしたようにパドルダックは嵩にかかって攻めてくる。
「ではDNA鑑定を受けたらいかがです。老人は生前、こうなることを見越して髪の一部を託していました。鑑定の結果、祖父と孫娘の関係が成立したなら、私は誤りを認めて潔く謝罪し、金輪際こんな話はいたしません」
涼鹿は返事ができなかった。弁護士はほくそ笑み、一気に間を詰めて迫ってきた。
「もっとも、老人はあなたには比較的好意を寄せていたらしい。遺言補足書まで用意していたくらいですからね。だったら、遠慮なく甘えたらいい。どうせなら丸ごと頂戴しようじゃないか」口ぶりが下卑た。「好きなだけ贅沢をさせてやる。だからおとなしく言うことをきいて、私のものになれ」
今度は逃げられなかった。手首を掴まれ、壁に押し付けられた。
その時、鋭い制止の声が飛んだ。「止めなさい。私の妻に何をする!」
愕然として振り返るパドルダック。その目に映ったのはまだごく若い東洋系の青年と、まともに自分に向けられた拳銃。彼は流暢な英語でしゃべった。「調査が充分でなかったようですね、弁護士さん。彼女はミセスですよ」そして涼鹿に手招きする。「おいで、ハニー。もう大丈夫だ」
言われるよりも早く涼鹿は拘束を振りほどき、青年の元へ駆け寄った。背後に隠れる。彼は彼女を叱った。
「君も軽率だぞ。分別が足りないから、こんな男に付け入る隙を与えるんだ」
いかにも主人然とした物言いに動転しながらも、パドルダックは何とか体勢を立て直すべく、反論を試みる。
「的涼鹿が既婚者? 人妻だと!? 馬鹿な! 苦し紛れに口からでまかせを言ってるんだろう!」
青年は首を振る。「いえ、中国で結婚しました。ゆえあって別居してはいますが、私が彼女の夫です」
「それなら、なぜ独身時代の名を使っているんだ」パドルダックは言い募った。「的は母方の姓じゃないか。まさか、スワニー・キャプランみたいなルーシー・ストーナーの一派だとでも!?」
青年は憫笑を浮かべた。「おや、ご存知ないとは。アメリカと違って、中国では女性は結婚しても姓が変わらないのですよ。中国名を名乗る限りにおいては、彼女は一生的涼鹿です」
パドルダックはぐっと詰まった。「貴様、いったい――」
「王平狸(ワン・ピンリー)。キング・インディゴ・グループの会長秘書を務めています」青年は深々とお辞儀をした。しかし起き直った時、その目に今までの穏やかさは無く、憤りの炎が燃えていた。
それから彼は冷静さをかなぐり捨て、怒気荒くドアを指差した。
「さあ、解ったらとっとと出て行ってもらおう! 二度と彼女の周りをうろつくな!」
パドルダックが退散し、充分に遠ざかったと見るや涼鹿はぱっと青年の背から飛びのいた。「これで二度目ね……あなたに助けられたの」おずおずと礼を言う。「――ありがとう。王平狸……さん」
「お気になさらずに、的涼鹿さん」彼はこともなげに答えた。「それより、間に合ってよかった。突入するのがあんなぎりぎりになってしまって、却って申し訳ない」
涼鹿は目を見開いた。「それじゃ、私を見張ってたの?」
「ええ」平狸は肯く。「理由は訊かないでください。今は話すつもりはありません」
「そんなこと言わないで!」彼女は抗議した。「お願い、教えて。FOXから守ってくれたのもあなたじゃない」
「じゃあ僕もお尋ねします。DNA鑑定を仄めかされて、答えられなかったのはどうしてですか」
またも押し黙る涼鹿。
平狸はふっとため息をついた。出口へ向かう。「どうやら僕とあなたの人生は、想像以上に複雑に絡み合っているようだ。それだけ、お伝えしておきましょう。では」
「待って!」涼鹿は後を追った。「キング・インディゴ・グループって――王藍って人の組織よね? あなたはそこの幹部なの? そして……やっぱり……」
「マフィアか、って?」平狸はみなまで言わせなかった。人差し指を唇に当てる。「悪いけどそれもノー・コメントです」
それから去り際にこう言い残した。「パドルダックのことなら心配要りません。調べれば、僕らが夫婦でないことはじきに知れるでしょう。ですが、そうなったらこちらは彼が利己的な動機で遺産の行方を操作せんとした事実を突きつけるまでです」小型の録音機を取り出す。
「一連の会話が記録されています。あなたには長い時間怖い思いをさせてしまいました。けれども、証拠たりうる言質をとる前に、彼を制圧するわけにはいかなかったのです。失礼なことも申し上げました。お赦しください」
青年が去った後のドアを見つめながら、涼鹿は彼と初めて出会った晩のことを思い出す。
『ア・サウザンド・アイズ』の薄暗い廊下で、何者かに頭を強打されて意識を失った。誰かが――ローズに似ていたような――「FOX!」と叫ぶ声で我に返ると、地べたに寝ていた。すぐ傍で激しく争う物音。薄目を開けて様子を窺うと、大男が誰かと取っ組み合っている。覆面のおかげで相手の人相は判らない。そのうち、うめき声とともに大男が倒れた。FOXが近寄ってくる。屈みこんだ。次は私の番だ! 彼女は再び気が遠くなりかけた。
その時、誰かが勢いよく駆けつける足音が聞こえた。邪魔者に慌てて身を翻すFOXの背中が霞んだ目にちらりと映った。
揺り起こされると、見知らぬ若い男の気づかわしげな顔が目の前にあった。悲鳴を上げかける彼女を制し、中国語で説明する。曲者は逃げた、もう心配はいらないと。しかし彼は彼女を元どおり横たえると立ち上がった。人が来る。このまま気絶したふりをしていてくれ、それから自分のことは誰にも言わないように。そして再び風のように去った。
男がいた場所に、彼のものと思われる落し物があった。涼鹿はやっとのことで拾いあげてポシェットにしまい込むと、力尽きてぐったりのびた。アイザックが現場に到着したのはその直後だった。
あの青年――王平狸が果たして味方なのか、まだよく判らない。物腰は穏やかだし、立ち居振る舞いもそつがない。けれど全てが彼女を欺く罠ということもありうる。先刻の、妻に無礼を働いた男に色をなす夫の演技は、実に堂に入ったものだった。あの晩の彼も、そういった“仮面”のひとつに過ぎなかったのではないか。でも、敵だとしたら、何のために私を助けたりするのだろう?
そこへハリエットがいきなり戻ってきて、涼鹿の白昼夢は破られた。家主は非常に興奮していた。「ちょっと、大変よ大変! 重大ニュース! 一大事!!」
面食らう涼鹿。「どうしたの? そんな大声を上げて」
「これが大声を出さずにいられますかって」ハリエットは新聞紙を差し示し、せわしなく何度も指で叩いた。「読んでみなさいよ」
受け取って、涼鹿も目を見張る。「そんな!」
それはフォックスヴィル・ジャーナルの号外で、去る7月10日、ボストンの病院においてアレックス・フォックスの手術が、クロノ・レイヴンの立会いの下無事執り行われたと写真入りで素っ破抜いていた。
3
同じ頃、ぽんぽこ山を捜索中のデス署長の元にも、さまざまな報告が矢継ぎ早に寄せられていた。
キーリーンの行方は未だ掴めない。それどころか、とんでもないものが飛び出した。「廃坑付近の盛土から男の腐乱死体だと……?」
「はあ。埋めてあったのが地震で掘り出された格好です」とトロンボーン刑事。「となるとこいつは自然死じゃありませんね。事故――いや、他殺」しきりに屈伸運動をする。これが奮い立った時の癖なのである。
「そう決め付けるのは早計だぜ。行き倒れかも」語呂合わせが3度の食事より好きなチューバ刑事が、野太い声で割り込んだ。「葬儀を面倒くさがった奴が運んできた。死体なんて、誰だって手っ取り早く厄介払いしたいさ」
トロンボーンは口を尖らす。「それなら、そのままほっときゃいいだろうが。こんな人里離れた山の中、誰に見咎められるわけじゃなし」
「いや」にんまり笑うチューバ。「モノがホトケだけに、ほっとけなかったんだろうよ」
「やめろ、漫才コンビ」デスは一喝して黙らせた。「どこで死んだかも判らんのに、運んだもほっとくもあるか。とにかく、すぐ検死に回せ」
トロンボーンとチューバはおとなしく従った。
そこへコントラバス刑事が息せき切ってやってきた。「署長! キーリーン・ホワイトの所在が判明しました!」
「どこだ?」色めきたつデス。だが、部下の返事は意外きわまるものだった。「なに、ボストン!?」
「はい、向こうの警察から署に入った連絡によりますと、今朝方病院に担ぎ込まれた女性がいまして、どうやらキーリーンに間違いない模様です」
「他州じゃないか。何でそんなところにいたんだ!?」
「それが、意識不明で事情聴取はまだなんです。匿名の通報で巡査が駆けつけると、駐車禁止の場所にトヨタが1台放置されていて、その後部座席の床に彼女が倒れていたのだとか。手荷物がそのまま残っていたので身元はすぐ判明しました。ですが、どうやら麻薬を射たれてるらしく、容態についてはまだ何とも……」
「うーむ」署長は腕組みして唸った。
様相が一変してしまった。トヨタはキーリーンの車ではない。彼女が所有しているのはインパラだ。彼女は何らかの意図をもってぽんぽこ山に出かけ、運悪く遭難したものと考えていたのだが、こうなると犯罪に巻き込まれた可能性も否定できない。
しかし、仮に誘拐されたとして目当ては何だ? 身代金が要求された形跡はない。殺害が動機なら身元が特定できないようにしておくだろう。どういうつもりなんだ。人違いならその場で釈放できたはずだ。失敗だったのか? いや、むしろ入念に仕組まれた作為を感じる。いずれにしろキーリーンが曲りなりにもすでに自由の身だということは、目的は達成されたということか。とにかく、ヘアーズ家には伝えておくか……
その時、傍らで無線を操作していたナトキンが大声をあげ、デスに向き直った。「署長! 町は大騒ぎです。クロノが当主の座を追われることになったって……! 奴さんの違反行為が新聞にスクープされたんです!」
デスは叫んだ。「それだ!」
キーリーンが拉致され、フォックスヴィルから遠く離れた場所で早々に発見された理由がようやく判った。クロノの資格喪失の際に、彼女に権利が渡らないようにするためだったのか!
雷鳴のような命令が轟いた。「アイザック・ビートルの所在を確認しろ!!」
ヘアーズ邸はまさに激震に見舞われていた。ひっきりなしに鳴り響く取材申し込みの電話のベル。執事のコリンズが対応に追われ、メイドたちが気まずそうに遠巻きにする中、号外を読んだマーサが、ハリエットが駆けつける。リヨは突然のクロノの失脚に動転し、ジェニファーの手に縋りつきながらそっと彼の顔色を盗み見た。けれどもクロノは相変わらず平然としている。蚊が食ったほどにも感じていないらしい。
「よう、元当主どの! どうだい、今の気分は?」執務中にも関わらず、嬉々として町長がやってきた。無視を決め込むクロノ。ヴェリーは至極ご満悦であたりを見回し、ふと怪訝な顔になる。「あれ……?」
「キーリーンなら、行方不明よ。夕べは家にも戻ってないらしいわ」とハリエット。「今、捜索隊が出てる」
「なに!? じゃあ……」
ヴェリーは絶句した。てっきりキーリーンが受け継ぐものとひとり合点してやってきたが、万一彼女も失格となったら……またも手詰まりだ。何しろ次はアイザックである。逆立ちしたって男とは結婚できない。
クロノが薄笑いを浮かべた。
マーサは初耳らしく、驚いてハリエットを質問攻めにする。そんな彼らを見ながら涼鹿は、いったい誰が情報をリークしたのか必死に考えていた。
パドルダックではありえない。確かにクロノが規則を破ったことも、キーリーンが権利を失うだろうということも知っていた。だが、彼にとってそれは涼鹿を籠絡するための切り札だったはずだ。平狸の登場で負けを認め、賭けを降りたのではない。号外が刷られたからには、新聞社が情報を掴んだのは、弁護士が彼女を訪問するよりずっと前だ。収穫もないうちから第三者に漏らすわけがない。では誰が……
アイザックか? クロノとキーリーンが同時に消えれば、恩恵に与るのは彼だ。しかしパドルダックは、アイザック自身も排除されたと言っていた。現にこの場に来ていない。じゃあ……
そこまで考えて戦慄が走った。
彼女のために働こうとするほど愛してくれる人物は、知る限りではひとりしかいない。
アイザックの事務所に部下らを急行させたデスが署に戻ると、面会者が待っていると告げられた。来客の顔を見た彼は首を傾げた。「あなたは確か……的涼鹿の病室でお見かけした」
「ボー・ラムメル私立探偵社のヴァネッサ・ホーン・メイスンです。ヴァンとお呼びください」彼女はそう名乗って、名刺を差し出した。「アポも取らずに押しかけたことをお詫びします。ですが、一連の事件に関して判明したある事実について、お知らせしようと思いまして」
デスは少なからず驚いた。「しかし、それはあなたの立場上まずいのでは」
「ええ、守秘義務違反に問われることになるでしょう。間接的に私の依頼人の利益も損なう恐れがあります。けれども、殺人の動機がバックス・ヘアーズの遺産にまつわる確執だとすれば、このことが解明の鍵となる可能性は高いと思われます。どうしても必要にならない限りは公表しないという前提でなら、お話いたしましょう。これ以上の惨事を防ぐためにも」
「解りました。お約束いたします」
デスの宣誓にヴァンは頷き、厳かに口火を切った。「的涼鹿はバックスの孫ではありません。本当の孫は別の人物です。それが誰かも、今では判っています」
半ば予想していたことだったが、はっきり告げられると、やはり気持ちは揺れ動いた。デスは瞑目した。涼鹿が偽者――相続人に成り済まして、我々を欺いていたというのか。とてもそんな腹黒い娘には見えなかったが。いや、とにかく話を聞こう。「で、その本当の孫とは誰を指すのです」
それに対して返されたヴァンの語り口は平静だった。しかし、まるで爆弾が炸裂したかのような衝撃を与えた。「ローズ・ダイヤモンドです」
「そんなばかな!」
叫ぶまで、デスはそれが自分の口から発せられたものとは気づかなかった。どもりながら連発する。「つまり、ローズがベンジャミンの娘だと!? ありえない! 年が合わない。彼が16歳の時に生まれた子供ってことになるじゃないか」
けれど女探偵は首を真横に振る。「そういう意味とは違います」
ようやく彼にも事情が呑みこめてきた。「ベンジャミンとは無関係なんだな。そして涼鹿は孫娘じゃない。ということは――」
「はい。ベンジャミンの娘がローズなのではなく、彼女の父親ジミーがバックスの息子だったのです」
4
かつて3人の若者がいた。ひとりの女とふたりの男。娘の名はジェシカ・グレープ。やがて青年のひとり、バックスの弟バーニーの妻になった。一方、兄のバックスは弟の結婚後もなかなか家庭を持とうとはしなかった。
「3人の仲が、実際はどのようなものだったかは推測するしかありません。バックスが横恋慕したか、ジェシカが兄弟を両天秤にかけていたか、バーニーが妻に飽きたのか……どれも想像の域を出ません。しかし、肝心なのはジェシカが義兄の子を宿したという事実です。そして生まれたのがジミー・ヘアーズでした」
「証拠は!?」デスが唸る。
「ふたつあります」とヴァン。「まずは、ジミーの素性を知ったフロプシーが、自分も不義の子を産むことによって夫に復讐したこと。ジェシカはジミーを産んでからは健康が優れず、半年後に亡くなりました。それから5年ほど経ってバックスはフロプシーを妻に迎えたのですが、ある日彼女は夫と甥の隠された絆に気づいたのです。
もしこれがただの隠し子だったなら、結婚前のことでもあるし、彼女も大目に見たかもしれません。ですが産んだのは有夫の婦人で、しかも彼の義妹なのです。神聖な夫婦の誓いを破ったふたりを赦すことはできませんでした。さらに女の直感とでも申しましょうか、彼女はジミーの健康に何らかの欠陥が潜んでいることを見抜いていました。それが夫の血によってもたらされたものだということも。
事実、ローズの息子ジミー・ジュニアは現在W・W病に罹っています。これがふたつ目の根拠です」
デスは眩暈を覚えた。やがてのろのろと呟く。「どうして判ったんだ? こんなことが」
ヴァンは答えた。「事の始まりは、ベンジャミン・ヘアーズが子供を作れなかった、したがって的涼鹿の父親になれるはずがないという噂の確認でした。私は特別許可を得て、彼の誕生から結婚までの病院記録を調べました。その結果、21歳で耳下腺炎により重篤な後遺症を被った彼が、16歳の時点で精子バンクに登録していた事実を確認し、さらにその過程で彼が生まれる際に立ち会った看護婦を見つけたのです。相当な高齢になっていましたが、彼女は担当患者の打ち明け話を逐一覚えていました。
フロプシーはこう語ったそうです。万一自分がお産で死んだら、夫に伝えてくれ。この子はあなたの子じゃない――あなたの仇敵、マクドナルドが本当の父親だと。
私が欲しいのは健やかな子供。この子の身体には、忌まわしい病血など一滴だって流れて欲しくない。でも不貞の結果生まれた赤ん坊でも、もはや切り捨てるわけにはいかない。正妻が産んだ以上、わが子として扱わねばならないのだ。因果応報、世間体ばかり気にする夫へのこれが復讐――しかし、この話は看護婦の胸のうちに秘められたまま、今日まで封印されてきました」
「ベンジャミンが、無事に生まれてきたからだな」
「ええ。看護婦は何の罪もない坊やの将来を慮って、出生云々については一言もしゃべらなかったのだそうです。フロプシーもその後は口を閉ざしていました。彼女にしても、本当に夫の子でないとは断定できなかったでしょうし、今後は息子に財産をそっくり継がせることが、第二の復讐だと考えたのかもしれません」
デスは何も言えず、ただただ宙を凝視した。
フロプシーはピーターの肩を持つことが多かったが、息子によく似た面差しの甥だからと言うより、実は愛人の子だからか。それにジミーが遠い日本に憧れ、早くに親元を離れたのだって、ひとつは周囲の人間関係に疲れたからではなかろうか。「何てこった――彼が殺されなかったら、あるいは……」
もっと早く、バックスの長男であると証明されたかもしれない。何よりも動かしがたい、遺伝病の発症によって。それからはっとして問い質す。「息子の素性について、バックスは真相を知っていたのだろうか。あと、本人も」
ヴァンはかぶりを振る。「薄々は感づいていたでしょう。実際にバックスとフロプシーは仲睦まじくなかったという話も聞きます。ただしベンジャミンに限っては、思春期に父親の勧めで精子バンクに登録しています。結果的にそれが救済になったことを考えると、事情がどうあれバックスが彼を跡取りにするつもりだったのは間違いなさそうです。当時ジミーが家を出てしまって、消息が途絶えていたことも理由になったとは思いますが」
「そうか……」彼は再び考え込んだ。
バックスが涼鹿にだけ補足書を残したのは、それが理由だった可能性がある。正妻が産んだ男子の娘。本当に孫なら、たとえ家督は譲れなくても、財産の一部は遺してやろうと思ったのか。もっとも、DNA鑑定を持ち出した点に、彼の割り切れなさが現れているような気はするが。
「つまり、涼鹿は表向きの孫だったんだな。本当の孫はローズ。ジミー・ジュニアは曾孫に当たるわけだ」
その時、デスは愕然として叫んだ。
「ちょっと待て! だったらバックスは最初から全部承知していたんじゃないか。なのに彼はローズを低く見積もった。素性の不確かな涼鹿よりも……」
「私は、そこに犯行の動機があるものと考えます」ヴァンが静かに言い添えた。デスはまたしても言葉を失った。
そこへナトキンが現れた。「報告します。アイザック・ビートルの身柄を拘束しました」
色めきたつデス。「キーリーンの拉致誘拐を認めたのか?」
「いえ、現時点では警官襲撃及び公務執行妨害の現行犯による逮捕です。ですが……」彼は声を潜める。思えばこの日何度目の爆弾発言だったろう?
「実はどうも、バックスの爺さんが死んだのは奴のせいだったようなんで」
デスは吹っ飛んだ。
重要参考人は取調室の硬い椅子の上で臍を噛んでいた。「早まった」と、そればかりを何度も繰り返しながら。
ナトキンの報告はざっと次のようなものだった。署長命令で事務所へ駆けつけたが、肝心のアイザックは留守。どこへ出かけたのか、いつからいないのか、隣近所に尋ねても雲を掴むようでさっぱり要領を得ない。そのうち誰かが思い出したように言った。「そういや、夕べ遅くに車の音がしたな。あれ、もしかして奴じゃないのか」
キーリーンの失踪と何か関係があるのかもしれない。彼はそう判断し、張り込もうとしたところに当の本人がひょっこりと現れた。どうやら出かけていたのは事実らしい。それを裏づけるように、手には旅行カバンが力なくぶら下がり、衣服は着崩れ、疲れきった表情で目を瞬いている。
「どうしたんすか」彼は怪訝そうに問いかけてきた。
本来ならそれに答えず、不在の理由を尋ねるべきだったがあまりに相手の素振りがさりげなく、ナトキンはつい口を滑らせた。「たった今判ったんだが、キーリーンを陥れる策謀があった……」
ところが、言い終わらないうちに情勢が逆転する。アイザックの態度が豹変した。
「いきなりカバンを振り回して暴れだし、逃亡を図ったのでその場で取り押さえました」できたばかりの瞼の青痣を撫でながらナトキンは忌々しげに吐き捨てた。
「それでバックスの死亡云々はどうなった」先を促すデス。ナトキンは頷き、話を続ける。
多勢に無勢、アイザックはたちまち警官たちに引き倒され、組み伏せられた。腕を後ろへ回されながら絶叫する。「事故だ! あれは事故だ、俺が悪いんじゃない!」
「でたらめを言うな」顔を押さえながら怒鳴り返すナトキン。カバンの角がもろに直撃したのだ。「麻薬を射っておいて、何が事故だ!? 立派な傷害罪だ、いや」苦し紛れに探偵が蹴り飛ばした靴を間一髪でかわす。「万一、彼女が死んだら殺人だぞ!」
アイザックは聞いていない。食いしばった歯から自己弁護が漏れる。「俺が殺したわけじゃ……え!?」またも事態が急変した。ぴたりともがくのを止め、恐る恐る顔を上げるアイザック。「彼女って……?」
彼を羽交い絞めにしているファゴットが嘲笑した。「キーリーン・ホワイトさ。決まってるじゃないか」
「キーリーン? ばかな! 俺はキーリーンには指一本触れちゃいないぞ!!」アイザックはわめき返し、そしてはっとしたように口をつぐんだ。瞬間、ナトキンも悟った。だんまりを決め込む被疑者の傍らにしゃがみ、重ねて問う。「それじゃ、誰を手にかけたんだ?」
沈黙を意に介さず続ける。「“彼女”じゃないってことは男だな。最近死んだ男と言えばヨッシュとアルバトロスと、町長宅の名無しの権兵衛……だが、さっきの様子だとキーリーンが絡んでいるらしい。てことは」顔色が変わる。「ヨッシュか! おまえがヨッシュを殺したのか。背後から刺し殺し、首を斧で斬り落として……」
「違う!」
アイザックは悲鳴を上げ、必死に打ち消した。動転のあまり黙秘権の行使にまで考えが至らないらしい。「ヨッシュじゃない。そんなことはしちゃいない。俺に罪があるとしたら……バックスだ」
「なに、バックス!?」
意外な返答にナトキンは虚を突かれた。そこでやっと自分を取り戻したアイザックは自らの権利を思い出して再び貝のごとく黙りこくり、かくして連行されてきたのである。
5
夜がまたやってきた。デスは帰宅もかなわず、署長室で頭を抱えていた。
「FOXだけでも手一杯なのに、キーリーンは嵌められるし、アイザックはバックス殺しを仄めかす。おまけにぽんぽこ山の腐乱死体ときた。くそっ、正体不明の死体がこれでふたつか。この10年というもの、殺人事件なんて考えられなかった平和な町だってのに!」
何だってこう立て続けに面倒ばかり起こるんだ? まるで自分を狙い撃ちしているかのようだ……そこへ電話が鳴る。
キーリーンの護衛としてボストンの病院に派遣している婦警のヴィオラからの定時報告だろうか。期待に満ちて受話器を取ったデスはたちまち苦虫を噛み潰した。「チーフ(署長)かい」
「それを言うならミスチーフ(迷惑)だ」
俺はとことんツキに見放されているらしい、よりによってポッター夫人だ。自宅に張り込んでいるシープに夕食を振舞ったが、その費用は警察で出してくれるのかと。
デスは無愛想に了解した。だが老婆はなかなか話を終えようとしない。案の定、いちばん触れて欲しくない話題を持ち出してきた。「ところでヘアーズ家なんだけど。今日3人も権利を失ったって、ホントかい!?」
もう噂が広まっているのか。彼は噛み付いた。「それと婆さんと何の関係があるんだ」
「いやさ、だったらあの中国人の子が当主になるんだろ? なら屋敷で雇ってもらえないかと思って……」
その方が安全だとか、生活の心配もいらないなどと言いかけるのを、それ以上取り合わずに通話を断ち切る。ええい、忌々しい。俺はもう寝るぞ。
しかし間を置かず再び呼び出しのベル。一瞬躊躇ったが、幸い今度はヴィオラだった。それによるとキーリーンは危険な状態を脱し、回復に向かっている。意識が戻ればフォックスヴィルへ移送も可能だそうだ。デスは相手を労うと、再び受話器を置いた。その時、ぼんやりとローズのことが頭をよぎった。彼女も昨日入院したとクロノが言っていたっけ。ジミーのW・W病発症にショックを受けて……
ジミー……呪われた血を引くバックスの曾孫――
そしてもうひとりの顔を思い浮かべる。言わば表向きの孫娘、本当は血など繋がっていない、されど資格上位者の相次ぐ脱落で、今や莫大な財産を一手に握るチャンスを与えられた人物。
デスは呟いた。「……的涼鹿か?」
その涼鹿は、キャプラン家を出てホテル・マンキーに移っていた。ハリエットに今朝方の一件を打ち明け、いつまた嫌がらせをしかけてくるか判らないパドルダックを避けるためだと説明して。ハリエットはあっさり承知した。それからごく自然に付け足した。
「近いうち、あたしもこの家を出るかもしれないわ。あなたもそのつもりでいてね」
同じ頃、ボストンでもパドルダックが電話に出ていた。「おや、これはこれは……クロノ・レイヴンさま」
クロノは単刀直入に用件を切り出した。「この屋敷を出ていいか。面倒な話は全部そっちに任す。とにかく俺は実家に戻る」
「それはご自由ですが、とりあえず25日まではお住まいになっていてもよろしいのですよ?」
「構わん。で、後釜は誰になるんだ」
やや間があく。やがて歯切れも悪く答えが返ってきた。「……的涼鹿嬢……いえ、的涼鹿さまです」いかにもいやいや口にしている様子が目に浮かぶ。「もちろん、承諾なさったと仮定してですが」
すかさずクロノは突っ込んだ。「ほう、キーリーンとアイザックを自信持って外したな。どういうわけだ?」
弁護士は明らかに虚を突かれ、言葉を濁した。「いえ、あの……ホワイト夫人に関しましては、病院から連絡が……ビートル氏の方は、実はその」
「まあいい」無造作に遮る。「いずれにせよ、俺は明日にでもここを離れるからそのつもりでな」そう伝え終えると受話器を置いた。
そして呟く。「第8位まで来たか……」
6
アイザックがようやく重い口を開いたのは、翌23日も昼近くになってからだった。
「嘘じゃない。俺は本当に、キーリーンのことは何も知らないんだ。頼むから信じてくれよ」ほとんど哀願である。
「だけどバックスについてはそうじゃないんだろ?」とデス。
アイザックは俯いた。「あれだって……」
「まあとにかく、夕べの行動から話せ」デスは尋問に入った。アイザックはのろのろとしゃべりだした。「8時過ぎに電話で仕事の依頼があったんで、引き受けた。近頃は注文もさっぱりだから」
追求の手を緩めず先を促す。「それで相手は誰で、どんな仕事だったんだ?」
「ニューヨーク中心の任務だって以外、詳しくは聞いてない。極秘につき直接会うまでは話せないとさ。到着しだい説明するからって言うんで、明日朝一番で行くと返事して、急ぎジャンクション駅へ向かったんだよ。でも……」言葉を切り、「本当に真実なんだからな」と再び前置きして続けた。「実は途中で引き返してきたんだ」
デスの片眉が上がる。その表情を見てアイザックは慌てて言葉を継ぎ足した。何とか納得してもらわねば。「やっぱ仕事の中身がはっきりしないと、胡散臭くてどうも落ち着かなくてさ、列車の中であれこれ考えてたんだ。そのうち、依頼主の声にどうも聞き覚えがあったような気がしてきて――でも思い出せずにいたら……」
どこかの駅に差し掛かった時、運転手が操縦を誤って停止線を越えてしまったらしい。ガタンと急ブレーキ。その反動で、いつしか舟を漕いでいたアイザックは背もたれに身をぶつけて目覚め、漠然と思った。今の感じ、何かに似てる……ああそうだ、振りほどかれて壁に叩きつけられた、あの時の……
その瞬間、解答に辿り着いた。「……ローズの旦那だったんだよ」
「何だと! ハリー・ダイヤモンドか!?」デスは叫んだ。
アイザックは肯く。「間違いない。この手の記憶力には自信があるんだ。声を聞いたのは一度きりだが、確かにいつぞやジミーを連れて行こうとしてローズに投げ飛ばされた、あの時の男だった。台詞まで一緒だった」目を閉じ、唱える。「『都会でひと旗揚げちゃどうかね? ちんけな町なぞさっさと追んでて……』」
脱獄囚の捨て台詞が鮮やかに甦る。“来るんだ、ジミー! どうせ、遺産はもらえないんだ。こんなちんけな町はさっさと追ん出るんだ!”――それが相手の申し出に不審を抱いたそもそもの理由だったのだ。
アイザックはここ一番とばかり弁解に拍車をかけた。「だからさ、罠にかけられたってんなら俺も同じだよ。いくら何でも、あのやくざな亭主が絡んでたらまともな話なわけないだろ? それで次の駅で降りてホテルに泊まった。余計な金使っちまったぜ。癪だからぎりぎりまでいて、それから戻った。第一」彼は指摘する。「キーリーンを蹴落としてのし上がろうって腹なら、自分も町を離れたりするか?」
「同様に被害者を装うためとも考えられる」とデス。
「それでも、俺だったら当日は避けるぞ。同じ理由でこっちまで弾かれたら元も子もないからな。それにキーリーンがいなくなったのは俺の出発より前だろ? その間のアリバイは証明できるから、少なくとも実行犯は俺じゃない。となるとわざわざ手下を使ってる俺が、彼女の失格が公にならないうちになぜ戻ってこなかった?」
デスは唸り、腕組みをして相手の言い分を吟味してみた。
やがて、「連絡を取り合わないわけはないからな。ボストンとニューヨークじゃ、まるっきり方角が違うからなおさらだし」と独りごち、さらに確かめる。「念のため聞くが、そのことを証明してくれる第三者はいるのか? ホテルの領収書は?」
アイザックはすらすらと答えた。「すぐ出せる。確認してみてくれ。あとは……そうだ、パドルダックがいる」
「ふむ? いつ、どこで会った?」
「いや、夕べ駅のホームにいるのを車窓から見かけたんだ。ベンチで新聞を読んでいたよ。時々顔を上げたんですぐ判った。出発間際だったんで声はかけてないが、服装とかも覚えてるから訊いてもらえれば……」
「よし」デスは頷き、再び調書に手を伸ばした。「じゃ次はバックスの件だ。包み隠さずしゃべれ」
アイザックは再びがっくりと肩を落とした。「ああ。だから信じてくれよな」
そこへナトキンが入ってきて、デスに何事か耳打ちした。とたんに顔色が変わる。「待て、アイザック」
デスは供述し始めた相手を押しとどめ、立ち上がった。「続きは彼に話してもらおう。ナトキン、よろしく頼む」そして慌しく飛び出すと、脱兎のごとき勢いでヘアーズ記念病院へ飛んでいった。
病院前。押っ取り刀で駆けつけたデスをソールが直々に出迎えた。「クロノが引越しで忙しいから、代わりにアタシが」そのまま連れ立って足早に急ぎながら事の次第を説明する。
「『ア・サウザンド・アイズ』の支配人のJ・J・ヤクが泡食ってやってきたの。入院中のローズの具合が知りたいんだってさ。何でも今夜出演予定の、“パール・ポラリスとハート・クァルテット”がポシャっちゃったとか」
最年少メンバーでピアニストのジュンが、電話でしどろもどろに話した内容を要約すれば、グループ崩壊の経緯は次のようなものだった。
忍冬の歌姫パールとバンドの人気を二分するサックスプレーヤーのエルが、突如手に手を取って駆け落ちしてしまったという。すでにイタリアにまで行き着いていて、二度と戻ってこないつもりらしい。
「もうそれでリッチーもトムもパニックなんすよ」日系の少年はべそをかいた。「リッチーは『あいつは昔は女になど目もくれんまともな奴だったのに』とか何とか呟くばっかで、弦張り間違えてるのにも気ぃつかへんし、トムはトムで頭から湯気たてて、シンバル叩き割るやらバスドラ蹴破るやら、片っ端から周りのもの壊しまくって……」
もはやブロークン・ハート・クァルテットですわ、と大きく嘆息してジュンは話を締め括った。
「で、忍冬がダメなら薔薇じゃどーだってんで、容態が許すならローズにトラ(代役)を頼みたいってのがJ・Jの用件なんだけど」とソール。「それどころじゃないわよね」
「おそらくな」言い捨てて、デスは病室へ踏み入った。
ローズがベッドに起き上がって、ぼんやり外を眺めていた。向き直る。相手を認めて大きく見開いた両眼から、涙がどっとあふれ出る。
「ああ、やっと来てくれた」
彼女は縋りついて訴えた。「私が悪いの。何もかも告白します。だから涼鹿にとりなして」
クロノは荷造り作業の真っ最中だった。と言っても、持ち出すものはそれほど多くない。サイドボードに手を伸ばし、ビデオカセットを手に取る。ふと、苦笑が漏れる。
そのまましまいこもうとして、何気なく顔を上げると、リヨが戸口に立っていた。「何か用か」
リヨは答えない。その視線の先を追ったクロノは手元の品を掲げてみせた。「そ言や、おまえたちこれ見たんだよな、俺の留守中に」こっくりする相手に放る。「やるよ」
反射的に受け止めた彼女はおずおずと中へ入ってきた。「これ、要するに何だったの。先生は意味が解ったって言ってたけど」
「作らせたのは爺さんだ。中に暗号が隠されている。誰ぞに命を脅かされていると考えていたらしい。だがな」彼は釘を刺す。「爺さんがそう信じていたからって、真実とは限らない。そこらへんは弁えとけよ」
リヨは頷き、重ねて質問した。「それと、これからのことなんだけど、私たちはどうすれば……?」
「だったら俺じゃなくて涼鹿に訊くんだな。次の当主はあいつらしいぜ」
「本当?」初耳と見えて彼女の目が真ん丸くなる。「じゃ、キーリーンやアイザックはどうしちゃったの」
クロノは鼻を鳴らした。「知らん。だけどパドルダックから聞いた限りじゃ、順番は涼鹿のところまで来ているそうだ。今後のことは直接そっちと相談しろ。涼鹿がおまえらに対してどう出てくるかは判らんが、少なくとも今すぐ追っ払おうとはするまい。
仮に彼女が相続しなくても、その場合はローズに権利が移るから心配は要らんと思うがね」
そう言って、改めて相手を見やったクロノはぽかんと口を開けた。てっきり安堵して晴れやかになるかと思ったのに、リヨの表情は相変わらず曇ったままである。
「どうした? 手放しじゃ喜べないって顔だぞ、まだ気になることがあるのか」
「え? う――ううん、そんなことないよ」少女はくるりと踵を返した。「ありがとう、解った。ここにいてもいいのね。ジェニファーにも教えてやらなくっちゃ」言い終えるを待たずに駆け出していく。その背中に向かって彼は補足した。
「25日まではな。俺はもう帰るが、それまでは猶予期間で権利があるらしい。おまえに譲るから、涼鹿が四の五の言うようだったら逆ねじを食わしてやれ」
だが聞こえなかったのか、リヨは振り向かずに走り去った。クロノは呟いた。
「――急いだんじゃない。ありゃ逃げたんだ」
でも、何から? あるいは誰から?
7
午後6時。デス署長はボストンの弁護士事務所で、パドルダックをじっと待ちながら、激動の半日を思い返していた。
まず、重い心で病院から戻ったこと。署長室の椅子にどさりと身を投げ出し、天井を見上げる。「まさか、ローズまでもがあんな告白をするとは……」
ショックだった。父親のジミー・シニアがバックスの隠し子であり、従って自分がバックスの孫であることを、彼女はちゃんと認識していたのである。
「母のミヤコが亡くなる前、あの形見の小箱とともに言い遺したの」すすり泣きながらローズは打ち明けた。
「おまえのお父さんは、本当はアメリカの富豪の息子で、莫大な財産を相続する資格があるんだって――正当な継承権とは呼べないとしても、とにかく、請求するだけの根拠はあるんだと……だから自分の死後は、フォックスヴィルのバックス・ヘアーズを頼るようにと、そればかりを繰り返して、亡くなったわ。
だけど私は気が進まなかった。父の権利とやらが薄弱なことは母の口ぶりからも判ったし、会ったこともない人たちのところへ、お金の用件だけで訪ねていくなんて。幸い、すぐに歌手デヴューが決まったから、父の実家を当てにしなくても大丈夫だと思ってた。実際、何とか食べてはいけた。かつかつだったけど。
ところがマフィアに付け狙われ、その上ジミーがあんな身体で生まれてきて、意地を張るのもとうとう限界になって、それでこの町に来たのよ。でも相手にしてもらえなかった。バックスにしてみれば、若い頃のツケが回ってきたようなものだから当然かもしれないけど……」
「爺さんは何て言ったんだ」
「何も。私が40年前、日本へ渡ったジミーの娘だということはどうにか納得してくれた。だけど彼にとってはただの貧乏な親戚。厄介者以上でも以下でもなかったわ。飢え死にしない程度の援助が関の山。それも、ほっとけばあの人自身の体面が傷つくから――ましてや、ジミーの手術代なんてとてもとても」ローズの嗚咽が激しくなった。「何という皮肉! こんな形で曾祖父と曾孫の関係が立証されるなんて」
それから彼女は支離滅裂になってあれこれまくしたてた。
涼鹿が憎らしかった。私費で留学できるだけでも結構な身分なのに、母親が故郷に健在で、町にも味方がいて。彼女だって素性は怪しいというではないか。孫だとするなら長男の娘の自分の方がよほど権利があるのに、同じようにふらっとやってきて、なのに順位は向こうが上! 妬ましい。赦せない。それにあの娘は得体の知れないところがある。マフィアの一員に違いない。危険だ。ジミーに近づけてなるものか。だから――
デスは呆然と立ちつくした。ローズの激白に思考がついていかない。どこまで耳に入ったか……しかし、落ち着く先はひとつだけだった。他には解釈のしようがない、唯一の結論だった。
「謝れって言うならいくらでも謝る。どんなことしてでも償う。だから、ジミーだけは助けて……まだたったの12歳なのよ。あの子には何の罪も落ち度もないんだから。お願いよ……」
承知したと伝えるのが精一杯だった。突っ伏して身を震わせる彼女を置き去りに、彼はそそくさと病室を出た。これからどうするか、いや、しなくてはならないことは重々承知しているのだが――署に戻るまでそれが片時も頭を離れなかった。
次に部下のナトキンからもたらされた、バックスの死の状況に関するアイザックの供述。遺産の行方を左右する大きな鍵だ。デスはこれは関係者全員が知るべきと考え、一同を集めて発表する考えを固めた。不審死と言えば、ぽんぽこ山の死体も司法解剖が終わり、鑑識結果が出された。40歳代の白人男性で死後約2〜3ヶ月、腹部を刃物で一突きされたことによる失血死と推定。また身長、体重、髪と瞳の色のほか、非常に大きな特徴があることも判明した。左の中指と薬指の骨が癒着して、太く短い1本の棒状になっているのである。言い換えれば9本指の男なのだった。しかもそれでいて指輪を嵌めていた形跡も残っていた。鑑識はどよめいた。もしこの指輪の製造元が判れば、死体の身元も突き止められるかもしれない! さっそく照会文書が交付され、同時に発見された一連の証拠品情報とともに各地の警察へと送られた。
さらにキーリーンが病院に収容されるきっかけになった匿名の電話。まだ通報者は掴めていないが、男の声だったそうだ。
「それと、クロノの資格喪失を素っ破抜いた記事の件。何とかニュースソースを聞き出しました。これもタレコミ電話だったとか」
「ふむ。当然そのふたつは関係があるな。同じ人間がかけた可能性もあるぞ」
「いや」ナトキンは否定した。「そうではなさそうです。フォックスヴィル・ジャーナル社にかかった方は、どうも女ではないかと思われる節が」
「何?」
「記事を書いたアルフレッド・ウォルラス記者の証言です。通話が短かったので断言はできないが、女言葉だったと。証拠なら私書箱宛に写真を郵送したからと、それだけ。早速中を改めてみるとそのとおりで、ボストンの病院にいるクロノが鮮明に写っていました。手術を担当したシド・コーラル医師に確認したところ、日時・場所ともに裏付けが取れたので発表に踏み切ったそうです」
「ふーむ」デスは唸った。
タイミングから考えて、何者であれその男女が協力――あるいは共謀――しているのは疑えない。バックスの遺産に利害関係を持っている点も、同じように確かだろう。さらに、その結果的涼鹿が断然有利になっている。とすると……
「ハリエット・キャプランとロビン・コックリルか?」
だが、もしあのふたりの仕業だとすると、アイザックを誘き出したハリー・ダイヤモンドとはどう繋がってくるのだろう? 3人の共犯か? とにかく写真が撮影された10日と、キーリーンが消えた21日のロビンのアリバイを調べさせよう。コーラルという医者にも会う必要がある。彼はさらに指示を下すと、再び署を後にここへ来たのだった。
その時、パドルダックがようやく現れて彼の黙想は破られた。同席すべきかどうか、目で問いかけるケップを手で制し、向かい側に腰を下ろす。ケップは委細承知という顔になった。そのまま仕事に戻る。
弁護士はいささか迷惑そうに見えたが、デスは委細かまわず用件を伝えた。「一昨日21日の午後9時頃、どこにいらしたのかお聞きしたい」
「なぜです?」眉を顰めるパドルダック。「この事務所で仕事をしておりましたよ」
デスは驚いた。「それは確かですか」
「もちろんです。21日は一歩もボストンを離れてはおりません」パドルダックはすらすらと答えた。
ではあれは言い訳をそれらしく見せるための、アイザックの虚言か? しかしそんな捏造をしたところでどうなる? ならば……デスは額に手をやり、じっと間合いを計った。そして言った。「さっき私が申し上げた時刻、あなたはここ以外の場所にいたのではないかと思われるんですがね」
「ご冗談でしょう」蔑むような、哀れむような笑みが顔に浮かぶ。「それならどこにいたと言うんです」
「フォックスヴィルです。なぜ隠そうとするのか解せませんな。あなたなら別に不思議でも何でもない」
「何を証拠にそんな言いがかりを」弁護士は気色ばんだ。「そちらの聞き違いですよ」
その瞬間、デスは相手の偽証を確信した。
「ほう。どうして目撃証言じゃないと考えたんです。耳による証言に心当たりでも?」
失策にパドルダックの顔色が変わった。
「となると、やはりその時間あそこにいたんですな」デスは決め付けた。「ついでに付け加えるなら、場所はフォックスヴィル乗換駅、証人はアイザック・ビートルです。発車間際、あなたたちは互いに相手を確認しあった、自分も姿を見られたとは気づかずに。あなたもあれで彼が町を離れたことを知ったというわけですな。おそらく彼の乗った列車の行き先を見たんでしょう。ふーん、なるほど」畳み掛ける。「あなたはクロノがしゃべったと思ったわけですね。ええ、彼の証言もありますよ、あなたがアイザックの失格をすでに知っていたようだったって……同居人のソールが話してくれました」
黙りこくる弁護士。デスはため息をついた。「……つまらない嘘を吐いたものだ。私が問題にしていたのはアイザックの行動であって、あなたのじゃなかったのに」
やがてパドルダックはおずおずと質問した。「ビートル氏が逮捕されたというのは本当ですか」
「現在、情報提供という形で協力してもらってるとだけ申し上げておきましょう。それ以上はノーコメントです。それより」デスは相手を見据えた。「あなたにもどうやら協力していただかねばならないらしい。黙秘権を行使されるならそれでも結構。釈迦に説法ですがな」
再び沈黙があたりを満たす。隣室で鳴る電話のベルがやたら大きく響く。ケップが応対したようで、不意に止む。「はい、パドルダック&ケップ法律事務所……」
と、割って入るかのようにドアにノックの音。「来客のようです。失礼」パドルダックは立ち上がるとその方へ足を向けた。デスも続こうとするのを見て苦笑まじりに押しとどめる。「大丈夫、逃げたりはしませんよ」そして、ノブを捻った。
その時、驚愕したケップの大声がデスの耳を射抜いた。「えっ、何だって、ホワイト夫人が病院を脱走!?」
反射的にデスは飛び上がり、振り向きざま叫んだ。「開けるな!」
しかし間に合わなかった。絶叫の余韻に重なり合うようにすさまじい銃声が轟いた。そして部屋の備品をなぎ倒しながらひっくり返るパドルダック。その腹がみるみるうちに赤く染まっていく。
8
かっと戸口を凝視するデスの目に、ピストルを手にわなわなと震えるキーリーンの姿が映った。彼女はぼろぼろ涙を零しながら叫んだ。
「この男が邪魔をしたのよ! あたしの権利を、この男が! こうしてやる! 思い知れ!」
そのまま二度、三度と銃が火を噴く。キーリーンは憑かれたようにトリガーを引き絞った。やがてカチ、カチと空回りする音だけがうつろに響くようになると、虚脱状態に陥った彼女はぺたんと座り込み、子供のように泣きじゃくり始めた。
恐る恐る部屋を覗き込んだケップが、何とも形容し難い悲鳴をあげてすぐに引っ込み、けたたましく救急車を呼びにかかった。
デスはキーリーンの指からピストルをもぎとった。「何という愚かなまねを……」彼女はデスを見ようともせず、されるがままである。そこへヴィオラ婦警が真っ青な顔で駆けつけてきた。惨状を見るなり立ちすくむ。「申し訳ありません! 私がうっかり立ち聞きを許したばかりに」
「立ち聞きだと。説明してみろ」
「はい。実は先刻地元警察から連絡があって――」ヴィオラは床の血染めの身体に視線を落とし、身震いした。
キーリーンが収容されるきっかけになった匿名の電話の主は、パドルダック弁護士だったのである。
被害者が麻薬を射たれており、さらに遺産を巡って利害が対立する立場にあると知った警察は、通報者も単なる善意の第三者とは考えず、全力で捜査に当たった。その結果、通報に使われた電話を突き止めた。町外れに設置された、利用者のほとんどない寂れた公衆電話ボックス。
警察にとって幸いなことに、そしてパドルダックにとってはうかつにも、それは旧式の電話だった。即ちコインを投入するタイプ。
その電話機が利用されたのは、業者が料金を回収して間もない時刻だった。直ちに内部が調べられ、唯一残っていたコインが証拠として提出された――正確には表面についた、親指と人差し指の指紋が。
「で、奴さんのと一致したわけか」
「はい。リサ・グレイ殺しの際、彼女が行方不明になった時点で屋敷に残っていた全員の指紋が採取されました。当日出席した関係者のひとりであるパドルダック弁護士も、要請に応じて押捺しています。それが今回照合した結果、彼のものと断定されたと……キーリーンはそれを盗み聞いて、きっと……」
「とは言え、それは彼が病院に通報したことを証明するだけだ。拉致を企んだとまでは言えまいに」デスは唇を噛んだ。
その時、ようやく救急車が到着した。パドルダックはケップに付き添われて搬送されて出ていった。デスはキーリーンを両脇から支えて立たせると、静かに告げた。
「さあ、私たちも行こう――病院にじゃないが。いいね?」
キーリーンはこっくりと頷いた。
パドルダックは翌24日死亡した。弾丸摘出手術はどうにか成功したが、容態は思わしくなく、やがて急変して昏睡状態に陥った。息を引き取る数時間前、奇跡的に意識を回復した彼はデスを呼び、一切を告白した。
キーリーンに対する陰謀に関してはあくまで無実だと主張した。なるほどクロノの違反は把握していたし、7月21日にフォックスヴィルにいたのも事実だ。が、それは商用のためである。取引相手は王藍だった。彼は顧問弁護士の職権を濫用し、キング・インディゴ投資顧問会社を通して、遺産を一部流用していたのである。アイザックに姿を見られたのはその帰途のことだろうと彼は言った。ついでに探偵がニューヨーク方面行きの列車に乗るところも見届けていた。しかしその情報は、その時点では何の意味も持たなかった。
「ところが、翌朝になって……」
仮死状態のキーリーンを乗せたトヨタが、路上に放置されているのを見つけたのである。とたんに悪巧みが閃いた。今すぐクロノの権利を剥奪すれば、ヘアーズ家の財産は次候補のキーリーンと、さらにその次のアイザックをも飛び越えて涼鹿に転がり込む。彼は涼鹿に求婚した経緯があり、一度断られたにも関わらず諦めていなかった。もし彼女の目の前に遺産をぶら下げてやれば、どんな交換条件でも呑むに違いない。彼は病院に匿名で通報し、即刻フォックスヴィルへとって返した。だがあと一歩のところで妨害が入り、譲歩を引き出せないまま目論見は水泡に帰した。
「……フォックスヴィル・ジャーナル社に連絡したのは、あんたじゃないのか」
デスの質問を、パドルダックはきっぱりと否定した。誰の仕業か知らないが、自分じゃないことは誓って確かだと。「何が悲しくて自ら不利になるよう仕向けねばならんのだ? どうせ信じないだろうが、私は真実あの女が欲しかったんだ」呂律がだんだん怪しくなる。「だから――あの時も」
「解った。もういいから少し休め」
消耗を心配したデスは話すのを止めさせようとした。けれども怪我人の耳には届かないのか、苦しい息の下から振り絞るようになおも言い募る。「ずっと見張っていた。涼鹿……チャイナドレス姿の涼鹿を……そしたら、見たんだ……」
「えっ、チャイナドレスだと」デスは大声をあげた。「それじゃあの時って、婚約披露パーティーの時のことか!? いったい何を見たと言うんだ」
「そうだ。クロノと中座したまま帰って来ないから、気になって探しに行った。あのふたりは本当の叔父と姪じゃない……鳶に油揚げを攫われてなるものかと……でうろうろしてしてたら、いつのまにかグロッタへ入り込んでしまって――」声が震え始め、急速に小さくなる。懸命に唇を動かそうとする。デスは躊躇わず耳を押し当てた。本来なら何を差し置いても看護婦を呼ぶべきなのだが、真相を聞き逃すのではという懸念がそれを押し殺した。
パドルダックの言葉が切れ切れに伝わってくる。デスの勘は図星を突いていた。絶句する。「あんた――今までなぜ黙っていた」
瀕死の男はにやりと笑った。「それに思い至らないようじゃ、警官なんて辞めてしまうがいい」そして大きく息をついて目を閉じる。デスはコールボタンを押した。
しばらくの後、臨終が宣言された。デスはボストン警察に事の次第を告げ、さらにフォックスヴィルへ連絡を入れると急いで帰り支度に取りかかった。
9
それより少し前、フォックスヴィルでは、あの謎の青年王平狸がホテル・マンキーに滞在中の涼鹿を訪れていた。
「……どうしてここが判ったの」
「そんなの造作ない」平狸はこともなげに答えた。「あなたは今や時の人ですからね。それで、改めてご挨拶に来たんです」
彼は語った。キング・インディゴ・グループは決して巷で言われているような反社会集団とは違う。確かに裏の勢力と繋がりを持つ者がいることは否定できない。しかし、それはあくまで会長の王藍に対する抵抗勢力で、全体に非ず。コングロマリットたる所以で、買収・合併を繰り返して急成長しただけに、内部で紛糾の火種が絶えないのだ。特に、創設者に由来する従来の商標“王昆恩(ワン・クンエン)商会”を、自分の名に因んで“キング・インディゴ”と変えてからは、非合法な手段に訴えてでも王藍を失墜させ、代わって頂点に立とうと画策する者がいるのだという。
事実、キーリーンを拉致したのは反会長グループだった。ローズを迫害するマフィアの一味と手を組む彼らは、クロノが大っぴらに問題行動をとっていたおかげで、相続権を一気に9位の彼女にまで移動させることを思いつく。どうせ仕留めるなら、獲物を太らせるだけ太らせてからの方がよいと。折りしもキーリーンが徐福の宝を当て込んで、ぽんぽこ山に現れた。彼らは直ちに彼女を連れ去り、フォックスヴィルから遠く離れたボストンに置き去りにした。涼鹿は息を呑んだ。
「じゃあ、アイザックじゃなかったの? 警察に逮捕されたって聞いたけど」
平狸は首を振った。「いえ、ビートル氏の場合はまた事情が特別でしてね。彼がほぼ同時期に町から遠ざかるように仕向けたのは他の一派です。ですが、奴らも当然狙いをつけていたでしょう。もちろんあなたにも」
「そのために私を見張っていたって言うの」
「それも理由のひとつです」
彼女は身震いし、後ずさった。
「怖い話だわ。どうしてそっちの権力闘争に私たちを巻き込むのよ?」
「我々は以前から多方面に渡ってバックス・ヘアーズと取引をしてきた。望もうと望むまいと、ヘアーズ一族はすでに巻き込まれているんですよ。それに多額の金が絡んでいる。会長を転覆させるだけの資金源……つまり」平狸は付け加えた。「王藍がアメリカ人で――おまけに女性だから認めようとしないんですね」
涼鹿の目が丸くなる。「女性ですって?」
「ええ。総帥が女性であっていけない理由はないでしょ? 彼女はロサンゼルスの華僑と結婚したアメリカ人女性で、やがて婚家の事業に携わるようになり、夫の死後最高位について王藍を名乗った――というわけ。こんな言い方だと」彼は苦笑した。「キングよりむしろクイーンの方が似合いそうですが」
「で、どうしてそんなことを私に話すの」
「あなたが次期当主に納まるなら、当然知っておくべきことだから。継承するか、否かは別として」
しばし沈黙の時が流れた。やがて、涼鹿は再び尋ねた。
「本当に、あなたはマフィアじゃないのね?」
「もちろんです」
「じゃ、私を見張ってた他の理由って何? それを教えて」
平狸は彼女がFOXに襲われた時から近くにいた。マフィアがキーリーンに対して実力行動に出るよりも早い。彼はあっけらかんと答えた。「個人的に興味があったから」
「どういうこと!?」
「その前にひとつ訊かせてください。あなたの別の名前、ドリーってのは、ドロシーか何かを縮めた言い方ですか」
涼鹿は呆れて相手を眺めていたが、やがて静かにかぶりを振った。「ううん。ドロシーでもドリスでも、アンドリアでもないわ。最初からただのドリー……いえ、“ドリー・ルウ”です。こっちもルイザとかルーシイじゃなくて、ただのルウ」
なぜか平狸は目を見張った。
それから付け足すように感想を述べた。「――なるほど。“人形のように愛らしい”か……“ルウ”はお祖父さんの“バックス”にちなんだんですね。愛情のこもった名だ」
その様子を見て、涼鹿は不意に自分の名の由来を告げる気になった。
「それは後付けの理由。本当は、父は女の子なんて期待していなかったの」
「父は多くの子供を望める身体ではなかった。それでよけいに息子を欲しがっていたわ。もちろん母の前では、おくびにも出さなかったでしょうけど……でも、いざ命名する段になって、女子用の名前を考えていなかったことに気づいた。彼が用意していたのはただひとつ、“ドルリイ(Drury)” 。父は若い頃演劇もやっていたから」
「そうか……それで、“ドリー・ルウ(Dolly Lou)”」
「ええ。どうしてもドルリイに未練があったので、RをLに変えて、ちょっともじって間に合わせたの」涼鹿の口ぶりは苦かった。
「でも可愛がってくれたんでしょう?」と平狸。
間が開いた。やがて彼女はため息をついた。「もうこれ以上授からないって解ってたしね」
平狸はなおも尋ねた。「あなたはそれを――お父さんが喜んでなかったなんて、どうして知ったんです」
「約束が違うわよ。質問はひとつだけでしょう?」
「いや、聞かせてください。ぜひ知りたい」彼は執拗に言い募り、回答を迫った。勢いに押された彼女は目を伏せ、消え入るような声で返事をした。
「ある女性が教えてくれたのよ。最近ね」
フォックスヴィルに戻ってもデス署長は不眠不休だった。ぽんぽこ山の死体に関する新たな情報、及び署長宛の親書が届いていた。さらに夜半すぎにも関わらず、来客が待っているという。報告書や手紙が気になったが、デスはぐっと堪え、待ち人を部屋へ通した。
現れたインド人はタイガーと名乗り、ローズのボディーガードとしてバックスに雇われたのだと打ち明けた。孫娘がマフィアに苦しめられている。どうか守ってやって欲しいと。
「バックスはローズを孫だと認めたのですか」
「ジー・ハーン(イエス)。事情があって表立つことはできないが、せめて身の安全だけは保障してやりたいからと言われた。あいにく先約が入っていたので、当面は別人が担当し、私が見張りについたのはごく最近になってからだが」
となると爺さんはそう邪険に突っぱねたわけでもないんだな。デスはひとり合点した。実の孫なのに何もしてくれないとローズは恨んだが、おそらくバックスはマフィアの件が片付くまでは彼女に援助するのはまずいと考えたのだろう。あいにく、段取りが整う前に頓死してしまったが。
「だが、そのこととあなたがここへ来たことと何か関係でも」
「ある」タイガーは話し出した。
ローズを追っているマフィアは、キング・インディゴ・グループの一派と絡んでいた。彼らの別の一派と繋がりのあるバックスは、それゆえローズの保護を王藍に依頼するわけにいかず、タイガーを雇った。しかし、キング・インディゴ・グループは大所帯である。敵味方の区別は俄かにはつきかねた。折りしもヴェリーに脅迫状が届き、王藍の配下が町にあふれる事態となったため、任務遂行にいささかの混乱が生じた。
「私は念のため、町長宅近辺に屯する連中についても見張ることにした。私の被保護者への接近を企てる者が、護衛と称して紛れ込まないとも限らないからだ。そこで、ある人物を見かけた。当初はその意味に気づかなかった」
「誰のことだ」
「女性だ。疑わなかったのは、それが一族の者だったから。純粋な義侠心から彼女もガードを買って出たのだと。現にライフルを持っていた」
「えっ!?」
デスは飛び上がった。「そ、それはいつの話だ」タイガーは即答した。「7月3日の晩」
「殺人の前日じゃないか!」
「そう」
「何で今さらそんなことを!」憤慨のあまり、デスはどんとテーブルを叩いた。「くそ、どいつもこいつも肝心の時には口をつぐんでいて、ほとぼりが冷めた頃になってからしゃべるなんて……これでは手のつけようがない!」
「私の受け持ちはローズだ。町長が相手ではない」
まさに蛙の面に水。タイガーは微動だにせず、その浅黒い顔には何の変化も現れない。「それに重要容疑者は逮捕されたと聞いた。話さなかったのはそういうわけだ」
「自慢する割には成果が上がってないようだな」せめて一矢を報いんと、デスは皮肉を飛ばした。
「否定できるものならしてみろ。『ア・サウザンド・アイズ』裏口の一件だ。あんたが充分に取り組んでいたなら、あんなことにはならなかった」
「ジー・ハーン。それは認める。確かに威張れた話じゃない」
インド人はぐっと身を乗り出した。「だから協力に来た。ライフルの女、誰だったか教える」
タイガーが辞去した後、デスは疲れた身体に鞭打って情報の整理を始めた。
まず、ぽんぽこ山の死体の身元。西部から回答があり、この5月末に失踪した芸能エージェントである線が色濃くなった。次のその殺害現場と思われる場所。コン・コーナー村の、あのベンジー・フォックスと名乗る男の家と特定された。彼はひとりごちた。
「あそこに残っていた血痕は、アレックスのものばかりではなかったのか」
ただし、骨相を比較した結果、被害者がベンジーその人である可能性は皆無だと言う。当然だろう。確たる証拠はないが、ベンジーは一見ヴェリーと見間違うような顔立ちだそうだ。照会のあったエージェントとは似ても似つかない。彼は送られてきた男の身元調査書を熟読した。内容はすべて、今までに得た証言と一致した。
それから親書を開封する。キーリーンの拉致実行犯を告発する匿名の手紙だった。これもまた、彼の推理を逐一裏書きした。
デスはナトキンを呼んだ。ロビン・コックリルのアリバイ調査結果を読み上げる部下を「それはもういいんだ」と制し、代わって尋ねる。「明日午後3時、ヘアーズ邸へ関係者全員を集める手立ては済んだか」
「はい。それと町長が何度かジミーの見舞いと称して面会を要求しましたが、退けました。ちなみに明日は両者とも出席です」
「結構。それからパドルダックが死んだことはもう知れ渡っているのか?」
「いえ、まだ伏せてあります。もっともフォックスヴィル・ジャーナルの一件のような、妙な事情通がいないとは限りませんが」
「なに、どうせ明後日にはもう秘密じゃなくなる。明日、私の口から出る前に漏れていなけりゃいいんだ」
そう言ってデスは大きく深呼吸をした。
7月25日。いよいよ勝負の時が来るのだ。
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