「デヴィッド・ボウイ/
ノンストップ・トランスフォーマー」
text by S.NUNOI

1970年代、イギリスのメディアを、歌舞伎役者のようなヘアスタイルのエイリアンが急襲した。「ジギー・スターダスト」の異名を持つその男は、敬遠が尊敬に変わるたびに、目を背けたくなるような新たなパフォーマンス、パーソナリティを発明しては、中心から距離をとった。
「ぼくは弱いものはきらいだ。弱さは耐えがたい。愛のしるし、なんてビーズちゃらちゃらさせてくる連中は、片っぱしから殴ってやりたかった」
その時代のパフォーマーは、もちろん彼だけではない。
しかし脆弱を嫌い、常に「エイリアン」のインパクトを追求し続けたのは、彼一人だった。
デヴィッド・ボウイ。
彼の楽曲、ステージ、インタビューの発言などから発散される強度を無視することは、いかなるテリトリーの人間にも不可能だった。
いや、彼一人、ではなかった。
誰もが無視できなかったパフォーマーが、もう一人いる。
1981年にデヴィツド・ボウイと「アンダー・プレッシャー」で共演した、彼もまた、強力な個性で世界中の反発と熱狂を巻き起こした。
フレディ・マーキュリー。
ボウイの真髄を探るのに、これほど格好の比較対象はいない。
「バンドを組んだのは、ボウイが音楽活動を始めるよりも先だよ」
記者の意地悪い質問への回答だ。
このコメントの正否はともかく、確かなのは、他人のことなど知ったことではないという風情のフレディ・マーキュリーですらもライバル心を燃やすほどに、ボウイは危険な魅力にあふれていたということだ。
特許争いのような話題はどうでもいいだろう。いずれにせよ、フレディ・マーキュリーはデヴィッド・ボウイの贋物ではありえない。逆もまた然りだ。
現代も、当時のボウイやフレディほどのインパクト、影響力を持つエンターテイナーは生まれていない。
二人の強度を比較することで、新たなエンターテインメントの可能性が、生まれてくるだろうか。
少なくとも我々は、彼らを知る必要がある。
知らなければ、乗り越えることはできないのだから。

#CHANGES/変容
「変容」はデヴィッド・ボウイの代名詞だ。ボウイは彼のテーマソングともいえるナンバー「チェンジス」の中でこう歌っている。
変化だ
恥ずかしくないのかい?
君は問題に首までつかったままとり残されているんだ
エンターテイナーにとって、惰性に身を任せてスタイルを変えないことは自殺行為も同じだ。ジョン・ウェインや水戸黄門が提供するのは安心であって、エンターテインメントではない。
エンターテインメントとは、文字通り「entertainする=楽しませる」ものでなければならない。ささやかな楽しみをエンターテインメントと呼ぶのは、もうよそう。既知の楽しさをはるかに越えた、より強力な歓喜を提供するのがエンターテイナーの使命だ。同じところでいつまでも足踏みしている自称エンターテイナー諸君、恥ずかしくないのかい? ボウイはそう問いかける。
「ぼくの実験は、すべてがすべて気持ちのいいもんじゃない。自分自身で何だか嫌だと思うこともある」
ボウイは72年『ジギー・スターダスト』、73年『アラジン・セイン』、75年『ヤング・アメリカン』と、アルバムごとに新しい人格をつくりあげたが、その変化は常に「まわりで起こっていることを反映」し、「これから起こりそうなことを導きだそう」とするものだった。
ボウイはひとつ新たな人格をつくりあげるごとにムーヴメントを起こし、絶頂に達した時点でそれを捨てた。世間で異臭を放つものとしてフタをされている、バイセクシュアルやファシスト、厭世主義者などをそれぞれ徹底して演じきり、“神々”となり、時代に追いつかれた時点で、信者たちの目を覚ますようにそれらを切って捨てたのだ。
フレディ・マーキュリーもまた、「いつも新しい要素をクイーンの中に取り入れたい、十年前と同じことをしているなんて、言われたくない」と発言している。
確かに、デビュー当時の長髪と比べれば短髪、口髭という、まるでゲイの男役のようなルックスは、誰が見ても大きな変化の産物に違いない。
さらにフレディは「ステージの上では、いつも誰かを演じている」と、まるでデヴィッド・ボウイのようなコメントをしているが、フレディの演技とボウイのそれでは、性質がまるで違う。フレディ・マーキュリーは、ボウイが志向するような意味での変化を必要としなかった。
長髪のグラム・ロッカーから毛皮をまとった街娼「キラー・クイーン」になり、クイーンが活動休止に入ってからオペラアルパム「バルセロナ」を発表するというフレディの変化は、ボウイの「自分の好きでないもの、理解できないものを克服しようとする」変化とは対照的に、自らの欲望により忠実になるように、我慢の枠をひとつひとつ壊していったようだ。
自由になりたい
君の嘘から解放されたいんだ
フレディは「ブレイク・フリー」でそう歌う。認知されたイメージから解放されるために仮面を次々と剥がしていくことで、フレディは変化した。
「彼は自分をよく知っている」というのはポール・マッカートニーのフレディ評だが、これは言い得て妙だろう。自分のことはよく知っていた、他人が何者であろうと。
フレディ・マーキュリーを一級のエンターテイナーたらしめたのは、一級の自意識だった。
一方こちらも、違う意味で“自意識の怪物”であるデヴィッド・ボウイは、「作家」を自称するだけあって、他人が見えすぎるほどだった。
まず自分を見る、そして他人を見る、両者に共通する(愛憎相半ばする)要素を誇張して演じて陶酔し、巨大化し、臨界点まで登りつめてからその要素と決別することによって、自由を得てきた。ボウイの冒険はいつでもマゾヒスティックで、同時にもちろんモラリスティックなのだ。
「ぼくに関する限り、リアクションがなければ曲は失敗だということになる。こてんばんにけなされたとしても、それはそれでひとつのリアクションだ」
フレディの女装にたいして、イギリス人は喜ぴ、アメリカ人は侮辱を感じたという。
「なぜ女装をするの?」
「女装が好きだがら、誰でもそうだろ?」
インタビュアーの練間に対して、フレディは屈託なく答える。
こういった無邪気な問答を交わせないところに、逆説的だが、デヴィッド・ボウイのエンターテイナーとしての妙味があるのではないたろうか?

#FUSION/融合
エンターテイナーはひとたび未知のエンターテインメントを発見してしまうと、もうそれを放っておくことができない。
それが、フレデイ・マーキュリーの場合には欲望から、デヴィッド・ボウイの場合はモラルから端を発するものだった。
フレディ・マーキュリーは、ロックミュージックにバロック/ロココ的な悪趣味をミックスし、相乗効果を生む天才だった。
「ボヘミアン・ラプソディ」ではロックの力強さとオペラの華やかさを、狂気という接点で結合した。「インヴィジブル・マン」などのナンパーではディスコ系のソウルミュージックと、「バルセロナ」はスペイン最高のプリマドンナ、モンセラート・カバリエと共演し、なぜか日本語のオペラを歌ったりしている。
どの楽曲でも、フレディは、彼の肉体を駆け巡る快感がこちらに伝染してくるかのような、歓喜に満ちたアクトを見せる。
デウィッド・ボウイは、もともと美術やパントマイム(の役者・作家・プロデューサー)、仏教研究などに携わっていた“ルネサンス人”で、「社会学的にこれからの芸術は昔楽だとおもった」がためにミュージシャンとなったという(真偽のほどはわからないが、とにかく本人はそう言っている)。“マルチメディア人”、デヴィッド・ボウイは、音楽的冒険はもちろんのこと、音楽と他ジャンルとの融合にも、積極的だった。
管制塔から字雷飛行士に向かって呼びかける「スペース・オディティ」や「2チャンネルに彼が出てる」という「スターマン」では、SF的な物語とグラムロックのフィーリング、ファッションをかけ合わせることで陰鬱なファンタジー世界を描ききっている。
そして「ぼくはいつだって映画監督になりたかった」という告白に違わず、ヴィデオ・クリップへのこだわりも強い。「アッシェズ・トゥ・アッシェズ」や「ルックバック・イン・アンガー」、「ラヴィング・ジ・エイリアン」、その他どのヴィデオクリップでも、数分の映像の中にギッシリと情報が詰め込まれている。
文学の方法論である“カットアップ・メソッド”を取り上げて、作詞作曲に応用したこともあった。「ダイヤモンド・ドッグス」が代表的だが、「ジギー・スターダスト」というネーミングも、レジェンダリー・スターダスト・カウボーイズ(初期のボウイが気に入っていたバンド)と仕立屋の名前をコラージュしたものだった。
ボウイの融合は、戦略的に計算されている。「他の芸術にくらべて十年遅れている」というロックミュージックの短所と長所を知り尽くした上で、その攻撃力を研ぎ澄まし、洗練させていた。
カットアップ・メソッドにまつわる余談。
まだクイーンが無名の頃、イギリスのTVプロデューサーが偶然に彼らのホワイトレコード(無記名のレコード)「キープ・ユアセルフ・アライヴ」を手に入れた。
友人が持っていた古い映画のフィルムに曲を合わせてみると、不思議とピッタリはまリ、これがきっかけでクイーンの曲が初めて電波に乗ったという。
映画はスポーツやチャップリンなど、エンターテインメント性の強い映像を無造作につなぎ合わせたものたった。
勤勉なスペシャリストたちは、自分の聖域が侵されるのを恐れて、エンターテイナーを攻撃する。
セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスがフレディを中傷した場面は、じつに象微的だ。
「あんたがフレディ・プラチナか。大衆にパレエを広めてるんだってな」
「ああ、ミスター・フェロシャス(狂暴)、ぽくたちはベストを尽くそうと思ってますよ」
80年代に入ってパンクやグラムロックが衰退しても、ボウイとフレディは生き残った。

#UNDER PRESSURE/重圧
メンフィスの写真家、ウィリアム・エグルストンは、エルヴィス・プレスリーをこう表現した。
「それまでのヒーローの空白地帯に、彼はぴったりはまったんだ」
これをやってしまったエンターテイナーは、大衆によってその「仕上げ」を迫られる。
エルヴィス・プレスリー、マリリン・モンロー、ジミ・ヘンドリックス、ジェームス・ディーン、ジャニス・ジョップリン、ジム・モリソン−−そしてデヴィッド・ボウイとフレディ・マーキュリー。
「ロックンロールでひとりのアーティストがふたつ以上新しいことはできないと思うね。ひとりでできることはただひとつ、そのうえこれは、とてもはかないカルチャーだから、ひとつやってしまったら、あとはどれだけもつかということだけ」/ボウイ
上記のそうそうたる顔ぶれの中で、一人だけ仲間はずれがいるようだ。
答えは、デヴィッド・ボウイ。
言うまでもなく頭に「故」の字が付かない人物だが、彼の例外性はそれだけにはとどまらない。
「おやじが死んでから1週間たったら、レコードがヒットした。その、幸と不幸が隣り合わせになった具合は、まるでパントマイムだったな。悲喜劇−−トラジ・コメディってやつだよ」
悲喜劇はエンターテイナーの宿命だ。しかしボウイは他の誰よりも、そのことに自覚的だった。1972年のコンセプト・アルバム「ジギー・スターダスト」がそれを証明している。
ジギー・スターダストとは60年代のロックスター、ヴィンス・テイラーをモデルにしたピカレスク・ヒーローで、ボウイはアルパムの中で彼の夢と悲劇を描いた。
「ほんとうに美しい芸術作品だとも思ったし、すごい前衛絵画だとも思っていた。ジギーという人間そのものがね」/ボウイ
造物者によってロックスターに仕立てあげられた異星人が、自らのエゴにより破滅するストーリー。ジギーはショウビジネスの枠を越えて、あらゆる文化に絶大な影響力を持った。
「イギリスにいればヒットラーにでもなれただろう。むずかしくはなかったはずだ」
そして自らに対して「なぜ徹底的にジギーでとおさない?」と問いかけ続けたボウイは、「ひどく危険な状態」にあった。「作品」を“完成”させるべきではないか、という重圧だ。それを正面から受け止めて、発狂や自殺に至った可能性も、なかったとは言えないだろう。ボウイはそこまで自分を追い詰めていた。
しかしいつでも外部に目を向けているボウイは、自分にはまだまだ変化の余地があることを知っていた。「仕上げ」にはまだ早いことを、知っていたのだ。
フレディ・マーキュリーのステージ・パフォーマンスには、エルヴィス・プレスリーを思わせるような、圧倒的な力がある。
「派手なロック・パフォーマーはたくさんいるが、その中でもフレディは群を抜いていた」/ボウイ
1985年のライブ・エイドではエルトン・ジョンらの共演者たちが口を揃えて「クイーンに食われた」と認めたほどの、有無を言わせないものだった。
「彼はまさしく聴衆を自分の掌中に握ることのできる男だった。彼は常に、使い古されたものを有利に転じることができた」/ボウイ
ステージ上でエネルギーを爆発させるフレディの追力は、それこそ独裁者を彷佛とさせる勢いだ。
デヴィッド・ボウイはいつでも意織的にカリスマを「演じて」きたので、絶頂期に達したときには、その仮面を破壊すればよかった。しかし素顔の、または仮面と完全に融合してしまったエンターテイナーは、キャリアが絶頂まで達した瞬間に、もうその役目を終えてしまっている。あとは仕上げとして、彼の時代に終止符を打つだけだ。
天才の天折は、決してただの偶然ではありえない。
1981年、デヴィッド・リチャードの斡旋によリ、モントルーにて美しいコラボレーションが実現した。
仕事でモントルーに来ていたボウイは、電話でクイーンのレコーディング・スタジオに招かれた。そのときの経緯をフレディはこう語っている。
「最初ぼくたちはぶらぶらしていたんだけど、やがてこっちからいっしょにやろうと持ちかけた、演奏するうちにだんだんノってきて、あの曲ができたんだ」
「アンダー・プレッシャー」だ。タイプを異にするエンターテイナー同士の共演は、こうした偶然から生まれた。
この世がどうなっているのかを知るのは、恐怖だ
親友が「ここから出してくれ」と叫んでる
明日を祈ろう
ぽくをハイにしてくれ
人々にのしかかるプレツシヤー
町をさまよう人々
フレディ・マーキュリーは、1991年、45歳にして絶命した。エイズの恐怖が全世界に認知され始めた矢先のことだった。
「アンダー・プレッシャー」の歌詞には、まるでエンターテイナーのはかなさを歌っているような節が、随所に見られる。その曲を、対照的な才能を持った二人が交互に歌い上げる様は、ほんとうに非喜劇的だ。どららか一方では決してつくることのできない世界が、そこには確かに存在している。
この世紀のエンターテインメント作品は、イギリスでその年の最優秀シングルに選ばれた。

#PRESENT/現在
.「彼がとても愛されていた−−ストレートだろうとゲイだろうと−−そのことによって、エイズには何の限界もないという事実に目を向ける人も出てくるだろう」/ボウイ
1995年に発売されたクイーンの未発表曲集「メイド・イン・ヘヴン」のジャケット写真は、モントルーの湖に向かって拳を突き上げるフレディの後ろ姿。
「初めて本心を明かした」という最後のインタビューで、「ぼくにとって一番重要なのは、幸せであることだ」とコメントしたフレディは、死亡する直前までレコーディングに参加していたたという。
死後4年目にして、フレディ最後のエンターテインメントが花を咲かせた。
一方デヴィッド・ボウイは、80年代後半から「ティン・マシーン」を経た1993年まで、「演ずべきキャラクターのなくなった」、“デヴィッド・ボウイ”としてコンスタントに楽曲を発表していた。
「ぼくのライフスタイルが変わるにつれて、ぼくには、自分の作品が自分の気持ちを正直に反映しているかどうか、そして現在の自分の人生の安定を表現しているかどうかが、非常に重要なことになったんだ。それが他人を面白がらせるがどうかは別としてね」
これはよく聴くと意味深長な言葉だ。そして1993年の「ブラックタイ・ホワイトノイズ」を発表したとき、ボウイは「次の人生への順応期間」に入っていた。
「こんなぼくのレコードを、一体どんな奴が買ってるんだろうね(笑)」
今まで似合わないことをし尽くしたボウイは、ようやく自分のキャラクターに腰を落ち着けたのだった。しかし当時の彼のヴィデオやインタビューを見れば、“デヴィッド・ボウイ”がジギー・スターダストやシン・ホワイト・デューク、スクリーミング・ロード・バイロンにも決して見劣りしないということが、わかるはずだ。
そして1995年、世界中で大ヒットしたサイコスリラー、「セブン」のエンディングに使われたシングル(「ハーツ・フィルシー・レッスン」)を含むアルバム「アウトサイド」で、ボウイは新たな変身を遂げる、プロデュースはボウイ70年代の3部作を手がけた、ブライアン・イーノ。
「探偵教授(?)ネイサン・アドラーの日記」と設定されたそのアルバムでは、アウトサイダー・アートとインダストリアル・メタルのサウンドが融合されている。ボウイ初期の作品群や映画「セブン」そのものをも凌ぐ、危険な緊張感に満ちた美しいアルバムだ。
順応期間を終えたデヴィッド・ボウイが、今後どのような変化を見せるのか。無視することなどはとてもできそうにない。
“エンターテインメント”という切り口でデヴィツド・ボウイとフレディ・マーキュリーを比較したが、このことが二人のメディア・アーティストとしての優劣を決定するわけではない。
「ぼくに言えるのは、君はあれに気付いたか? それは君にとってどういう意味がある? ということだけさ」/ボウイ■
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