『ロバート・オッペンハイマー――愚者としての科学者(藤永茂、朝日選書、1996.3

【読んだ時期】 2004年8-9月    【作成日】20041013

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◆二十歳のとき、戦没学生たちの手記(『きけ わだつみのこえ』)を読んだ。ほんの20数年前、自分と歳の変わらぬ人たちが自らの世代を「青春がそのまま晩年であるような世代」と呼んだ。人生を如何に生きるかを問うのではなく、死ぬ理由を求めなければならない青春の不幸。そこに籠められた無限の無念は、私などには想像も及ばないことだった。

戦争――勿論、それは太平洋戦争の事である――の問題を考える時、我々が日本人である限り避けて通れない問題が原爆である。何故、あのような理不尽な兵器が開発され、そして使用されたのか。何故、戦後の我々の国家はこの兵器使用に対する異議申し立てを国家の意思としてしようとしないのか。

昨春、ブッシュがイラク戦争を始めた時、30数年間心の中に澱のように溜まったままでいるこの問題を考えてみる時が来たように思った。そうした中で出会ったのが本書である。しかし、昨夏は本書を選択したまでで終わり、本格的に読むのは今夏に先送りした。

 

<原爆と物理学>

著者がこの本に託した思いは、この本の「序」に全て表されていると言っていい。

・原体験

長崎に原爆が投下された当時、著者は九大の物理学科の学生であった。そして、終戦直後のある日、著者の兄は空ろな目をして突然実家に戻ってきたという。彼は長崎の軍需工場に勤めており、そこで被爆した。ただ、幸いにも地下室への階段を下りていたため熱線による火傷だけで済んだ。そして、地下室から地上に戻った彼が見たものは、多数の女子工員が形を失った肉塊となって並んでいるというおぞましい光景であったという。著者が兄から聞いた話はそれだけだったそうだ。そして、以後50年間、著者の兄はその時の事を一言も語ることなく、自らのうちに抱いたまま生き続けたという。

一九五九年、著者は米国に留学、シカゴ大学物理学教室のRS・マリケン教授の下に籍を置いた。その時、以下のような体験をしたという。

「厳しい木枯しの吹くある朝、大学行きのバスを待っていた私の前に一台の車が止まった。中年の男が自分も大学に行くから乗せてあげようと言う。大学構内で私を見かけたのだろう。経済学部の教授らしいその男は、アメリカでの研究生活についての私の感想を求めた。マリケン教授の下での何の義務も束縛もない毎日は、私にとっては天国のようなものであったから、その通りを述べると、彼はうなずきながら、次にはアメリカが広島、長崎に原爆を投下したことについての私の意見を求めてきた。私が口ごもっていると、彼は言った。「あなたたち日本の知識人は日本のファシズム独裁軍事政権が倒される日の到来を強く待ち望んでいたに違いない。我々の二発の原爆はそのファシズム政権を見事に打倒した。だからあなた方の心の中にはアメリカの原爆によって解放されたという気持があると私は思うのだが、どうだろう」。私は語る言葉を持たなかった。幸いにも車は大学に着き、私は逃げるようにして車を辞した。」(p4-5

著者が語る言葉を持たなかったと同様、私にも言葉がない。そして、深い憤りを感じる。この経済学者は、ロスアラモスの有刺鉄線の中で原爆開発のためにひたすら働いた人々と同様「原爆地獄」への想像力が欠如していたのだろうか。そうではあるまい。既に広島、長崎で何が起こったか知っていた彼の場合、ロスアラモスの人々に欠けていた類の想像力は必要なかったはずだ。
およそ、人間というものは自らの身に起こった事以外の事は理解できないのかもしれない。そうした意味での想像力――感性と言った方がいいかも知れないが――に欠けていたのだろうか。彼は、間違いなくアメリカにおけるマジョリティであろう。そして、あの時から
50年以上たった現代においては、原爆を投下した事さえ多くのアメリカ人は忘れていることであろう。何しろ、我々日本人そのものが全てを広島、長崎の人々のみに押し付けて忘れ去ろうとしているのだから。

・著者の答え

物理学者である著者にとって、原爆を生み出した物理学および物理学者がこの問題に関して有罪であるか否かは我々には窺い知れないほど重大な関心事である。

「私の世代で、物理学を学び、それを教えることで生計を立ててきた者ならば、核兵器の問題がいつも心のどこかに貼りついた感じでこの五〇年を生きてきたはずである。原爆を可能にしたのは物理学である。原爆の開発を政府に進言し、それをロスアラモスの山中でつくり上げたのは物理学者である。「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーは「物理学者は罪を知った。これは物理学者が失うことのできない知識である」と言った。湯川秀樹は核兵器を「絶対悪」であるとしてその廃絶を唱えた。文芸評論家唐木順三は、その「絶対悪」を生んだ物理学そのものも「絶対悪」であると考えた。ガンによる死の床から、唐木順三は湯川秀樹をはげしく糾弾した(遺稿、一九八○年)。湯川が原水爆を絶対悪として平和運動を進める一方で、依然として物理学研究の喜びを語っていることが許せなかったのである。核兵器は悪いが、物理学は悪くない、ということがあり得るか。」(p5

著者によれば、「オッペンハイマーは、核兵器は悪だが物理学は悪ではないと信じたままで世を去った」(p5)という。

「オッペンハイマーの名は科学者の社会的責任が問われる時にはほとんど必ず引き出される。必ずネガティヴな意味で、つまり悪しき科学者のシンポルとして登場する」(p6)。そして、その対極にレオ・シラードの名がおかれる。しかし、著者はこのお決まりの明快な構図にある種の胡散臭さを感じるという。

「この、大天才でも大サタンでもないただの一人の孤独な男を、現代のプロメテウス、ファウスト、メフィスト、フランケンシュタイン博士、はたまた狡猾な傭兵隊長、ハッカー・ネドリー[*1]のアイドルに仕立て上げ、貶める必要はどこから生じるのか。そうすることで、誰が満足を覚え、利益を得るのか?

私が見定めた答は簡単である。私たちは、オッペンハイマーに、私たちが犯した、そして犯しつづけている犯罪をそっくり押しつけることで、アリバイを、無罪証明を手に入れようとするのである。オッペンハイマーは「原爆の父」と呼ばれる。これは女性物理学者リーゼ・マイトナーを「原爆の母」と呼ぶのと同じく愚にもつかぬ事だが、あえてこの比喩に乗りつづけるとすれば、オッペンハイマーは腕のたしかな産婆の役を果たした人物にすぎない。原爆を生んだ母体は私たちである。人間である。

「人は人に対して狼なり」という西洋の古い格言がある。人間が人間に対して非情残忍であることを意味する。しかし狼は非情残忍な動物ではない。狼に対して失礼というものである。「人は人に対して人なり」と言うべきであろうと私は思う。人間ほど同類に対して残酷非情であり得る動物はない。

人間が人間に対して加えてきた筆舌に尽くしがたい暴虐の数々は歴史に記録されている。それは不動の事実であり、人間についての、失うことのできない確かな知識である。

オッペンハイマーの生涯に長い間こだわりつづけることによって、私は、広島、長崎をもたらしたものは私たち人間である、という簡単な答に到達した。私にとって、これは不毛な答、責任の所在をあいまいにする答では決してなかった。むしろ、私はこの答から私の責任を明確に把握することができた。唐木順三の声高な非難にもはっきり答えることが出来るようになった。「物理学を教えてよいのか、よくないのか」という切実な問題に対する答も出てきた。「物理学は学ぶに値する学問である」。」(p6-7、下線は筆者(私))

オッペンハイマーの言葉は、前述の「物理学者は罪を知った」以外にもしばしば引用される。しかし、その多くはオッペンハイマーという人間を知ろうともせず、ただ勝手な方向に乱用しているだけだ、と著者はいう。そして、オッペンハイマーのステレオタイプをつくりあげた評伝の類は数々あるが、その多くは誤っていると指摘する[*2]

本書の最後「おわりに」によれば、著者はかつて村山磐の『オッペンハイマー』(太平出版、1977)を読んだという。その時、著者は村山の本がオッペンハイマーに対して心情的に好意的過ぎると感じた。しかし、「それから一〇年、私はかなり広く読み漁り、絶えずオッペンハイマーのことを考え続けてきた。その結果、私が見出したことは、私も、まわりまわって、結局は村山さんが立っておられた場所に戻ってきてしまったという事であった」(p365)。

 

<ロスアラモス>

マンハッタン計画の秘密研究所の建設地としてロスアラモスが選ばれたのは、オッペンハイマーの選択である。ここからリオグランデの流れををはさんだ東に50キロの所に彼らの山荘があり、時には乗馬行でここまで足を伸ばす事もあった彼にとってこの辺りは馴染み深い土地であった。「ロスアラモスは"アスペンの林"を意味する。アスペンはポプラの一種で、白樺に似た青白い幹が高く立ち、夏は軽い青葉を陽光におどらせ、秋は鮮明な黄色にさんざめく。ロスアラモスから東を望めばサングレ・デ・クリスト(キリストの血)山脈が南北につらなり、その山並みは落陽を受けてその名のままに深い茜色に染め上げられる」(p24)。読んでいるだけで何だか胸がわくわくして来るような風景だ。

イギリスからやって来た物理学者の一人、オットー・フリッシュはロスアラモスの自然の美しさを以下のように讃える。

「冬の間、私は日の出に間にあうように朝食のテーブルについた。窓の正面、五〇キロほどの彼方にロッキー山脈の岩山の連なりが暗いシルエットを見せていた。その上空がしだいしだいに明るさをまして、次にその明るさが一点に向けて収縮をはじめ、やがて、突然、目もくらむ輝度で太陽のはじめのかけらが現われる。それから二分もたつと、朝の食堂は輝かしい陽光で一杯になる。これが毎朝のことだったのだ。時たま吹雪がやってきて、スキーに必要な雪をもたらしてくれたが、それ以外は冬の間めったに雲を見かけることはなかった。夕日が地平線に沈む時には、連なる山々が夕焼けに赤く映えるのが見えた。それは素晴しい景観で、土地の人たちはその山並みを『キリストの血』と呼んでいた。それまでに私が見たのとはまったく違った魅惑の天地だった。」(p168

「アスペンの生えている山腹は、秋には、ほかの所では一度も見たことのなかった、信じられないほどに美しく鮮やかな黄色にかわり、それが松の林の暗い緑と輝かしい対照をなした。」(同上)

これも読んでいて溜息が出て来そうだ。こんな素晴らしい風景の中に日常生活を営めた人間に対して羨望すら感じてしまう。

では、このニューメキシコの無人の台地に建設された町は、どのようなものであったのだろうか。これもオットー・フリッシュの思い出を本書から孫引きしてみよう。

「オッピー[*3]は、化学者、物理学者、技術者だけでなく、画家、哲学者といった場違いの連中も集めてきた。そうした人間たちなしでは文化的なコミュニティーは完全でないと彼は考えたのだ。すでに来ていた科学者はアメリカの大学の選り抜きの人たちを含んでいた。夕方、あてもなく外に出て、目にとまった最初のドアをノックすれば、中では、音楽を奏でたり、興味しんしんの会話を交わしている面白い人たちが間違いなくいるのだと思うと、私はうれしくなってしまうのだった。これほど知性の高い洗練された人が多彩に揃っている小さな町を見るのは生まれて初めてのことだった。」(p167-168

やはりイギリスからやって来た物理学者の一人JL・タックは、オッペンハイマーがロスアラモスで形成した研究者集団について以下のように語る。

「世界最高級のクラブだった。他の研究所ではほんのわずかの内輪の人間だけが仕事の内容を知っていて、他の者はすべて、わけがわからなくてもただ従うべきだという考えが専らだったのだが、オッペンハイマーははじめからその馬鹿げた考え方を抹殺した。ほぼ無名の科学者だった私は、ここに来て、私が教科書の中の名前だとばかり思っていた人物たちと意見を戦わすのが当然だとされているのを知った。素晴しいことだった。一つの開眼だった。ここロスアラモスで、私は、アテネの精神、プラトンの、理想の共和国の精神を見出した」(p171

なんと言う素晴らしいコミュニティであろう。「電話もなかったし、明るい照明もなかったけれど、あれほど深い助け合いと友情に根ざしたコミュニティーに二度と住むことはあるまいと私は思う」とは、実験物理学者エド・マクミランの妻エルシーの感想である(p167)。

こうした環境の中で、オッペンハイマーをはじめ多くの研究者が身を粉にして働いた。「ロスアラモスは一週六日制、日曜だけが休日だったが、日曜にも「技術区」に人影は絶えず、一日八時間の枠をこえて深更まで働く者も珍しくなかった。彼らが、不本意ながら強制的に働かされたと想像したいが、それは当たっていない。世界を、独伊の、そして日本のファシズムから守るアメリカの聖戦神話を、彼らは単純に信じていた」(p173、下線は筆者(私))。
しかし、「量子力学を生んだ共同体の伝統をそのまま身に帯びた物理学者を数人も含む、国籍、年齢を異にする多数の科学者たちの、無私にも近い協同作業によって生み出されたものが、最も呪うべき、前代未聞の大量殺人兵器であったという事実を、私たちはどう受けとめればよいのだろうか」(同上)。

 

<何故原爆は作られてしまったのか>

本当にロスアラモスの研究者たちは前述の聖戦神話を信じ、そのために原爆を作り上げたのだろうか。

「「ヒトラーより先に原爆を持つ」ことが物理学者たちが自らに課した至上命令であったとすれば、ナチス・ドイツが原爆を持ち得ないことが判明した時点で、物理学者たちは原爆の開発を停止すべきであった。その時点は一九四四年一一月、その情報はロスアラモスの物理学者の間にすぐ知れわたったが、開発停止を求める声は形をとらなかった。オッペンハイマーは、むしろ積極的にその問題の討議を抑えようとした。」(p203

ここで、オッペンハイマーの行動について云々する事はやめたい。代わりに、人類最初の原爆実験(1945716日午前529分)直後の様子を語ったリチャード・ファインマンの回想を孫引きしたい。

「あれが爆発したあと、ロスアラモスは大変なさわぎになった。誰もがパーティーさわぎで、みんな走りまわった。私はといえば、ジープの尻に坐ってドラムをたたいたりなんかしたものだ。ところが、今でも思い出すが、一人だけ、ボブ・ウィルソンだけが、しかめっ面で坐りこんでいた。
私は言った。『何でしかめっ面してんの
?』。彼は言った。『ひでえものをつくってしまったもんだ』。
私は言った。『でも、あんたが始めたんだよ。あんたがおれたちを引っぱりこんだんだよ』。
私がどうなってしまったか、ほかの連中もどうなってしまったか、おわかりだろう。なるほど、ご立派な理由で、私たちは事をおっぱじめたのだが、さし当たっての問題をうまくやりとげようとけんめいに働いていると、それが楽しくもなり、面白くて仕方がないことにもなる。そうなると、考えるのをやめてしまう、そう、プッツリやめてしまうのだ。あの時、私たちが何をしたかを考えつづけていた男はただ一人、ボブ・ウイルソンだけだった。」(
p162-163、下線は筆者(私))

そのロバート・ウィルソンは後年、以下のように回想する。

「一九四五年のドイツの敗北が、なぜ、私と戦争とのかかわりあい、特に原爆とのかかわりあいを私に考え直すように仕向けなかったのか、これまでたびたび思いわずらってきた。考え直すことは私の心には浮かばなかったのだ。私の知る限り、友人のだれ一人として、あの時、そうした問題を取りあげなかった。たしかに、何百人といた科学者の中に、せめて一人ぐらいはロスアラモスを去った人間がいてもよさそうに思えるのだが。今は、私がそうしなかったのを悔いる。国連にかこつけて自分の行動を正当化したのではなかったと思う。事態がまったく信じられない速さで動いていたのがその理由だったような気がする。我々は計画の頂上にいた。砂漠で実験用の原爆をまさに炸裂させようとしていた。……ローズヴェルトの死、五月七日の一〇〇トンTNT実験、ドイツの降伏、七月一六日の原爆実験、事件は踵を接してやってきた。人間たるもの、そう敏速に対応できるものではない。それに加えて、原爆が果たしてうまくいくかどうか見届けたいという、これぞファウスト的な焦がれる想いがあった」(p204-205

 

<ロスアラモスを去った男>

ナチス・ドイツが敗北した時、ロスアラモスを去った科学者がひとりもいなかった、とR・ウィルソンは言った。しかし、実際には、少なくもひとりはいたのである。それはポーランド出身の物理学者、ジョセフ・ロートブラットである。彼は、J・チャドウィック(中性子の発見者)を長とするイギリス・チームの一員としてロスアラモスに入り、チャドウィックの家に寄宿していた。
ロートブラットは、一九四四年三月のある夜、チャドウィック家の夕食に招かれたグローヴス将軍
[*4]が、原爆の目的はソ連を押さえこむことだ、と発言するのを聞いてショックを受けた。彼は、ヒトラーから世界を救うために原爆開発に参加したはずだった。

「一九四四年の暮、ドイツでは原爆の開発は進行していないことが判明したとき、ロートブラットはロスアラモスを去ってイギリスに帰ることを希望した。チャドウィックがその旨をロスアラモスの陸軍防諜部長P・デ・シルヴァに伝えると、ロートブラットについての分厚い調書を見せられた。内容の要点は、ロートブラットがサンタフェでソ連スパイと接触し、まずイギリスに帰り、それからポーランドに飛んでバラシュートでソ連占領地域に降下し、原爆機密を手渡すことを企てている、というものであった。ロートブラットがサンタフェである人物と会ったことは事実だが、スバイ行為とはまったく関係がなかった。結局、チャドウィックの努力で、ロートブラットがロスアラモスを去る真の理由を誰にも明かさないという条件で、一九四四年のクリスマスイヴに彼はアメリカを後にした。その後、ロンドン大学の物理学教授となり、核兵器と戦争の廃絶をめざす科学者たちのバグウォッシュ会議の書記長を一七年にわたって務め、一九九五年ノーベル平和賞を受けた。ビキニの水爆実験の死の灰の中にウラン237をいち早く検出たことでも知られている。

ロートブラットは原爆後四〇年の一九八五年に、初めて彼の秘話を公開した。彼はその文章を次のように結んでいる。
「四〇年たった今も、一つの疑問が私の心につきまとう。あの時犯した誤りを繰返さないように私たちは充分学んだであろうか。私自身についてさえ確信はない。絶対的平和主義者ではない私は、前と同じような状況になった時、前と同じように振舞うことはない、とは保証しかねる。私たちの道徳観念は、一度軍事行動が始まれば、ポイと投げ捨てられるように思われる。だから、最も重要なことは、そうした状況になることを許さないようにすることである」(p
220-222、下線・太字は筆者(私))

現在の日本やアメリカの状況を見れば、この最後の言葉が如何に重要かが容易に理解できる。この言葉こそ筆者(私)がこの本で得た最高の物であり、これからの我々の行動原理となるべきものである。

 

<レオ・シラード>

さて、レオ・シラードである。

「マンハッタン計画に参加した科学者の中に聖者、英雄を求めるとすれば、誰しもJ・フランクとL・シラードをあげるだろう。原爆計画では両者ともシカゴの冶金研究所に属し、日本の都市への原爆投下を阻止しようとした。そして奇しくも一九六四年の同年に世を去った。フランク八一歳、シラード六五歳。

(中略)

フランク報告には七人の科学者の署名がある。レオ・シラードはそのひとりである。マンハッタン計画に参加した科学者たちの良心を代表し、それがたしかに存在したことの証人として貴重な歴史的存在と考えられている。シラードはフランク報告とは独立に、日本への原爆投下に反対を唱えて、トルーマン大統領に宛てた直訴状を起草し、署名を集めた。かりに私がマンハッタン計画に巻きこまれた科学者であったならば、シラードの直訴状に署名した六九人の科学者の中に、私もいたであろうと想像することで、少し救われた気持になった時期もあった。しかし、今はそうではない。フランクに対する私の尊敬は不動だが、シラードの方は、残念ながら、私にとって、堕ちた偶像となった。」(p222-226

シラードのトルーマンへの直訴状は、「日本の民衆を大量に虐殺する行為に対する道義的な怒りに発するものではなく、「世界の目の前で、我々自身の目の前で、米国の道義的地位が弱体化する」ことをおそれての事であった」(p236)と著者は指摘する。シラードの関心事は科学者に対する世間一般のイメージであり、シラードを頭とする少数の〃人道的〃科学者のためのアリバイ準備である。シラードがロスアラモスの物理学者E・クロイツに出した手紙には以下のように書かれている。

「いまから一、二年後の世間一般の目で見た科学者の地位という観点からすると、少数ながらも科学者たちが、道義的な議論に重点を置くことに賛成したという事を記録に残すのは良い事だ。」(同上)

著者にとって落ちた偶像であるシラードを、筆者(私)も追う気はない。

 

<物理学者は罪を知ったか?

19471125日、オッペンハイマーはマサチューセッツ工科大学(MIT)で「現代世界における物理学」という講演を行なった。その中で「物理学者は罪を知った(Physicists have known sin)」という有名な言葉が語られた。以下にその言葉が含まれる文節を孫引きする。

「戦時中のわが国の最高指導者の洞察力と将来についての判断によってなされたこととはいえ、物理学者は、原子兵器の実現を進言し、支持し、結局その成就に大きく貢献したことに、ただならぬ内心的な責任を感じた。これらの兵器が実際に用いられたことで、現代戦の非人間性と悪魔性がいささかの容赦もなく劇的に示されたことも、我々は忘れることができない。野卑な言葉を使い、ユーモアや大げさを言い方でごまかそうとしても消し去ることのできない、あるあからさまな意味で、物理学者は罪を知ってしまった。そして、これは物理学者が失うことのできない知識である」(p342

この発言は原爆開発に参加した多くの物理学者の不興を買ったといわれる。ローレンスは「私は罪どころか大きな誇りを感じている」と言ったと伝えられる。理論物理学者フリ−マン・ダイソン(ロスアラモスには参加していない)は、その辺の事情を『宇宙をかき乱すべきか』の中で以下のように書いている。

「コーネル大学のロスアラモス経験者のほとんどは、このオッピーの言葉を腹立たしげに拒絶した。彼らは罪の感じなど全然持たなかった。戦いに勝つことを支援するために、困難かつ必要な仕事を成しとげたのだ。戦争で使われる人殺しの兵器であれば、何をつくっても同等に罪があるはずであるのに、原爆を作った人間たちには罪があると、オッピーが公衆の前で泣いてみせたのは公平でないと彼らは感じたのだ。私にはロスアラモスの人たちの怒りはよくわかったが、やはり、オッピーの方に同意する。ロスアラモスの物理学者の罪業は彼らが人殺しの武器を作ったことにあるのではない。アメリカがヒトラーのドイツに対して懸命の戦いを遂行していた時に原爆を作ったことは道徳的に正当化できることだった。しかし彼らはただ原爆を作ったのではなかった。彼らはそれを作るのを楽しんだ。それを作りながら彼らは生涯最良の時を楽しんだ。オッピーが彼らが罪を犯したと言った時に彼の心にあったのは、まさにその事だった、と私は思う。そして、彼は正しかった」(p343

この解釈は前述のファインマンの回想にも繋がるような気がして、筆者(私)には分かり易い解釈のように思われた。しかし、著者はそれを浅薄な理解だとして退け、哲学者D・ホーキンス[*5]の解釈(ロスアラモス史序文、一九八三年出版)を示す。

「彼が言ったことは、兵器作りに関係したことが道徳的に正当化できると考えた人たちの怒りを買った。オッペンハイマーが彼らに罪の懺悔をするように誘っていると思ったのだ。彼が意味したのはそんなことではなかった。彼らは彼を理解しなかった。彼は既存の道徳の言葉で語っていたのではなく、宗教の言葉、あるいは哲学的倫理の、エデンの園の、失われた純潔性の言葉で語っていたのである」(p343-344

さらに、ホーキンスと類似の解釈を示すAK・スミス[*6]の言葉も援用する。

「広島のニュースを迎えたロスアラモスで一度は歓声をあげてみた人たちも、その直後には一転して暗然とした気持に沈んでいった。
「日がたつにつれて、気持の反転はいよいよつのり、それと共に――戦争が終わったことが原爆を正当化したと考えた人たちでさえ――悪というものの実在についての強烈に内的な経験を味わったのだ。通常の意味で罪を犯したという気持ではなく、これこそが、しきりに引用され、しばしば誤解された『科学者は罪を知ってしまった』という発言で、彼が意味したことであった」
私は、ロスアラモスの日々を現実に生きたこの優れた女性の感性に全面的な信頼を置く。」(
p344

 

<最後に>

本書の全ては「序」の中で述べられている。そのことは<原爆と物理学>のところで述べた。だから、筆者(私)は原爆開発以降の話、オッペンハイマーの水爆反対や、それに起因したあの胸の悪くなるようなマッカシー時代の陰湿なオッペンハイマー聴聞会の事、その中で語られた「技術的に甘美」といったような著者が「勝手な方向に乱用」されていると批判するオッペンハイマーの発言などには触れない。

筆者(私)が本書を読んで著者の言わんとする事の全てを正しく理解できたとは思わない。特に、原爆を作ってしまった後のオッペンハイマーの言葉に含蓄される深い意味を理解するのは筆者(私)の現状では難しい。著者の言う、「勝手な方向」へ引用される俗説ほど我々一般大衆には分かり易い所為なのかもしれない。

オッペンハイマーという一人の物理学者を追った本書は、単に過去の物語ではない。「序」の中で著者は、「人間が人間に対して加えてきた筆舌に尽くしがたい暴虐の数々は歴史に記録されている。それは不動の事実であり、人間についての、失うことのできない確かな知識である」と書いた。しかし、それは不幸にも今も現在進行形で記録され続けているのである。イラクで、チェチェンで、アフリカ、そして中南米で。さらにアメリカのマイノリティに対しても。そして、もっと大きな問題はそれらの事実が隠蔽され、記録からも抹消されてしまうことであろう。

現在の世界を見渡せば、我々はロートブラットの警告をもう一度噛み締めてみる事が強く要求されているという事が分かる。

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[*1] 映画『ジュラシック・パーク』の中に「ロバート・オッペンハイマーの肖像写真が大写しになる所がある。恐竜パークを管理するコンピューターのモニター・スクリーンの向かって左側に貼りつけられている。オッペンハイマーの顔のすぐ上には原爆のキノコ雲のマンガも貼ってある。そのコンピューターを操作する男ネドリーにとっては、オッペンハイマーがアイドルであることを、この映画の監督スピルバーグはきわめて意識的に示そうとしているのである」(p3)。

[*2]彼の名は今ではかなり知れわたっているが、彼について一般に思われていることのほとんどは誤っている。」(ユージン・ウィグナー:物理学者)(p7

[*3] オッペンハイマーの愛称。

[*4] マンハッタン計画の最高責任者。グローヴスの眼力が、共産主義者オッペンハイマーという陸軍諜報部やFBIの嫌疑を退け、オッペンハイマーの類まれな能力と人柄を見抜き、彼をロスアラモスの所長に就任させた。オッペンハイマーより8歳年上の「グローヴスのオッペンハイマーに対する信頼と愛情は、あきらかに家父長的なものであり、それは終生変わることがなかった」(p155)という。

[*5]オッペンハイマーによりロスアラモス研究所の正史の執筆者として招聘された。マッカーシー時代に共産党員としての過去を疑われたという。

[*6]戦後のアメリカの科学者による平和運動についての名著『危険と希望』の著者。『オッペンハイマー書簡集』の編集者でもある。

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