滝沢秀明と俺

H。いや、あなたの性癖をなじったわけじゃなくてね?イニシャル。私の。ん?なに?ああ、死にたそうな顔してた?私が?うん、するんだよねー。たまに。死にたそうな顔。というかむしろ積極的に死にトライする派の人間だったのよね。けっこう暑くなってきたのに長袖って変だと思ったでしょ。長袖ってリスカ常習者の必需品ね。私の場合アムカの方が酷いくてさ。見る?ほら、剃刀の後がそりゃもう縦横に碁盤のように。私の名前、ヒカルって言うんだけどさ、この傷を見せつつ「ヒカルの碁!」ってのが相手から微妙な反応を引き出す得意ギャグね。あ、名前言ってるじゃん。イニシャルの意味ないわ。でもね、過去形なのよね。自殺志願者だったって、過去形なのよね。ほら、リスカする人って構ってほしいんだろうみたいな捉え方あるけど、あれは違うんだなー。どう違うか説明できないけど、とりあえず私の場合は家族と同居してるわけでもないし友達にリスカのこと話すわけでもないし、誰かの反応を期待してるわけじゃないのよね。なんつうか切り損?…え?損? 自分で言ってちょっとビックリしたわ。損とかじゃなくて、なんつうか純粋な…純切り?純リスカ?なんかまあ、そういうピュアなのをやってたんよ、風呂場で。真っ赤になりながら。

ほら。テレビゲームのボスキャラとかアニメとかで一つ目の巨大な化け物とかがでてきたとき、そいつの弱点は間違いなく目じゃん?あれって本当に馬鹿というかどんな進化をしてきたんだオマエって問いたくなるよね。なんの話かって?つまり、自分が自殺志願者だとかいうのはものすごい弱点じゃん?それをさー。得意げに話す神経がわからんという話。
だからね。私がこうやって自殺について普通に話せるのは、自殺が自分にとって弱点じゃなくなったんだなーってね。しみじみ思ってるのよ。

どうやって克服したかって?それはね。えーと、まず最初に話しておくけど私ってモテるのよ。理由の5割は胸がデカいからで5割は隙だらけだから。
でもね。お誘いが多い分、糞つまんねえ男の画一的なデートには飽き飽きしててさ。いや、別に突飛な条件を求めてるわけじゃないのよ。普通に楽しい人ならそれでかまわないんだけど、こんな低いハードルを越えられる男すら少ないの。んでまあ、テストとして初デートには必ず条件つけるのね。集合は昼、解散は夕方っていう。これはアルコールとちょっと高めのディナーとかで誤魔化す手口を封殺するためね。飯食ってセックスって。動物かテメエはっつうのな。初手を動物ごっこで済まそうとする男の2回目以降のデートを想像するとゾッとするわ。
で、その条件でデートすると、大抵の男が1時間も経たないうちに喫茶店に入るのな。もちろん便所行くふりして帰るんだけどね。

で、ある男に誘われたときね。まあ、期待できないような男だったんだけど、昼の2時に焼鳥屋につれていかれたの。空気の読めなさもここまでくると芸術家と思ったけどね、私、あいにく芸術に興味ないんで帰らせていただこうかと思ったのよ。でもまあ、絶対損はさせないからって背中を押されてね。いや、納得したわけじゃなくて、損ばっかりの人生に損が1個ぐらい増えたところでどうでもいいかーって。
で、入るなり驚いたね。
働いてるの。滝沢君。タッキー。すっごい通る声で「らっしゃい!」って。
彼も「すごいだろ?すごいだろ?」って。そりゃすごいけどさ。
カウンターに座ってるとさ。目の前で滝沢君が汗流しながら何か焼いてるのね。何かって鳥だけど。鳥をね、女の子みたいな手でクルクル裏っ返しながら焼いてるのよ。で、「お待ち!」って。すっごい通る声で。
あんまりにも突拍子もない光景なんで、単に似た人かなーと思ったら、店の奥から店主が「秀明ー。まだ昼飯食ってねえだろ?」って。
滝沢君、それに「もうちょっとしたら戴きますー」って言ったあとに、私の目をジッって見たの。
ジャニーズとか全然興味ないんだけどさ、本物はかっこいいというか、現実離れしてるのよね。それにね、物腰がすごい上品なの。そんなのに見つめられたもんだから心臓がドキドキしちゃって。なんか滝沢君が話してる内容がちゃんと頭にはいらなかったんだけど、まあ、ようするに「新しいメニューを考えたんだけどためしてもらえませんか?」って話だったみたい。
それで私の前に出てきたのが、鳥とトマトを交互に挟んだ串だったんだけどね、それが美味しいの!トマトがね、冷えてるんじゃなくて温かいヤツなの。それを塩で食べるんだけどね、舌に酸味と柔らかい鳥の風味が染みこんできて。
「美味しいですか?良かったー。トマトを崩さないように加熱する方法に苦心したんですよー」
私、よっぽど高級な材料を使ってるのかと思ったんだけど、「値段を考えるとあまり凝ったことができないからとくに珍しいものは使ってないし、塩も普通に売ってるようなものなんです」だってさ。それを焼いただけなのに、なんであんなに美味しくなるのかねえ。魔法かと思った。

そこで奥から出てきた店主が言ったの。
「お客さん、秀明の焼き鳥はかなりのもんでしょう?それにしてもラッキーだね。コイツ、週一でしかバイト入ってないんだよ。評判いいからもうちょっと入って欲しいんだけど、そうもいかないみたいでねぇ」

私も「なんでバイトなんかしてるんですか?」って聞いたのよ。失礼かなとは思ったんだけど。
そしたら滝沢君がウチワをパタパタやりながら照れくさそうに話し出したのね。
「テレビに出たりするのって人と向き合ってる実感がないんですよね。いや、テレビの仕事が駄目だっていうわけじゃなくて、自分が未熟なんです。…自分のやってることが誰にどういう風に届いてるのかってことを考え出したら眠れなくなって。芝居とか歌とか、他人のためじゃなくて自分と向き合うものなのかなとも思ったんだけど、自分にはどうしてもそうは思えない。こんな煮え切らない気持ちのままでファンの前で立つなんて失礼でしょう?彼女たちは真剣に応援してくれるのにって思ったらますます辛くて。」
で、どうしたんですか?って聞くと…。
「剛さんに相談したら、『別でやればええんちゃう?』って。つまり、客と向き合う仕事を別にやればいいじゃないかって。目からウロコでしたよ。今の仕事の中で全部決着つけようとしてたから辛かったんだなぁって。いつか自分が成長して人前に立つってことの意味がわかるまで、こうやって修行として店で働かせてもらってるんです」
それ聞いてて私もハッとしたのね。私って、自分の問題を自分だけで背負ってたから辛かったんじゃないかなーって。そう思ったときにとなりには自分を連れてきた男がいるわけじゃない?うまいことやられたなーとは思ったんだけど、彼と付き合うことにしたのね。よく考えたらすごいのは堂本剛と滝沢君であって彼じゃないんだけど。まあ、付き合うことになったのよ。
でも本当に楽になった。彼が私をあの焼鳥屋に連れて行ってくれたのは単に「芸能人がいる焼鳥屋があるよー」みたいなんじゃなくて、もっと違う意味があったような気がするしね。なんつうか世間の懐の深さ?滝沢君が焼鳥屋で働くこともあるっていう。私に必要なのはそういうものだと見抜いたわけだしね。やっぱ素敵なんだわ、彼は。
あ、そうそう。その店で滝沢君が働いてるってことが全然噂にならないのもすごいのよね。帰り際にウインクしながら「事務所にバレると困るんでナイショでお願いしますね」とか言ってたんだけど、これってつまり今まで来たお客さん全員が約束を守ってるってことじゃない?それほどの説得力があったんだなー、あの鳥とトマトを焼いたヤツには。

でも、それからあの店に行っても滝沢君に会えることはなかったの。店主に聞いてみようともしたんだけど、いざ聞く段になって「この店で滝沢君が働いてませんでしたか?」って言葉の無茶さに我ながら戸惑っちゃって聞けなくて。そうすると全部が夢だったような気がして、彼にも聞けなくなっちゃった。

でね。それからの私の日課は地上波の料理番組を全て録画することね。だってさー、あんなに美味しいものを作るんだよ?滝沢君が料理番組に呼ばれないなんてありえないし、出たとしたら間違いなくあの串焼きを作るはずだもん!

ゴダイゴと俺

渋谷ハチ公前広場に楽器を持った5人の男が立っている。中央の男の前にマイクスタンド。マイクスタンドのかたわらにダンボールで作った立て看板。看板には"ガンダーラ"の文字。
雑踏は駅を中心として流れているはずなのに、それから感じられるのは秩序でなく混沌であった。蠢く混沌は、異分子たる5人の男になど目もくれず、せわしなく形を変え続ける。当たり前だ。こんなわけのわからない男達に一瞥をくれる時間だって惜しい。群衆は交差するいくつもの葬列に見えた。全ての人の顔が不安に曇っていた。
「そこに行けば どんな夢も 叶うというよ」
突然、マイクスタンドの前の男が歌い出した。
雑踏がいっせいに足を止めた。
当然のことだ。「どんな夢も叶う」などと言われたら、そうするしかない。全員が全員、幸福になど興味のない風を装いながら周囲の人間の様子をうかがっていた。耳だけはボーカルの男の言葉は一字一句たりと聞きもらさぬようにそばだてながら。
「誰も皆 行きたがるが はるかな世界」
それはそうだろう。群衆はじりじりと間合いをつめながら心中で頷いていた。我々の漠然とした不安を消し去ってくれる世界。無論、是が非でも行きたいに決まっている。
「その国の名はガンダーラ どこかにあるユートピア」
国の名が提示された。ざわめきが起こる。誰もがあんなに周囲の目を気にしていた癖に、今は恥も外聞もなくゴダイゴを凝視し、ガンダーラという国の話について心を奪われている。そこは我々の漠然とし怯えを消し去ってくれる場所なのか。これから公表されるであろう神秘の物語に全員が色めき立った。
そこでボーカルの男はひときわ熱っぽく歌った。
「どうしたら行けるのだろう 教えて欲しい」
えー。
群衆に落胆の色が見えた。なんだそりゃ。唾を吐き捨てる若者がいる。舌打ちをする女子高生がいる。前よりも暗い顔つきになる中年男性がいる。一瞬だけ光を夢見た分、より暗くなってしまったた魂を抱え、群衆はそれぞれの目的を思い出して憂鬱な日常生活へと戻りはじめた。ゴダイゴ達に向けた彼等の背には無言の非難が見える。彼等はゴダイゴを恨みながらも自分たちの愚かさを恥じた。人生が苦しいのは当たり前だ。当たり前から逃げようするなんて、なんて馬鹿馬鹿しいことを考えたのだろう。
「 生きることの 苦しみさえ 消えると言うよ」
心を読まれた驚きに皆が再び足を止めた。止めた理由はそれだけではない。やはり気になるのだ。ガンダーラが。生きることの苦しみが消えると言われたら、足を止める以外にどうしたらいいというのか。
「旅立った 人はいるが あまりにも遠い」
それはそうであろう。我々は安易に答えを求めすぎた。それほどの場所であるのならば容易にたどり着けるはずがない。それどころかたどり着けなかった人間だって沢山いるのであろう。
「自由なそのガンダーラ 素晴らしいユートピア」
その苦労の対価として与えられるのが自由。迷った道の長さだけガンダーラは幸福を与えてくれる国なのかもしれない。ガンダーラとはどんな場所なのか。どんな形で我々を救ってくれるのか。群衆は、ガンダーラの所在のヒントだけでも得ることができればと耳を澄ます。そんな中たまらず1人の男が「具体的な場所を教えてくれ。頼む、このとおりだ」と叫んだ。
男は彼を見据えながら歌を続けた。
「ガンダーラ 心の中に生きる 幻なのか」
1人のサラリーマンがボーカルの男の横っ面に中身の入ったままの缶コーヒーを叩きつけた。今度は全員が失望と怒りを隠そうとせず、足早にゴダイゴの周りから離れていった。風はまだ冷たい冬だった。太陽の色が鈍く見えた。いつもより空気が透明だった。
いつもどおりの慌ただしさを取り戻したハチ公前で、ゴダイゴは歌い上げる。

In Gandhara Gandhara 
they say it was in India
Gandhara Gandhara
愛の国ガンダーラ

In Gandhara Gandhara 
they say it was in India
Gandhara Gandhara
愛の国ガンダーラ

Gandhara Gandhara……… (*来世まで繰り返し)

袴田吉彦と俺

「今日も終電の3本前には帰ることができている。泊まり込みがあたりまえの仕事だってあるんだから、俺は恵まれているじゃあないか」
俺はそう思ってみたが、じゃあ家に帰ることができたからといって何かやることがあるかというと何もないのであった。労働の対価としての賃金は生命活動の維持に費やされるのみ。それで差し引きゼロだとすると、俺の手元の残るのは、緩慢な心の摩耗だけであった。
駅のホームに向かう上り階段を踏みしめながら、俺は眼帯の上から目を何度もこすった。花粉症でなぜか片方だけ腫れた目を掻いているうちに雑菌が入ったらしい。眼科で渡された塗り薬はすぐに乾いて眼帯と瞼をくっつける。それを剥がすたびに傷口は元に戻り、俺の憂鬱を増幅させるのだった。
ホームにたどり着いた途端、軽い眩暈がした。最近、日に日に線路へ向けてホームの傾斜が大きくなっている気がする。もちろん錯覚だ。しかし自覚された錯覚をも狂わせるほどに、線路の引力は強くなりはじめている。
ドクン ドクン ドクン ドクン ドクン
心臓が鳴った。
俺は前方から流れてくる心音を踏み外さないように酔漢のようにおぼつかない足取りで歩く。
ドクン ドクン ドクン ドクン ドクン
「死んでしまいたい」
半ば無自覚に漏れたつぶやきの大きさにハッとする。こぼれ落ちそうになる涙が目の傷に染みた。涙を堪えようとするほどに心音は大きくなっていった
ドクン ガツッ ドクン ガツッ ドクン ガツッ
…ガツッ?
…ガツッて?
俺の鼓動とセッションを試みる異音の発生源を突き止めようと振り返ると、俺の方に尻を向けてベンチに寝そべり、背もたれにガツッ ガツッと頭を叩きつけ続ける袴田吉彦がいた。
「ちょっ!なにしてるんですか、あなた」
袴田はピタッと頭をぶつけるのを止め、モーターで動く人形のようにゆっくりとこちらに体を向けた。
「ああ…気にしないで」
「無理ですよ。袴田吉彦が駅のベンチでガツンガツン言ってたら気にもなります」
そう言いながら俺は、袴田が苦しげに右の二の腕を押さえていることに気付いた。
「腕…どうかしたんですか?」
袴田は答えた。
「彼女が駅のホームから落ちそうになってさ。片腕で抱きとめたら…ちょっと肉離れしちゃったみたいなんだ」
俺は周囲を見回しながら言った。
「で、袴田さんをおいて、その彼女は今どこで何をしてるんですか?」
袴田は言った。
「電車に乗って帰った」
「いや……それは…彼女じゃないんじゃないですか?」
袴田が声を荒げた。
「彼女だって!変なこと言うなよ!」
「…かつてそうだったとしても、もう彼女とは呼べない関係なんじゃないかなあ」
袴田は「うわあ」と小さく呟くともう一度モーターで動く人形のように背もたれの方へ向き直り、ゆっくりと頭をぶつけはじめた。
「うわっ、ごめんなさい!俺、思いやりなかったかもしれません!」
「彼女だよ…。ずっと同棲してるんだもん。で、ちょっと電車待ってる間に喧嘩になって…。俺が働かないで家でゴロゴロしてることで」
「働いてないんすか」
「ゼロじゃないけどさあ。全盛期からすると仕事なんて全然ないもの。それでさ、彼女が『あんたは何もしようと思ってないから何もできないんだ』って怒鳴ったんで、『俺にだってできることぐらいある』って怒鳴り返したのよ」
「なんて言って?」
「いや、ジャムのフタ開けたりとか、してあげてるじゃんって」
「火に油ですね」
「彼女、真っ赤になって怒り出して。『ジャムのフタ開けの才能で恋人を選ぶんだったら、私は万力と付き合うわよ!』って」
「とっさに面白いこと言いますね、彼女」
「そんで揉み合いになったところで彼女が足を滑らせてさ」
「それで彼女を助けるために咄嗟に掴んだんですね?」
「万力のような力でね」
「その『気の効いたこと言った』みたいな表情やめてくださいよ。むかつくんで」
「俺が腕押さえてうずくまってるうちに彼女は電車に乗って行っちゃって…たぶん家にも戻ってないだろうな…」
袴田は体を起こしてベンチに座った。髪は乱れ目の下には涙のあとがあった。
「好きだったんだよ。大事だったんだ。俺が売れなくなってからの恋人だった。励まし、支えてくれた。でも俺はすぐにそれに慣れて、甘やかされるのがあたりまえになった。彼女をかえりみずに家でゴロゴロするばかりになった」
袴田は目を伏せて続けた。
「俺の甘えは性根に染みついてるんだよ。タレントバブルの時期になんとなくモデルから役者に転身して、望むまま好き勝手な生活をおくってた。抱ききれないほどの人数の女がよってくる暮らしって想像できるか?自分の所持金を全く気にしなくていい買い物ってしたことあるか?それでも俺の甘えは底無しだった。しまいには『馬鹿馬鹿しいテレビタレントの仕事などしないで金だけが入ってくればいいのに』などと言いだす始末だった」
「袴田さん…」
「望みは叶って、すぐに仕事は来なくなったよ。だが当然、俺は金も贅沢な暮らしも失った。その俺を支えてくれたのが彼女なんだ。だから絶対に恩を返すんだと思ってた。何度も決意した。そして次第に決意は儀式的な習慣になり、無意味なポーズに成り果てた。俺がそのポーズすらとらなくなるのに時間はかからなかったよ。」
袴田は涙に顔を濡らしながら俺を見上げた。
「たぶん、彼女が俺に与えられた最後のチャンスだったんだと思う。でも俺はそれをも裏切った。最悪だ。こんなに悔いていても俺はきっとこの涙を忘れる。俺は屑なんだ。本当に、本当に死んでしまいたい。」
泣き崩れる袴田を俺は不憫に思った。自業自得かもしれない。本人の言うとおり今の涙を彼は忘れるかもしれない。だとしても今流している涙は本物なのだ。本物の涙は俺の胸を打った。
「あの…悪いんだけどさ。俺の手、握っててくんない?」
突然、袴田が言った。
「いやいやいや!さっそく甘えてどうするんですか!つうか男同士だし」
「こういうときは男同士で手を握った方がいいって言うじゃん」
「知りませんよ!仮に世間で言うとしても、俺の口からは一生でてこない言葉です!」
俺は袴田の左腕を思いっきりふりほどいた。
「痛ぁ!」
袴田は左腕を押さえようとして、右腕が肉離れしていることを思い出し、なんとも中途半端な姿勢のまま停止した。そして泣き笑いのような表情で、
「肉離れ…。左腕も。」と片言で状況を説明した。
慌てて袴田に謝ろうとしたところで電車が到着した。俺は逃げるようにその場を立ち去ろうとした。
「あの…、電車来たんで!すいません!あの、あんまり気を落とさないで!」
立ち上がって俺の方に歩み寄った袴田をそのままに俺は電車に駆け込んだ。閉まりゆくドアの窓から袴田を見ると、垂れ下がった両腕と乱れた髪で、漫画・あしたのジョーのノーガード戦法のように見えた。彼の場合は戦法でなく、純粋なノーガード状態であるわけだけれども。
袴田はよろめいて後ずさりし、どさっとベンチに座り込んだ。色彩を失ったような袴田の姿は、これまたあしたのジョーのラストシーンにおける真っ白に燃え尽きたジョーを思わせる雰囲気だった。彼もまた戦いの末に燃え尽きたわけだし、ジョーと同じなのかなと俺は思った。
いや違う。ジョーは宿敵との死闘を終え、全てを成し遂げたあとだったが、今の袴田は違う。何も成し遂げられず悔いだけを残したまま灰になろうとしているのだ。今ひとりの人間の人生が終わろうとしている。そして俺は、それをなにもせずに見過ごそうとしている。本当にこれでいいのか?
俺は電車のドアにかけよって窓を叩いた。そして声の限りに叫んだ。
「立て!立つんだ、袴田ぁ!」
俺は自分の眼帯の意味を知った。俺はリングに伏したジョーに檄を飛ばす丹下段平のように声を張り上げた。
「立て!立つんだ、袴田ぁ!」
呼びかけているうちに涙が出た。化粧の濃い女2人が俺を指してクスクス笑った。でも俺はそんなことを気にも止めずに袴田の名を呼んだ。袴田は俺の方に気付いたが、すぐに力無く俯いた。
俺は魂の全てをかけて袴田に呼びかけ続ける。
「袴田、このままではおまえは今の俺のように無気力な生きる屍になる。おまえが俺みたいになるのが耐えられないんだ。おまえは引き返せる。俺と違ってまだ立ち上がれる。立ち上がれる人間は立たなきゃならないんだ。頼む、袴田。希望を見せてくれ。立て!立ってくれ袴田!」

もう一度袴田と目があった。気のせいでなく、袴田の目にはかすかな光が灯っていた。

電車が走り出す。発車までわずか数十秒、だが俺の人生においてこんなに必死になったことはいまだなかった。袴田が笑みを浮かべている。俺もつられて笑う。お互いの姿が見えなくなるまで俺と袴田は見つめ合った。
俺は電車に揺られながら、勝手に自分の人生が終わったことにして、一方的に袴田に説教をしたことを恥ずかしく思った。
「咄嗟のこととはいえ、ズルかったよな…」
俺は決意した。俺ももう一度頑張ってみよう。この無気力のループから抜け出して見せようと。
俺は自分が人間らしさを取り戻しはじめていることに気付き、胸が熱くなった。電車に乗っている間中、俺は人目も憚らず落涙し続けた。



あれから2年の月日が流れた。
俺はわずかではあるが変わったと思う。一番の変化は守るべき人が見つかったことだ。それだけで俺の人生は大きく意味のあるものになった。喧嘩をすることもあったが、そんな時は袴田のことを思い出した。袴田もどこかで頑張っているに違いない。
一向にテレビで袴田を見かけないことから、彼がまた怠惰な日々に戻ってしまったのではないかと疑うこともあった。しかし俺はすぐにその考えを打ち消してきた。あの時かわした無言の誓いは本物だ。そう信じることが俺の力になった。
だからこそ、週刊誌でこの記事を見つけたときには声を出して驚いた。驚いたあと、あまりの出来すぎた話に大声で笑った。
あしたのジョー・実写映画化の大見出し。キャスト一覧にある袴田吉彦の名前。
笑いが止まらなかった。笑いながら、2年前と同じ温度の涙がこぼれた。やったな、袴田!
信じた人間が報われた。そんなシンプルな話が2組分あっただけのたわいない出来事だ。でもそれだけだからこそ何物にも代え難い純粋な輝きがある。袴田は俺のことを覚えているかい?少なくとも俺にとってはおまえは一生忘れられない男だよ。俺は何度も頷きながらキャスト一覧を読み返した。
"マンモス西:袴田吉彦"
「えっ!?」