毒蝮三太夫と俺

年ももう明けようかという大晦日の夜。2人の老婆がコインランドリーで談笑していた。
2人とも洗濯に来たわけではない。我が家のテレビは格闘番組を見ている孫に独占されているため、紅白を見ながらのんびりできる場所を求めて歩いた結果、ここにたどり着いたのだった。
とはいえ毎年の習慣で見始めたものの映るのは知らない歌手ばかり。見知らぬ同士、いつの間にやらテレビそっちのけで世間話に花を咲かせはじめた。
「遠距離恋愛ってもんは自然消滅しちゃうからねえ」
ここだけ取り出すと老婆2人の会話としては滑稽に思えるだろう。婆さんが何を言ってるかとお思いかもしれないが、これは大学生になる孫の話だ。コインランドリーには婆さん達2人しかいないので、別にここだけを取り出してみせる必要はなかったんだが。本当なら。

ガシャーンとガラス戸の割れる音とともに1人の男が押し入ってきた。
毒蝮三太夫だ。

「おいおいおいおいおい!この糞ババアども!何が遠距離恋愛だ梅干しみたいなツラしやがって。遠距離恋愛って戦場にいった爺さんの話かオイ。それとも爺さんとっくにくたばって、地獄とこの世の遠距離恋愛かい?ええっ?」
婆さん達は突然の闖入者に驚きはしたものの、その後の軽妙な語り口に思わず「おほほ。おほほ」と笑い転げた。
「おいおい。ただでさえ皺だらけのツラなんだから、汚い笑い顔晒して皺増やすんじゃねえよ。遠距離ってのはあれか、婆さんの目と目の間のことかァ?」
怒鳴りつけながら、並んだ乾燥機をかったぱしから開けると、中にある洗濯物を次々と床に投げ捨てる三太夫。
婆さん達はたまらず「おほほ。おほほ」と笑い転げる。

三太夫は叫んで誰の物とも知れぬモモヒキを縦に裂く。
「どうだーッ」
婆さん達は「おほほ。おほほ」と笑い転げる。
三太夫は女物の下着を取り出し、「ここで被るのはベタするぎるかなー?」と何度か躊躇したのちに意を決してスッポリと頭に被り、「どうだーッ!」と叫ぶ。
婆さん達は「おほほ。おほほ」と笑い転げる。
三太夫は乾燥機からブラジャーを、ゴミ箱から缶コーヒーの空き缶を2つとりだし、ブラジャーの両端に缶コーヒーをくくりつける。そうして作った即席ヌンチャクで婆さんの頬を音高く殴りつけながら叫ぶ。
「どうだーッ」
婆さん達は頬を押さえながら「おほほ。おほほ」と笑う。
そして三太夫はコインランドリーの隅にあったグランドピアノをたたき壊し、立てかけてあったチェーンソーを振り回し、備え付けの消火器を天井へ向かってぶん投げたまでは良かったが、バウンドした消化器は頭にぶちあたって鈍い音を奏で、108回目の除夜の鐘の音と美しくシンクロした。
血塗れの三太夫はよろよろと室外に出て、どうっと倒れる。
雪に埋もれた歩道を赤く染めていく三太夫を見ながら、老婆は「まあ。紅白でおめでたいこと」と笑う。

そして思い出したように視線をテレビにあわせ、年がいつのまにやら明けてしまったことに気付くと、お互いに深々とお辞儀をしながら「あけましておめでとうございます」「今年もいい年でありますように」と笑顔で挨拶しあった。

三太夫の上に温かい雪が積もっていく。

栗山千明と俺

栗山千明が目を覚ますと、そこには栗山千明がいた。
「あ。私。」
「こんにちは、私。」
「なんで私、増えたん?」
「収録が始まるまでの退屈な時間を有意義に過ごすために、ある遊びを考えたの。それにはどうしても私が2人必要で。それでやむなく増えることにしました。」
「何だろう。」
「この地球にある全てを"光の軍勢"と"闇の軍勢"に分けて戦わせるのね。それぞれの軍のリーダーを栗山が務めます。」
「オタ臭いー。」
「オタですからー。」
2人、「てへー」と言いながら両手の握りこぶしを頭に当てて可愛いポーズ。
「どっちがいい?光と闇」
「どっちでもいいよ。どっちにしろ私だしなあ。」
「じゃあ私が光。」
「じゃあ私が闇。」
「にしてもルールが漠然としすぎだと思った。例えばどうするの?」
「うーん。じゃあ、例えば天井の蛍光灯。あれはどっちの軍勢?」
「まあ…光…だろうね。イメージ的に。」
「そんな感じ。イメージで分けていきます。地球上の全てについて。」
「時間かかりそうだなあ。」
「じゃあ、この携帯電話。」
「光かなあ。」
「光優勢だね。光超優勢だね。」
「いや、見るからに闇っぽい物なんて、そうそうないんじゃない?」
「ここ来る途中にあるラーメン屋、あれすごく闇っぽくない?」
「どこだっけ?ちょっとイメージ湧かないから実際出前を持ってきてもらってから決めよう。」
「よし。もしもしー、栗山と言いますがー。」

中年男性のめんどくさそうな声が受話器の向こうから聞こえる。
「はいー?もしもし?"ラーメンショップ周"ですがー?」

ガチャッ
「闇だね。」
「闇だわー。」
「闇の軍団の部隊長に任命しても良いぐらいだね。」
「ラーメンショップて。」
「ホワイトボード使おうか。えーと、携帯電話は光。蛍光灯は光。ラーメン屋は闇、と。」
「え?この世のラーメン屋、全部闇?」
「個別にやってられないっしょ。今の人がラーメン屋代表ってことで。」
「なるほど。じゃあ、店シリーズ行くか。」
「よし。メイド喫茶は光か闇か。」
「メイド喫茶て。オタ臭いー。」
「オタですからー。」
2人、「てへー」と言いながら両手の握りこぶしを頭に当てて可愛いポーズ。
「職業に貴賤なしとはいえ、メイドは仕える身だからなあ。信頼できる主人に仕える喜びというのもあるだろうけどさ。やはり100%ポジティブ側じゃないような気がする。」
「実際のメイドの話をしてもしょうがないでしょ。あれはメイドの格好をして喫茶店のアルバイトをしてる人達だから。」
「好きでああいう格好してる人が多いんだよね?コスプレだから。」
「ああ。好きなことやって金を貰ってるなら光かなー?」
「いやー、でもあの店内の雰囲気を見てると闇のような気がするなあ。オタが関わるもんなんてだいたい全部が闇だよ。」
「ふへー。差別発言。しかも自分等もオタなのに。客も店員もニッコニコなんでしょ?じゃあ光だと思うなあ。」
「あー。見る人の立場によって光だったり闇だったりするんだ。ここは客観的な判断をする3人目が必要になるんじゃないのか?」

栗山千明が目を覚ますと、栗山千明が2人いた。
「え?私が2人?いや、私を含めると3人?」
「こんにちは、栗山千明。」
「こんにちは、栗山千明。」
「私、なんで増えたん?」
「かくかくしかじかで、客観的な立場でジャッジをする3人目が必要となったのです。」
「なるほど。で、私は光?闇?」
「何を聞いてたの?だからあなたはどっちでもなくて…。」
「ちょっと待って?この地球の全てを光と闇に分けるんでしょ?私だけが例外ってのはおかしいよ。」
「そこは飲み込んでよ。」
「飲み込んでもいいけどさ。私もあなたたちと同じ私だよ?いくら考えたところで栗山千明の頭の中にある以上のものはでてこない。これって、第三者が決めたことになるの?右手と左手でジャンケンしてるようなもんだと思うんだけど。」
「そうか。ジャッジは私以外の視点を持った人じゃないと駄目か…。」
「といってもどうすればいいのか。」
「そうだ。また増えよう。」
「だからー、それはなんの解決にもならないよ。」
「いやいや、少しズレて増えるのね。オリジナルである栗山が分裂する過程でノイズを加えるの。」
「栗山千明'(ダッシュ)を作るのね」。
「そういうこと。これだったら大丈夫でしょ。」

異常なまでにテンションの高い前傾姿勢の栗山千明が、へその前あたりで小刻みに手を叩きながら部屋を横切っている。
「はいはいはいはいはいはい!えーと、今日は私の新しいアダ名を考えてきました。柳葉敏郎をギバちゃんって呼ぶシステムで"マチアキ"。どうですよ?マチャアキっぽくて良くね?良くね?」
「こりゃえらくズレたな。」
「これ、もう別人だろ。」
「いや、見た目は栗山千明だし、問題ないんじゃない?」
「同じにしては…なーんか違和感があるんだよなあ。」

四人目の栗山千明の両こめかみの辺りから水牛の角のようなものが天に向かって伸びている。

「角あるぞ?」
「角ありますね。」
「角は…。」
「いいじゃないのー!角ぐらいー!」
「なんかこの人に審判をまかせたくない感じ。というかこの人、闇だろ。角あるし。闇のリーダーはこいつにしない?」
「審判なら、私がいなくても大丈夫!!」
「え?」
「軍人将棋とかー、神経衰弱とかー、あれって審判を必要としてないでしょ?伏せカードをめくるような感じで、そのもの本来にあらかじめ与えられた属性を見れば良いんですよ。」
「どういうこと?」
「見ててくださいね。」
角の生えた栗山千明が、テーブルの上にあったコップを裏返した。コップの裏側には"闇"と書かれていた。
「書いてあるんだ。」
角の生えた栗山千明がホワイトボードをぐるりと回転させる。そこには"光"の文字が書かれている。
「これは楽だね。」
「ね?じゃあ私が闇のリーダーでいいからさ。ゲームを再開しよー!」
「オッケー。」
3人の栗山が納得するのを見るや、角の生えた栗山が低く笑った。
「ククク…了承したね?了承したね?もうゲームを降りることは許さないからね?」

天と地が裂ける音が世界中に響いたあと、地球がぐるりと裏返った。
地球の裏側には"闇"と書かれていた。

「しまったー。光圧倒的ピンチ。」
「光の敗北は創世とともに定められた宿命。なぜなら私たちの立つ大地そのものが闇なのだから!」
「くっ…!負けるものか!」
1人の栗山の髪の毛が逆立ったかと思うと、くるくるとこよりのように捻れていった。その捻れに巻きこまれるように栗山の体全体が捻れ、栗山の体は一振りの剣になった。
もう1人の栗山の体が横に膨れ、膨れると同時に厚みを失い、その表面が次第に光沢を増していったかと思うと、栗山は盾になっていた。
そして3人目の栗山がそれぞれを手に取り、勢いをつけて地球に挑みかかった。いつの間にか栗山の体は地球と同じぐらいに巨大化している。
「おのれ、こしゃくな!」
角を生やした栗山が腕を高く掲げると世界中の海が黒く濁り…


「栗山さーん、本番はじまるんでー。急いで準備お願いしまーす。」
「はーい(一時休戦か)。」
栗山は素早く1人に戻ると、軽く身支度を済ませる。
ADに先導されながらスタジオに向けて走る栗山は呟いた。
「しかし、これは手強いなあ。地球が相手とは。」
すれ違う人達に挨拶をしながら角を曲がる。
「でもまあ、がんばらないと仕方ないか。この世の命運がかかっているのだから。」
スタジオに到着。スタジオの扉には大きな大きな"光"の文字。

「はい、それじゃあ、本番、スタートでーす。」

飯田圭織と俺

飯田の現在の精神状態をわかりやすく説明しよう。階段の最上段を踏み外して落下する途中の恐怖、絶望感を想像して欲しい。それが間断なく昼夜にわたって続く状態だ。

叫び出すのを堪えるのに全神経を集中しているため、足を動かすのに神経がまわらない。壁づたいにドアに向かうのも一苦労である。腿の付け根が痛い。数ヶ月前から酷く痛む。腐り始めてるのかもしれないと飯田は思うが、そんなわけはないと思いなおす。余計なことを考えたせいで集中が途切れた。飯田の口から鋭い叫び声が飛び出すが、近隣の住人は意にも介さない。いつものことだからだ。
飯田が自ら命を絶たないのは、まだ自分の望む絵を描けていないからだ。
人気アイドルグループを卒業という名目でお払い箱になったあと、飯田は単身パリに向かった。芸術=パリという短絡思考が涙ぐましいのだが、時にはそれが功を奏することもある。飯田の独特のスタイルは現地の前衛芸術家グループを唸らせた。それは、丑の刻参りをする人のようにハチマキで2本の絵筆を頭に固定し、頭ごと絵筆をパレットの上に叩きつけ、然るのちにイーゼルに置かれたキャンバスに向かって頭を振り上げる、というものだった。
それが評価されたのは決してその奇抜な作業風景からだけではない。絡み合う絶妙な色彩。線だけで構成されているにもかかわらず見る者を圧倒する立体感。その絵が奇をてらっただけの安易な前衛芸術とは一線を画することは素人目にも瞭然であった。
その姿から、「イイダは頭の2本のアンテナからミューズの言葉を受信している」だとか「イイダは美の迷宮に閉じこめられた孤独なミノタウロス」などの評価を受け、代表作である"世界が俺に詫び狂う"は現代芸術家としては破格の2億という値で取引されたほどだった。
しかし、飯田の心は描けば描くほど渇いた。
飯田が欲しいのは答えだった。何故自分が絵を描いているのか。いや、自分が何に絵を描かされているのかと言い換えても良い。
日本に戻ってからの飯田は外界との接触を極力断ち、答えだけを追い求めて生きていた。
…それにしても腿の付け根が痛む。歩くのがままならない。だが飯田にとってその痛みは苦痛なばかりではない。五ヶ月前から続くその痛みは、彼女に何らかのインスピレーションを与えるべく存在している。それを飯田は確信していた。とはいえ足の痛みで外出できず、ここ数日ろくに食事をとっていないことに気付き、生命活動を維持すべく何か胃におさめようと外に出たのだが、あたりは日も落ちきって真っ暗であった。まあ、その方が都合がよい。飯田はいつインスピレーションが湧いてもいいように、常に前述の"丑の刻参りスタイル"で生活しているため、日中の外出は無遠慮な者の好奇の目に晒されることになりやすい。おまけに壁にもたれ掛かって歩いていると、おせっかいな人間が親切面で手をさしのべてくることも少なくない。そう思えば夜とはいえ安心できない。なるべく大通りを通るのは避けたいが、コンビニエンスストアーでミネラルウォーターとヨーグルトを確保しなくてはならないことを考えると、まったく裏道だけを通って行くわけにはいかなそうだ。引っ越しも考えなくてはならないなと彼女は考える。マンションの五階から下りるのにエレベーターを使おうとしたのだが、エレベーターには故障中の貼り紙がされていた。日付をみると結構前からのようだ。全然知らなかった。面倒が増えたことを呪いながら、飯田は遊具で遊ぶ猿のように階段の手すりを不格好に掴みながらノロノロと階段を降りていった。腿は痺れきっていて、階段を下りるなどという微妙なバランス感覚を必要とする行為は困難を極め、結局最後の五段ぐらいは転がり落ちた。
一番近いコンビニエンスストアまで700メートル。路地から大通りに出ればすぐだ。夕方頃まで降っていたのであろう雨によって湿ったブロック塀に体をすりよせながら歩くのは甚だ不快ではあったが、腿の痛みを緩和するには両の手を最大限に活用するしかなかった。
せっかく人間にまで進化したのに、私はいまだに手を歩行のために使っている。
飯田が三度ばかり溜息をついたあたりで大通りが姿を現した。
しかし、なんだこの景色は。何かがおかしい。世界が燃えているかのようだ。あたりがオレンジ色に発光している。建物が、木々が、そして空までもがオレンジ色の炎に包まれててらてらと不気味な姿をさらしていた。
何事かと思いながら飯田は首だけを動かして周囲を確認した。原因はすぐにわかった。車道に並ぶ何本もの車両用信号機。そのすべてが赤と黄色を同時に光らせたまま飯田を見下ろしているのだ。
さらに首を動かし見渡せる限りまで目をこらしてみると、赤+黄=オレンジ の列は遥か彼方まで続いているようだった。
「降りてきた!!」
飯田はビクッと体を震わせた。美の神が飯田に問いかける時には、決まってこのような不思議な光景に出くわすのだ。
答えを!
神様、今日こそ答えを!
飯田の足が動いた。腿の痛みなど関係ない。飯田は車道を走った。気がつくと信号の群れはオレンジ色の光だけを残して消えていた。信号だけではない。どこまでも続く大通りを残して世界中の全てが飯田の眼前から消え失せていた。
歩みを進める彼女の視界に何かが見えてきた。そこはゴミ集積所だった。近隣の利用者のモラルが行き届いているのか、深夜に捨てられたゴミは無いようだ。
いや、待て。
ガムテープで上面をしっかりと閉じられた1個のダンボール箱が置いてある。飯田は近づいて箱にマジックペンで大書きされた文字を読んだ。
「猫の死体」
素晴らしいと飯田は思った。飯田が箱をひっ掴んで振ると、毛布で紙粘土を包んだような感じの何かが内側で音を立てた。
神様はこれを開けろと言っているのだろうか?いや、違うだろう。開けて正体を見てしまえば、それはただの猫の死体に成り下がってしまう。飯田は箱を元の場所に戻して再び歩き始めた。
暫く進むと、道のわきに何かが見えた。
ゴミ集積所だった。近隣の利用者のモラルが行き届いているのか、やはり夜間にゴミがだされているということは無いようだ。
いや待て。
さきほどと同じようにガムテープで上面をしっかりと閉じられたダンボール箱が置いてある。飯田は近づいて箱にマジックペンで大書きされた文字を読んだ。
「犬の死体」
さあ、難しくなってきた。飯田は一度さっきの猫の死体の場所まで引き返すべきかと思案したが、ダンボール箱はこれで終わりではないような予感に突き動かされ、犬ダンボールを手に取ることなく先に進むことを決意した。
数メートルも行かぬうちに、果たしてゴミ集積所に出くわした。もちろんダンボール箱が置かれているのだが、今度は思いのほか書かれた文字が小さい。飯田は不安に襲われながらも文字を読むべく箱に顔を近づけた。ひょっとすると、そこに書かれているのは自分の名前であったりするのではないかと飯田は思ったのだ。彼女は死の匂いに慣れ親しんだ日々を送っていると自認していたが、高鳴る鼓動の前にはそれがただの強がりであったと認めざるを得なかった。
怖い。書かれた文字を読むのが怖ろしい。心臓を掴まれるような恐怖だ。
震えながらも目を凝らす。

「キジの死体」

違った。つうか、何これ?神は何を伝えたいのか。

と思った瞬間、先程の3つの箱が目の前に並んでいた。
飯田は困り顔で3つの箱を見下ろしていたが、途端にガクンと視界が下へスライドした。
飯田の足が腿の付け根の当たりからポロリと外れたのだ。地面に鼻から叩きつけられる飯田。
狐につままれたような顔の飯田の前で、独立して大地に立つ彼女の"腿"が厳かに告げた。
「今から鬼ヶ島へ鬼を退治に出かけます。」
腿が彼女の体についていたときよりも器用に歩き出すと、犬、猫、キジの箱がその後に続いた。飯田は地に伏した姿勢のまま、過ぎ去る我が足とダンボール箱群を見送りながら呟いた。
「ああ。腿太郎か…。なるほど。五ヶ月前から張られてた伏線はこれか…。」
アスファルトの感触を頬で味わいながら、豆粒のように小さくなっていく討伐隊の一行を見送っていた飯田だったが、ふとあることに気付いた。
「待って!猫は違う!桃太郎に猫はいないですよね?…とかそういうんじゃなくてこれ駄洒落ですよね?芸術関係ないですよね?ちょっ、足!私の足!」
飯田は全く新しい匍匐前進といった動きで道路を転がりまわったが、前に進むことはなく全身を傷だらけにするのみであった。
「神様、これはどういうことでしょう?私はどこへ向かえばいいのでしょう?どこへ向かえば答えを知ることが出来るのですか?これではあんまり…というか意味がわかりません。」
飯田が泣きながら叫ぶと、彼女の体がフワリと持ち上がって逆さまになった。それは空想上の生き物・鼻行類のようだった。すなわち、飯田は逆立ちした姿勢で頭のハチマキで留められた2本の絵筆によって直立しているのだ。2本の絵筆は彼女の意志とは無関係に交互に動いて彼女の体を運んだ。
絵筆は全速力で歩みを進め、飯田の住むマンションへと逆戻りすると階段を勢いよく駆け上った。そして屋上のドアに飯田の体を何度も勢いよく叩きつけてドアを破った。
絵筆は思いも寄らぬ跳躍力を見せて屋上をぐるりと囲む鉄柵に飛び乗った。
地上十階のマンションの
屋上の鉄柵の
上で
ゆらゆらと逆立ちして
揺れる
飯田。


偶然通りがかった少年がその様子を写真におさめた。その異様な光景に撮影者自身である少年すら圧倒され、親戚の芸術評論家に意見を仰ぐことにした。

オレンジ色の中で揺れる逆さまの飯田の姿を見た彼は神妙な面持ちで言った。
「これは…なんという不可思議な魅力か。もしこれを形容しようとするなら『芸術そのもの』としか言いようがないではないか」
その写真は彼によって"芸術"と名付けられ、現在はパリ国立近代美術館に展示されている。