雑然とした場所で高められたコンセントレーションにこそ意味があるという夏木の持論のため、楽屋は大地震でも起こったかのような散らかりようだった。もっとも、地震で無から有が生じたりはしないわけだから、地震がきたようなというのは正しくないのかもしれない。何時のものやら分からないような古雑誌が夏木のくるぶしに達するまでに転がっている。数年前から彼女専用の楽屋になっているとはいえ、よくもまあこの惨状が許されたものだ。更に驚くべきことは、この状態でありながら部屋の清潔さは保たれているということだ。その手間を考えるにつけ、マネージャーの大西は、自分が特別な人間の補佐をしているのだという緊張感を自覚するのだった。
「煙草を一本頂戴」
かすれた声。聴き取られること必要としてないかのような小さな声。大西は煙草を手渡すと、ポケットからライターを取り出して彼女のくわえる煙草に近づけた。夏木はスッとそれを掌で制しながら、「男の子はそんなことをするものではないわ。」と言った。一時間一緒に楽屋に居て、はじめて大西と目をあわせた瞬間だった。ひとたび自分の内なる世界を散策しはじめた彼女は、何時間もの間、周囲から切り離されたかのように思索に耽るのが常だった。大西はそれを自分が中断してしまったことを悔いた。
いつの間に手にしていたのやら、彼女はライターをカチカチと2、3度鳴らしたあと、静かに息を吸って、はいた。彼女の目は楽屋の壁の更に向こうを見すえているような遠い目だった。
「莫迦な男。」
夏木は呟いた。
「どなたのことですか?」
「莫迦な男。矮躯でチョビ髭で撫でつけられたような髪型で。」
「昔のお知り合いですか?」
「いつも軍服を着ていて。」
「夏木さん!?」
「何かしら?」
「その男ってヒットラーですよね?」
「ヒットラーって…ええと、昔の人よね?」
「あ、ええ。いえ、失礼しました。なんか特徴が似ていたもので…突飛なことを口にしてしまいました」
「よくわからないけど…まあ、気にしないわ。」
夏木は目を伏せ、昔に想いを馳せるような表情をした。
「それにしても、莫迦な男。」
「印象深い人なんですね…。」
「腕に鍵十字の腕章を着けていて。」
「夏木さん!?」
「はい?」
「ヒットラーですよね!?それ絶対ヒットラーですよね!?」
「Nein(いいえ)」
「なんでドイツ語なんですか!?」
夏木は天井を仰ぎながら言った。
「誤解があるみたいだけど、あなたの考えているような人とは会ったことがないわ。」
「そりゃあ無いと思いますけどね?」
夏木は壁を見つめたあと天井を見つめて、そして大西の方に向き直って言った。
「夏木マリのぉー、ショート・コントーぉー。」
「オイ、夏木!」
「予定調和を破ってみたかったのね?無意味な言葉で。」
「いや、無意味というには意味がありすぎますよ。その…『今から夏木マリがショートコントをやるゾ』みたいな意味が。」
「それはともかくヒットラーの奴め。」
「今ヒットラーって言った!絶対言った!」
大西は肩で大きく息をしながら夏木を見つめた。夏木は穏やかな表情で大西を見つめ返しながら煙草を吸い続けている。
「煙草を一本頂戴。」
「もう吸ってるじゃないですか。」
「もう一本頂戴。」
夏木は吸っていた煙草を唇の左端に寄せ、新たに貰った煙草を唇の右端にくわえた。
「牙みたいでしょ?」
「ええ、牙みたいですね。」
大西は適当に答えた。
夏木の二本の牙から立ちのぼる紫煙は、立ちのぼり、絡み合い、螺旋を描きながらのぼって、楽屋の天井をすり抜け、雲間を抜けて、天へ天へと昇っていき、やがて空の果てに届き、天国にいるヒットラーをコホンと咳き込ませた。
「うわー。あれだけ殺しても天国行きかよ。」
1時をお知らせします。
「ロックしてロール!ツイストしてシャウト!ファックして!お兄様!先んじて宣言しておくが私はベッキーではない。ベッキーと呼ばれているけどじゃがいもだよー。じゃがいもと思えば人間、人間と思えばじゃがいも。変幻自在のじゃがいもことじゃがいもです。あれっ!?ベッキーどこいった?これじゃただのじゃがいも…じゃがいっ!あーっ!イエイ!カモンッ!遠からんものはハイ注目、宇宙の法則を書き記した書物はベッで始まりキーで終わる。女の子型の無限。世界の理。神の胃袋。神の胃袋の中のじゃがいも。あああっ!またっ!じゃがのヤツが!私の中のじゃが的部分が前面に出よう出ようとしやがる!かくなるうえはとばかりに、こめかみにピストルをつきつけてー…踏ん切りがつかないから、もう片っぽのこめかみにも反対の手でピストルを突きつけてー…なーんか自殺志願の一休さんみたいなポーズのままマイクチェック!マイクチェック!ON AIRの文字が光ると同時に両方の銃をダブルショッツ!空前にして絶後のガンアクションにスタッフも青ざめるけど死なない。ベッキーちょう死なない。たのまれたって死んでやるもんか。ベッキー不死宣言。不死宣言は電波に乗って日本中に届いてる?両こめかみに穴空いたってみんなは私を愛してくれる?穴空いたジャガイモを愛してくれる?あー、無理しなくていいよ?じゃがは。じゃがはちょっとなぁ。
そんな私の声は聞こえてる?腐ったまんじゅうみたいなものを口いっぱいに含んで聴き取りづらい私の声は聞こえてる?もごー。遠く離れていても私の視線を感じてくれてる?私は君の側にいるよ?君んちの郵便受けの中でムニューッってなってるよ?驚くな?あんな狭いとこにムニューッってなってるよ?日本全国の郵便受けの中でムニューッってなってるよ?
愛してくれないなら帰れ。ベッキーの異人部分と日本人部分を交互に、そして同時に愛して?
聞こえてる?私は軌跡。かすかに喘ぐ宇宙。明滅する甲虫。孤独な傍流。手を叩き続ける未開の地の舞踏家。うち捨てられた物語。悪ふざけに似た踊り。さえずり鳴く小鳥。ひとり。ふたり。毒を塗った針。何度でも問うけど私の声は聞こえている?どこに居ても私のことを愛してくれている?愛してくれているならば今夜はあなたのためだけにお送りします。」
誰もいない夜の河原で、ベッキーは足元にある小石を拾うと、大きく振りかぶってそれを川に放り込む。
そして微かな微かな声で呟く。
「ベッキーのオールナイトニッポン。」
この世界は神の提供でお送りしております。
ぼやけた視界に染みこんでくるデジタル表示は4:30。
二時間ほどしか寝ていないのに何故目が覚めたのだろうと考えはじめた瞬間、肌寒さに気付く。となりに寝ているはずのベッキーがいない。
いかんいかん。まだ頭がうまく回らないらしい。ひとつひとつ順を追ってしか物事を把握できない。俺は寝起きが悪いのだ。
デジタル表示の目覚ましから視点を滑らせ、畳敷きの床を通って、白い足に行き当たる。ベッキーは開け放たれた窓のさんに腰掛けて煙草を吸っている。寒さの原因はこれだったか。
「ソーリー、起コシチャッタネ?」
「なんでエセ外人っぽいんだよ。」
「いや、ハーフと付き合ってるメリットを最大限に味わわせようかなーって。」
「いらねぇよ。そんなオタ向けのギミック。そんなことより、煙草。マズいだろ?誰かに見られたら。」
「ノープロブレムね!」
「あー…、ベッキー?」
「いやっ!レベッカって呼んで。」
「そんな呼び方したことねえだろ。つうか、そのキャラはなんだ?」
「ちょっと甘えた感じをだしてみた。」
「どうしたんだ、オマエ?」
ベッキーは灰皿で煙草をジリッと揉み消すと、片手に持っていた台本をひらひらさせた。薄い緑色の小冊子の表紙に、子供じみたはしゃぎかたのロゴ。
「目が覚めちゃったから。ちょっと暗記。」
「おてんばベッキーの大冒険…バラエティ番組か。にしても何つうタイトルだ…。」
「別に冒険はしないヨ?」
「や、わかってるから。」
「ベッキー的には冒険してもいい頃だと思ってるんだけど。ベッキー的にっつうか、みやすのんき的に?。」
「なんでおまえがエロマンガ家の顔色をうかがわなくちゃならないんだ?」
「おはスタやってた頃は、自分がメイン司会とかやるとは思わなかったよ。といっても、まあ、深夜番組だけどね。昔はみんなの朝の目覚めを見守り、今はおやすみ前を見守る。おはようからおやすみまでを見つめるベッキー。じゃないや、おはようとおやすみだけを見つめるベッキー。」
「おはようとおやすみの間は誰が見つめるんだ?」
言いながら顔を上げると、いつの間にか、ベッキーの顔が近い付いてきている。
不意のキス。そして俺の目を覗き込みながらベッキーが囁く。
「その間は、ずっとあなたが見つめてて。」
「何を?」
「いや、流れから言って私だろ!?おい!目ぇ離すな?ほっとくと大冒険するぜ?」
「大冒険は困るな。出来るかぎり目を離さないようにするわ。」
そう言いながら、片手をベッキーの頭の側面に添える。ニヤニヤしながら反対側に逃れようとするベッキーの頭をもう片方の手で押さえつけて、もう一度キス。
「あ、煙草…」
「そんなの気にしないよ。別に。」
薄暗い中でしばらく抱き合った後、ベッキーは二本目の煙草を吸いに窓際へ戻り、俺は布団の中に戻る。
「ベッキー、寝ないの?」
「あ、今日は早いから。このまま起きてる。」
「そか。あれ?ギターなんか持ってた?」
「YOUちゃんにもらった。」
「誰?」
「YOU THE ROCK★」
「…フォークギターをか?だいたい、弾けるんだっけ。」
「一曲だけ弾ける曲があるよ。友部正人の"夕暮れ"」
「渋すぎるわ。なんだ?個性をアピールしたガールか?おまえは。」
「ガールっつう歳でもないですけどねー。でも大人っていう歳でもない。そんな宙ぶらりんな私が歌う"夕暮れ"、聴いてください。」
すうーっ
息を吸い込む音。
「暮れゆく この町の 空を眺めなぁがらー」
やさしく幸福なアルペジオ。やや調子はずれなことには目をつぶろう。
「暮れゆく この町の 空を眺めなぁがらー
暮れゆく この町の 空を眺めなぁがらー
ぼくはひとりカレーライスを食べている」
興が乗ってきたのか、ベッキーの声が大きくなる。と、同時に調子の外れ方も酷くなる。
ドンドンッ!ドンドンッ!
猛然と、となりの部屋から壁を叩く音がする。なにせ、まだ五時前だ。演奏会には早すぎる時刻だ。しかし、すっかり気分を良くしているベッキーはかまう様子もない。
「生まれたり死んでしまったりのその日のはざまで
生まれたり死んでしまったりのその日のはざまで
生まれたり死んでしまったりのその日のはざまで
河は今日も気持ち良く背骨をのばすよ
土手の上には古ぼけた自転車一台
土手の上には古ぼけた自転車一台
土手の上には古ぼけた自転車一台
なあに耐えて待つことなんてわけもないことさ」
ドンドンッ!ドンドンッ
壁を叩く音が、蹴る音にかわった。
「やさしい風に下腹をふくらまし
やさしい風に下腹をふくらまし
やさしい風に下腹をふくらまし
夕暮れはいくつもの歳月を抱いたまま
やがて夜風になるのです」
右耳に壁を激しく叩く音、左耳に調子っぱずれなベッキーの歌声を聞きながら、しかめっつらの俺は「眠れねぇよ。」と呟いた。
その途端、それが何かの合図であるように俺は深い眠りに落ちていった。
朝の風が冷たく、心地よい。