東京教育大学の筑波移転問題
一般に、東京教育大学が筑波に移転して筑波大学になったものとされている。研究者を紹介する場合にも、「東京教育大学(現筑波大学)卒」などと紹介される場合が多い。
しかし、筑波大学は1973年に新たに開学された大学であり、東京教育大学は1978年に閉学された大学であって、両者はまったく別個の大学である。
特に、東京教育大学文学部の場合、文学部教授会はほぼ一致して筑波大学への移行を拒否していたため、教授陣の大半は筑波大学には行っていない。
教科書裁判で有名となった史学科(日本史学専攻)の家永三郎氏は次のように述べている。
「学部として筑波への移行を拒んだ文学部の場合、多くの学科では人的にも筑波大学との連続性をもたないので、卒業生は母校を失ってしまった。そのことは、一例をあげると、大学院修了者または博士課程の単位修得後の退職者が、研究職に就くことを希望しても、推せん者となる教官もいなければ、出身校への学位論文提出もできなくなるという重大な不利をもたらす。(中略)教授会では、たとえ筑波問題にどのように対処してきたにせよ、東京教育大学の定員を減じて筑波大学に回している以上、筑波大学への移行を希望する教官は筑波大学で受け入れるよう交渉を進めたが、筑波大学では難色を示し、最後まで容易に決着がつかなかった。最大規模のときに一〇〇人を超えた文学部教授会の構成員は、七八年度の評議員二人とあと僅少の教授を残し、ほとんど大部分が七七年三月をもって散って行ったのである。(中略)滝川・河合両事件ともに、日本の大学史に永く特記されるに値する不幸なできごとであった。そうであるならば、東京教育大学文学部の閉鎖は、教官離職の規模といい、累を学生にまで及ぼして卒業生から母校を奪ったことといい、両事件とは比較にならない深刻な悲劇であることを、読者にぜひ知っていただきたいと思う。滝川・河合両事件がドラスチックに、短期間に処理されたために深く世人に印象を残したのに対し、東教大文学部の閉鎖は、多年にわたるなしくずしの「とりつぶし」として進行した結果、「事件」として世人の注意をひかなかったけれど、このようにその実質においては、両事件よりもはるかに悲劇的な事件であったと言っても、私がその渦中の一人であるための誇張した表現では決してないと信じている。」(家永三郎著「東京教育大学文学部 栄光と受難の三十年」(pp.16-17.現代史出版会、1978年刊)
当サイトの管理人は文学部史学科(日本史学専攻)の出身であるが、当時の教官はただの一人も筑波大学には採用されていない。その意味では、筑波大学とは何の関わりもない。(ただし、学籍簿等は筑波大学で管理されているようである。)
東京教育大学の筑波移転問題について、当サイトには、以下のようなページが用意されているので、詳しくはこれらのページを参照されたい。
東京教育大学小史
東京教育大学略年表
筑波移転問題関連史料
筑波移転問題関連新聞記事スクラップ集
想い出の東京教育大学(筑波闘争時の写真を相当数収録)