都電の写真No2


2002.8.16掲載

前ページに続いて昭和30年代の写真を見て下さい。
34年(1959年),36年(1961年)撮影のものです。
この頃までは何かのついでに撮ったものが多い。
年代はネガに写っている前後の写真で推定。
38年頃から44年頃のネガが見つからない。
丁度結婚〜子供誕生の頃の時期。どこへ無くしたのか?


都電渋谷終点の写真。昭和34年 (写真No2-1)
都電渋谷終点。昭和34年(1959)東急文化会館屋上から撮影。32年にこの形になった。 それ以前は6,9,10系統終点はJR渋谷駅の西側にあった。
奥が34系統、真中と手前が 6,9,10系統。左へ金杉橋。
この終点は 6,9,10系統はループ式になっていた。左から来て右に出て地下鉄ガードをくぐって右折。 宮益坂を登って行く。
画面の上が東横線とJR渋谷駅。右ガード上に地下鉄銀座線。
今は東口バスターミナルになっているが、近々このビルも東横線渋谷駅も含めて再開発される ことになったようだ。2003.6.30閉館になった。
渋谷のループへ向かう写真 (写真No2-2)
渋谷終点に向かい金王坂を下る。終点は坂を降りて右へ。6,9,10系統が通った。
撮影は同時期。
坂上から渋谷方を望む。
都電は向うへ一方通行だが車は両方向通行。 線路の真中に立って後ろから電車の来ないのを確認しての撮影。 今では考えられない。
都電レール敷き内の自動車通行OKは34年6月以降。

金太郎塗装の写真はここまで。
昭和34年4月からキャピタルクリーム色に
塗装変更実施。 (都電、都バスともに。)
また出てきたら追加します。
私は金太郎塗装の方が好き。

赤坂見附の写真 (写真No2-3)

赤坂見附。
昭和36年撮影。

9系統右奥に平河町、三宅坂

手前を横切るのが 3系統。左へ紀国坂、四谷。奥の森は現赤坂プリンスH

弁慶橋から永田町方向を望む写真 (写真No2-4)

弁慶橋から永田町方向を望む。9,10系統併用路線。

撮影は同時期

左に平河町から三宅坂。 坂の途中左に赤坂プリンスの旧館。その前が私の母校(中学)

弁慶橋の左手が現在は赤坂プリンスH。

弁慶橋から迎賓館方向を望む写真 (写真No2-5)

弁慶橋から迎賓館方向を望む。

撮影は同時期。

遠くに3系統が紀国坂を 赤坂見附へ向けて下る。

左へ赤坂見附電停。

喰違見付付近から赤坂見付け方向を望む写真 (写真No2-6)

喰違見付付近から赤坂見附方向を。真中遠方に国会議事堂の頭が。
撮影時期同じ。

実にのんびりした感じ。
現在の様変わりした様子はこちらの ページをご訪問してみて下さい。

迎賓館前から若葉一丁目方向を望む写真 (写真No2-7)
迎賓館前辺から若葉一丁目方向を望む。3系統の専用路線。
撮影時期同じ。
昭和38年まではここから手前に専用軌道に入り食違見付の下をトンネルで抜けてまた紀国坂の途中で 通りへ出て赤坂見付へ。
今は迎賓館だが私たちの中学校の頃は確か国会図書館だった。(赤坂離宮) 中学の運動会はその運動場でやった。門の前の三角な土地で野球もやった。(確か)
地下鉄丸の内線四ッ谷駅の写真 (写真No2-8)

地下鉄丸の内線四ッ谷駅。上の写真のチョット行った先の右手。
撮影時期同じ。右へ赤坂見附。 左へ新宿。
この区間は34年3月開通。
奥の土手との間は大学のグランドになっていたが、 私の小学生の頃はまだ堀があったような気がする。オヤジ、兄貴と食用カエルを釣りに行った。 (確か?)

英国大使館前を通る10系統の写真 (写真No2-9)

英国大使館前付近で10系統。ここの区間は道路の端(堀寄り)に軌道が敷設されていた。 10系統専用路線。

撮影時期同じ。右へ三宅坂。左へ三番町、九段上。

この線路は38年 10月までに廃止され10系統は北青山一丁目から四谷三丁目、四谷見付、市谷、九段上と 迂回させられた。

明治記念館の前の写真 (写真No2-10)

権田原付近。33系統。この区間は7系統との併用。

撮影時期同じ。右へ青山一丁目。左へ信濃町、四谷三丁目。

上の10系統はこの線を迂回したわけ。

明治記念館の前の写真 (写真No2-11)

明治記念館の前。

上の写真のもっと手前。

結婚式を挙げたところ。

四谷三丁目、信濃町間の7系統の写真 (写真No2-12)

四谷三丁目,信濃町間の7系統。

撮影時期同じ。右へ信濃町,青山一丁目。左へ四谷三丁目。

ここが今のどこら辺りか思い出せない。


カメラはペトリ35?に昇格。
露出は相変わらずの土手カン。
ピントはレンジファインダーであわせたのだが。
カラーになるのはもうチョット。

都電目次へ