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■羽子板の歴史
・羽子板がお正月の遊戯や贈り物に用いられたのは
室町時代です。当時の「看聞御記」という書物には、
永亨4年(1432年)に宮中で、「こぎの子勝負」という羽根
突きが催されたことが記録されています。
■やはり中国がル−ツ?
中国の14世紀ころに硬貨をつけ錘とした羽根を蹴る遊びがあり、室町時代にこれが日本へ伝来、これが羽根つきの起源とされています。
室町時代には、宮中のことを記録した「看聞御日記」に羽根つきの記録があります。この記録には公卿や女官が羽根つきをし、負けた組が酒を振舞ったとの記録があります。
戦国時代から羽根つきに厄払いの想いがあり、江戸時代は年末に邪気よけとして羽子板を贈ったとのことです。
文献に羽子板が登場するのは、今から500年以上前の、永享年間に書かれた。後崇光院(ごすうこういん)の日記、「看聞御記(かんもんぎょうき)」(1432年刊)永享4年正月五日の項に、公家や女官が男組と女組に別れて、「こぎの子勝負」を行ったこと。当時の足利将軍家が年末に、宮中に羽子板を贈った事が記され。室町時代の辞書「下学(かがく)集」(1444年文安元年刊)の中には、「羽子板 正月ニ用ユ之」とある。
■はねつきが「魔よけ」の理由
・正月に羽根をつくことは、「世諺問答(せげんもんどう)」(1544年刊)には、ムクロジの実に長い竹ひごをさし、鳥の羽根をつけ、板で突きあげたとあり。その羽根の飛ぶさまが虫を食べるトンボに似ているので、子供が蚊に刺されないおまじないとして始められたという意味の事が書かれています。
■羽子板のこと
今日、遺物として残されたものに「左義長羽子板」があります。「左義長」とは室町時代の記録に、正月の15日に清涼殿の庭に青竹を組み、書初め・短冊・扇子等を結び、陰陽師がこれに火を付け囃子踊ったと記録があり、この儀式を「左義長」と言います。
これが民間に伝わり、書初めや注連飾りを一緒に焼き「どんどん焼き」として厄払いの信仰となり今日まで伝わっています。
「左義長羽子板」は羽子板の表に見物をしている人物を配し、裏に「左義長」の儀式を描き表と裏の図を合わせて情景を表しています。
作りは両面とも等しく絢爛な意匠をこらし、上下の雲形は胡粉で亀甲型などに盛り、金箔をおき、極彩色を用いた華麗な羽子板で貴族間の贈り物や婚礼の祝いに用いられました。
江戸時代になり羽子板の図柄は日の出・七福神・松竹梅など目出度い絵に加えて、町人文化・元禄文化を反映して「歌舞伎」の役者絵が登場します。錦絵の影響を受けた貼り絵の羽子板が作られ、江戸時代の終わり頃に、押し絵を応用した役者似顔絵が作り出され、高い人気がありました。
明治時代に入り、歌舞伎黄金時代が到来し、九代目団十郎・初代左団次・五代目菊五郎などの名優が登場押し絵や押絵羽子板が江戸工芸・東京の職人芸として完成していきました。
江戸時代、大名や公卿などの間では、女の子が生まれた家に初正月の祝いとして、相手の家紋を表面に付けた美しい飾り羽子板を贈る風習がありました。この金銀の箔を押すなど、精巧な細工をこらした羽子板が「左義長(さぎちょう)羽子板」です。
羽子板を贈る風習は、やがて町人の間にも広まりました。年の暮れに市中のあちこちで立つ羽子板市は、江戸の名物にまでなりました。特に後期の江戸で生れた華やかな押絵羽子板は庶民の人気を博し、関西地方にまで広がりました。
羽子板には、観賞用の絢爛豪華なものと、実際について遊ぶための簡素なものとがあります。羽根つきは新春の遊びとして親しまれ、女の子の間で盛んに行われました。
羽根つきは、もともと新春の災厄よけのまじないから生れた遊びです。中国に生まれ、室町時代に日本に渡来したと考えられていますが、江戸時代には、正月に羽根つきをすると夏に蚊に刺されることがないと信じられていました。この羽根つきは、江戸の女の子が楽しむことのできた唯一の遊びだったのでしょう。
日本の伝統芸術となった押絵羽子板は、スターのブロマイドの役割をした役者の似顔絵のついたものから、 初正月のお祝いとして贈られた日本舞踊をテ−マとしたものまで様々です。
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