落葉踏む音かさなりて相寄らず

 ドラマさながらのシュチエーションである。筋書きのないドラマであり、無言の心理劇である。登場人物の年格好、氏素姓、間柄、性別などは無用、いや不要である。あくまでもどこまでも筋の展開を期待させないドラマとしよう。何事もなく進行するかのようでもあり、葛藤を秘めたシリアスなドラマのようでもある。映像は足元だけを映し出す。

 散策、散歩、漫ろ歩き、どの字をあてるかによって異なったストーリーが描ける。カサ、コソ、カサ、コソ、枯れ葉を踏む音が響く。少し離れた所からもカサッ、カサッと音が立つ。足音の二重奏である。枯葉の小道がどこまでもつづく。ほぼ規則的にくりかえされる足音の連続、音が主役である。時々、足音が重なり合う。二人連れと思われる足音が重なるのは、一歩の幅と速さが異なるから、いや、二人の関心事の相違ゆえか。音のたつ場所がずれるのは、一組と思われた二人が別々の一人と一人だからかも知れない。

 それぞれの道連れは自らの足音だけということもよくある人生である。想像をたくましくすれば、心に抑圧するものがあって相寄らないということも考えられる。表面は何事もなく、内面は修羅を歩む。それも、しばしば見られる人生のパターンである。

 北原白秋の名詩さながら、林を出でて、林に入りぬ、林に入りて、また、道はつづく。霧雨のかかる道、山風の通う道である。親子、兄弟、夫婦、師弟、友垣、あるいは再会したかつての恋人、なさぬ仲、仇敵など、人生は縺れながら進行し、縺れをほどきながら進む。運命の捩れに翻弄されながら人の一生は成熟していく。枯葉の季節は詩人や哲学者を生むというが、そのような作者像が浮かぶ。自らの来し方行く末を肯定したり否定したりしながら、思索、分析を繰り返す。単調な音と単調な場面の連続、空間の広がり、静寂さなどが物思いの環境を整える。過去へ、未来へ、時間の振幅が自在に伸び縮みする。

 そして、読者も、登場人物の歩みに従い、自らの人生に思い当たる節々を発見するだろう。人生途上のとある一ページに重ね、ひもといた自分史の一ページに立ち止まり、思いを巡らすのではないだろうか。今現在のこととしてもよく、若き日の終章としてもよく、壮年期の終章としてもよい。いや、それぞれの時期の序章としてもよいだろう。いやいや、自分が存在しなくなったこの世にこの場面がつづいているという構想もよい。落葉の小道は現実の道でもあり、時間から時間へとつづく果てしない架空の道でもある。

 人生は一巻の映像である。映像の連続が一生である。この場面を人生の象徴的な一シーンとしたい。記憶に密閉された時間や空間の連続が人生を象る。人は折々に記憶の中の重要な場面や人間関係を掘り起こし、見つめ直す。自然はいつも人生の伴侶のように寄り添う。自然を舞台に人生ドラマは進行する。しかし、自然はすべてを包みこんで委細には関与しない。多くを語らない一句から読者の思索が広がり深まっていく。より深く生きようとする人々は、そのような俳句との出会いを喜び歓迎するものである。この句は人に思索を促し、陰影のある人生を歩ましめる。

一枚の音を加へし朴落葉

 かさりと音が落ちる。落ちて音が溜まる。その上にまた一つ落ちて音がうち重なる。音が嵩張り、音が山をなす。一枚また一枚と朴の葉が枝を離れ、翻りながら個々の飛行距離を落下する。着地までの時間を最大限に引き延ばして楽しむかのような一葉もあれば、最短距離を木訥に墜落するものも、潔い落下ぶりを見せるものもあって、それぞれの落下の様子がその音によって察せられる。着地してさらに吹かれてさ迷う一葉の音も混じる。視覚的な場面を聴覚でとらえ、聴覚の澄み、心の澄みをうかがわせる。辺りの静寂さが一枚の音を大音声に拡大する。

 朴の葉は大きい。目立って大きく、見つけると拾い、手に取ってしばし弄ぶ。団扇代わりに扇いでみたり、何かの代用にしたいと考えるが、古歌のように「旅にしあれば」木の葉に飯を盛るなどという風流には至らない。用には立たないが何故か心ひかれる。女児のままごと遊びには色彩的に不向きであるが、大人にはこの渋さが究極の味わいである。この色が発する音と音が重なるのだから、この上もなく渋く深く心にこだまする。加わった音一つで天下の季節の極まりをはっきりと確認する。

 温帯に生育する広葉樹の中でも朴の葉は、大きさも重さも他よりも大きく重い方に分類される。朴の他に何の樹木が同類に分類されるかと探しても、すぐには当てはまるものを思い出せないような特徴をもつ。その形は自然というより人間の作り物のように芸術的である。芸術的といえば、どんなささやかな一葉も優れて造形的ではあるが、紅葉や銀杏の繊細さもさることながら、朴落葉の趣には一際心引かれるものがある。この句はそれが「音」によって把握されている。「一枚の音を加へ」る度に思索が深まっていく。そんな句である。