平成18年7月

足二本足二本見え袋掛     森田 峠
拾ひけり更に大きな朴落葉    〃
万緑や定かならねど磨崖仏    〃

 句集『四阿』より。一句目。袋掛は桃や枇杷などに紙の袋を被せて害虫から守る作業である。葉の茂みの中に上半身はすっぽり隠れてしまい、足ばかりが眺められる。どの木にも二本ずつの足だけが見え隠れして、働き手の顔も手も見えない。人間の足は二本で一対である。二本の足つまり一人が一本の木を担当して、その日と決めて家族総出での仕事である。親類縁者も動員してかかる。「足二本足二本」と繰り返し、全員が一斉に取り掛かっている光景である。それくらい足がある、いや人手があるのは恵まれた果樹園である。足は脚立や梯子の途中に立っていて地面にも樹木にも直には依っていない。その不安定な位置で作業は続く。続く時間が長いほど実りは多い。一か所で続く長さが収穫の期待に比例する。女手が担うのが相応しく、高い所に上るのだから若者ほど安心する。となると農家の嫁や娘の若い足である。少々のエロチズムがただよう。このように詠まれると実際には楽ではない果樹農家の労働が楽しそうに思えてくる。

 二句目。朴落ち葉は他の落ち葉に比べて抜きん出て大きい。一枚見つけるとどうしても拾ってしまう。それは大きいからである。紅葉や銀杏ならば俳人はいざ知らず、普通の男子は少し憚られて人前では拾ったりはできない。男が落葉を拾うのは子供の頃と年とってからである。ところが朴の落ち葉だけは大の男子がおおっと感嘆して拾いあげても周囲が納得する。誰もがうなってしまう大きさ故に見つけて拾わないのでは逆に変わり者になりかねない。朴落葉には本当に度肝を抜かれる。天狗の団扇と騙されても納得する。本当に天狗のためにこんな木の葉も用意されたのではないだろうか。だから先に拾ったのよりも大きいのを見つけたらそれはうち捨ててもっと大きいのを拾う。さらにもっと大きいのに出会うとまた拾い、またまた見つけたならせっせと拾う。これでもかこれでもかという勢いでまだまだ大きいのが見つかる不思議。朴落ち葉には大の男が遊ばされる。

 三句目。「かつらぎ」二月号より。そそり立った岩の壁面にいつ誰が描いたものだろうか。その位置にそのように刻んだ心のうちはどのようなものだっただろうか。仏を刻む作業は信仰心によると想像できる。よっていつ誰が何のためにという疑問はそれ自体が無意味である。石仏や木彫の方がたやすいことである。崖に向かうという困難を敢えてしたことへまず我々の感動は向く。そしてそれが風雪を経ていることに向かう。更にはその前にたたずんで見上げ拝んだ幾人もの姿を想像する。古代の岩絵のように身近な動物や人間や植物の絵にも興味が向かうが、仏の姿を象った絵には少し違ったものが兆す。それを芸術と見る人もいるだろう。人の心を打つものが芸術である。いずれにしろ時を隔て人の心に働きかける点に前記の疑問の答は探れる。万緑という命のみなぎる真っ只中にしだいに摩滅し薄れ消えかかりながらも存在するものからのメッセージを「定かならねど」受け止めたのである。

水仙のひつそり喇叭吹いてゐる    松澤 昭

 『松澤昭全句集』より。喇叭水仙とはよくぞ名付けたものである。一点の曇りもない明るい黄色、すっくと伸びた茎、切れ味のよさそうな刃物を思わせる長い緑の葉、同じ背丈の花が並んで春の花壇を楽しげに彩る。もしも喇叭水仙の喇叭から音が発せられるとしたら、きっと高らかな澄んだ晴れ晴れとした音だろう。人が誰も見ていないうららかな春の真昼間には、時々は、揃って演奏会を開催しているに違いない、と思わせる。音に色があるとすればきっと明るい黄色だろう。そんな空想をさせる花の姿形である。それを作者は「ひつそり喇叭吹いてゐる」とした。喇叭という見事な楽器を持った喇叭水仙は喇叭を吹かないのではなかった。「ひつそり」と吹いていたのだ。聞き取れないくらいの小さな音色を奏でていたのだ。作者は喇叭水仙と名付けられた水仙がその名に相応しい高らかな花ではなく、むしろ喇叭のイメージとはほど遠い可憐な花であることを見ているのではないだろうか。喇叭の名を返上させたいというのではない。可憐な喇叭水仙も時には本物の喇叭を真似て大きな音を出してみたいと思うだろう。内緒でちょっと悪戯に喇叭水仙が本物の喇叭になって喇叭を吹く、愛らしいではないか。「ひつそり」は水仙の様子をよく捉らえている。

くるぶしを波に濡らして啄木忌     館 容子
綿虫を掴みてぬくきたなごころ       〃

 句集『望の潮』より。石川啄木の歌集『一握の砂』に収められている〈東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる〉や〈いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ〉などは、ふとした時にふいに口ずさまれてくる、あるいは呟けば誰でも知っているくらいに広く知られた作品である。一首の短歌を三行に分けて書くという表現上の視覚的な印象からくるのかも知れないが、短歌というより詩のような印象がある。啄木のことは歌人というより詩人と思い込んでいたりする。貧乏を詠んでいるにもかかわらず、浪漫的・感傷的で美しくまぶしいような気分になる。「石をもて追わるるごとくふるさと」の渋民村を出たにもかかわらず故郷に錦を飾ったように思っていたりもする。二十代の若さで死んだということもあってか啄木といえば青春の疼くような甘美さがある。これらは筆者の大いなる誤解か錯覚か思い込みであるが、実際とはずれて親しまれているという面がこの夭折の天才にはあるように思う。さて、作者は海浜に遊び、波に戯れては啄木の歌を口ずさみ、砂を掬っては指の間から落とすというしぐさを繰り返す。裸足になって汀を歩く。砂がくるぶしをくすぐり、波もまたくるぶしをくすぐっていく。磯すなわち啄木、砂すなわち啄木。啄木に倣って蟹と戯れ、啄木の泣くような心を真摯に追慕する。貧困と病苦に過ぎた生涯を労りつつ、ほのかにあこがれる。折しも啄木の命日四月十三日であった。この句は折々に啄木という才能に刺激される読者を喜ばせる。啄木が多くの共感を得、永遠性をもっていることを証明する句である。

 二句目。綿虫は雪虫ともいう。雪の舞う季節に飛ぶ。童歌にうたわれたり、井上靖の自伝小説『しろばんば』の題名になるなど、子供のいる風景によく似合う。大人には郷愁の生き物である。生き物であることが不思議な小ささであり、綿をもつという珍しい習性があり、夏の蛍のような叙情的な雰囲気を漂わせる。飛んでいる綿虫を手に掴んでも哺乳類のような温もりはおそらくないだろう。緩やかな飛び方や白い分泌物が綿のように見えるところから手に触れれば暖かいのではないかと思う。ふうわりと舞う春の牡丹雪や綿雪と呼ばれる雪さえも雪と分かっていて温かそうに降っているように感じるようなものである。小さな命をてのひらに捕まえたささやかな幸福感がぬくいと感じさせたのだろう。子供達に親しまれる雪虫らしさをよく掴んでいる。

雪がふる音なき音をつみながら   齊藤 美規
雪がふるおのが重さを舞ひながら    〃

 「麓」四月号より。一月号より。雨も霰も音を立てて降る。ぱらぱら、ざあざあ、しとしとなどと擬音語や擬態語が多い。雪は無音で降る。こんこんと降ったりしんしんと降ったりはするが、実際、音は伴わない。ものが動けば音が立つのが道理である。音のない動きは恐ろしい。音もなく忍び寄り音もなく去っていくものがこの世の中にあるにはあるにはあるがどれも少し不気味である。雪は美しい。どうしようもなく美しいものであると同時にたとえようもなく恐ろしいものでもある。雪国の雪はそのようなものである。その雪が音もなく降り積もっていく。ずんずんと積もる。雪という実態のあるものが目に見えて次第次第に積もっていく。静かに無口にいつまでも降り続く。その静かな雪の降り方に無音という音を感じる。無音もまた音である。音を伴わないが故に雨や霰とは異なって神秘的でもある。その神秘に潜む悪しき性を雪の中に感じているのである。雪深い国の中に生涯を送る定めの人の耳のみが聞きとる音なき音である。

 二句目。どんなものにも重さがある。雨にも霰にも雪にもある。天からもたらされるものには普通は重さを感じない。ましてや舞うという美しい動きをする雪というものに重さなどという下世話なものがあるようには感じられない。しかし、まだ地に至らず空中を舞っている雪にそれ自体の重さがあるとした。軽いものはふうわりと舞い、水分をたっぷり含んだ重たい雪はぼってりと舞う。それぞれが季節の舞を舞いながら地に積もっていく。「おのが重さ」とした雪には罪がないが、地に積もって一面の雪へと変化した時にはその重さの集合体が大きな脅威となる。昨年の豪雪の被害を知ってからは単純に雪を冬の風物詩とは思えなくなった。

更衣こころの山河ひとつ越え     鷹羽 狩行
白きもの隠しおほせず柏餠       〃
制服はかたまりやすく夏きざす     〃

 「狩」六月号より。一句目。心にも山河があるとした点がまず新鮮である。さらに、その山河は固定した風景ではなく越えゆく山河であるとした所が独創的である。現実の山河を越えることにも比喩としての山河を越えることにも気力や体力などのエネルギーが要る。それだから心の山河は清々しいものでありたい。その願望に更衣の心がよく合う。心の中にも風景がある。春の気分に占められていたものが、更衣をすることで夏へと入れ替わったのである。ちょうど山を越えるように河を渡るように。山を越え河を渡ることは自分が身を置く環境を変化させることである。それが地理的距離的空間的変化であるのに対して実際の心は春から夏へと時間軸をすべらせたのであるから季節の変化を自らが行ったことになる。肉体は動くことによって変化させることが可能であるが、心は空間移動を伴わずに動かすことができる。心が動くとはすなわち感動するということである。更衣によって新しい季節の到来を感じた。山河を一つ越えるほどの清々しさと達成感がもたらされた。春の心は征服する、乗り越えるという挑戦的なものではないが、春たけなわのけだるさや春愁などは少し重い。それをさっぱり払拭して命漲る夏へと乗り込んだ少しばかり得意な気持ちである。

 二句目。柏の葉ですっぽりと包みこんでしまわなかったのがよかった。包みこんでしまえるほどは葉が大きくはなくてどう工夫してもしなくても普通は少しばかりはみ出す。柏餅とはそうしたものである。ぺたりと包んでしまったものなどは売っていない。柏の葉で包んでいるところが柏餅の命であり、セホルスポイントである。食するのは中身の餅であるから要は餅が美味ければ食べ物としての価値はある。だが、柏餅を求める側は餅だけを買うのではない。柏の葉にくるまれた風雅を求めるのである。すなわち季節を食するのである。緑の葉の清々しい色彩が食欲をそそる。とはいっても中身の餅の美味さも命である。餅は白さが命、白さが際立って目が満足する。このような季節を食べるものは色彩にこだわる。というより味覚のみならず視覚、嗅覚、皮膚感覚など五感・六感を心地よく刺激して満点となる。緑からのぞく白い餅肌が柏餅の美味さを満点の出来栄えにした。

 三句目。見慣れた駅の風景が一変する朝がある。黒から白へ、通学の生徒の服装が一気に夏へと向かう。更衣である。清々しい光景である。輝いて見える。一人が二人、二人が三人へと同じ征服の塊ができていく。若さの塊である。目に眩しい。仮に同じ会社に向かうサラリーマンとしてみよう。社会人はあまり固まらない。会社に到着するまではプライべートな時間として通勤途上も単独行動を好む。そこが通学と通勤との違いである。若さは無邪気に固まる。同じ制服という共通点が無意識の安心となり無防備となり親しみとなる。実際には個々に行動しているのかも知れないし、職場の制服かも知れないが、雑踏の中においても制服には一つの秩序があることを掴んでいる。