日本炭礦中央病院 

『遠賀中間医師会史-S.44-』より

遠賀郡水巻町頃末(釜ヶ谷)に、昭和6年1月に設立された三好中央病院

昭和9年7月より日本炭礦中央病院となる

昭和15年に日炭中央病院の新館と病棟を増築し、昭和34年には新病棟も増築されました

( 一鉱分院、浅川分院、三ッ頭診療所、二島診療所---昭和11〜14年に設置 )

( 日炭関連の写真を探しています )


日炭中央病院の記憶 

昭和34年に南側から見た、日炭中央病院の新館と旧館、左上には34年に完成した新病棟、右下は頃末小学校の一部です   

日炭中央病院の玄関前は、私の通学路でした。  入院の経験は、骨折時の1回だけと記憶しています  

 
                                                                                                                          
   ( 昭和12年の日炭中央病院の旧館部分 )                               

      日炭中央病院の新館・正面玄関 (昭和15年に増築)

          昭和6年1月に設立された、旧・三好中央病院と判明しました 

   ( 日炭中央病院---昭和9年7月〜昭和46年3月14日閉院 )

         ( 三好中央病院---昭和6年1月〜昭和9年7月 ) 

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医師・技師・看護婦の総数---昭和6年1月--19名、21年頃--230名、閉院時--130名 

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三好中央病院の初代院長---横山健夫 (俳人・横山白虹) 

日炭中央病院の初代院長---白土寿朝  

歴代院長---横山健夫 (S.6/1〜S.8)、白土寿朝 (S.8〜S.12/6)、
八田稠 (S.12/6〜S.21/5)、日隈精一 (S.21/5〜S.33/1)、林昌隆 (S.33/1〜S.34/11)、土井滋 (S.34/11〜S.46/3)
 

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昭和9年--内科・外科、11年--一鉱分院の設置、12年--眼科・耳鼻科、13年--産婦人科 

昭和14年--小児科・二島診療所、15年--新館・第1〜3病棟の完成 

昭和16年--皮膚科・泌尿器科・放射線科・歯科、26年--一鉱分院の改築移転、34年--新病棟の完成、病床総数-220床  

設置時期不明--柏原海水浴場の保養所 (海の家)、別府の保養所 (元・貝島本社の別荘跡)  

   

 

         昭和32年の日炭中央病院 (新病棟の建設前) 

            昭和38年の日炭中央病院と頃末小学校 

高尾区への坂道横の建物は、昭和15年に完成した日炭中央病院の第1〜3病棟です 

頃末小学校の新プールの北側建物は、看護婦寄宿舎のようです (当初は、三好炭坑の事務所跡と推定します)  

(明治〜大正期の頃末炭坑・三好炭坑時代には、頃末小学校の北側にも坑口がありました)

昭和47年 の日炭中央病院跡、頃末小学校の新校舎と旧講堂・プール(2代目)、左上は高尾浄水場跡です

   

昭和58年頃の中央病院跡の周辺---日炭閉山から12年後  

新病棟以外は、殆どが住宅地に変貌しています。  専用線跡地には、スーパーやパチンコ店・病院等が建っています  

 

              日炭中央病院の新病棟は、高松産業ビルになっています

            北側の小川製菓にも、昔の建物が残っています 

         (平成23年2月頃に解体されました)

 

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                  第一高松会館の前にあった、一鉱分院

           三鉱の西側にあった、浅川分院  (右はバス停??)

現在も残っている、三ッ頭診療所跡の建物

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第二鉱跡地と専用線跡地 

日炭高松炭鉱の第二鉱と専用線の跡地は、現在は住宅地や大型店舗・病院等になっています

昭和40年頃??の、南西側から見た二鉱選炭場跡と二鉱ボタ山

昭和33年から、二島鉱での揚炭と選炭が開始されました。  選炭場側の線路は、撤去されているようです 

 

       昭和30年頃の二鉱ボタ山です、この雄姿も32年1月に変化します             二鉱トンネルと巻上げ機へのトロッコ線 

  

    (不鮮明ですが) 高尾区緑町の西側(右)に、巻上げ機がありました 

多賀山から見た、現在の二鉱跡地と二鉱トンネル跡 

  

          二鉱トンネル跡の下まで、住宅が増えています 

  昭和41年頃の、南側の2つの坑口跡と選炭場跡 

  

昭和41年頃の、二鉱ボタ山へのトロッコ線跡と二鉱繰込場跡

  

昭和41年頃??の、整地された専用線跡地、宮ノ下社宅跡は平成元年まで残っていました

  

撮影年は不明ですが、日炭高松炭鉱の第二鉱と選炭場の最後の姿です

 

 

  

第二鉱の第四斜坑跡(人車・人道用)が、ベントナイト採掘時の排気口になっています (右は第二鉱の繰込場跡)  

昭和57年10月にベントナイトの坑内採掘を終了し、第二鉱の坑口は閉鎖されました  

   

昭和58年の、第二鉱・専用線跡地です---千代田鉱業(S.42より-日本ベントナイト工業)では、「ニッタン・ベントナイト」が製造されました  

杁クラブと宮ノ下社宅の北側では、ベントナイトの露天掘りをしたようです--(期間は不明)  

   

平成元年の、第二鉱・専用線・宮ノ下社宅の跡地です---二鉱跡地は住宅地に、宮ノ下社宅跡は総合運動公園になりました

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昭和30年代の日炭高松炭鉱

第一鉱 

第二鉱・大君鉱 

第三鉱

二島鉱 

日炭高松炭鉱の記憶 


更新日--2011/04/10