2007/07/20 (金) 10:00 am 更新
講談社現代新書。
普通のことが書いてある普通の本です。コンピュータゲームにちょっと詳しい人ならだいたい知っている事が書いてあるので、読む必要はあまりないのだろうけど、それでもやはりコンピュータゲームの歴史についての文章を読むのは面白い。「文化論」的な部分は、からくりや身体性、人工無能など、ゲームを語るのに当たり前の道具しか持ち出さないので、あまり目新しい議論はなく、いまいち面白くありません。
「テレビゲームには、視線が存在しない」
という指摘は一瞬新鮮に思えました。人間のコミュニケーションにとって視線は重要で、例えばロボットに動く目が付いていれば、注意の方向を共有できます。だから身体を持つ事は重要だ、と身体性の話に落ち着くのですが、映像の視線、例えばテレビ電話は相手が何を見ているかわからないから視線が存在しないと書かれているけれど、平面の映像からでも多少は分かることもあるだろうし、リアルな身体との本質的な違いは結局よく分からない。
B2007.04.16
朝日文庫。
短めの評論がたくさん。文章の難度にかなり幅がありますが、東浩紀のデビュー評論である「ソルジェニーツィン試論」が一番難解です。さっぱり意味がわからない。やはり若い頃はとことん難解な評論を書く(書いてしまう)ものなのでしょうか…? 通過儀礼であるかのように。自分も難解な文章を書いておかないと、立派な大人になれないのではないかという不安がよぎります。
第一部の状況論はどれも楽しく読めました。現在の東浩紀の情報社会論にすんなり繋がっていく感じがします。ただし今と比べるとかなり抽象的な議論になっています。いずれにしても、議論が洗練されていく過程が垣間見れて興味深いです。
第三部のサブカルチャー評論の中では、やはりエヴァに関するものが面白い。「日本には、アニメに関する批評が存在しない」「現在、まともな関心に値する日本の商業アニメーションはほとんどない」
など、ノリノリです。
「オタクから遠く離れて」「暗号と言霊」にみられる自分語りも、他ではあまり読めないので貴重です。
A-2007.04.11
光文社新書。
会社を経営するには会計の勉強もしなければ…と思って読んだけれど全く勉強になりませんでした。お金のセンスにまつわる小咄集みたいなものです。いや面白くて良い本で、さすが小説家だと思わされますが、文字の大きさや、別段難しい話でもないのに「ここからはちょっとむずかしくなるので、苦手な方は読み飛ばしてください」
という注意書きに見られるような、過剰な簡単さをここまで与えられると、ちょっとバカにされている気分にもなります。
著者に学習塾で一番大切な要素を聞かれて、「生徒の安全だよ」
と答えた塾の経営者のその言葉は、宇治学習塾小6女児殺害事件(2005年12月10日)の起こった後ではすごく重みのある言葉に感じられます。
B+2007.04.06
ここまで実用書らしい実用書ってあんまり読んだことがありません。できればあまり読まない人生を送りたいものですが、この本はすごくわかりやすくて内容も薄くて苦ではありませんでした。面白くはないけれど…。
B2007.04.05
講談社現代新書。
丁寧で慎重で迫力に欠けた本です。文章はつまらないけど読みやすい。『動物化するポストモダン』とは随分と印象の違う本です。
内容は、前半は主に大塚英志の『キャラクター小説の作り方』への反論で、後半はメタフィクショナルなライトノベルやノベルゲームの批評です。
前半は、納得はいくけれど、あまり面白く読むことはできませんでした。「どういうことだろうか」
と読者に語りかける文に端的に表されているように、非常に丁寧に、石橋を叩いて渡るかのように議論を進めていきます。Amazonの著者からのコメントの、「最初から最後までを体系的に構成し、その意図がなんとか実現できた本」「僕のいままでの本のなかで、もっとも読みやすく、また論理的な著作になっている」
という言葉からもそれは匂わされます。東浩紀はもっとダイナミックで危なっかしくて、そして面白い評論を書いてくれるのだと思っていました。「どういうことだろうか」ではなくて「どういうことか」、パフォーマティヴ、コンスタティヴとか書いていたような昔の文章が懐かしいです。そこには確かに評論を読む快楽がありました。論理的であることに問題はないのだろうけど…何が違うのかなあ。
一方、後者の作品批評は結構面白く、取り上げられているライトノベルを読んだりノベルゲームをやりたくなったりしました。しかし、メタフィクション的ではない作品すらもメタフィクション的に読み解くこと(それが環境分析的な読解?)が普遍的な批評態度になるとはどうしても思えません。メタフィクションおよび環境分析的な読解を「ポストモダンの文学」だと称揚すること、それにすんなり納得できるようになるには、まだまだ時間がかかりそうです。
まず、現段階では、環境分析的な読解は誰にでもできる読解ではありません。この本は東浩紀の才能によって支えられているのです。また、この読解の面白さが理解できる人も一部の人に過ぎません。それは、定義に依れば、殆どの人は評論など必要とせず、みんな単純に萌えているだけだからです。結局、もはや死んでいる文学や批評の残滓でしかありません。それが果たして物語を語る根拠になり得るのでしょうか。
この本は、対象をメタフィクションに絞った、良質な評論集です。派手な色とゴシック体の添えられた講談社現代新書に相応しい、ポップな評論集です。
B+2007.04.04
環境管理社会における自由をテーマに、1冊まるまる対談で費やしています。
消極的自由が十分に満たされて、自由を制限されているという意識を持ち辛くなっている状態を、東工大での授業同様、東浩紀はうまい例を挙げて分かりやすく説明しています(あらかじめ選べるコマンドが限定されている、など)。そんな中での閉塞、すなわち「自由の牢獄」状態で失われているものは何なのか、という問題に対しては、授業では「匿名性」というキーワードを挙げるに止まっていたのですが、この本ではもうちょっと深く考察しており、大澤真幸の言う「無」の排除、根源的偶有性、といった概念と、東浩紀の言う匿名の自由、誤配可能性といった概念が、感動的なまでに長いプロセスを経てようやく繋がり、匿名性が自由を考える重要な鍵になるということがうっすらと理解できました。それは対談としてはかなり面白くあります。しかしこれではわかった気になって満足するのはかなり難しいので、簡潔にまとまった評論が欲しいところです。
A-2007.03.29
光文社新書。
面白い本です。統計を眺めて楽しめます。Amazonのレヴューを読むと、統計が杜撰、サンプル数少なすぎなどと批判されていますが、その杜撰さがバカにもちゃんとわかるのだから親切な本だと思います。統計なんて取らずに、「私の知り合いは〜」「私が見てきた学生は〜」などと主観的な例を挙げているだけの本なんて無数にあるというのに。この本に怒っている人たちは、そういった本に対してもきちんと怒っていただきたいものです。
東浩紀は講演で、三浦展の本の最大の弱点は写真にあると述べていました。例えば、「希望を失った若者が街中に倒れ込んでいる」
という言葉とともに街で眠り込んでいる若者の写真が載っています。でも起こしたらIT社長かもしれない、と東浩紀は言います。確かにそんなこともあるでしょうが、それでもやはりこれらの写真は本の楽しさを増しています。1冊の本に込められた物語を明瞭にしています。このようにリリカルな写真が添えられた評論といえば、宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』が想起されますが、これも写真が良い効果を出しているので、似たようなメソッドで作られている評論をもっと読んでみたいものです。そもそも自分はこの本を、東浩紀のいう弱点である写真が気になって読んだのだから。
ただ、写真家の名前がどこにもなく、本文でも写真について何一つ説明されていないので、これらの写真は誰が撮って誰の意図で入れられたものなのか謎に包まれています。
A-2007.03.02
中公新書。
『詭弁論理学』よりも純粋に論理パズルの本として楽しめました。「すべての碁石は同じ色である」の証明や、エリオットの消える妖精、ラングマンのパラドックスにフィボナッチ数列が応用できること、絶対に当たるミニマック、それを覆す自己言及など、面白い例がたくさん載っています。
自己言及による逆説を巧くまとめる最後の章は特に素晴らしかったです。ゲーデルの不完全性定理が「ウソつきパラドックス」に対応できることが、とても分かりやすく説明されています。同じ著者の『不完全性定理―数学的体系のあゆみ』にはこのような話がもっと詳しく載っているのかな。
A-2007.02.12
中公文庫。書名には「少女コレクション序説」とあるけれど、べつにそれだけについて書かれている本ではなくて、『エロティシズム』以上に広範なテーマのエッセイが載せられています。でも「マンドラゴラについて」はさすがに浮きすぎ。
様々な逸話や考察がかなり自由に書かれていますが、「私にとって、娘という存在は、近親相姦の対象にするためにのみ存在価値を有する」
だなんて筆が乗りすぎ、自由すぎ。凄いなあ。
B+2007.02.08
河出文庫。文春文庫版には序文があるようですが、この河出文庫版にはなく、残念。
死者の口寄せから占星術、錬金術といったものの紹介が載っています。キリスト教に対置されるものとしてのこれらの描写は優れたものです。中世における、社会的な理解の行き届いていないどろどろとした領域は、キリスト教がカヴァーしない領域なのだと漠然に思っていましたが、キリスト教のアンチテーゼとして人工的に作られ対置されているものも多く含まれているのですね。
B+2007.02.05
河出文庫。
エルゼベート・バートリや則天武后みたいな紛うことなき極悪人から、エリザベス女王のような特に悪女じゃない人まで混じっています。中でもマグダ・ゲッベルスは全く悪女ではないように思えてなりません。ナチ党の人間は全て悪だということでしょうか。それとも自分に知識がないだけで、マグダの存在がユダヤ人虐殺の契機になったりしたのでしょうか。
まあ普通に面白い昔話の本なので、2chあたりで女性叩きをやっている連中は読んでも良いのではないでしょうか(てきとう)。『まれに見るバカ女』なんかよりは学がありそうだし。
それにしても悪女は毒殺が大好きですね。しかし、現代の毒殺と言ったら無差別なものが殆どで、知性が感じられません。何故こんなことになってしまったのでしょうか。
B2007.02.01
中公文庫。澁澤龍彦の本を読むのは初めてです。
様々なテーマで、淡々と、先人達の研究を援用しつつ、エロティシズムについて書いています。人間は色々な事を考えるなあ。キチガイだ。
フロイト的に何でもペニスの象徴とか言ってればそれで評論になるのか、みたいな感じもするけれど、これは時代的なものなのかなあ。細長いもの、直立したもの、尖ったもの、箱、部屋、穴、そんなものは世の中にいくらでもあります。つまり比喩に使えるモチーフは探すまでもなくそこら辺に転がっているわけで、それぞれに一々「これは何々の象徴である」と言ったところで何が面白いのでしょうか。「童話のエロティシズム」の項で紹介されているような、物語性を緻密に付随させた比喩であれば、こんな事よく思いつくなあと感心はするけれど。いずれにせよ、キチガイじみています。しかしこの本は、あくまで淡々と書かれています。読みやすい。
B2007.01.27
三点リーダが多い。三点リーダが多いとバカっぽく見えます。昔の浅羽通明(『天使の王国』あたり)はそんなことはなかったのになあ。接続詞「けだし」が多いのは相変わらず。
議論は非常に回りくどく、何度も読者に確認を促し、じれったいです。その着地点は極めて無難。知のアクセサリー化を批判した後に来るものは、このような泥臭い指針しかないのでしょうか。「タコツボ」批判を徹底して、一周回って戻ってきた感じ。
ところどころ興味深い視点を与えてはくれます。例えばこの本で描かれている臨床思想士という「SF」は面白いです。しかしそのような面白い夢想から、読者は否応なく現実に引き戻され(所詮SFでしかないと念を押される)、落胆を味わいます。その末にあるのは何も言っていないような結論です。
回りくどいことは、良く言えば丁寧であり、良く出来ている本だけれど、もうちょっとスピード感があれば、結局そこに落ち着くのか!といった落胆は小さかったのではないかと思います。
B+2007.01.23
宮台真司の著作のうち、古い割にはまだ文庫になっていないものの1つ。酒鬼薔薇事件を扱っています。
語り下ろしと対談から構成されており、本書と同様に事件に際し緊急出版された『終わりなき日常を生きろ』と比べると完成度は低いです。対談では、本文で語った事と同じ内容を改めて語りがちですし。
ただし、事件に直接関係無いような話、例えば唐澤俊一らとの「少女幻想」に関する鼎談は面白かったです。本文では、須磨ニュータウンが異質であるという話は興味深いところでした。
B+2007.01.17
ちくま文庫。
もはや風化も甚だしいというよりも歴史上の出来事となってしまったオウム事件を扱った本ですが、1冊の本として非常によく出来ています。写真とコラムの相乗効果もあり、眺めて楽しい評論となっています。生硬な理論とサブカル連中への訴求力の高さの両立は、奇跡的とも言えるのではないでしょうか。
尚、この本を読んだところで、キツさを感じている人々が「まったり」生きられるわけがないので(「宗教も恋愛も、「全面的包括要求」に応えうるという点で、機能的に等価」
→「性がダメなら宗教しかない」
と考えずに「全面的包括要求そのものを放棄する」
生き方を提示、しかし「きっとどこかに「まったり」できる居場所がみつかるはずだよ」
と結論付けるだけに留まる)、きちんと具体的な解決策を示している本を読む必要があります。竹熊健太郎の『私とハルマゲドン』とか。
A-2007.01.16
SF研部室に転がっていたので読んでしまいました。他にもっと読むべき本はあるというのに…。感想を書こうとして初めて、「腐女子思想大系」などというギャグ漫画みたいなサブタイトルが付いている事に気が付きました。
この本は表紙が志村貴子なので始めは好印象を持っていたけれど、著者の顔写真を見てやっぱり微妙かもと思い、それからずっとどうでもいい本だと思っていたけれど、読んでみてやっぱりどうでもいい本であることがわかりました。もっとも、著者の顔写真が、なんて言っている時点で既にどうでもいい本扱いしているようなものですが。
この本に書かれている腐女子像が正しいものであるか、というのは自分にはよく分かりません。ただ、例えば、30過ぎて性欲もあんまなくなったから彼氏が居なくても無問題、みたいな記述は俗説とはだいぶ異なるような気がして引っかかりますが、その記述に立脚してそのまま議論は進行します(その個人だけの議論だけなら良いのですが、勿論そういうわけではなく)。そういった本質的でない部分を注視しても雑な本であることはわかります。
なお、読んでみてやっぱりどうでもいいと分かった、というのは思ったより普通だったという意味も含まれています。素直に書かれているという印象が強いです。素直に書く事が常に正しいとは思わないし、少なくとも、オタクがオタク論を素直に書く事が火種を生むのは当たり前。しかも著者は、オタクアイデンティティは立派に持っているけれど、知識はあまり立派ではないようなので、素直に書くと1番まずいケースではないでしょうか。
B-2006.11.20
講談社現代新書。NN募集中(旧HALF)から借りる。
始めの方は雑誌掲載時に読んでいたので、懐かしいです。著者が如何に論争を発生させるかを滔々と書いていたのが、高校生の時の自分にはちょっと新鮮に感じられた記憶があるのですが、この単行本ではそれが見当たりません。自分の記憶違いだったのでしょうか。
物語の作り方の技術的な部分に関しては普通というか正論というか。参考文献に『ハリウッド脚本術』という本を挙げていますが(ちなみに本書には巻末にまとまった参考文献がなくて、良くない)、そういう本からの技術の抜粋でしかありません。やはり本書は近代文学論として面白く、田山花袋『蒲団』論は大変面白く読めました。
第五講では、手塚治虫はじめとして「ジャンルを問わず多くの作家」
が「記号的にでしかありえない表現が現実の死をいかに描き得るか」
というテーマに対して努力している一方、「スニーカー文庫のような小説」の書き手はその努力に乏しいということが書かれています。それはまあ、そうなんだろうけど、ろくに「スニーカー文庫のような小説」を読んでいない自分にはその具体例がさっぱり浮かんでこないため、努力に乏しい所為でどのようにダメかという点が見えてきません。「スニーカー文庫のような小説」をたくさん読めばわかるのでしょうか。
A-2006.01.24
書名に反して業界ネタではなく普通の漫画評論が半分以上。軽い文章が多く楽しく読めますが、『さるマン』や『私のハルマゲドン』の方が遥かに面白い(というかみんな読め)。でもいしかわじゅんとかのどうでもいい文章よりはずっと面白く読めます。韜晦にならないし、決して自慢話にならないし、自分語りも面白いし。まあつまり「たけくまメモ」くらい面白い。というか変わらない。
ウェブで既に読んでいた文章も含まれていましたが、その中の中上健次原作の漫画についての文章を再読して、やはり中上健次の書こうとした「明日」は、『編集王』のマンボ好塚の遺作の元ネタなのではないかと、気になって仕方がありません。(『編集王』の感想でも書いたけど…)
B+2005.06.21
岩波新書。
日本における学問の問題を「世間」というアプローチから論じた本ですが、理系の人間はべつに読む必要ないかなあ…、と理系と文系を完全に分けて考えてしまう習慣に自分は毒されていますが、そしてそのような態度はありきたりな論理によってこの本でも批判されていますが、特に反省はしない。分野の融合とか、生涯学習とか、よくある理想論に読めて、あまり面白くありません。
フッサールの生活世界の概念も、分かりにくかった。
B2005.05.12
PHP新書。PGGMが学校に持ってきていたので、「基礎集積回路」、「離散構造とアルゴリズム」の時間と、帰りの電車で読む。
中島義道は、普通の人間に比べて、美しいものが本当に本当に好きなのでしょう。この人の行動は大変面白く、したがってこの本(の前半)は面白いのですが、常識的な行動をする人間との違いは、どれだけ美しいものを愛しているか、というところにあるのでしょう。ただ、この本の後半は割と普通の日本人論で、いろいろなところから引用してまとめているだけに過ぎず、あまり面白くありませんでした。
B+2005.04.25
新潮新書。
なんと内容の無い本なのでしょう! これで680円もするなんて信じられない。文章は、きちんと面白いのだけれど、なるほど確かにそうだ、と自分は共感するだけで、あまり為にならない。
さて、本書では、ぐれた作家、ぐれていない作家、等の分類をしているのですが、それの漫画家版を書いてみたいと思います。
難しいな…。
B+2005.04.20
面白いけれども、とにかく議論が雑。400ページもオタクテキストサイトふうの文体で丁寧に仕上げるのはかなり難しい事だと思うけれど、神経質な人にとってはこの本はネタとしか受け取れないでしょう。あと、女性を馬鹿にし過ぎ。良くありません。普通人が読んだら、ああやっぱりオタクはキモイ!と思われるだけでしょう。まあ、この本は、本の影響力によって世の中を変革しようというものではなく、この先まともな人間はみんなオタクになるのだと主張しているだけなので、普通人に対する影響なんてべつに考えなくても良いのでしょうが…。
個人的に気に喰わないのは、サブカルを貶めているところです。べつにモテるだけの為にサブカル化するわけではないだろうし、仮にそうだとしても、いつだったかの『SPA!』によればサブカルは恋愛ヒエラルキーの底辺じゃないみたいだし…。ってそんなこと『SPA!』を持ち出すまでもない。
知的に振舞おうとすれば、サブカル化してしまうのは仕方ありません。傍から見て、サブカル文化の方が知的であるかのように見えるからです。サブカル化すると、良いことがあります。普通人からあまり馬鹿にされなくなるのです。勿論ある程度は馬鹿されるでしょうが、上手く社会を渡ってゆくにあたって、サブカル化するのはかなり合理的な方法だと思います。
この本は、どうやら主に恋愛について語られているみたいだけど、それはオタクになって妄想力を高めれば解決するらしいので、大した問題ではないに違いありません。しかし他人から馬鹿にされるという問題に関しては? そもそもこの本は負け犬女から馬鹿にされた反動で書かれたように読めます。馬鹿にされるというのは重大な問題なのでしょう。しかし、妄想力を高め続けても、馬鹿にされるという問題はちっとも解決出来ないではないですか。本書で予言されているとおり、オタクが勝利する(何に?)のであれば、その時はきっと馬鹿にされる事はないのでしょう。でもそれまでずっと馬鹿にされ続けるのは大変そうです。知的なサブカルの方が馬鹿にされないので、サブカル化は良い選択肢だと思うのだけどなあ。
『タクシードライバー』や『バッファロー'66』についての解釈は良かったです。自分はつくづく映画を観れてない(ら抜き)なあ…と思ってしまいました。
B+2005.04.15
「文化社会論」のレポートの為に読む。
イニシエーションを用いた洗脳のプロセスが分かり易く述べられていて、面白かったです。『覚醒のネットワーク』や『悪魔祓い』よりも、読者をしっかり楽しませようという意識が見受けられ、この人の授業に近いものを感じました。でも、尾崎豊や上々颱風の詩を読み解いたりするくだりは、詩が苦手な自分としてはちょっと読むのが辛かった。『悪魔祓い』でも最後に突然「イマジン」が引用されてどうしようかと思いました。『覚醒のネットワーク』にも詩の引用があったなあ…。
B+2005.02.18
朝日文芸文庫。
内容はメタ美人論。とても面白かったです。ただ、引用が多いのは良いというかそこが読みどころなのだけど、それ以外の部分は同じ事の繰り返しが多くて分量の割に内容が豊富だとは思えません。あと、美容産業やファッション産業が見えない力で人生論に影響を与えているというのはちょっと苦しい。
4章の容貌における民主主義、ここは福田恆存の引用で成り立っているような章です。民主主義を疑ふ
福田恆存が、「私の原理は大変簡単なもので、醜く生まれたものが美人同様のあつかいを世間に望んではいけないということです」
と書くのは大変分かり易く、本書で最も印象付けられたところです。
B+2004.10.13
双葉文庫。
他人の言葉の誤用を論ってばかりかと思いきや、論争でないからか割とおとなしい。例によって一番面白いのは「はじめに」。何故かというと、偉そうだから。後は、普通に雑学の本として楽しめます。
ばくち打ちは二度ばくちを打つの項では、「同じ意味の言葉を知らずに重ねて使うことを「重言」と言う」
ということで、「ばくちうち」や「おみおつけ」を例として挙げていますが、別の章では、「放射能という目に見えない汚染の恐怖とそれを検出するハイテク(当時の)技術に誰しも強い関心を持っていたからだろう」
と、
「ハイテク技術」なる明らかに格好悪い重言が何の断りもなしに出てきて、ちょっと不親切です。
B+2004.09.28
「宗教社会学」の教科書。まんまなタイトルです。そういえば、橋爪先生は最初の授業で「宗教社会学という科目があるのは東工大だけだ」と言っていたと思うのですが、気のせいですか? うーん、さすがに聞き間違いかなあ。
とりあえず、講義スタイルというか口語体というか、そんな感じの文章が気に食いません。絶対読みにくいと思うのだけどなあ。最初の文章とあとがきの文章はまともなので、その読みやすさに感動してしまいますね。講義のプリントに注釈を付け足す方法で書かれているので、そもそも構造的に読みやすくなるはずがないのですが。
宗教概論的な本としては良いがこれを読んで宗教をわかったつもりになるのは危険だ、という感想が割と目に付きますが、この本を読んでわかったつもりになれる人なんているのでしょうか? 不思議だなあ。全然分からない、仏教とか。おかしいなあ。
この本にはだいたいメジャーな宗教に関する説明は載っていますが、日本人になじみの深いと思われる神道に関する説明が載っていません。なんということでしょう。その補足のためか、神道に関しては授業で説明してました。その説明中、僕は
授業をサボっていましたっていうかサボっていたから授業中にやったかどうかなんて知りません何それ神道ってテストに出るんですか?それは困る死ぬ。
あと、索引がないのは最悪ですね。
B2004.07.15
講談社現代新書。
戦後マンガにおける戦争の重要性はよく分かりましたが、あまり面白くありません。少なくとも、言及されている作品の方が面白そうです。って当たり前か。マンガ評論として全く正しい。
言及されている作品の中で、個人的にとても読みたくなったのは佐々木マキの『ヴェトナム討論』。佐々木マキの作品は絵本しか読んだ事がなく(『ねむいねむいねずみ』とか)、漫画はこれまで一コマも見た事がなかったのですが、この本に載っている『ヴェトナム討論』から引用された二つのコマは、自分の持っていた佐々木マキのイメージを一変させました。衝撃です。
B2004.06.01
講談社現代新書。
「世間」という言葉の使われ方を、様々な文学作品を引用して解説した本です。前半は古文からの引用が多いのですが、昔から古文が苦手な上に大学受験以後は全く勉強していない自分にとっては読むのが辛かったです。中途半端に『徒然草』の引用には全訳が付いていますが、だったら『歎異抄』他にも付けてくれれば良いのに。受験生の時ならもうちょっと自然に読めたかもしれません。
「無常」という言葉についての解説も少しありました。変化を求めない感情
から「世は無常」と憂うのは、なるほど、良く分かりました。しかし、自分なりの生き方をしたいと思っても容易にはできない
時に「世は無常」と表現するのは、よく分かりません。全く正反対の意味のような。
自分は「社会性が無い!」と日々主張しているような気がしますが、societyが訳されていなかった200年前だったら「世間性が無い!」と主張していたのかなあ。「世間性」と言うと何か変な感じですが、『徒然草』で使われている「世間」の意味は、自分が「社会性が無い」と感じる時の「社会」と同じようなものだと思います。そして、『徒然草』をはじめ、世間性に疑問を抱いている文章には、それが何時の時代に書かれたものであっても親近感を覚えますね。
B+2004.05.27
中学生向けの本です。自分の人間としてのレベルを考えると、このくらいの本が丁度良いかもしれません。
そのはずだったのですが、一部分かりにくかったです。特に、中世ヨーロッパの賤民についての話で、「(一三、四世紀)以前はこれらの仕事そのものはあったのですが、まだ職業としては成立していませんでした。それまでは高位聖職者や家長によって行われていた」
ということは差別されていた粉挽きや道路清掃人や死刑執行人といった人々はそもそも存在していなかったことになりますが、「(このような仕事が)なぜ、一三、四世紀以降、賤しまれるようになったのでしょうか」
と書かれると、そもそも存在していなかった人々が賤しまれるはずはないのだし、賤しまれるのが人ではなく仕事そのものだとしても、一三、四世紀以前は高位聖職者や家長が行っていた仕事であるがゆえに賤しまれることはなかったのではないか、と思えてしまいます。すると、高位聖職者や家長が何故そのような仕事をしなくなったかについての説明が必要ですが、具体的には何も書かれずに、差別の原因は大宇宙に対する畏怖の感情で、それは一三、四世紀になってキリスト教が浸透しても消えなかった為に大宇宙に接触する粉挽きなどの職業は差別された、といった説明が続く事になります。もっと詳しく書かれてる(中学生向きではない)本を読めば分かるのかなあ。
著者の生い立ちが描かれる前半はとても良かったです。
B+2004.05.13
講談社+α文庫。
「パフォーマンス論」のレポートの課題は次の通りです。
1. パフォーマンスの現場を体験し(ビデオや映画は不可)、そのパフォーマンスについて、どのようなものだったかを記述するとともに、その「醍醐味」、本で読むのと実際に見るのとどのように違うか、新たに発見したこと、などについて、自由に論述してください。その際、行われた日時、場所、入場料など、客観的な情報も添えること。(字数自由)
2. 上田の著作『悪魔祓い』(講談社+α文庫)[『スリランカの悪魔祓い』(徳間書店)も可]を読み、その中で展開されている、「イメージ的コミュニケーションとしてのパフォーマンス」という視点を参考にしつつ、パフォーマンスの意味についての君自身の見方を述べてください。(字数自由)
3. 講義の感想が何かあれば、書いてください。
というわけで、これは絶対に読まなければならない本なので、読む。
『覚醒のネットワーク』がより理論的になった感じです。それは、ですます調ではなくなった所為かもしれません。本質的な所は何も変わっていないと思います。ただ、こちらの方が自分語りをしている分、面白がれるポイントは多いです。最も面白かったのは、インドから日本に戻り、大学の自動給湯器に対しての一言、「なんて力がないんだ!」
さて問題のレポートですが、課題1に関しては、2003年10月15日の日記に書いた内容(早稲田大学で行われた呉智英の講義)を詳細なものに書き直し(東・宮台の対談についても書きたかったけれど時間切れ)、課題2は関しては、文学や評論の世界において、パフォーマンスに対して言葉の力が如何に弱まっているか書きました。全体として、知識人のパフォーマンスを論じたものとなりました。
レポートの題は「評論家族・知識財産・取り巻きの起源」。エンゲルスの『家族・私有財産・ 国家の起原』を意識していますが、別に意識されなくても良いです。その理由は、内容とあまり関係が無いからですが、これは即ち内容の支離滅裂さを表現しているのです。もうちょっとすっきりと纏まったレポートになれば良かったのだけど、「私達は綿矢りさの外見に萌えるのである。」
というフレーズで締め括られる点は気に入っています。
このレポートに何点が付くのか、非常に楽しみです。
B+2004.02.20
90点でした。
2004.04.16
宝島社文庫。
レポート対策に読む。読むだけ。この本はワークブックなので、読むだけではダメで、ワークに参加しないと機能しないそうです。understandするだけではダメで、realizeしないといけないそうです。しかし、レポートはunderstandして書くものだから、きっと読むだけで良いはずです。と思って読む。
読むだけなのは味気なくて詰まらなかった…。前の持ち主の書き込みがあれば、もっと楽しめたと思うのですが、全くありませんでした。その上、先のページはまだ見るな、みたいな記述が散見されるので、どうやら一度読んでしまったらもうこのワークには参加出来なくなってしまうようです。一冊のワークブックを無駄にしてしまったと思うと残念ですが、自分の性格から考えて、このワークブックをやる未来はとても想像の出来ないことでした。しかし、無駄な事をしてしまったという後悔は消えません。レポートは同じ著者の『悪魔祓い』について書けば良いのであって、この本をわざわざ読む必要はなかったし、自分の書くレポートがこの本の影響を受ける事も無さそうです。
-2004.02.18
太田出版の「Love&peace」とかいう700円の本のシリーズの一つ。ゲーム業界やその周辺の、著名人の言葉にツッコミを入れているだけの本。
昔、別冊「クイック・ジャパン」\800本シリーズなんてものがあったと思うのですが(『消えたマンガ家』とか)、それらと100円しか差がないなんて、とても信じられない程安っぽい装丁と薄い内容。ブックオフで100円で買うには良い本で、それならば十分に楽しめると思うのだけど。
それにしても、ゲーム系ライターが学歴を書くと浮いている感じがしますね。他のライターからも、本の内容からも…。
B+2004.02.07
講談社+α文庫。「パフォーマンス論」のレポートに必要な『悪魔祓い』がなかなか安く見つからないので(ケチだ)、ひとまず教官の別の著書を読んでみることにしました。
ですます調で書かれた極めて易しい本です。小学生でも読めるように振り仮名を付けてやるべきでしょう。しかし、ひねくれた大学生にとって、この本には首肯し難い優しさと易しさと楽観性があります。納得するのは格好悪い、とでも思っているのでしょうが、そんな人は、スリランカにでも行けばひねくれなくなるのかなあ…と、スリランカで草稿が生まれたこの本を読んで思います。
ところで結局、外側の情報に頼らず、「私」を私自身の内側から説明する
にはどうすれば良いのでしょうか。説明出来ないとすれば自分の内側はやはり空白なのでしょうか。言葉に頼る事に問題がありますか。ならば、言葉に頼らないパフォーマンスでも行えば良いのでしょうか。
B+2004.01.31
講談社現代新書。この先、この著者の授業を選択する可能性は非常に高いと思うので、一冊くらいは…という感じで読む。大学近辺で読むとちょっと恥ずかしい。
構造主義について、能書きから予想され得る程度には分かった気がします。一番の収穫は、英語の教科書に出てきたインセスト・タブーの話をより深く理解出来たことです。逆に、親族呼称法のタイプが色々ある理由は全く理解出来ませんでした(P97,98)。
A-2004.01.05
竹熊健太郎のオウム論と自分語り。とても読み易く、面白いです。いじめられっ子として大変共感出来ます。自分は、特にいじめられていた経験があるわけではないのですが、いじめられているのではないか、という被害妄想は往々にしてありました。
しかし、この本の注目すべき点は何よりも、特別付録の年表にあります。これは一見、特に面白味のない普通の年表ですが、その中の藤子不二雄に関する記述を抜き出してみます。
- 1959 『海の王子』
- 1964 『オバケのQ太郎』
- 1970 『ドラえもん』
- 1972 『魔太郎がくる!!』
- 1973 TV『ドラえもん』日本テレビ
- 1978 『老年期の終わり』
- 1979 TV『ドラえもん』新作/テレビ朝日
- 1979 ドラえもんブーム
- 1987 TV『エスパー魔美』テレビ朝日
- 1988 TV『キテレツ大百科』フジ
- 1988 藤子不二雄、コンビを解消
一つ変なのが混じっていますね。「老年期の終わり」です。どうして短編でこれだけ、それもオウムと関係があるわけでも世間に大きな影響を与えたわけでもないのに載っているのか、それはやはり、年表制作者がこれを重要な作品だと判断したからに違いありません。
「老年期の終わり」は、数ある藤子・F・不二雄のSF短編の中でも最上級に素晴らしい作品だと思っています。藤子・F・不二雄の中で最上級なのだから、藤子不二雄原理主義者の自分にとってみれば全ての短編漫画の中でも最上級であります。それなのに、人に読ませてもそんなに良い反応を得られない事が多く、しょっちゅう悲しい思いをしておりました。それだけに、この年表での「老年期の終わり」の扱いは、「分かる人には分かるんだ!」という感じで、非常に嬉しく思うのです。
あと、この年表、『A』の主人公である荒木浩の名前が荒木浩広
となっています。荒木浩広報副部長(当時)ということで、実に間違え易そうではありますが、「浩広」って何と読めば良いのでしょう。
A-2003.12.06
双葉文庫。
昔から読んでいる人にとっては新鮮味に欠けるであろう人権イデオロギー批判が多くを占める本ですが、最強の被差別者をネアンデルタール人としたところに最大瞬間的な面白さがありました。あとがきに代えても良いです。
しかし、特にこのあとがきに代えてに見られるように、最近(と言う程でもないけど…)の呉智英の文章は落ち着き過ぎていて、もっと煽動的でも良いのにな、と思います。「してもしなくても恐らく同じこと」「何も変わりはしないであろう」「何も変わらなかった」「やはり何も変わらなかった」
と、なんとも寂しい書き方ばかり(面白い文章ではあるのですが)。宮台真司や東浩紀もやたらと「(何を言っても何を書いても)変わらない変わらない」言っていますし。希望が湧きません。世の中ダメ。もうダメです。
A-2003.11.22
朝日文庫。宮台真司の本をまともに読むのは初めてです。
前半はテレクラに関する文章ですが、テレクラが何なのかをよく知らない自分にとっては難解でした。広辞苑に載っていない言葉(普通名詞)にはきちんと説明を付けて欲しいものです。と、しょっちゅう言っているような気がしますが、よく考えたら自分でも「ドキュン」とか平気で使っていて一貫性がまるでありませんね。困ったものです。でも、「ドキュン」に定義なんて要らないような気がする。知を放棄してのみ「ドキュン」という言葉が選択可能になるのだ。
ともかく、やや分からないながらも無理矢理読んだ今では、テレクラが「何なのかをよく知らない」状態から「どういったシステムなのかをよく知らない」状態へレベルアップしました。良かったです。今更どうでも良かったです。
そんなわけで、テレクラに関する以外の文章(テレクラと全く関係ないわけではないけど)が集められた後半の方が面白かった。特に、「いまどきの恋文」と「「良心」の犯罪者」が。
A-2003.09.20
ちくま文庫。
ここのところ「コミュニケーション弱者」という言葉にかなり意識的なつもりなので、とりあえず読んでみたのですが、読み辛い文章にかなり苦労しました。推敲していないのかなあ。確かに自分だって読み易い文章を書いている自信はあまりありませんが、さすがに同じような意味の事を持って回った文体(あくまで内容ではなく文体が)で幾度も繰り返されると、はじめからもっと簡潔に書いて本を薄くしろ、とか、呉智英のことを狂人の言を弄する非道な男だとか言っていないでその文章を見習え、とか言いたくなります。
ここでわざわざ呉智英に触れたのは、中島梓の呉智英批判(呉智英という名前はぼかされていますが)が意外に思えたからです。だって、この人の北朝鮮拉致事件についての見解には、そのまんま当人の呉智英批判が当て嵌まるではないですか。
それはさておき内容についてですが、おタク論は現在からするとかなりイマイチ、いや、おそらく当時としてもイマイチであったと思いたいのですがダメですか。ダイエット症候群やJUNEに関しての文章の方が面白かったです。
B+2003.08.15
幻冬舎文庫。
自分は岡崎京子の『東京ガールズブラボー』がとても好きなので、その漫画の中の世界(1980年代初頭)が崩壊し、現代に至る過程を読み解いているとも言えるこの本を読むと、やや感傷的になったりします。ちなみに、「崩壊」と書くと、まるでこの本で考察されている世界は過渡期であり、1980年代初頭はそうでないかのようですが、むしろ1980年代初頭がより過渡的な状況だからこそ『東京ガールズブラボー』に魅力を感じるのでしょう。
そんなことはともかく面白いです。巻頭の「前世を渇望する少女たち」も、巻末の「新聞投書に見る「発言したい欲望」」も、浅羽通明が書いている事以上に「少女たち」や「発言したい欲望」がそもそも面白いし。
A2003.07.31
双葉文庫。
自分は、自己紹介などに、平気で「好きな評論家:呉智英」と書いてしまう程重症の呉信者であるかのように見せかけながらも、実はこのデビュー作を読んでいなかったのです。また、呉智英の著作を何冊か読んでも、自分は重要な何かを理解していないのではないかという疑念を拭い去ることは出来ませんでした。それはきっと、デビュー作を読んでいないからに違いない!ということで読む。
やっぱり分かりません。封建社会になったら世の中が良くなる、という気が全くしないのです。勿論、萌建社会(ホウケンシャカイと読みます)になっても世の中が良くなるはずはないのですが、日本の一部はそうなりつつあって困ったものです。
読んでいて面白いのかというと、やはり、ところどころ引っかかりながらも、他の著作同様に面白くはあります。しかし、文章にしても、もっと後の方が洗練されているような気がしますし、何より違うのは読点の多さです。…ってそれは洗練具合とはあまり関係は無いのでしょうが、著者の年齢と読点の相関関係を調べてみるのも面白いのではないかと思いました。読点の多い呉智英の文章には独特の味が有りますね。
B+2003.07.14
光波氏より無理矢理借りる。
『戦闘美少女の精神分析』が出発点のようなので、それを読んでいない自分にとって、かなりわけのわからない本でした。きちんと読めたと思う文章は、竹熊健太郎と永山薫(ただし、最後の方)によるものくらいです。伊藤剛の文章は、難解な言葉が使われているわけではないのですが、微妙に外れた言葉遣いの所為か、非常に読みにくく、イライラします。
作家名等に丁寧な注釈が付いている文章もあるのですが、どうせ注釈を付けるならば、広辞苑に載っていない普通名詞に付けて欲しいものです。辞書に載っていない言葉の普通名詞を調べるのって、ある作家が如何なる作家であるかを調べるよりも、絶対に難しい。
ともかく、『戦闘美少女の精神分析』を読んでいないのに読もうとした自分がバカでした。
B2003.04.03
朝日文庫。
パラダイム転換というか、ポストモダンというか、それ系の本にしては極めて理解し易く、良いと思います(多分漢字が読めればOK)。と言いたいところですが、自分にとっては、もの凄く理解の桎梏となる点が一つありました。
この本に拠れば、人類の社会は、
狩猟時代(モノ不足・時間余り)
↓
[農業革命=第一の波]
↓
古代(モノ余り・時間不足)
↓
中世(モノ不足・時間余り)
↓
[産業革命=第二の波]
↓
近代(モノ余り・時間不足)
↓
[情報革命=第三の波]
↓
新しい時代=マルチメディア中世=洗脳社会(モノ不足・時間余り・情報余り)
といった感じに変化しているようなのですが、古代と中世の間に何も無いのは変です。第1.5の波があるべきです。ローマ帝国が分裂する頃に何とか革命が無くちゃダメです。しかし例えそれがあったとしても、「第三の波」はあくまで「第三」の波なわけで、『第三の波』を読んでいないながらも納得出来ません。
どう考えても変な事なのに、ネットでいくら探してもこの点に対してのツッコミが見つからないので、こんな事をいちいち気にする自分がおかしいのか、もしくは誤読か(またかよ)の、どちらかなのでしょう。「論理展開が強引」とか「穴が多い」みたいな事を書いている人は多く見受けられるのだけれど…。
あと、文庫版に関してですが、小林よしのりの解説が意味不明です。何なのでしょうこれは。また、カバー裏には、「文庫版あとがき」があります。
B+2003.03.23
中公新書。
山本弘のSF秘密基地のトンデモ・ファンのための推奨図書に詳しい説明があるので、自分が内容を紹介する必要はありません。そのページを見て、自分も読んでみようと思ったわけです。
とりあえず、面白かったです。でも、「四十人の貴族とその従者」や「死刑囚のパラドックス」は、頭がこんがらがってしまい、理解し辛かった。「議論上手」になれないばかりか、「論理のあそび」を楽しむことも出来ないのか自分は。
ところで、上に挙げたページに、(余談だけど、さべあのまのマンガでこれのパロディが出てきたのには大笑いしたっけな)
と書いてあるので、自分もパロディを試みてみました。しかし、とてもこのサイトには書けないような文章が出来上がってしまったので、2chのどこぞのスレに書き込んでみる。自分が2chに書き込むなんて大変珍しいことですが、それはともかく、元ネタが『詭弁論理学』だと分かってくれた人が居てビックリ。やっぱり有名な本なのですね。
A-2003.03.14
小学館文庫。
『まんがゼミナール』に含まれていない「第十章 まんが実技編」を読む。「のび太の恐竜」(大長編ではなく短編)の前ページ解説(?)です。漫画を描いてる時に読み返すと良いかも。
それにしても、略年譜の「毎年、世界各地の古代遺跡取材をつづける」
って羨ましすぎなのですが。
B+2003.02.03
双葉文庫。
1980年代くらい迄のマンガ界の大まかな流れを俯瞰的に把握出来る好著ですが、第一部の最後の方にある「われわれはプロレタリア芸術論を超えたか」という文章が全然わかりません。熱意だけは筆致からものすごく伝わって来るので、熱を入れて書けば書くほど伝わりにくい文章になる傾向が呉智英にはあるのかも、と大した根拠もなく思いました。(伝わらない一番の原因は、自分にプロレタリア芸術とその周辺に関しての知識が著しく欠けているという事だと思いますが)
また、藤子不二雄Aを藤子Fと対比させつつ「知的」
と称するのはちょっとどうかと。いやべつに「藤子Aは知的ではない」と言いたいわけではなくて。
B+2003.01.02
ちくま新書。
呉智英の『読書家の新技術』が十年近くも座右の書だったという小谷野敦による読書術。呉智英への「恩返し」
らしい。
最近の本だけに、『読書家の新技術』より現代に即しているし、呉智英再考みたいな部分も多くて面白かったのですが、この本には決定的に欠けているところがあります。
それは、読書をする事の意義、というか「意味」です。歴史その他に関して、「意味」が与えられていないと無味乾燥で記憶に残らない、みたいな事をあとがきで書いているのに、この本には、読書をする事の「意味」が殆ど与えられていません。
『読書家の新技術』には次のような文章がありました。
この本をヒントにして、読者が自分の読書の方法を確立する。そして、専門家として学者や編集者になって、知の世界への道すじを示す人もいる。家業の豆腐屋を継いだ人は、豆腐屋は豆腐屋の理論でちゃんと儲けつつ、知の世界も見る。中小企業をいじめる大企業の幹部となった人は、中小企業をちゃんといじめつつ、知の世界に志を持続する。つまり、近代教養の崩壊後の世界に、近代教養の最も良い遺産を送り届けるのである。これが知のゲリラ戦士の工作であり、要務なのだ。(『読書家の新技術』朝日文庫 P95)
うーん、格好良い。パフォーマティブとでも言いましょうか。実効性はともかくとして、少なくとも、読書をする事の「意味」は十分に与えられています。
一方、本書ではせいぜい「ガキに大きな顔をさせずにすむ」「頭のいい学者のでたらめも見抜ける」(P10)
くらいで、何とも格好良さに欠けますし、そもそもこれは、読書全般についてではなく、歴史を学ぶ事に関して書かれた文章です。他を探しても、「バカもあまりこじらせてはいけない」(P156)
とかその程度。
あくまで「術」ですから、読書そのものの「意味」なんか別に無くても良いのかもしれません。しかし、呉智英はあんな格好良い文章を書いたのだから、この点に関しては物足りなく思わざるを得ません。
以下、特に印象に残った部分を挙げます。
教科書には太宰治の『走れメロス』が載っていたりして、これを読んだ私は、まことにけったいな話で、わざわざ友達を呼びだして身代わりにするくらいなら、最初から妹の結婚式を済ませてから王宮へ暴れこめよなあ、と思い、そのとおりを感想文にしたら、教師から、君は理解ができてないねえ、と言われた。(P149)
自分も同じ事を考えていたので、ちょっと嬉しい。そうか、みんな同じ事考えてるんだな。よかったよかった。もう一つ挙げてみます。
若い人に宮沢賢治が人気があるのは、賢治という人がまったく色気がなく、恋愛の類を描かず、童貞で死んだのではないかと言われているような人だからである。だから、現代詩作家の荒川洋冶さんとか、私のような(荒川さんと一緒にするのは失礼だけれど)スケベ人間は、賢治が嫌いなのだ。(P154-155)
どどどどどうしましょう。宮沢賢治嫌いです。嫌いというかつまらないです。それも小学生の頃から。しかし同族嫌悪という言葉もありますし…
2002.12.21
宮沢賢治に関して、ふひとさんからツッコミを頂きました。この人がこんなにまともなツッコミを入れてくれるなんて思いもよりませんでしたYO!
曰く、宮沢賢治は春画コレクターで、恋愛の類も描いている、と。
googleで調べてみると、確かにそのようでもあります(参考1 参考2)。もっと調べればもっといろいろな事がわかりそうですが、そもそも宮沢賢治にはあまり興味が持てないので、このくらいで。
ともかく、他人の間違いを指摘するのが趣味の呉
をリスペクトする小谷野敦としては痛恨の一節
…でもないか。
A-2002.12.28
朝日文庫。
それなりに古い本なので、この本の通りに実践をしよう、なんて人は今時まさかいないと思いますが、今でも役に立ちそうな事は多く書かれています。ブックオフやインターネットを駆使した読書術も読みたいところではあるけれど。
さて、読書カードを作る、というのは、本書の中でも取り分け古臭く感じられる部分かもしれませんが、自分としては、かなり重要な事ではないかと思っています(本書以外のたくさんの本でも薦められている事ですが)。「むしろ、頭の中のカード、すぐにどっかへ行っちゃうけれど思わぬときにヒョイと出てくるようなカードの方がいい」
なんて言う浅田彰のように頭が良くないので、どっかへ行っちゃ
ったきり戻って来ません。やはり、気付いた事は書き留めておかなければ。
形式は全然違うものの、実は既に実践しています。それが、この文章です。
B+2002.12.17
角川文庫。言わずと知れた手塚治虫の自伝。
自分の最も尊敬する漫画家は藤子・F・不二雄ですが、謙遜しすぎているのか、言っている事や書いている事がにわかには信じがたい所があります。勿論、そういうスタイルに憧れはするのだけれど。
一方、手塚治虫ですが、複数巻にまたがる作品は『火の鳥』『ブッダ』『ブラック・ジャック』『アドルフに告ぐ』しか読んでいないものの、この本の文章には大変共感が出来ます。藤子・F・不二雄より全然人間らしいと思います。
特に共感出来るのは、プライドが異常に高かったり、知ったかぶりな所です。手塚治虫のように頭が良ければ、少しくらい問題のある性格であっても、偉大になれるのでしょうが、そうでない人は一体、どうやって生きていけば良いのでしょうか。困ったものです。
困った人も、困らない人も、とりあえず必読。
A2002.12.16
新潮OH!文庫。
いしかわじゅんが漫画に詳しいということは大変よく分かります。それは凄いなあと思います。一人の人間が書いている分、別冊宝島系の漫画関連の本よりは、一貫性があるところも良いです。
しかし、評論としてレベルが高いとはとても思えません(というか評論じゃないか…)。何かを深く追求しているわけでもないし、石川淳のように素晴らしい文章を書いてるわけでもない。再三、リアルな絵≠うまい絵だと書いているのにも関わらず、どのような絵がうまい絵なのかという説明は、望月峯太郎の項においての、「一番正しいのは、うまい人の描いた絵がうまい、ということだ」(文庫版P229)
という一文に限られます。こんなんでどう納得しろと。
たとえ今までに書かれたすべての漫画評論集が面白くなかったとしても、ぼくの漫画評論集は面白い。ぼくは漫画が大好きなのだ。その漫画好きのぼくが、好きなマンガのことを書いているのだ。面白くないはずがないではないか。
あとがきでこのように書いていますが、この論理に納得出来るか出来ないかはともかくとして、この文は本書の内容を如実に表していると言えます。
B2002.11.29
サインまでしていただいた本…というより、サイン会の為にわざわざ新品で買った本です。
読みどころは勿論「藤子・F・不二雄との五十年」ですが、これはそんなに分量がないので、後は、如何に気楽に生きるか、藤子Aが如何に気楽に生きているか(?)を延々と読まされることになります。
自分の年齢の所為かもしれませんが、というか浪人生なので当たり前ですが、明日にのばせることを今日するな
と言われても気楽になれるはずがないし、また、「もしぼくが元気少年で友達がいっぱいいたら、絶対に漫画家にはなっていなかった、と思う」(P236)
と書かれると悲しくなりさえします。それが真実であろうとも。
少なくとも自分にとっては、陽気になれる本ではありませんでした。
こうなったら、つまらぬことにケチを付けます。「つまらぬことでクヨクヨ悩んでいると、それはマイナスの二乗になるだけでドンドン落ち込んでいってしまう。それより、気楽にしてのんびりかまえば、プラス効果がでてきて、きっといいことがくる!」(P250)
とありますが、0を除く任意の実数を二乗しても、マイナス二乗しても、プラスになりますね。
B2002.11.26
双葉文庫。軽い感じの文章が集められています。
呉智英がメガネ女性&レズビアン萌えであることを知ることが出来て面白かったです。更に、『マンガ狂につける薬21』では熟女萌えであることまで判明します。まあどうでもいいですが。
最も気に入ったのはブランコのエピソードです。「ババをつかまされた少年」も良いなあ。二編の瞬篇小説は、どちらもよく分かりませんでしたが、つまらないわけでもなく、むしろ、「ロシア語を学ぶ」の方はかなり面白かったです。
さて、自分も、「大衆オタクの人々」という題で(つうかパクって)何か書いてみたいと思いました。
大衆オタク。
よく考えてみれば、これは不思議な言葉である。
大衆!
何故、このいまわしい言葉が、オタクの上に冠せられなければならないのだろう。大衆といういまわしい言葉を、あたかも栄光ででもあるかのように、誇らしく戴いた大衆オタクに、私は恥も外聞もなく、何千回と接しているのだ。志を保とうとする人ならば、大衆オタクという名前の者などに、一瞥も投げかけるべきではないのだ。
それなのに、大衆オタクに、知識欲の命ずるまま、私はつい接してしまう。ああ、自分の脳ながら、この大脳が、この小脳が、うとましい。ああ、情けない。
ここに記するのは、私の憎悪日記である。負の『東方見聞録』であり、負の『大唐西域記』である。不幸な時代に生まれ、大衆オタクと接するように流竄された私の『死の家の記録』である。私は、大衆オタクと接するうちに、大衆の実像を見たのである。
…とかなんとか。オルテガを読んで勉強しよう。
A-2002.11.25
双葉文庫。
すべからく読まれるべき本だとはとても思えませんが、最近はくるみファンですら呉智英の著作を読むようになって、彼奴の今後の思想状況がスベカラク懸念されます。自分もスベカラク分かっていない所が多く、呉智英の論敵の文章もスベカラク納得出来ないということはないので、もしも自分の周りにスベカラク呉智英みたいな人がいたら、「君ってバカだねえ。本当にバカだねえ。君がバカなのは前から知っていたけれど、前にもましてよくわかった」
と言われてしまうかもしれないわけで、もしもそんなことをスベカラク論理性を保ちつつ言われてしまったら、もうスベカラク生きていけないかもしれません。スベカラク怖い本です。特にスベカラク分からないのが吉本・埴谷論争についての文章で、くるみファンは「っつうかこれって背景知識がまったくない状況で読んでも
全然わからんとしか思えんぞっつうか なんかなぁ やっぱさ こういったリアルタイムで読まないと全然さっぱりな本ってのは なかなか読むのがきついね」
と言うのですが、スベカラクリアルタイムで読んでいない事だけが問題ではなく、上野昂志とかいう人を「もったいをつけた迷文で珍論を説く」
と称している呉智英本人の文章もスベカラク婉曲でもったいぶった文章であることが一因ではないかと思うところが多々あります。スベカラク十分な教養(?)があればすんなりと理解できるのでしょうけど。例えば「反教養と無教養」(文庫版ではP185)という小論。John.Donneなる人物を知っていれば、この小論のどこが面白いのかスベカラク理解出来ると思うのですが、残念ながらスベカラク知らなかった自分は、スベカラク理解するのにスベカラク手こずってしまいました。スベカラクこの本を読む人はスベカラクちゃんと知っているものなのでしょうか。スベカラク当てになりませんが、John.Donneなどスベカラク知らないであろうくるみファンにスベカラク訊いたところ、スベカラク文意をスベカラク理解してスベカラクいませんスベカラクでスベカラクしたスベカラクスベカラクスベカラクスベカラクスベカラクスベカラク
A-2002.11.18
幻冬舎文庫。
文系の人は読んだ方がいい本だとは思いますが、理系で、かつ、普通の企業に就職するなんて出来そうもない自分にとっては、読んでも考え方が変わるようなことは特にありません。第三章までは大学が如何なるもので如何なる利用をすべきか書かれているだけなので、第四章「大学から「教養」を奪還すべし」が最も面白く感じられる部分となるのは当然の事です。
さすがに6年以上前の本なので、第四章に書かれている事に関しても、「そんなことは百も承知だ」と思う人は多いでしょうが(特にオタクの人は)、的確な喩えを駆使した明晰な文章が良かったです。
A-2002.11.16
何故だかあまり良い評判を見なかったのですが、なかなか面白かったです。多く見た批判は批判ではあるけれど、反論としてはあまり機能していない感がしました(主にオタク的な知識不足を論っているもの)。
特に難しい部分は無いので、広く読まれるべきだと思います。そして、この本を読んで疑問を抱いた創作系の人々には、是非反例を創って頂きたいものです。そうでなければコピー世代と言われ続けるままだ。
自分はといえば、「『ガンダム』から『デ・ジ・キャラット』へ」と書かれているだけで、面白いなあ、もうそれだけでいいや、と感じてしまう程に動物化しています。困ったなあ。
実は新書をちゃんと読むのは初めてだったりします。この本が初めて読む新書、という人は結構多いかもしれません。
A-2002.09.17
小論集。今一番好きな評論家はこの人なのですが、それは何故かと言うと、他に殆ど読んでいないからです。それなのに敢えて一番好きだと言わざるを得ないのは、文章がとても面白いからですが、そもそも無知蒙昧な人間に、これ以上説得力のある理由が考えられようか。
この本の始めには、「『サルの正義』緒言」なる前書きのような文章が載っています。これは相当あざとい文章で、「この本に書かれてることは全てネタなのではないか?」と思えてなりませんでしたが、その後に「正論はあたかも暴論のように見える」と繰り返されると、此方は深く考えてない為か、簡単に支持してしまいそうになります。そんな不安定な感覚は大変好みですが、実際のところ、支持する支持しない以前に、論説の対象に関する知識が自分にはあまりにも欠けているため(特に政治的イデオロギー)、自分がその問題を咀嚼する前に否応無く信じ込まされてしまう危険を感じます。もう手遅れかもしれない。洗脳されているからこんな事書いているのではなかろうか。一番好きだとか言ってるしな。
でも、手塚治虫に関する文章を中心とした「第三章 読んだ、見た、聞いた」には、逼迫せざるを得ない暴論が殆ど含まれていない為、ごく普通に良いと思いました。
それにしても、どうして奥付に「用紙………【カバー・別丁扉】リ・シマメ グレーホワイト/【表紙】リ・シマメ 白/【見返し・帯】コルキー・ナチュラル」などと、わざわざ書かれているのでしょう。コミッカーズですか?(他に思い浮かばない)
A-2002.07.24
新潮OH文庫。光波氏より借りる。OTAKING SPACE PORTのライブラリーでほぼ読むことが出来ますが、図版があるとやはり分かりやすいものです。非常に楽しく読める本で、楽観的な未来感も精神衛生上好ましい。
内容が非常に拡散していることもあって、「学」と名付けるにしては、オタクの定義など途中混乱し、体系化が脆弱ではないかと思ったのですが、本の初めの方に、<オタクとは「オタクの定義だけでも三時間喋る奴」の別名でもあるのだ>とあるので、それならば、やはり確固たる定義の必要は無さそうです。などと思いつつ読み進めていったのですが、最後にはその辺も含め巧く纏めてくれやがりまして、正直やられたと思わされました。
しかし、「フツーの人のためのオタク学バイブル」と言っても、フツーの人がこれを読んで面白いと思うかは疑問です。
A-2002.05.09
統合性がイマイチな気がします。散弾銃みたいな内容。この人の本は他に読んでないのですが、予想より好きな文体じゃなかった。
B+2002.03.19
まず、読み物として最高に面白すぎました。それは自分が今まで現代的な思想に殆ど触れようとしてこなかった、もしくは触れても意味がわからなかったからだと思うのですが、この本は大変よく分かる。分かってないのかもしれないけど分かった気になる。だから楽しい。面白い。
第I部「論文の基本的な作り方」、第II部「20世紀的「知」の構造」、第III部「実践問題演習」から成っているのですが、とりあえず第I部で挫けました。まともな小論文なんてとても書けないと思いました。
だが問題はその次、知識を与える為に存在する第II部に痺れました。自分は何も知らない事が発覚しまくりで、小論文どころかこうしてネット上に文章を載せることにすら多少の躊躇を感じるようになる。躊躇を感じながら、結局、阿呆な文章を載せてるのは性格的な問題でしょうが、それはともかく何だかもう、小論文自体どうでも良くなる世界観の震撼ぶりです。著者のサイトにも、「この本に衝撃を受け、今まで自分が信じていた世界観が崩壊してしまいました。今は何を信じたらいいかわかりません。どうしたらいいでしょう。」
という悩める若者(多分)が寄せた質問が載っております。でもこれは大袈裟かなあ。現代人ならみんな薄々感じている事(自分の場合は特に情報と科学技術)、それが明確な文章として表れているのに自分は大きな刺激を受けたのです。不完全ながらも、概念のそれぞれが他の要素に繋がっていく。一冊の本に過ぎないけれど、かなり広い世界を鳥瞰出来ると思います。
第III部は、実際に書いてみなかったので、補完的な役割しか自分にはありませんでした。しかし、あれだけ震撼できた要素が小論文になるとどうにも矮小化してるように見える。なんでだろう。空を掴むような理論を自分に納得させるには、第II部のように丁寧な論理展開が必要だからかな。同じように、自分はこの巧みな論理展開が出来ないから、読んでわかったつもりになっても、他人に伝えられないのです(知識も無いけど)。それは事実上、小論文が書けないということです。なんてこった! 解答模範例を読むと、既に論理展開を高度に含んだ概念(よくわからん)を大量に使用していますが、じゃあそれを無理に暗記する、となると折角楽しい小論文の勉強が台無しですし。
これを読んで小論文が書けるようになるかは、結局のところよくわかりません。でも、小論文を学ばせるという明瞭な目的の御陰で、著者は思想を非常にソフトに伝える事が出来る。全然押しつけがましくないのです。根底に流れる思想があるのか無いのかよくわからない本は、読んでてあまり面白くないのですが、偏った思想が前面に押し出されているのも、鵜呑みにするのが危険極まりなく、知識を得る本としては不適当です。この本はその辺り非常にバランス良く、本当に素晴らしいと思いました。
A+2002.03.11
「はじめに」の文章内に、論理の飛躍が見られ、湯川秀樹とあろう者がこれでいいのだろうか? いや、俺の頭がとんでもなく悪い為理解できないのか? と、悩みあぐねいていたのですが、友人数人に聞き回った結果、発見には飛躍が大変重要であるという結論に達した。
事実、読み進めていくと、「飛躍」という言葉が良く出てくる。では、「はじめに」の文章は意図的だったのであろうか。だとしたら凄いことです。見事!
序盤は残念ながらあまり面白くありませんでした。しかし、少年が年齢を重ねるにつれて、その時々の意識が細密に描かれていくようになる。そうでなくては、自伝と、他人の書く伝記との境など、無いようなものだ。特にこれといったシーンがあるわけでもなく、実に淡々としてるけど、知識欲や学問はそれだけで感動的。終盤は加速度的に原子核まみれの話になるのだが、これもまた全然詳しく知らない人間にとっては(そうでなくても?)非常にワクワクするものです。
中盤以降は本当に面白く読めました。理系みたいな人間は、是非とも読んでおくことを勧めます。古いかな? 自分はあんまりそう感じなかったのですが。
A-2002.03.05
2004年11月29日放送。
呉「伝記を読んで自分が凡人である事を認識すべき」
太田「伝記を読んで自分も偉人になれるんじゃないかと思った」
眞鍋「読んでも何も思わなかった。何で読んだんだろう」
そんな感じで、話が噛み合ってるんだかないんだかよく分からない感じでしたが(呉智英あんまり喋ってないし)、眞鍋かをりに対して田中(だったかな)が「凡人伝読んでたんじゃないのか」とツッコミを入れていたのが面白かったです。というか実際、凡人伝を読まないと自分が凡人である事を認識するのは難しいのではないかと思います。偉人伝と凡人伝を両方読んだ上で、自分がどちらに近いかよく考えるのです。それに、巷には偉人伝ばかり溢れているので、凡人が生きる指標を見出すのは極めて困難です。凡人伝の重要性をもっと認識すべき。
B2004.11.30
大友克洋が若い! 言っている事も含め。話のテーマを素直に語る事に気恥ずかしさを感じているところとか、今とは大違い。なかむらたかしは、一昨年ロフトプラスワンで見た姿の方が格好良かったです。格好良いという表現が適切かどうかはよく分からないけど。
それにしても、何が言いたいのかイマイチ伝わって来ない人が多かったような気がします。
B-2004.07.31
5月10日に放映されたもの。日頃から「鬱だ鬱だ」と適当な事を言っている人間として、理論武装及び反省の為に見る。
日本人の15人に1人がうつだというのですがすごく多いですね。どこから出てきたデータなのか気になります。うつについて詳しく説明している番組ではなく、うつを患った人間とのコミュニケーションが中心だったので、どういう状況に陥ったら15人のうちの1人と見なされるのかよく分かりませんでした。
B2004.06.13
2004年4月23日に放送されたものです。
アニメ研のK村氏がメディア社会論(自分は今学期履修していないけど)の感想で千葉とかいう人間を叩いていて、そんな奴知らない誰だそいつ、と思ったのですが、2001年10月に一世を風靡した長峰君と同じようにしゃべり場でオタク議論を行った人間が居たのですね。なるほど。
というわけで観てみましたが、美少女ゲームの文化的価値が語られなかったのが残念です。長峰君は「あの感動のストーリーは俺では不可能だ」と素晴らしさを熱く語っていたのに、今回の千葉君はゲームのキャラクターに萌えている面しか見せず、これではあからさまに動物化しているみたいではないですか。やっぱもっとスノッブじゃないと! 2年半の間にオタクはこうも動物化してしまったのか、と憂いたくなりますね。過去のトラウマへの回収が2年半前に比べてあまり力を持たなかった事も、動物化の現れの一つでしょうか。(なんか凄く適当な事を書いている気がしますが…)
個人的に気になったのは「キモイ」という言葉について。2年半前はそんなに連呼されていなかったと思うのだけど、今回はみんなキモイキモイと言いまくりです。これは、「キモイ」という言葉が浸透しきってしまったという事でしょうか。浸透の結果、言葉の持つインパクトや人に与える影響が弱くなり、それほど抵抗なく使える言葉になってしまったようです。昔はとても抵抗ある言葉だと思っていて、「キモイ」とか「キショイ」とか語感からしてキツイ言葉だよなあ、と光波氏などと話していた覚えがあります。慣れて言葉の持つ力を弱めよう!と、無理して使う事もありましたが、最近は普通に使っているような…。
B+2004.05.28
4月3日(水)放送らしい。幻と言われていた「ミドロが沼」の放送に加え、作画に関わった鈴木伸一、藤子A、つのだじろうが出演して何やら喋ります。
藤子Aと石ノ森の作画がそれっぽすぎて楽しかったのですが、その辺りの作画の差違を誤魔化す為に虫プロスタッフが夏休みを返上して追加したと言われるカットが、それ以外に比べて格段に巧く、やはり本業の人は違うなあと思わざるを得ませんでした。
番組の最後に、出演している3人がそれぞれアトムを描くのですが、漫画家である藤子Aとつのだじろうの絵はほぼ予想通りで面白味がなく、逆に一番気になっていた鈴木伸一の描くアトムは出来上がるのが遅くてきちんと画面に写されませんでした。なんてこった。これは大変に残念でしたが、その他は十分に満足できる内容で良かったです。
B+2002.05.01
4月19日(金)放送らしい。表題に示されているとおり着眼点は悪くないのですが、ナレーションにいちいち引っかかって落ち着かないうえに、そんなに深く掘り下げているわけでもなく、イマイチでした。
出演者の会話は交錯しまくっててよく分かりませんでしたが、くるみファンが強く批判するラスベガス発言は洒落だからまあいいとして、北斎に於けるファインアートとポップアート的な側面をそれはもうとてもとても区別したがってる発言が最後にありまして、個人的にはこれが最も面白くなかったです。多摩美の教授(確か)はそんなことを言おうとしたんじゃないでしょうがまったく。
北斎と言えば『アフター0』の画狂老人の話は良かったなあ。
B2002.04.27
B
1月5日放送らしい。庵野秀明と岩井俊雄の言ってることは殆どいつもと変わらないので、あまり面白くありませんでしたが、アート系祭典の様々な素晴らしい作品が見れたので宜しかったです。
『Anjyu』(大場康雄)は動いてるのを初めて見たけど、こんなの動かなきゃ凄さがちっともわからないよ。今のところは何度眺めても飽きない映像です。あとUFO型住宅「FUTURO」も面白すぎます。そんなもんが1968年に存在していたとは全く知らなかった…(寧ろ60年代だからこそ造り得た代物かも )。シムシティ2000だ!
B+2002.04.03
正月にNHKでやってた奴。
『エスパー魔美』の方は、見ていて若干不愉快になるところもあるのですが、こちらはそうでもなかった。自分の『キテレツ大百科』原作に対する愛着は、『エスパー魔美』のそれに比べて低いのだろうか。確かにキテレツと言ったら原作ではなくアニメを思い浮かべてしまうし、そのアニメは小学生の時大変面白いと思って見ていた。だけどドラマに比べたらアニメの方がよっぽど原作に近いと言える。
思うに、「おっはー」の一言で自分は骨抜きにされてしまったのだ。この不自然さはただ事ではすまされまい。山寺宏一が出ていれば何でも許されると言うのか、そうなのか。目が飛び出る演出も、「おっはー」の洗礼を受けた身には大した衝撃ではない。
それに対し、コロ助はとても馴染む。どうしてこんなに馴染むのか。これはCG技術の御陰だけではなく、声優がアニメと同じであることも大きく関係していると思う。肝心のストーリーは、なんだか無理矢理な感じがしたのですが、タイムパラドックスを利用するならば仕方ないのかも。
トキワ荘(!)に住んでる勉三さん(「君」はダメ。ゼッタイ。)は6浪かよ。受験生の身としては何だか少し勇気が出てきた。でも6浪って事は、もしこれで受かっても、自分と同じ年が既に医者になってたりするのかー。うむむ。
B+2002.02.16
自分は典型的に動きが描けない人間だけれど、この番組を見て少しは描いてみようという気が…起きませんでした。コナンはやっぱ素晴らしい。貞本もとても巧い。だからこんなの無理だと思わされる。
根本的に、動かす事に対する愛着というものが欠けているのだと思う。極力動きを避けてこれまで何かしら作ってきた。初めてアニメーションを作りたいと思った時も、実際脚本と音楽しか興味が無かったのではないかと思う。『ほしのこえ』の予告編を見たときも、こんなの作りたいなあと思ったが、それは正に止め絵アニメの極北だ。
自分がそうだから、という訳ではないが、止め絵アニメを見て育った世代は漫画的な動きにどれほどの興味があるのだろう。
B+2002.02.10
掲示板に、儀間から「なんだてめ」というサブジェクトで反論がありました。
コノヤロ
喧嘩売ってやがんのかこら。
「宮崎がアニメの標準」うんたら言ってやがったくせに、「止め絵アニメで育った」だあ?
結局てめえが今まで「アニメを」これっぽっちも見てなかっただけじゃねえか。
てめえの話を勝手に一般化すんじゃねー!
ところで、
「漫画的な動き」とは、どういう意味?
分かり易く説明してくれない?
そこで、「てめなんだ」というサブジェクトで再反論。
> 「止め絵アニメで育った」だあ?
べつにそれは自分の事を言ってるわけでなかったのだが、文章見直してみると確かにわけわかんねえなあ。
大体、止め絵アニメも含めてアニメは殆ど観てなかったんだから。
しかし何故、
> てめえの話を勝手に一般化すんじゃねー!
と思うのかわからない。
どれほどの興味があるのだろうかという疑問を抱いただけなのに。
昔よりも動きに魅力のあるアニメを見る機会が増えているというならば、確かにそういった疑問を抱くのはおかしなことだが…。
自分が「アニメーション」に対する愛着が欠けていたことをその前に記している以上、それが一般化出来ない(しようとしていない)ことは容易に想像できよう。
> 「漫画的な動き」とは、どういう意味?
タイミング含めてデフォルメがかったものを指したい。
以前よりとてもとても観たかった番組。再再(?)放送は凄く嬉しいです。『まんが道』読んだ人は絶対観ましょう。故人の生前の姿、集まってワイワイやっている様子、感動の連続です。
全体として観ると、漫画の明と暗と暗と暗…という印象を受けましたが(森安氏の印象が強くて…)、個人的には漫画を描きたくてたまらなくなりました。受験生がこんなもの観ちゃいけませんね。くそう。
しかしどうして森安氏はジャンプ編集部に持ち込んだのろう。他に選択肢はあろうに…と思ったのですが、当時は無かったのでしょうか。多くの子供達に読ませる為にジャンプは有効ですが、どっちみち単行本だろうしなあ。
テラさんが何が言いたいのかよくわからなかったけど、つまるところ『漫画少年』原理主義者、かつ、とても真面目な人なんだなあと。
A+2002.01.06
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