古くから海運の拠点として開けていたが、津波のため三度も
宿の移転を余儀なくされた。
宿駅制定時は戦国時代よりの支配者矢部氏を中心に新吉原
に設置された。海辺のため高潮等の被害が絶えず少し内陸部
の中吉原に移転も延宝8年(1680)大津波で宿も街道も壊滅的
な被害を受けた。このため東海道を海沿いから北に迂回させ宿
も現在地に移転した。
水に苦しんだ反面豊富な水で江戸時代より駿河半紙の生産で
有名。これが戦後製紙の町として発展した。
14・吉原宿(天保14年)
日本橋から34里半
現代の宿駅 岳南鉄道
         吉原本町駅
人口  2832人
家数   653軒
旅籠    60軒
本陣     2軒
脇本陣   4軒

毘沙門天
前方に見える大煙突から上がる白煙が進むにつれ大きくなる。また一寸したカーブや家並みの間から1本が2本、又1本と姿を変える。「新吉原」という地名、ここが最初の宿場であったが度重なる水害で元和2年(1616)中吉原に移転。
又街道に秋葉山常夜灯が今井地区までの間に2基あった。やがて大きな標識のある毘沙門天妙法寺 日蓮宗。境内に毘沙門堂があるが、独特の色彩の建物もあり、まるで東南アジアの寺院の雰囲気はラマ教系寺院の関係。また群馬・高崎、東京・深大寺と並ぶ日本三大ダルマ市として旧暦1月7〜9日の毘沙門天大祭には50万人を越す人出で賑わう。

本日の行程はここまで。 16時52分
バスで沼津市内まで戻り、駅前の<沼津ホテル>夕食はフランス料理風洋食。添乗員Mさんが習い始めの沖縄三線で座を盛り上げてくれる。沼津といえばアジの干物日本一に代表される有数の漁港、魚料理を期待していたのに一寸ガッカリ。ならばとMさんと食事後駅前のすし屋へ口直し。刺身盛り合わせ一人前1800円ながら、マグロ、むつ、さより、しらす、桜海老とボリュウムと新鮮さは東京の比ではない。また酒は、原宿で見かけた酒造所の白隠正宗を試す。冷酒の良質の甘さと口当たりに満足。(補足:白隠正宗は白隠禅師の入寂で明治天皇より「正宗国師」諡号を贈られ使者として山岡鉄舟が出向き、出された酒の美味さに『白隠正宗』と命名したと伝わる。)
ラストオーダー8時半、閉店9時。この辺りは飲酒専門店以外はこんな時間とのこと。閉店30分オーバー、勿論最後の客であった。
<2日目> 2003年2月15日(土)

製糸工場の煙突
今日も快晴。暖かく防寒ジャンパーなしでトレーナーのみとする。8時ホテル出発。
8時25分 毘沙門天より出発。この毘沙門天は少し高台に位置し、北側の製紙会社の煙突越しに富士山が顔を出す。今日は富士がたっぷり見られる行程に期待。
進んでJR踏切を渡る。正面は大昭和製紙本社正門。都市対抗野球で3回の優勝を誇る常連である。
JR吉原駅前から河合橋へ。川の両側にはモーターボートが多数係留されている。

河合橋

SUZUYOの前で分岐する左の道へ。国道とJ新幹線のガードを潜り<依田橋西>信号で右に進むと、左手に和田川を見れば正しい道、県道171号。この辺りが中吉原と呼ばれた2番目の宿場跡。住宅地の街道を約1km進むと左富士神社 8時58分。沿革などの説明はない。この神社付近に一里塚があったらしい。県道を横断した紡績工場の前に左富士の碑 広重の道中記に「原・吉原は富士山容を観るに第一の所なり。左富士京師より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一町ばかりの間の松の並木を透かして見れば、まことに絶妙の風景なり。ここの写生あり」と書かれている。この吉原宿の広重図には曲がりくねった街道の左に赤く焼けた富士山が描かれている。東海道で茅ヶ崎、鳥井戸橋・南湖とここだけしか左手に見えない貴重な名勝地。東海道を海沿いから北に迂回させたため意識してか知らずか不明も出来た風景。当時の松並木の名残の老松が1本寂しげに立つ。生憎この場所からは富士は見通せなかった。が進むと正面に富士が鮮明に顔を覗かせる。「ウオッー」
和田川に掛かる橋の袂に平家越えの碑 治承4年(1180)『源平藤川の戦いの場』この辺りに陣取った平家の大軍が、夜間迂回した源氏軍の動きに驚いた水鳥の大群が驚き一斉に飛立った羽音を源氏の襲撃と勘違いし戦わずして総退却した有名な逸話が残る。現在は周囲は工場で水鳥が住める環境ではなさそう。
八幡神社で劇的な頼朝・義経の対面であったが、本当は最初この場所で対面する筈であったが、義経が遅刻したため八幡神社に変更されたとのこと(釣先生)
平家越え橋と粋なはからいの名が付く橋を渡り進む。
左富士神社 左富士の碑と老松 左富士付近から富士を 平家越えの碑
やがて左に岳南鉄道・吉原本町駅前踏切を渡ると商店街。ここが当時の宿場の中心であった。立碑の変りに歩道に旧史跡跡を示すタイルが埋め込まれているが、彫られたレリーフが線が薄く普通に歩けば気が付かない。
主たる史跡跡は下図の通り。残念ながら全て建替えられて名残はない。


問屋場跡表示タイル
左、野口カメラ店野口祖右衛門脇本陣跡、少し先に比較的小さな丸い石の明治天皇御小休所跡碑。同じくおもちゃのキムラ屋号四ツ目屋・杉山平左衛門脇本陣跡。右向いの金堂薬局長谷川八郎兵衛下本陣、進んだ右側オオイカメラ店扇屋伊兵衛脇本陣跡、隣接したやなせメガネ問屋場跡、少し先のパチンコ富士見会館上本陣・神尾六左衛門家跡、向いの菓子処南岳堂が4軒目の銭屋・矢部清兵衛脇本陣跡。今も営業する旅館が元旅籠鯛屋興三郎さんで創業300年余を誇り、表に清水次郎長、山岡鉄舟常宿と看板が懸かる。
地方にしては立派で(失礼)寂れた様子はない。製紙会社、日産、旭化成等大企業が多く集まる工業都市の経済効果であろうか。
<吉原4丁目>静岡銀行のところで左折。三筋目の道を右折し道なりに進むと志けん橋。手前の枡屋酒店前に西木戸跡表示。橋を渡り<錦町北>で県道139号に合流し左に進み、市役所前通りの<錦町>を横断し、右に進んだ一筋目を斜め左の住宅地への道に入る。進んだ一筋東(左)に磔八幡宮 青嶋村名主、川口市郎兵衛が幕府の厳しい検地を拒み村人を守ったため、延宝9年(1681)磔の刑となる。村人が鎮守の八幡に合祀した。
青葉通りと交差する五叉路に出る<高島>交差点。ここは右から二筋目を閏井川橋方向へ進み、右手愛宕神社の先を右に入り、次の十字路を左折すると富安橋、渡り進むと民家のブロック塀の凹部に袂の塞神 高さ88cm幅70cm笏を持つ江戸時代後期と思われる堂々たる旧村の守り神。
野口脇本陣はカメラ屋 宿場の中心は商店街 神尾上本陣は
パチンコ店
旅籠鯛屋は現役 袂の塞神さん


本市場よりの富士山

源立寺
北條氏政首塚
<塔の木>交差点を横断し、次の交差点角にある静岡県総合合同庁舎にて休日にかかわらず快くトイレ休憩に応じてもらう。10時5分
この辺りから富士山が見事な雄姿。この庁舎隣接地敷地内に間の宿・本市場碑 が説明付きで建つ。
合同庁舎から南に約400m先に今回寄らなかったが源立寺 北條氏政首塚がある。当時あった五輪塔は洪水で流され一輪のみ残る。???氏政は小田原城落城後、弟氏照とともに自刃し、その墓は小田原駅前にある。首だけが何故ここにあるのか納得できない。
『2006年2月訪門。7月自刃した首は京都へ送られ晒された。これを家臣の佐野新左衛門がひそかに持出し、ここまで来たが富士川の洪水で足止めされた。夏場ゆえ首の腐敗は早く止む無くこの寺に葬り、新左衛門はここに土着し主人の菩提を弔った。と説明札が建てられていた。』
休憩も終わり出発、鶴芝の碑が建つ ここは鶴の茶屋跡。ここから雪の富士を眺めると中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたという。この奇観を京の画家・蘆州が描き、江戸の学者・亀田鵬斎が詩文を添えた碑。なるほど先程見た富士が素晴らしいと感じた筆者の感性も満更ではないのだ、、、、
R139に出会うが、これを横断し直進。左バス停側の小さな花壇の奥に新しい本市場一里塚碑が一つだけ建つ。右富士第一小、左税務署を過ぎると富士本町商店街。左に進むとJR富士駅。ここは横断し直進、栄立寺、金正寺前を通り平垣町へと進むと札の辻跡 ここは高札場跡であり、また日蓮上人が「立正安国論」を書いた最盛期方一里と称せられた岩本山実相寺の南側に当たる。古い秋葉山常夜灯も残る道は再びR139に合流し、左へ。JR柚木駅ガードを潜りR396を横断して秋葉山常夜灯と「右東海道」の道標のところを右に入る。迂回する道を進むと右に土手があり、これを上がると雁堤(かりがねつつみ)碑 『元和年間(1615〜23)新田開発のため洪水が頻発する富士川の堤防を古郡重高が構築。万治3年(1660)の大洪水で新田の大半が流失、子の重政が釜無川の信玄堤を参考に再工事に着手、死後工事はさらに子の重年に引継がれ岩本山裾から水神社に至る約2.7kmの大堤防を延宝2年(1674)に完成し「加島五千石」と云われた大肥沃地となる。親子3代50年に亘る難工事。堤防は雁が連なり飛行する姿に似ることから付いた名。』
再びR139に出、これを西へ。交通量も多く富士川への道路標識とともに黄緑色の橋のアーチが見えてくる。右手前が松岡水神社 代官古郡氏が堤防工事の成就記念に創建。渡船場説明板も建つ。橋を渡り北側堤防に出る。常夜灯のある場所が上り場渡船場跡 渡船による川越え、東側は水神社から少し南側で、上、中、下船居の三ヶ所あり、川瀬の状況により使い分け、そこから西の対岸まで上、中、下の三コースがあった。通常定渡船は定員30人牛馬4頭で船頭が5人。長さ10.3m幅1.57mの模型は花壇に変身させ置かれる。
角倉了以碑 。朱印船でベトナム交易で莫大な利を得た江戸初期の京都の豪商。幕府の命によりこの碑が建つ岩淵河岸から甲州鰍沢河岸まで70kmに及ぶ富士川の開削を行い、慶長19年(1614)完成。甲斐と駿河は舟運で繋がった。武田信玄VS上杉謙信の川中島の合戦で、謙信が戦いを前に塩を贈った有名なエピソードもこれで容易に甲斐に塩が運ばれるようになった。
11時15分 一寸早いがこの堤防土手で昼食休憩。


富士本町商店街から
富士を眺める

雁堤より富士を
西側上り渡船場跡付近

岩淵・常盤家小休本陣
12時15分出発
コンビニ横クリーニング店横の細い道を上る。身延道起点 ここが身延への分かれ道で道標があった。この道標は近くの光栄寺に移設されている。このあたりは小高い丘の住宅地、各家の前の排水路蓋には<東海道ルネッサンス>のデザイン、洒落た行政に感心。やがて右に岩淵の小休本陣 この辺りが吉原と蒲原の間の宿岩淵 富士川を挟んで東に本市場、西が岩淵の間の宿があるのは、天下の三大急流(山型・最上川、熊本・球磨川)の一つゆえ川留めが多かったため。また岩淵村は渡船役を担っていた。この小休本陣は常盤家が勤め、安政の大地震(1854)で倒壊後早期に建てられたもの。無料で公開されている。新豊院 光明山心包院と称した。山門は本柱を門の中心線から前方にずらし、本柱と控柱を結ぶ梁の中間の上に束をたてて屋根をのせる薬医門形式。レプリカの扁額は水戸光圀に招かれ寿昌山祇園寺の住持となった明からの帰化僧心越興儔の書。37番目の岩淵一里塚は当時の形状を残す。榎は何代目かだが、右側は江戸時代からの巨木。ここで右に曲がり役場、小学校前から左に真直ぐ進み、防災倉庫がある手前の小さな信号がある十字路を右に進む。秋葉山常夜灯を見て中之郷地区で東名高速を潜る。 

岩淵一里塚左
東海道目次 蒲原