![]() 三重川風景・強風に笠を飛ばされる旅人 |
東伊勢水運の拠点。湊と市場から発展。 文明年間(1469〜87)には定期市が5ヶ所で開かれていた。 これが毎月4日に定期開催されたのが地名由来。 日永追分で伊勢道への分岐、参詣者でも賑わう。 江戸時代には宮宿へ直行する海上10里の航路も確立され ていた。 戦後は四日市コンビナートとして中京工業地帯の核となる。 が京浜の川崎と同じく公害病でイメージダウンした。 |
43・四日市宿(天保14年) 日本橋から99里(約389km) 現代の宿駅 JR関西本線 四日市駅 人口 7114人 家数 1811軒 旅籠 98軒 本陣 2軒 脇本陣 1軒 宿の長さ |
| <3日目> 平成15年6月9日(日) 四日市宿〜石薬師宿 約18.3km |
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![]() 鏡ケ池跡 |
晴れ。8時50分 昨日のR26を横断した直ぐ右に鏡ケ池 聖武天皇の遺跡。又の名を笠とり池と呼ぶ。由来は、この地を通りかかった時、天皇の笠が風で飛ばされ池に落ちた。これを傍らで洗濯をしていた娘が拾い、その縁で旧家田村家に泊まられた。翌朝は風も無く池は鏡のように周りが水面に映り一幅の絵を見るようであったことから鏡ケ池と名付けられた。 JR関西本線踏切を渡ると西富田町、昔この辺りに東屋という茶屋があり焼蛤を売っていた。東海道名所図会に蛤を店先に山と積み、焼いて売る店が描かれている。また膝栗毛でも、皿がひっくり返り、焼蛤が弥次さんの懐に飛込み大騒ぎする、、、くだりがある。これはここ富田立場でのこと。 突当りを左へ、近鉄名古屋線と三岐鉄道の踏切を渡ると富田一里塚碑 98番目。 |
![]() 富田一里塚跡碑 |
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![]() 力石 ![]() 米洗川・常夜燈 |
八幡神社跡を通り、東海道標識に誘導され右に行く。ひっそりとした中町商店街を過ぎると十字路、右は近鉄富田駅への道。善教寺 本尊阿弥陀如来立像は鎌倉中期作は、胎内に約800体の摺仏を持つ。国重要文化財。 右に薬師寺 大同年間(806〜10)悪質な疫病が流行る。ここを通りかかった弘法大師が薬師如来を彫り開眼。するとたちまち難病は平癒した。この如来を祀ったこの辺り唯一の尼寺。 小さな十四川の橋は10歩で渡る。この川の両岸は桜並木堤。 常照寺を過ぎた突当りに力石 村内の寺の建設に集まった村人が、体力保持のため力比べした石、32貫(120kg)也。横に<新設用水道碑>が立つ。 道なりに左折、右折で茂福神社 参道前。応永2年(1421)建速須佐男命と天照大神を祀る。祭祀を引継いだ城主茂福盈豊が永禄10年(1567)伊勢長島城で謀殺され城も落ちる。その後盈豊の遺志は受け継がれ祭祀を続けられ、茂福の産土神となった。 やがて八田町に入る。米洗川の手前にも常夜燈、どの川の袂にも常夜燈が設置されている。川を渡ったすぐ左に1本の松名残の松 この辺り白須賀松並木の名残。ガイドブックや他の資料では2本松となっているが、いくら数えても1本しかない。1本が2本に見えるなら夕べの酔いが醒めていないのかも知れないが、、その逆なら糖尿で眼に影響が出てきたのか、、、 |
![]() 名残の松 |
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![]() 道程入りの標識 |
四日市市に入ってから<癒しの東海道標識>とは別に、道程が書かれた綺麗な東海道案内板が所々に建てられている。 静かな住宅地を進み、羽津町に入り、志氏神社、光明寺を過ぎて左折。これを右に進み名鉄を越えると羽津城址 伊勢北畠の配下、赤堀氏により築かれた平城。今は公園。 <金場町>で国道1号に合流しこれを進む。<三つ谷>交差点先右に笹井屋 名物なが餅支店。 西松屋ベビー洋品店前を国道から左へ、多度神社の傍に三つ谷一里塚跡 99番目の新しい碑が建つ。すぐ海蔵川に突当る。東海道はここで切れるため国道の海蔵橋を渡り対岸より進む。この川の土手も桜並木。 |
![]() 三つ谷一里塚跡碑 |
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| 一寸一服 講談「藤堂高虎と なが餅」 |
藤堂高虎 浅井長政の家臣を振り出しに、信長の甥・津田信澄、秀吉の弟・羽柴秀長、秀吉、家康と主君を次々と変える。先見の明か、家康に仕えてから宗派まで家康と同じに変え献身的に働き、家康に最も信頼された外様大名。が豊臣を見限った因縁か、大坂夏の陣で真田幸村、冬の陣では長宗我部盛親に散々に打ち負かされた。 初代彦兵衛が日永の里の地名に因み、天文19年(1550)に売り出したと伝えられている。日永は東国より伊勢詣でをする東海道との分かれ道で、往来の人も多く永餅は評判の名物であった。白き搗き餅の中に、白ザラでさらりと甘味をととのえた小豆のつぶあんを入れ、平たく伸ばして両面を焼いてある。「永餅重たいエッサッサ」と云って弥次、喜多両人が歩いたと『膝栗毛』にも出ており、この餅を永餅、笹餅、牛の舌などと旅人はその見たままを呼んで親しんだという。 「三十六万石の太守、藤堂和泉守高虎が足軽の頃、青雲の志を抱き日永の里に至り、空腹一文無し、出世払いで食べた長餅の美味に絶鼓し、吾れ武運のながき餅を食うは幸先よし、と大いに喜びたるに果たせるかな。後年志を得て、勢州津に転封せられるや、笹井屋彦兵衛を召され爾来参勤交代の節は必ずお立ち寄り、往時を偲ばれたという」戦国秘話は今なお講談に広く人々に語り継がれる。お粗末ながらこれまで。 |
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![]() 手差し道標 |
橋北発展会の商店街を抜けると三滝橋、渡った左に元祖長餅笹井屋本店。R164を横断し、仏具屋を右に折れた、左角近畿銀行裏に手差し道標 文化7年(1810)と刻まれた石の道標。「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」「右京大坂道、左いせ参宮道」とあり、上に方向を示す指の形が乗る。但し指が示しているのは現在の方向とは一致していない。 銀行の斜め向が諏訪神社 「おすわさん」と呼ばれる商業・魚業の神様。建仁2年(1202)信州諏訪上下両社を勧進。毎年8月「大四日市祭り」で賑う。 アーケードの諏訪栄商店街が東海道。<ここは東海道四日市宿 旧江田町>と書かれた横断幕や幟が上がる。 この商店街が宿場の中心街ではなかったのか?本陣や脇本陣等の旧史跡に関して1本、1枚の碑や案内板も無く特定することが出来なかった。 近鉄四日市駅前大通を横断し浜田町に入る。 |
![]() 商店街の東海道 |
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![]() 鈴木家 ![]() 日永神社 |
崇願寺 作家丹羽文雄碑 この寺で生まれ少年時代を過ごした。この辺りはまだ格子の古い民家が残っている。 近鉄名古屋線を越し500mほど先郵便局側にこれも古い連格子の立派な建物は鈴木家 200年以上続く膏薬の鈴木製薬所、現在の当主は十一代目。嘉永5年(1852)建築、玄関の木製上げ下げの戸は16貫(60kg)街道に面した家の表は連格子が嵌められ、上蔵とともに作業場、薬研などが切り口をあらわす「丸二つの組み合わせ」を商標登録していた。 鹿化川(かわけがわ)という珍しい名前の同名の橋を渡る。大宮神社の手前、築150年以上と思われる連子格子の家に「売ります」の札が下がっていた。この辺りが昔の日永村、笹井屋の初代もこのどこかで店を開いたのであろう。 大聖院 国指定重文の木造不動明王立像。平安時代源頼義が定朝に作らせたといわれ、高さ95cmの像は檜財1本加工。また不動明王独特の牙がなく、並びのよい上歯で下唇を噛み締めている気品で柔和な姿。 円楽寺、典生寺と寺院が並ぶ。天白橋を渡ると<つんつく踊り>の両聖寺 昔、天白川の堤防を固めるための<地つき作業>に唄い踊ったと伝わる。つんつくとは堤防のこと。 日永神社 昔、南神明社、明治になり現在の日永となる。天照大神を祭神に持ち、創建は建仁年間(1201〜4)と云われるが、信長の兵火に合い全焼したため正確なことは不明。以前は拝殿右手に松の老木があり、国難があると樹皮が変色したため神木と崇められたとのこと。 この先に日永の一里塚 100番目の小さな石碑のみ。この付近も往時は松並木であった。 |
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石薬師 |