さいだん橋と姥堂前を走る熱田神事のお祭
熱田神宮の門前町。一般呼び名「宮」が宿場名。
熱田神宮の創建は不詳も景行天皇時代(紀元前71〜130)
源頼朝の母は熱田神宮の大宮司藤原季範の三女。
又信長が桶狭間の戦い時戦勝祈願したことでも有名。
中山道垂井宿への脇往還美濃路や佐屋街道の分岐点。
次宿桑名宿へは陸路でなく海路を行く「七里の渡し」が
正式な海道。
数百人の飯盛女が居て賑わったが、宿駅制度廃止後は
鉄道駅の名古屋駅前が中心となり自然と寂れた。
41・宮 宿(天保14年)
日本橋から89里(約349km)
現代の宿駅 JR東海道線
         熱田駅
人口  10342人
家数   2924軒
旅籠    248軒
本陣     2軒
脇本陣    1軒
宿の長さ

裁断橋跡に建つ姥堂

裁断橋と姥堂碑
500m左一筋入ったところに富部神社 もとは戸部天王といわれ、城主松平忠吉(家康四男)が病気平癒を祈願、回復した御礼に慶長11年(1606)建立。本殿は一間社流造、檜皮葺屋根。正面の蟇股、屋根の懸魚・桁隠は桃山時代の様式、国重要文化財。
<呼続小学校>交差点を横断し、呼続3丁目15番地付近の四叉路を左に行くと白毫寺(びゃくごうじ) 愛知の語源といわれる「年魚市潟勝景跡碑(あゆちがたしょうけい) 年魚市潟は星崎、呼続、熱田の海辺が湾となる遠浅の地形。
やがて右に法泉寺を見て山崎橋を渡りすぐ左折。左国土交通省、右brother社前を過ぎると国道<松田橋>交差点、上を高速3号大高線が通る。この歩道橋を渡り国道沿いに進む。
<塩入町>交差点を右に進んだ浜神社西行腰掛石がある。
JR東海道線内浜の高架下からすぐに左の細い道に入る。目印はオクダモーターとコーヒ店しんげつの間の道。
小さな熱田橋を渡り、名鉄常滑線のガードを潜ると右に伝馬町一里塚跡 13時54分 左に姥堂と裁断橋跡 姥堂は三途の川の奪衣婆(亡者の衣類を剥ぎ取る老女の鬼)を祀る。延文3年(1358)本尊の姥像は熱田神宮より移し創建。昔は橋の袂にあったが第二次大戦で焼失、平成5年ここに復元。地元の人から恐れられるのでなく「おんばこさん」と親しまれてきた。
裁断橋は今は埋め立てられた精進川に架かっていた。橋の青銅の擬宝珠に刻まれた銘文が日本女性三大名文の一つとして有名。
「てんしやう(天正)十八年二月十八日 おだはら(小田原)への御ぢん(陣)、ほりおきん助(堀尾金助)と申す 十八になりたる子をたたせてより、又ふため(二目)とも見ざるかなしさのあまりに、いまこのはし(橋)をかける成。はゝ(母)の身にはらくるい(落涙)ともなり、そくしんじやうぶつ(即身成仏)し給え。いつかんせいしゆん(逸岩世俊=金助の戒名)と、後の世の又のちまで。此かきつけ(書付)を見る人は、念仏申給へや。 卅三(三十三)年のくよう(供養)也」
 秀吉の小田原攻めに従軍し18歳で病死した堀尾金助の母が、子の冥福を祈って銘文を刻み橋を架けた。母は三十三回忌に架け替えを志すが途中で死去。遺志を引継いだ養子が元和8年(1622)に架け替えた。裁断とは、思いを断ち切りたいという意味。この擬宝珠は名古屋市博物館に保存されている。
広重の宮宿絵にもこの橋と姥堂が描かれている。

伝馬町交差点付近
真直ぐ進むと伝馬町、この辺りから宿場であったことが残る町名から知れる。R19と交差する、道路反対側に伝馬町・旧東海道の看板がある商店街を進む。突当りにほうろく地蔵 もとは三河国重原村(知立市)の野原に倒れていたものを、焙烙売りが天秤棒の荷物の片方の重しとして運び用済み後捨てた、地元の人が発見しここに置いたと言う。 左角に中山道垂井宿への分岐点。角に「東江戸かいどう、北なごやきそ道 南いせ七里の渡し、是より北あつた御本社へ弐丁道」の道標がある。
左折しR247を歩道橋で横断した右角付近が赤本陣跡 説明も何もなし。もう一軒の本陣は不明。脇本陣も不明。
突当ると宮の七里の渡し跡 ここから桑名宿まで海上七里を帆掛舟で渡るのが東海道。今は公園として保存されている。住民や旅人に時刻を知らせる戦後復元された時の鐘や夜間の目印となる常夜燈がある。
渡し場の前に丹羽家 幕末時は脇本陣格の旅籠。正面の破風付玄関にその格を伺える。隣は熱田荘 明治29年建築の料亭。木造二階、切り妻造り、桟瓦葺平入り、正面庇府の風格漂う当時の繁栄を偲ばせる貴重な建物。

丹羽家
宮の渡し場・常夜燈 時の鐘と渡し場 渡し場と堀川

宮七里の渡し
・この海は遠浅で船は岸に着けられないので、小船で本船まで行き 乗り換えた。
・本船は一枚帆の和船で40〜50人乗り。
・風や潮の満干などを見て5コースを使い分けた。
・天保14年(1843)の記録では、本船75艘、小船42艘で運行。
・船賃=宝永4年(1707)45文、文化の頃は54文。荷物1個54文。
・時間=約二刻(4時間)も風や潮加減で数時間遅れることもあった。
・運行時間= 明け七つ〜暮れ七つ(午前4時〜午後4時)。
Aコース:海岸寄りの砂州の間を進む。多少の風が吹いても揺れず安全性が高い。
       反面漕ぐ場所が多く時間が掛かる。底の浅い小船でなるべく漕ぐのに労力が少ない満潮時に運行。
Bコース:Aコースが干潮時、時間が掛かる場合に利用、帆を使用。
       この場合も小船が多かった。外海の波を受けるので少し危険。
Cコース:大型船が帆を使い渡る航路、潮の干満に影響されない。
       外回りなので距離はA,Bより長くなるが(約10里)時間は早い。
Dコース:通常は利用されないがまれに潮の加減により利用。
Eコース:天候や潮の具合により外回り、内回りを決め、このコースを使い調整する。重要な航路。

どうしても船が嫌な人は佐屋街道にお回り下さい。
宮から岩塚、万場、神守、佐屋の4宿を経て、佐屋川、木曽川を川舟で桑名に至る脇往還。
しかし佐屋から三里は嫌でも船に乗らなければならない。
七里の渡しが風雨による欠航で急ぐ人や、船に弱い旅人で賑わった。
三代将軍家光の通行によって開かれた。
大名行列、伊勢参り、津島詣での人たちも利用した。
シーボルトや14代将軍家茂、さらに明治天皇もこの道を通った。
明治5年宮と前ケ須新田間の道路開通によりその役割を終えた。現在は地域の幹線道路として利用。


堀川
14時30分 船がないので陸路を行く。佐屋街道でなく海側に近い国道23号を歩くコース。
内田橋を渡り堀川沿いに海側目指し進む。気温は上がり30度位か?左側に高層のマンションが林立する。大手S不動産の16階建ての広告は、3LDK1900万円〜、4LDK2200万円〜から。面積は不明だが名古屋駅へは約40分程の通勤時間、東京よりかなり安い。
川の向こう側は広い住友軽金属の工場。新幹線、R59高架下を過ぎ、さらに新しく建設中の橋を潜るとR23 15時8分
階段で高架の道路に出、これを進む。堀川を渡り、一旦下に下り高架下を進み道路反対側に出て、又右側にと、R23高架下を右に左にジグザグに進み、また時には高架に上り、下り、、、これという目印もなく、何処で曲り、何処で戻りとメモを取ることも叶わず。ただ国道を四日市市方向へ進む、としか書けず。マア正規の東海道ででないためご容赦下さい。
中川運河を過ぎ下に下り荒子川公園でトイレ休憩 16時5分
16時25分出発。国道23号はトラックが多く排気ガスが充満し多くの人は(特に女性)マスクやタオルで鼻と口を覆い歩く。ただ国道の歩道を暑さと排気ガスに悩まされながら誰一人無駄口もなく黙々と歩を進める。
庄内川、新川の橋を渡りきったすぐ左、藤前1丁目にあるKマート店前で本日の行程終了。 17時5分

国道23号
一寸一服
名古屋コーチンを
名古屋食い道楽は、きしめん、味噌カツ、味噌煮込(きしめんを味噌で煮込む)天むす(おむすびの中が梅やオカカでなく、海老てんぷらが入る)とコーチン。
小学生時代に学んだ豚はヨークシャー、鶏は名古屋コーチンの名前だけは忘れたことがない。食料が未だ十分でなかった後遺症なのか、、、、
事前に「るるぶ」やインターネットで確り調査済み、「コーチン食べたい人この指止まれ」半数近くが「食べた〜イ」ということで名古屋の繁華街栄へ「伍味酉本店」へ!肝の刺身は歯ごたえがありゴマ油をつけて食す、美味なり。ビールも排気ガスのせいで何倍にもウマイ!!
<2日目> 平成15年6月7日
桑名宿〜四日市宿  約22.5km
一寸一服
早朝一人番外編

河村瑞軒説明板
4時半目覚める。朝食は7時から。ここで寝ると寝過ごすかも、、、ならば昨日寄らなかった熱田神宮へ行こう。5時、フロントで調べてもらうと地下鉄の始発は5時30分。部屋に戻るのも小癪なり。ホテルの近所を散歩すると、
隣は河村瑞軒宅址 元和3年(1617)伊勢の生まれ。江戸へ出て屈指の材木屋となる。海運、治水に才能を発揮し、江戸と陸奥・出羽間に東と西回りの航路を開拓。また大坂の安治川、淀川の治水に貢献。
近くに柳河春三出生地 天保3年(1832)生まれ。安政4年(1857)「洋算用法」を著し我国に初めて洋式算数を紹介。また慶応3年(1867)中外新聞を発刊、日本における新聞雑誌の創始者。
茶屋新四郎宅址 明智光秀の本能寺の変を広い情報網より素早くキャッチし、堺に信長の客として来ていた家康を、伊賀上野越えを誘導し無事落ち延びさせたことで有名な堺の商人・茶屋四郎次郎清延の三男が新四郎。
まだ歩けば歴史の跡は沢山ありそうだが、始発の時間ゆえ又の機会に。
丸の内から、桜通線で隣の久屋大通駅で名城線に乗換、神宮西駅で下車。ホテルから約20分。
熱田神宮 伊勢神宮に次ぐ由緒ある大社、ご神体は三種の神器・草薙の剣。朝早くから近所の人達が参拝に来ている。境内には樹齢千年を越す大くすのきが残る。信長が桶狭間への戦勝祈願に来た時も、この木は見ていたのだ。本殿に手を合わせ拍手を打つ。願うことは自然と「家内安全」。信長は何を思ったろうか、今生の別れを告げたのか、それとも「我に力を」と他力本願したのであろうか、と思いを馳せる荘厳な朝の一時。
信長塀は戦勝の御礼として建てられたもの。高さ約2.5m、壁厚約1.2m、土台の上に、土に油を入れ練った土を約3cm乗せ、上に瓦を載せ、土、瓦と交互に塗り上げ、最上部を瓦葺で仕上げたもの。これなら当時の鉄砲の弾も貫通しないだろう。こんなところに信長の異才が伺われる。筆者思うに、「この壁で願いを叶えてくれた熱田宮を守って見せる」とのまさかの勝利をこの時は本当に嬉しかったのであつた、と推察。
他に境内には二十五丁橋 25枚の御影石で造られた名古屋最古の石橋や、高さ8.25mの巨大な佐久間灯篭もある。
慌しくホテルに戻ったのは朝食10分前。(本来団体旅行でこのような単独行動は違反です。ゴメンナサイ。)
熱田神宮大鳥居 本殿参拝所 樹齢千年大楠 信長塀
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