![]() 今切の渡し |
古くから宿場であり、今川氏時代には伝馬も行われていた。 隣の新居宿間は今切渡しと呼ばれた海上1里半の渡船。 この渡船権利は新居宿に与えられた。 新居の関所と渡船の管理を一元化したと思われる。 産業は海苔、これに品川宿大森海苔職人が活躍した。 海苔の伸び悩み後明治の後期頃から、鰻、すっぽん の養殖に転換し成功した。 |
30・舞坂宿(天保14年) 日本橋から67里 現代の宿駅 JR東海道線 舞阪駅 人口 2475人 家数 541軒 旅籠 28軒 本陣 2軒 脇本陣 1軒 宿の長さ |

![]() 篠原立場本陣跡 |
高塚駅近くにある地蔵院 原宿・松蔭寺白隠禅師ゆかりの寺。 この辺りに住み旅人に麦飯を喜捨し、麦飯長者と呼ばれた小野田五郎兵衛が居た。彼の息子夫婦は早逝、4人の孫娘が残された。悲しむ幼い娘達に五郎兵衛は法華経の写経をさせ、完成まで3年を要した。この仮名で書かれた写経を白隠が見て感動し「八重葎」を書いた。これは後に五郎兵衛によって本となった。 この門前街道に面した辺りに高札場が置かれた。 遠州製作所を過ぎた<篠原>で右の道を取る。 直ぐに篠原立場本陣跡 この辺りは間の宿であった。字が経年で見え難い棒杭が建つ後ろの建物が跡。少し先の右に篠原一里塚跡 67番目、説明札のみ。 |
![]() 篠原一里塚跡 |
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![]() 舞坂の松並木 ![]() 見付石垣 ![]() 岐佐神社・赤石 |
坪井町を過ぎ馬郡町に入ると寺院が続く。馬郡観音、東本徳寺、西本徳寺、その先春日神社を過ぎると長池町。寺院も多かったが秋葉常夜灯や燈篭も多く1本道も退屈せずに進む。春日神社は奈良の貸すが神社を勧請したもので、狛犬の替わりに狛鹿はさすが奈良の所縁。左弁天島温泉、直進旧東海道松並木の道路標識。道路の両側にずらっと松が並ぶ。舞坂の松並木 幕府が慶長9年(1604)街道の両側に松や杉を植えさせた。正徳2年(1712)には両側の堤8町40間(920m)の間に1420本の松が植えられていた。昭和13年国道付け替え時に整備され700mの間に340本の松並木が続く。また右側に子、牛、寅と刻を現した石碑が、その動物を模り順番に並ぶ。左側は東海道五十三次の広重宿場絵が並ぶ。中間地点辺りには大きな舞坂宿の石碑もある。松を両側で数えていた人が右171本、左160本。「えっ 私が数えたら左は222本あったわよ」と別の人。いまさら引き返して数え直しもできず、説明書の合計340本はあることにしましょう。松並木の終わる所に<トイレ>11時25分。 <新町>三叉路は真中を行く。横断した傍に見付石垣跡 舞坂宿入口、石垣の横に番人が立ち、人馬の出入の監視と治安維持にあたった。直ぐ先に舞坂一里塚跡 説明では当初は左右とも松が植えられたが、古老の話では大正時代は大きな榎であった。途中植え替えられた?? 岐佐神社の赤石 本殿西側に赤茶けた大きな石は、古事記で大国主命が八上比亮(やがみひめ)と結婚の約束をするが、恋争いに敗れた兄達は大国主命を殺そうと謀り、手間山に呼び出し「山の上から猪を追い落とすから下で捕まえよ」と命令し、猪でなく真っ赤に焼けた大石を落とした。これを受けた大国主命は大火傷を負い命を落とす。悲しんだ母君は岐佐神社の祭神・神皇産霊神(かみむすびのかみ)に命乞いをした。祭神の命を受けた蚶貝比亮命(さきがいのひめ)と蛤貝比亮命(うむぎひめのみこと)が貝殻を割り作った液体を塗ると傷が癒え生き返った。この焼けた大石が赤石。 この神話により海の関係者の守り神で火傷の霊験あらたかと信仰された。 |
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![]() 脇本陣 |
脇本陣 舞坂宿で最大の見所、屋号茗荷屋。唐破風柿葺き屋根(からはふうこけらぶきやね)の建物。天保9年(1838)建築。宿駅廃止後茗荷屋堀江家が所有、明治42年から10年間町役場に使用された。平成3年舞阪町所有となり、建築時の姿を留める書院棟を解体修理、その他の部屋も復元に取り組み平成9年完成。脇本陣には珍しい「上段の間」を持つ格式の高さ。東海道で唯一現存する貴重な脇本陣。これが無料で公開されていることにさらに感謝感謝。早速中を拝見。 本陣 脇本陣向側に相本陣。1軒置いた浜松寄りに御本陣があった。これは新居宿まで舟渡しのため時に航行中止になるため大名が宿争いを避けるため相本陣が追加された。 本陣、脇本陣を挟むように両側に20軒の旅籠が並んでいた。 |
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| 上段の間 | 上湯殿 (殿様の風呂場) |
帳場にて |
![]() 北雁木 |
脇本陣前を真直ぐ進むと海に出る、ここに常夜灯が建つ。ここが新居宿とを結ぶ今切の渡し渡船場跡で雁木(がんき)と言うが地元の人は「がんげ」と呼んだ。雁木とは、階段状になっている渡船場のこと。また雁木は3ヶ所あり身分により乗場が区別された。ここは本雁木で武家用、当時は東西15間南北20間の石畳が街道から敷かれていた。南雁木は一般人と荷物、北雁木は身分の高い武家と公家用。 今切とは、昔の浜松湖は淡水で遠淡海(遠江)と」呼ばれていた。明応7年(1498)大地震で湖と海の間が切れて入海となった。この場所を今切と呼んだ。 渡しは季節により少し変るが、朝4時から夕方4時まで1日3往復。1.5里を流れが早いため2時間かかった。現在は北雁木跡だけが残る。 現在は国道を歩いて新居宿に行くしかない。北雁木を見て弁天橋を渡る。ここから弁天温泉街のホテルが見える。雨の中橋から釣糸を垂れている人達もいる。赤い弁天神社は宝永6年(1709)江戸白銀町松葉屋が今切の渡しの安全を祈願し創建された。 JR弁天島駅12時20分。ここでOさんが風邪で体調不良ダウン、今夜のお泊り、この温泉街のホテル白砂に引上げ。 昼食はお弁当でなく、浜名湖に浮かぶ通称弁天島七つの島の一つ、千鳥園内の和食店「浜菜坊」で天麩羅定食。 お店の前にずらっとボートが繋留、さすがヤマハの地元。 |
![]() 弁天橋 |
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浜松![]() |
新居 |