七里の渡し、桑名城
古くは天武天皇が桑名郡家に宿泊した記録が残る。
天照大神の子孫と伝わる豪族桑名首がその後開発した。
平安以後は桑名神社(現春日神社)を中心とした自由都市
として楽市が開かれ、商人の港町として発展した。
江戸時代は慶長6年(1601)本多忠勝が入部し更に城下町
としても隆盛を極めた。がその後二度の大火で殆ど焼失。
又明治維新では城主松平定敬は兄の会津藩主松平容保
と共に最後まで幕府側であったため城は破壊された。
第二次大戦で被災、さらに昭和34年の伊勢湾台風で戦後
最大の被害を受けた。受難の都市、桑名。くわばら くわばら。
42・桑名宿(天保14年)
日本橋から96里(約377km)
現代の宿駅 JR東海道線
          桑名駅
人口  8848人
家数  2544軒
旅籠   120軒
本陣     2軒
脇本陣    4軒
宿の長さ


藤前辺りR23

西梅付・近送電線群
薄曇、半ズボンとTシャツスタイル。
8時45分 Kマート前を出発。
道路沿いには物流関係の建物が多い。日光川を渡る、灰色の川辺に水鳥が数羽。
土曜日なので昨日より行き交う車の数は少ない。閑なので交通量調査。1分間で四日市方面からの上りは35台、名古屋からの下りは50台、そのうちトラックは約80%。
<飛島村梅之郷中梅>信号で、長い長い高架も終わり。<西梅>付近には日光川と並行する形で高圧送電塔が密集する。話題の白装束集団なら「電磁波怖〜い」と近寄らないでしょう。
9時45分 飛島中のギランドでは、先生自らボールを投げテニス部の指導をしている。土曜日なのに。昔は先生もクラブ活動に力を入れていたが、今は何かあると心無い父兄が(特にお母さん)「責任は!賠償は!」と普段親身に遅くまで指導してくれていることなど、何処吹く風で追求する。最近クラブ活動を引受ける先生が少なくなっているそうだ。さもあろう。「腕の1本や2本折れたくらいでガタガタ言うな!」「ビンタのどこが悪い!」と筆者なら怒鳴りそう。戦後の非暴力主義の教育方針は融通が利かない「時には愛のむちも必要なのだ」
<竹之郷>を過ぎたところの路傍に《木曽川まで5.1km》の小さな立札。筏川橋を越えると海部郡弥富町。<江口>を過ぎた左の麦畑から鳥の鳴き声と低く旋回する一羽の鳥。ひょっとすると「ひばり」この美声は雲雀に違いない。
<狐地東>と珍しい地名が残る先のファミリーマートでトイレ休憩 10時17分。コンビニには一つしかトイレがないため20人を越えると時間が掛かる。勿論迷惑代わりに全員売上に協力。
10時35分出発。 陽射しが少し強くなる。<富島>を過ぎると三重県木曽岬町。愛知県を抜ける。前方に赤色の橋梁が見えてくる。11時15分木曽川を渡り始める。川というより湖のようにゆったりした大河。大井川や天竜川は川幅が広いが中洲や岸辺が広く実際の川幅は半分もないが、この川は満々と言う形容が相応しい水量が端から橋まであるため、湖か海のように感じるのだろうか。
渡った橋の袂、右側を堤防に下りると七里の渡し碑 ここに前述の航路図の案内板がある。
長島温泉への標識を左に見て進むと、木曽川と同じ赤色の橋、揖斐長良大橋。揖斐川も木曽川と同じく満々と流れる。右前方に小さく桑名の渡しと海上に設置された丸いガス貯蔵庫群が見える。意外や揖斐川の方が木曽川より長い。渡れば桑名市。右に堤防沿いに約1.5kmオゾンと紫外線を一杯受けながら汗をかきかき進む。途中名物「はまぐり」の看板がチラホラ。
12時24分 桑名の七里渡し跡 到着。復元整備された小さな三の丸城跡公園に隣接し、船頭の目印となる鳥居と常夜燈がある。
駐車場前に、関ヶ原後入部した本多平八郎忠勝像 鬼の平八を偲ばせるように威風堂々と座す。
長い長い排気ガスも国道23号歩きにややお疲れ。

木曽川

七里渡し碑

桑名渡し遠景

七里の渡しの復活を 最近元気な中高年の街道歩きは各旅行会社の企画も増え地味ながら確実に増加している。
この東海道宮〜桑名間は国道を歩くしかない。
そこで毎日とは言いません、週末と休日のみでよい。船も昔風に改造した帆が付いたもので、、、宮と桑名の船着場には土産物や飲食店を招致し、江戸時代を偲ばせる、新しい町興しを是非検討して頂きたい。と排気ガスの国道を歩いて切に感じた。

渡し場・大鳥居は
伊勢神宮一の鳥居

12時50分 昼食は近くの<うたあんどん>ちらしずしが置かれている。まだ後から料理が出てくる予定も、有名な店らしく丁度昼食時間のかきいれどきゆえ直ぐに運ばれてこない。お腹を空かせた我々は待ちきれずにおすしを食べだす。食べ終わったころに刺身、茶碗蒸しとうどんが出た。この冷やしうどんは腰があり実に微妙な喉越し、全員が「おいし〜い」


元大塚本陣跡
現懐石料理舟津屋
13時40分出発。 渡し場の少し北に4軒あった一つ駿河屋脇本陣跡 現在は料理旅館山月がその一部。他は特定出来ず。さらに大塚本陣跡 現在懐石料理店舟津屋。2軒ある本陣はここが大きく格式が高かった。裏庭から直接乗船出来た。この舟津屋は泉鏡花『歌行灯』の作中、<湊屋>という名で登場する。鏡花は明治の文豪の一人で、新派の好きな人なら、先代水谷八重子と花柳章太郎の「切れるの、別れるのってそんなことはね、芸者のときにいうことよ。今の私には、はっきり死ねといって下さい」お蔦、力、湯島境内の場。『婦系図』は代表作。黒塀の一角に久保田万太郎句碑「かはをそに火をぬすまれてあけやすき」これは『歌行灯』の中で「時々崖裏の石垣からかはうそ(川獺)が入り込み、板廊下や厠(かわや=トイレ)に点いた灯を消し、悪戯をするげに言へます」を詠んだ句。(久保田は小説家、劇作家、俳人として大正、昭和にかけて放送演劇の振興、文学座の設立等に活動。)
南に進んだ左に問屋場跡 丹羽本陣跡 現在旅館初音付近。右に格子造りの歌行灯本店 先の作品のうどんやのモデル。
JR駅への交差点を駅方向へ進んだ右に海蔵寺 薩摩義士墓所 宝暦3年(1736)幕府は木曽・揖斐・長良川の治水を薩摩藩に命じた。藩は平田靱負を奉行として藩士950名を予算30万両で当たらせた。幕府は大きな力を持ち関ヶ原で煮え湯を飲まされた薩摩藩に数々の嫌がらせをし工事に難癖をつけた。艱難辛苦の末1年半後完成させたが、予算は270万両と大幅に超過、又藩士も割腹自殺52名病死33名を出した。平田も責任を取り腹を切った。
交差点を過ぎた右に春日神社 桑名発祥の桑名神社と春日大明神が合祀。寛文7年(1667)に建てられた「勢州桑名に過ぎたるものは青銅鳥居に二朱女郎」と謡われた青銅の大鳥居。横にしるべ石。これは明治18年に当時の人を探すための伝言板。石柱の正面「志るべい志」左面「たづぬるかた:迷子などの名前や特徴と探し人の名前を書く」右面「おしゆるかた:知っている人の名と、尋ね人の特徴などを書く」と彫られている。上部の窪みに神に書いて置く。全国的にこのしるべ石は今のようにTV、ラジオ、電話などが無い当時広く使われた。

左初音・丹羽本陣跡
桑名城余話
千姫の恋
左手は桑名城址 現在は九華公園として市民の憩いの場。城は鎌倉期に桑名行綱が築く。本多忠勝以後大改築し、盛時は四重の天守を中心に51の櫓が建ち並んだ。堀端にミニュチュア東海道五十三次が歴史を語る公園として設置されている。
大坂夏の陣で坂崎出羽守に救出された千姫が江戸に向かう途中、ここで接待した忠勝の孫忠刻に一目惚れ。出羽守は家康から千姫の再婚先を探すよう依頼されていたが千姫は忠刻に嫁ぎたいと譲らず。確執の末、恋を貫き桑名城に嫁ぐ。この裏で出羽守自殺という怪事件もあった。この時千姫20歳、ハタチの恋。
歌行灯本店 春日神社・青銅鳥居 同・志るべい志 桑名城址

吉津屋見付跡
公園の外れは南大手門跡 ここを右折、京町通りからよつや通りに出て左折、R504を横切り進んだ勤労青少年会館そばが吉津屋見付跡 この先をまた左折し、矢印の東海道案内標識に従い今度は右折、角におもちゃを店の前一杯に並べた<いもや本店>が目印。
光徳寺 元文元年(1736)窯を開いた萬古焼創始者 沼波弄山の墓がある。茶陶が多く赤絵に優れる。名の由来は<永久に伝わるべき作品>として<萬古不易>の印を押したのが起源。
十念寺 森陳明の墓。藩主松平定敬が京都所司代時の公用人として幕末に活躍。明治維新で桑名藩敗北の責任を一人で負い切腹。
寿量寺 江戸城障壁画を描いた狩野光信の墓。京都への帰路、ここ桑名で没し葬られた。
天武天皇社 壬申の乱時、吉野から潜幸し、桑名の郡家に泊まった縁から創立された。天武天皇のみを祀った社はここだけ。
一目連神社 本多忠勝が鋳物生産のために呼び寄せた広瀬鋳物は今も続く。この辺りは鍋屋町と呼ばれた鋳物の町であったことから、金属の神様一目連を祀る。やがて大きな釣鐘が置かれている中川梵鐘店も鋳物町の名残。
国道1号を横断する。突当り矢田立場跡 説明板と昔懐かしい火の見櫓が残る。この矢田にはまだ連格子の古い家が見られる。

矢田立場跡

町屋川
伊勢神宮常夜灯
左に進む。昔はこの辺りは松並木だったらしいが一本の松も残っていない。
日立金属前、城南神社を素通りし、国道23号バイパスを潜り、細い住宅地を行くと左に藤の里 膝栗毛に「旅人を茶屋の暖簾に招かせてのぼろくだりをまち屋川かな」と詠まれた200年の暖簾を守る会席料理店の玄関に藤棚がある。
突当ると町屋川の支流員弁川 15時20分 町屋の渡し跡 昔はこの川は渡しであった。手前に文政元年(1818)桑名、岐阜の材木商人により寄進された伊勢神宮常夜灯が残る。そばの里程標は明治26年建立、三重県庁まで11里30町余(約47km)と記されている。
下流の町屋橋から対岸の船着場跡に出る。旧家がまだ少し残る縄生(なお)地区。真教寺を過ぎた左に縄生一里塚跡 97番目。

町屋の渡し跡説明板


浄泉寺三つ葉葵紋
近鉄・伊勢朝日駅の踏切を渡った右は東芝小向工場、この先の十字路を右に行くと小向神社(おぶけ) 社宝は安永10年(1781)端牙作、万古焼陶製神酒徳利七対。毎年8月に行われる<はだか祭>は数百年前から病魔払いの火の祭りが続けられる。直径1.15mの大太鼓と70cmの鐘2個を打ち鳴らし、手に松明を持ち乱舞する。
道なりに進み十字路を左に少し行くと橘守部誕生の地 天明元年(1781)この地庄屋の長男として生まれる。子供の頃破産して江戸へ出、独学で国学者の地位を得る。が国学の権威、本居宣長の学説に批判的で孤立した。古事記より日本書紀を重んじた。
右は浄泉坊 小向神明宮の別当寺として正治元年(1199)創建。慶長8年(1603)浄泉坊として再興。寛永15年(1638)西本願寺から寺号の公称を受けた桑名藩縁の菩提寺。山門の扉に三つ葉葵紋があり、参勤交代の大名は乗物から一礼した。
JR朝日駅の標識を右に見、田園地帯を歩く。桜が並木を造る土手を進むと朝明橋。四日市市に入る。手前に多賀神社常夜燈。750mほど先、右手に長明寺 堀と土塁で囲まれた城郭のような佇まいは、明応年間(1492〜1501)開基の浄土真宗本願寺派の寺院であったが、文治年間(1185〜90)蒔田氏の居城となったため。
この街道の各家々に手作り風の「東海道標識」が吊られている。分り易く、かつほのぼのと現代の旅人を癒してくれる。

家々に下がる標識
この先でR26と交差する。本日はここまで 16時23分。バスで本日の宿舎四日市シテイホールへ。夕食は今夜もフリー。集うあって近くの居酒屋へ。
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