原の地名は、この地に独特の地形が創りだした浮島沼の
浮島ケ原に由来する。愛鷹山麓が東西に連なり駿河湾の
一部がこの山麓まで入り込み、入江は富士川から流出す
る土砂が堆積し駿河湾と切れ浅い湿地帯となる。富士山と
愛鷹山からの水はここで停滞し、大雨時には湖状態となる。
この状態が浮島沼。原はこの沼と海との間の砂丘地。
この沼で獲れる鰻が立場名物。又海辺から漁業も盛ん
で五十集(いさば)と呼ばれる者が居り、毎年9〜3月まで
獲れた魚を将軍家に納めた。
13・原 宿(天保14年)
日本橋から31里半
現代の宿駅 JR東海道線・原駅
人口   1939人
家数    398軒
旅籠     25軒
本陣      1軒
脇本陣    なし


神明社・塞神
右手に三島神社の大きなラカンマキを見てJR踏切を越すと神明神社・塞神 赤い頭巾と前垂れの塞神は集落を守るために村の入口に祀られる道祖神。ここの像は伊豆に多く見られる単体丸彫。疱瘡の神様として崇められた。またこの辺りが旧大塚新田で東の木戸跡であった。
道幅の狭い静かな街道の両側に神社と寺が多く見られる。やがて左に松蔭寺 『駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠』と言われた白隠禅師の墓がある。臨済宗。宝永4年(1707)富士の噴火で大破したが、この地出身の白隠が住持となり再興。白隠は貞享2年(1865)この地に生まれる。幼少より聡明で15歳で松蔭寺にて出家。19歳で諸国行脚の旅に出て修行を重ね、やがて五百年に一人の名僧と言われる臨済禅中興の祖と仰がれる。享保2年(1717)松蔭寺に入り、翌年白隠と号す。明和5年(1768)84歳にて入寂。後桜町天皇より神機独妙禅師、明治天皇より正宗国師の諡号を送られた。
墓は本堂裏手の墓地の一画に仕切られた三基の墓石の左端。
擂鉢松 入口左の駐車場に大きな松の木があり、上方の枝に擂鉢が伏せた状態で乗っている。これは白隠禅師が殿様より拝領した備前焼の擂鉢。なぜこの枝に乗っけたかは言い伝えがないとのこと。今は落下することを考慮し、落下防止策とダミーの清水焼の擂鉢を乗せてあるが、このダミーの方が値段が高いとの住職のここだけのお話。本物は毎年4月29日にご開帳。

松蔭寺

白隠禅師墓(左端)
<原交番>交差点の左手前に白隠禅師誕生地碑。横断した右の浅間神社前が高札場跡、道路向かいのキムラ手芸店が西の問屋場跡 東町にも一軒あり交代で務めたが、奇数、偶数か月の前半、後半の交代なのか詳細は不明。また東問屋場跡も定かでなかった。問屋場から数軒先が渡辺家本陣跡 渡辺家は阿野全成(源頼朝の弟、義経の兄)の子孫で代々丙左衛門を名乗る。問屋、年寄、名主も勤めたこの地の有力者。間口15〜17間、建坪235坪、総坪数は山林、畑を含め6600坪の広大な規模であった。今も渡辺家の表札がかかる。 
<交番前>交差点を北に2kmほどの地に北條早雲が旗挙した興国寺城址今は櫓の土台石や堀の一部が残る。(寄らず)
宿場中心 浅間神社・高札場跡 西問屋場跡 渡辺本陣跡
JR原駅前を14時52分通過。小さな高橋川を渡る。宿場は東の木戸から660間(約1.2km)とあるのでこの川の前後が西の木戸であったと推察。また川を渡った先が33番目の原一里塚であったらしい。
寄らなかったが千本松原に要石神社 小さな石祠があり、高潮の時でもこの石より上には来ない、ということで要石の名が付いた。またこの千本通りに古東海道の一里塚があった。
愛鷹浅間神社付近を桃里と言う。これは浮島ケ原の開発を鈴木助兵衛が手がけた地で、助兵衛新田と呼ばれた。明治の後期に桃を作ったので付いた名前。神社前に助兵衛の功績を記録した碑が建つ。
大通寺、浅間愛鷹神社を過ぎると植田地区。昔は原宿からこの辺りまで両側は松並木であったが今は面影はない。


立圓寺・望獄の碑
全員黙々と歩を進める。JR踏切を越え<東柏原新田>で千本街道が合流する。右に愛鷹山も見える。JR東田子の浦駅でトイレ休憩。
またこの北側がかっての浮島沼。『東関紀行(1242)』には、『浮島ケ原はいづくよりもまさりて見ゆ。北は富士の麓にて西東へはるばると長き沼あり』大正時代まで見られた風景も今は干拓され田畑に変っている。
少し進んだ右に立圓寺・望獄の碑 尾張藩医・柴田景浩が、ここから見た富士山の素晴らしさを賞賛した碑。あいにく富士は見えず。向かいが西柏原新田の本陣跡 ここが立場跡。昔の茶屋「柏屋」の子孫が本陣跡で旅館と食堂を営んでいる。
昭和放水路に掛かる平沼橋を渡った左に増田平四郎の像 説明碑に「この辺りは浮島沼で大雨が降ると湖のようになった。増田はこの地の干拓事業に奔走し、計画から27年目にやっと着工。全長505m幅7mの大排水路が明治2年(1869)に完成し『スイホシ』と呼ばれたが、完成の年、高波に襲われ崩壊した。しかしその遺志は現在の昭和放水路に引継がれた。」
すぐ先の県道左に沼田新田一里塚碑のみが残る。 
この先の海岸が 『田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪はふりつつ』山部赤人 子供の頃に正月に遊んだ百人一首の歌を思い出した。この辺りの海岸が詠まれた田子の浦

増田平四郎の像

沼田新田一里塚碑
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