広 瀬 中 佐(ひろせちゅうさ)

文部省唱歌
  (発表 大正元年)

【歌詞】
1.
轟く砲音 飛び来る弾丸
荒波洗う デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処 杉野は居ずや」

2.
船内隈なく 尋ぬる三度
呼べど答えず さがせど見えず
船は次第に 波間に沈み
敵弾いよいよ あたりに繁し

3.
今はとボートに うつれる中佐
飛び来る弾丸に 忽ち失せて
旅順港外 恨ぞ深き
軍神広瀬と 其の名残れど

【解説】
 明治15年初夏、東京下谷に講道館開設。ここに日本が誇る「柔道」は歴史にその第一歩を記した。嘉納治五郎が目指した「道」、「柔術、武術=殺人術」からの脱却、精神を善用し、国家社会に有用の士を育む為の「国民体育」としての「柔道」が誕生したその瞬間は、正に日本のみならず、世界の体育史、格闘技史にとって重要な瞬間であった。
 草創期の講道館は、門弟数も規模も、今の隆盛からは想像もつかぬ程に小ぢんまりとした道場であったが、所謂「講道館四天王」を始めとする希望と実力にあふれた若人達が、連日溌剌と汗を流していた。そんな初期の門弟達の中でも相当の実力を謳われていた男に、広瀬武夫という男が居た。いうまでもなく、後に日露戦争で旅順港口に死し、「軍神広瀬」と世に喧伝された海軍将校広瀬武夫その人である。
 広瀬の講道館入門は明治20年のことで、その時の彼は築地の海軍兵学校(江田島移転は明治21年のこと)に通う一生徒であった。嘉納の提唱した「武道精神」に強く惹かれた彼は猛稽古を続け、元来虚弱であったというその体も逞しく成長した。まだ柔 道が広く普及していなかった頃、兵学校に柔道場は存在せず、平日は兵学校の芝生の上で乱取を行い、休日になると講道館へ直行。昼食もとらず日没まで1週間分の稽古をまとめて行う。「兵学校の溜め稽古」と称された。
 日露戦争前の明治32年、広瀬は四段に昇段。海軍を、いや日本を代表する柔道家の一人といって良い実力を身につけていた。
 だが明治37年3月27日、日露戦役の最中、広瀬は旅順港に篭る露艦隊を港内に封じ込める為の閉塞作戦に参加し、そのまま還らぬ人となった。享年37歳。
 広瀬戦死についての戦史的詳細や、「軍人としての広瀬」についてのことなどは、余りにもありふれた記述であり、今更ここで語ることはしない。ここで言いたい事は、広瀬は当時相当の腕を持つ武道家であったということ、そして、沈み行く船内においてなお、我が身を省みず不明の部下を探しつづけたその心、彼が「軍神」とまで呼ばれることとなった原因でもあるその強く、優しき心、それと「武道精神」との関連性についてである。決して不可分ではあるまい。徒に膂力を競うのではなく、あくまで精神修養と共に在る体育こそに柔道の眼目を置いた嘉納のその「道」が、広瀬を「軍神」たらしめたのである。
 嘉納は同年4月8日、六段の追贈を以って広瀬の霊を悼んだ。

 広瀬を歌った歌は戦争中にも沢山作られたが、所謂「軍歌不毛期」と呼ばれる日露戦争期の軍歌だけあり、今にも広く伝わる歌は殆ど皆無といって良い。この歌は大正元年に文部省が編んだ「尋常小学校唱歌(四)」に掲載されているものであり、学校教育用の文部省唱歌である。
「Gunkadow」




※参考音源:キングレコード「軍歌メモリアル(1)」(KICX6186)

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