勅語奉答(ちょくごほうとう) 作詞:勝 安芳(著作権消滅) 作曲:小山作之助(著作権消滅) (文部省告示 明治26年) 【歌詞】 あやにかしこき すめらぎの あやにたふとき すめらぎの あやにたふとく かしこくも 下したまへり 大みこと これぞめでたき 日の本の 国の教えの もとゐなる これぞめでたき 日の本の 人の教えの かがみなる あやにかしこき すめらぎの みことのままに いそしみて あやにたふとき すめらぎの 大御心に 答えまつらん |
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【解説】 「海舟は切れ者であった。それだけ一部の人々からは嫌われもしたし、憎まれもした。そうした感情は跡を引いて、海舟をよくいわぬ人が明治以後にも多かった」(森銑三「栗本鋤雲の詩」より) この歌の作詞者である勝安芳とは、他ならぬ勝海舟のことであり、自身が安房守であったことから、維新後に同音の字をあてがい名乗った名である。海舟と仲の悪かった人物でもその筆頭に挙げらるであろうは、矢張り福沢諭吉だが、正岡子規もまた海舟を良く思っていなかったらしい。尤も子規の場合、海舟の人物、思想に文句があったわけではなく、文学的なことについてである。海舟のものす詩文には大した物が無いというのがその理由であったそうだ。 別にわざわざ子規を持ち出すまでも無く、海舟が下手詩を詠むことは結構有名な事実である。残っているものはそれなりに多いが、よくよく見ても大した内容とは言いがたい。尤もこれは海舟自身も認めていることで、「おれは、一体文字が大嫌いだ。詩でも、歌でも、発句でも、みなでたらめだ。何一つ修行したことはない。学問とても何もしない。」(勝海舟「氷川清話」より)と自分で書いている。しかし海舟は自身で才の無さを認めながらも、詩文を愛すること深き男であった。 この「勅語奉答」という歌は、明治26年に文部省が「祝日大祭唱歌」として制定した8曲の歌(君が代、勅語奉答、一月一日、元始祭、紀元節、神嘗祭、天長節、新嘗祭)の一つで、祝祭日における学校行事の為の歌、教育勅語に対する賛歌である。以後敗戦に至るまでずっとこれが用いられたのだが(昭和3年に「明治節」が追加)、発表された当時、文人達からの評判は余り芳しいものではなかった。 歌詞の内容が単純な賞賛一辺倒で文学的な深みに欠けることや、旋律が全て4/4拍子の洋楽調で変化に乏しく、雅楽を始めとする我が国古来の旋律などが殆ど取り入れられていないことなどが主たる原因であった。反対派の筆頭は陸軍軍楽師の永井建子で、雑誌等に論陣を張ってこの「祝日大祭唱歌」を激しく批判した。尤も上記の通り、これらの歌はそのまま敗戦まで歌い継がれ、永井達の声が文部省に届くことは遂に無かったのだが。 この「勅語奉答」は名曲か駄曲か、その判断は結局聞く人の耳にのみかかる問題である。しかし、維新後の海舟の暮らし振りを記したある記述は、我々を少し唸らせる。 「明治二十年十二月六日のことである。依田学海は、勝海舟をその邸に訪問して、往事についていろいろ聴くところがあった。(中略)学海は目のあたり見た勝家の様子を書いて、まるで貧乏侍の住いのようだとしている。伯爵にも列しながら、海舟はそうした暮らし方をしていたのである。殊にその形ばかりの玄関に、もう世は明治の二十年だというのに、旧幕時代そのまま、左右に高 張堤燈を立てていたなどというのが、風俗史的にも感興が深い。 海舟は夙に蘭学を修め、幕末に既にアメリカへも渡航している人である。当時としては、新知識の一人だったのであるが、それでいて少しも西洋かぶれしていない。国内には欧化の風が吹きまくっていたのに、かえって旧式な、時代後れともいうべき生活をしている。(中略)ハイカラという言葉の生まれるのは、なお十年あまりも後のことであるが、ハイカラであってもよい海舟その人は、少しもハイカラでなかった。」(森銑三「海舟邸の玄関」より) 文明開化を叫ぶ巷を余所に見、その「旧幕時代そのまま」の生活空間の中で、「勅語奉答」の歌詞はものされた。新時代の学童達に送る詩を、旧時代の中から送り出した。 冒頭に書いた通り、福沢諭吉を始めとして、海舟の身の処し方を悪く言う向きは様々な所にあった。だがそんな雑音に耳も貸さず、海舟は時代後れのボロ屋で下手詩を書いていた。 サムライである。ただ、そう言いたい。「勅語奉答」が名曲か駄曲か、そんなことは知らぬ。ただこの歌は、サムライの書いた歌である。それだけを思い、耳を傾けるべきではなかろうか。 |
| 「Gunkadow」 |
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