敵は幾万(てきはいくまん)

作詞:山田美妙斉(著作権消滅)
作曲:小山作之助(著作権消滅)
  (発表 明治24年)

【歌詞】
1.
敵は幾万ありとても すべて烏合の勢なるぞ
烏合の勢にあらずとも 味方に正しき道理あり
邪はそれ正に勝ちがたく 直は曲にぞ勝栗の
堅き心の一徹は 石に矢の立つためしあり
石に立つ矢のためしあり などて恐るる事やある
などてたゆとう事やある

2.
風に閃く連隊旗 しるしは昇る朝日子よ
旗は飛びくる弾丸に 破るるほどこそ誉れなれ
身は日の本のつわものよ 旗にな恥じそ進めよや
斃るるまでも進めよや 裂かるるまでも進めよや
旗にな愧じそ恥じなせそ などて恐るる事やある
などてたゆとう事やある

3.
敗れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身の誉れ
瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず
むくろを馬蹄にかけられつ 身を野晒しになしてこそ
世にもののふの義といわめ などて恐るる事やある
などてたゆとう事やある


【解説】
「元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。そのほうにふけるとつい品性にわるい影響を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地では到底暮らせるものではない。それで釣りにゆくとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、なんでも高尚な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」(夏目漱石「坊ちゃん」より)。

 そもそも今時「新体詩」などという言葉は確実に死語であろう。私も小学生の終わり頃、前述の「坊ちゃん」を読んでいて初めてそういう言葉を目にした。当たり前のことだが、その時は一体何の事なのか全く分からなかった。

 江戸時代以前、日本で「詩」といえば普通漢詩のことを指した。しかし明治維新の後、全ての旧体制が否定される世に至り、文化、文学の世界にもその「旧否定」の荒波が押し寄せてきた。当然、「詩」に対してもである。「新体詩」とは、漢詩を「旧」と見立てた文明開化の生みし「新しき詩」であったのである。漢詩に存在する 様々の表現制約から解放された新時代の詩、新体詩が目指した新境地はそういうものであった。

 しかしながら、新体詩が文学的な広がりを見せることは遂に無かった。漢文の向こうを張った割には文型が漢文読み下し調の域を出ることが無く、また一部に西洋詩の翻訳ばかりに傾倒する向きが現れ、創作追求の方向へジャンル自体が進展していかなくなったことなどが主な原因として挙げられる。それともう一つのこととして、冒頭の「坊ちゃん」の赤シャツの言ではないが、一部の知識階級の「娯楽」、つまり言葉遊びのような形での普及は盛んであったが、一つの「文学」としてまでどうしても進み行かなかったことである。主な推進者としては外山正一や矢田部良吉らが著名であるが、彼等はそもそも帝大の教授職にあり、詩などものさなくても十分食べていける身分であった。

 だがそのような風潮に逆らうように、新体詩を一つの文学まで押し上げようと奮闘する男が居た。大和田建樹と、この「敵は幾万」の作詞者、美妙斎山田武太郎(1868-1910)である。大和田についてはまた機会あれば書くことにして、この項では山田について記す。

 山田は一般的には言文一致運動の先駆者として知られ、代表作といえばその言文一致体で書かれた小説「武蔵野」がすぐに想起される。所謂「ですます調」の文章は、彼が最初に書き始めたものであるといわれる。生まれも育ちも東京で、後に「硯友社」を共に起こした同志、尾崎紅葉とは幼少の頃よりの友であった。

 言文一致、新体詩、このように何事にかけても先取の精神に満ち溢れていた彼だが、作家としては致命的なことに、文才に恵まれていなかった。新しいジャンルを見つける目には優れていたのだが、その道を豊かにする才能に欠けており、結局物珍しさ頼みの「一発屋」。彼の著作は次第に世からは飽きられていく。一方で日に日に文名の上がる朋友、紅葉。自尊心強く狷介な秀才な山田にとってそれは余りに耐えられぬことであり、結果山田は紅葉との友情を断ってしまう。

 山田はその後も独り、売れるはずも無い新体詩の詩集や言文一致小説を出し続ける。彼が真剣に新体詩に賭けていたことは、その膨大な著作から容易に伺えるのだが、総じて内容が無いのが致命的である。この「敵は幾万」は、彼が明治19年に発表した「新体詩選」の中にある、「戦景大和魂」という全8章からなる詩から、作曲者小山作之助が3章だけ選び出して明治24年に曲を付したものだが、何故に選ばれたのが3章だけなのかは推して知るべし。

 山田はやがて女性問題で文壇を逐われ、起死回生を図って出版した「日本大辞書」も、アクセントを記載した本邦初の辞書として一時的な話題は得たものの、項目が下るにつれて段々記述が粗雑になっていくというこれまた雑な内容故に失敗。晩年は寂しく、頸腺癌腫により明治43年、42歳で逝った。

 山田は確かに「軽薄才子」としか言い様の無い男であったが、彼が生涯をかけた新体詩が、それ自体は成熟しなかったものの、浪漫詩や象徴詩などの日本近代詩の源流となったのは事実であり、また言文一致体は今や日本国民全ての文体である。

 彼はその才能の無さも手伝って、形あるものを殆ど後世に残さなかったが、その先取の精神だけは、今でも日本にしっかりと息づいている。
「Gunkadow」




※参考音源:キングレコード「軍歌メモリアル(1)」(KICX6186)

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