平成20年9月27日(土)
|
矢部駅前(集合) ⇒
上矢部の板碑 ⇒ 土塁 ⇒ 日枝神社 ⇒ 淵辺義博居館跡碑 ⇒ 皇武神社 ⇒ 縁切り榎 ⇒ 龍像寺 ⇒ 古淵西公園(昼食)⇒ 大日堂・鹿島神社 ⇒ 一里塚 ⇒ 覚円坊(観音堂) ⇒ 八坂神社 ⇒ 住吉神社 ⇒ 妙延寺 ⇒
町田駅(解散) 約13q |

![]()
|
暑かった夏に別れを告げ、朝方半袖では肌寒く感じます。日に日に秋の気配が深まり、ウォーキングには絶好の季節となりました。 第7回目のフィールドワークは矢部駅をスタートし、境川沿いを「淵辺義博伝説」「おきぬサマ伝説」を辿って古淵駅まで。古淵から町田市の木曽に入り絹の道を通って町田駅まで進みます。淵辺氏所縁の淵野辺は歴史と民俗の宝庫。武蔵国横山荘(八王子市)を本拠地とする横山党と称する武士団の一族のうち、源頼朝の御家人と活躍した野辺氏と南北朝時代に足利尊氏の弟、直義の家臣として活躍した淵辺(義博)氏の名が交じりあって「淵野辺」と呼ばれるようになったという説があります。また、町田の木曽では境川を挟んでこの地域がもともと一緒だったのではないかということを掘り下げてみたいと思います。 今回担当する1班のこだわりは「よく学びよく歩くこと」。矢部から町田に向かう13キロの道のり(本シリーズ最長)を飽きずに歩けるように、事前調査をきめ細かく行い、淵辺義博を中心に盛りだくさんのコースを設定してくれました。おかげさまで歩いたことのある道でしたが新たな発見ができ充実した1日だったと思います。また、時間の管理もしっかりしていて、途中行き先を変更するなど臨機応変の対応で時間どおり夕方4時に解散となりました。 |
|
今回はお休みです。 |
![]()
|
|
|
|
|||
|
朝9時30分「矢部駅」に集合です。矢部駅は昭和25年(1950)に米軍相模総合補給廠の仮乗降場として開業しました。ご覧のように軍用車両が並べられています。また、塀の脇には引込み線の線路が部分的に残っています。 |
|||||
|
|
|
|
|||
|
補給廠脇に小祠があり、中には板碑が安置されています。鎌倉時代末の「乾元2年(1303)銘の板碑」で、蓮座に乗る阿弥陀如来と一対の華瓶が繊細な線で刻まれているそうですが、はっきり確認できませんでした。伝承では、建保元(1213)年に和田合戦で滅亡した矢部氏供養のため、建てられたものといわれ、相模原市の有形文化財に指定されています。 境川に向かう道路のカーブのところが盛り上げっています。ここも淵辺義博に関係した史跡で、「屋敷の土塁跡」です。よく見るとああなるほどと思います。 道路拡張の際によく残りましたね。 |
|||||
|
|
|
|
|||
|
しばらく境川に沿って歩き淵野辺方向に進みます。途中で「道祖神」に出会いました。後ろからみるとおもしろさがわかると思います。境川の堤防には8月28日の集中ゲリラ豪雨の爪痕が残っています。いつも穏やかな印象しかなかった境川ですが、昔は激しく蛇行していて暴れ川だったという話は本当だったのですね。 |
|||||
|
|
|
|
|||
|
|
|
|
|||
|
淵野辺集落は大きく3つの地区に分かれ、ここ、北の日枝神社、中央の皇武神社、南の鹿島神社というように、それぞれの地区に神社があります。明治時代の末期に内務省の主導で神社合祀が進む中、今でもこうして江戸時代のくくりで残っているということは、それだけ地域にとって大切なものであったということですね。石段には石工さんの名が「煤ケ谷の權右エ門」と彫られています。煤ケ谷は清川村の地名ですね。あの辺りには優秀な石工さんを輩出していました。 ここからは、「民俗に親しむ会」の旧市域編で歩いたコースと重複するのでかなり省略しています。 |
|||||
|
|
|
|
|||
|
淵野辺本町2丁目の延命地蔵尊 |
淵辺義博の居館跡の碑 |
川崎市水道局の施設です。城山の谷ヶ原場から続く水道管は野津田、柿生を経由して、川崎市宮前区の潮見台浄水場へ向かいます。 |
|||
|
|
|
|
|||
|
|
|
皇武神社 「おきぬ様信仰」の発祥の地となっています。 |
|||
|
|
|
|
|||
|
縁切り榎 |
淵辺義博が大蛇を射た所 |
||||
|
|
|
|
|||
|
「曹洞宗 淵源山 龍像寺」です。ここに、旗本岡野家累代のお墓がありますが、写真奥の3基が最初に建立されたものだそうです。 |
|||||
|
|
|
|
|||
|
龍像寺坂と当麻山道ですが・・・・なんと擁壁と舗装された道に変わっていました。右は昨年の写真です。 |
|||||
|
|
|
|
|||
|
古淵駅近くの横浜線の踏切です。「津久井踏切」とありますね。なぜこの名がついたのだろうと皆で不思議に思いながら渡りました。ジャスコ近くのマンションに囲まれた古淵西公園でお昼の休憩をとりました。 |
|||||
|
|
|
|
|||
|
大日堂 |
鹿島神社 |
||||
|
|
|
|
|||
|
鹿島神社の地神塔です。一般には土地の神、農業の神とされています。地神を祀る地神講は秋分と春分に最も近い戊の日に行われ、この日は畑などに出て土を耕してはいけないといわれていました。この地神塔を立てたのは当村境川とありますね。町田側にも境川という地名が残っています。川を挟んで関わりがあったことを示す貴重な資料です。 |
|||||
|
|
|
|
|||
|
境川を渡ると町田市内です。マンホールの蓋も違いますね。中央はマチダのマの字2つで田の字型に図案化。市民の和合団結を表し、中央の鳥型は平和と発展のしるしだそうです。周りは市の木、ケヤキでしょう。右の写真は一里塚です。 |
|||||
|
|
|
|
|||
|
覚円坊(観音堂のみ) |
この辺りに境川という地名が残っています。木曽の八坂神社にある道祖神は文化5年(1805)に建立されたもの。黒く煤けているのはドンド焼きのときに火の中に入れるからだそうです。・・・ホントに? |
||||
|
|
|
|
|||
|
境川団地から町田街道沿いを町田駅に向かって歩き、森野5丁目のバス停から右の路地に入ると道祖神・堅牢地神塔・庚申塔と石仏が3基並んでいました。道祖神と地神塔は文化11年(1814)、庚申塔は宝永7年(1710)に建立されたもの。昔はこの辻でドンド焼きが行われていたそうです。また、庚申塔は手足の神様として祀られ、森野上講中ではイボ神様として信仰されています。 そして横浜線の線路近くに鎮座しているのが「森野住吉神社」です。寛永17年(1640)に森野村の鎮守として勧請創建されました。ご祭神は底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命の住吉三神と神功皇后で、もとは妙延寺の境内にありましたが明治4年(1871)に当地へ遷座しています。住吉神社は全国に2300余社あるそうですが、町田・相模原周辺で住吉神社はここだけのようです。なぜここにあるのでしょうか。江戸時代、森野村は旗本須藤家の支配地でしたがそれと関係があるのかな? また、住吉神社では昭和10年(1935)まで「鎮花祭(はなしずめのまつり)」が農耕儀礼として行われていました。一般的には花の散る季節の変わり目に疫病が流行することを防ぐためのお祭りです。 |
|||||
|
|
|
|
|||
|
|
鎌倉街道と交差する森野交番前から鐘楼が見えています。ここは「妙延寺」といい日蓮宗のお寺で山号は長滝山です。境川を挟んで鵜ノ森にあるのが同じ日蓮宗の「幸延寺」ですので何かつながりがありそうでいいですね。応永2年(1395)に開かれたと過去帳に記されています。昭和20年の空襲で本堂は焼失しましたが、昭和38年に現在の本堂が落慶しています。 最後に横浜とのつながりに出会うことができました。小田急線町田駅北口前にある「絹乃道碑」です。原町田誕生4百年を記念して、一番街商店街が昭和58年(1983)に建立しました。そういえば30年前は「町田駅」は「原町田駅」、小田急は「新原町田駅」でしたね。原町田という名が懐かしく思われます。 八王子の鑓水、相原を通り境川に沿って続く絹の道は、町田の三塚から恩田川に沿って進む神奈川道と国道16号に沿った八王子道に分かれます。次回はここから恩田川沿いの神奈川道を進み、長津田までのコースになりそうです。 |
||||
|
平成19年2月に同じようなコースを歩いています。そちらもご覧ください。 kazのお散歩日記 民俗講座旧相模原市域編B 淵野辺 |
|||||
|
Kazのお散歩日記 |
|||||