「Einsturzende Neubauten」の基本コンセプトとなったというヴァルター・ベンヤミンの「破壊的性格」(Walter Benjamin, Der destruktive Charakter,1931)。
Walter Benjamin: WERKE Band 1, Suhrkamp Verlag KG., Frankfult, 1969.
『ヴァルター・ベンヤミン著作集1 暴力批判論』編集解説高原宏平・野村修、晶文社、1969年より抜粋。
だれの眼にも<破壊的性格>とうつるひとびとがいる。この人生でいいかげんにすることのできなかった深刻な問題は、たいていこの種のひとびとがその原因になっていたのではあるまいか。自分の人生をふりかえってみて、ふと、このような認識に到達することがある。ある日、それもおそらくは偶然に、この事実にぶつかるのだ。そのさい受ける衝撃が強烈であればあるほど、この破壊的性格の実態を究明しようとする機会も大きくなる。
破壊的性格がかかげるのは、<場所をあけろ!>というスローガンだけであり、その行動も、<とりのぞき作業>のほかにはない。さわやかな空気と自由な空間への渇望は、いかなる憎悪よりもつよい。
破壊的性格は、わかわかしく、はれやかである。じじつ、破壊作業は、ひとびとを若かえらせる。なぜなら、それは年齢の痕跡をきれいにとりのぞいてしまうからだ。破壊作業は、ひとびとの気もちをはれやかにする。なぜなら、どのようなとりのぞきの作業でも、破壊的な人間にとっては、自己の現状の完全な還元を、いわばルートをひらく開け方を意味するからだ。このようなアポロ的な破壊者のイメージへわれわれをみちびくものは、何であろうか。それは、世界が破壊にあたいするか否かによって吟味されるならば、世界はすばらしく単純化されるはずだ、という認識にほかならない。この破壊への希望こそ、既成のものいっさいを融和的に結びあわせている大きなきずなである。破壊的性格にきわめてふかい調和を楽しませる光景があるとすれば、これ以外にはない。
破壊的性格のはたらきは、つねに新鮮である。そのはたらきのテンポは、すくなくとも間接的に、自然そのものによって規定されている。つまり破壊的性格は、自然のいとなみの先をこさねばならないのだ。さもなくば、自然じたいが破壊作業をひきうけてしまうだろう。
破壊的性格は、いかなるヴィジョンもいだかない。欲望もあまりない。破壊したあとに何があらわれるかなど、破壊的性格にとっては、つまらぬことかもしれない。かつて<もの>が存在していた場所、犠牲者が生きていた場所に、さしあたり、すくなくとも一瞬間、何もない空虚な空間ができる。この空間を、占有することなく、使いこなせる人間が、いずれはあらわれるだろう。
破壊的性格は、自分のなすべき仕事をする。ただし創造的な仕事だけは別である。創造的な人間が孤独を求めるのにたいして、破壊的な人間は、いつもひとを周囲に集めずにはいられない。自分のはたらきを見まもってくれる証人たちが必要なのである。
破壊的性格は、標識のようなものだ。三角測量の旗が四方八方の風に吹きさらされているように、破壊的性格は、あらゆる角度からひとびとのうわさの的にされる。そのようなうわさを封じようとするなどは、愚の骨頂であろう。
破壊的性格は、理解されるということには、すこしも興味がない。そのための努力なども、まったく浮ついたものだとみなしている。誤解されることは、破壊的性格にとって、けっして不愉快ではない。逆に誤解を挑発しさえする。この点、古代の神託--これは破壊のための国家機関であった--とよく似ている。ぺちゃくちゃうわさばなしをする習慣、このもっとも小市民的な習慣は、ひとびとが誤解されたがらぬところから生じたものである。破壊的性格は、平気でひとに誤解させておく。
破壊的性格は、額ぶち型人間の敵対者である。額ぶち型人間は、安全第一主義のなかにおさまっており、その実体は外枠である。そしてその枠の内側には、自分がこの世にしるした足跡がビロードでふちどられている。破壊的性格のほうは、破壊の痕跡すらぬぐいとってしまう。
破壊的性格は、伝統主義者の最前列に立っている。伝統主義者のなかには、事物の伝達をおこなうものと、状況の伝達を行うものがいる。伝達をおこなうにあたって、前者は、事物を侵しがたいものとみなし、その保存に汲々とする。後者は、状況にはたらきかけ、その流動化をはかる。後者は、破壊的人間とよばれている。
破壊的性格は、自分が何よりもまず歴史的な人間だ、という意識をもっている。その根本衝動は、ものごとの進行にたいするやみがたい不信であり、つねに「何もかもだめになるかもしれない」と思って焦らない。破壊的性格とは、したがって、誠実ということである。
破壊的性格は持続を認めない。だからこそ、逆に、いたるところに道が見えるのである。他のひとびとが壁にぶつかったり、山塊に出くわしたりするところでも、破壊的性格は道をみつける。しかしまた、いたるところに道が見えるからこそ、逆に、いたるところで道から外れていかねばならなくなる。しかし、そのさいかならずしも乱暴な行動をとるとは限らない。ときにはきわめて洗練した行動をとることもある。いたるところに道が見える以上、破壊的性格じたいは、つねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるかわからないのだ。破壊的性格は、既成のものを瓦礫にかえてしまう。しかし、それは瓦礫そのもののためではない。その瓦礫のなかをぬう道のためである。
破壊的性格が生きているのは、この人生が生きるにあたいするという感情からではない。自殺はやりがいのないことだという感情からである。
Walter Benjamin, "Der destruktive Charakter",1931.