鎌倉武士・懐島景能(ふところじま・かげよし)
大庭景親(おおば・かげちか) 熱血カメラマンへのメールはこちらです
鎌倉武士円蔵の地に眠る 茅ヶ崎熱血情報カメラマン高橋昭和
![]() ふところ島円蔵の景能の地に 鶴岡八幡宮から御神酒奉納 |
懐島景能(ふところじま・かげよし)について 懐島郷(ふところじまごう)円蔵(えんぞう)を本拠地として 館(やかた)を構えた。 治承4年(1180年)源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に 加わった。 源頼朝に信頼され、最も頭の優れた御家人といわれた。 鎌倉幕府の造営にあたり、頼朝御所の設計と工事を勤めた。 後に源平池も手がけた。 景能(かげよし)は、円蔵と鎌倉若宮大路の西側に屋敷を 構えていた。 東大寺(とうだいじ)供養の際は、将軍・頼朝の直前を行進 する栄誉をあたえられた。 ※平家側についた弟の景親(かげちか)は頼朝に追われ 固瀬川(かたせがわ・片瀬川)で首をはねられた。 “治承4年(1180年)10月26日のことだ。” 亡骸は、ふところ島の円蔵の兄景能(かげよし)の地に 大庭景親(おおば・かげちか)一族の墓として、懐島の家臣 が塚を祭った。戦後塚を開墾したところ、刀が出土した。 ※景親(かげちか)一族の墓の東側(輪光寺)からは鎌倉武 士の五輪の塔が、戦後あらわれた。 鑑定の結果、鎌倉時代の高貴な人物ということだった。 鎌倉武士と言えば、円蔵では懐島景能(ふところじまかげよし) のほか、茅ケ崎市内どこにも存在しない。 地元では、これが懐島景能(ふところじまかげよし) の墓だと語り伝えられている。 ※懐島景能(ふところじま・かげよし)は 承元4年(1210年)4月9日 懐島郷の円蔵の館(やかた) で没した。 熱血カメラマンへのメールはこちら |
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| 懐島景能 (ふところじまかげよし) ふところ島 円蔵の地に 堂々と立つ景能の石像 |
大庭景親 (おおばかげちか) 固瀬川(かたせがわ)で 打ち首となった弟・景親 も円蔵の地に眠る。 |
能條憲夫宮司 (のうじょうのりお) 景能の館を清める 能條憲夫宮司 |
小室 功 (こむろいさお) 懐島景能は茅ヶ崎の宝だ。 忘れちゃ、いけないと 小室功さん |