浜見平団地
| 「私は40年以上前、浜見平団地に住んでいました。 当時は住宅難で、公団住宅の抽選に23回目にようやく当選したのが浜見平団地でした。 入居できた時は本当に嬉しかったです。私達の部屋は、団地のもっとも北側の5階 周りは 全部田んぼでした。それで東海道線がよく見えました。 線路の向こうに宮田自転車の工場があり、派手なネオンがついていました。 毎晩、長い長い貨物列車が通るのです。宮田自転車のネオンに照らされシルエットになっ た貨物列車はいつもいつもゴトンゴトンと眠たい音をたてて続きます。 「『銀河鉄道の夜』だ!と夫が入居第1日目に言いました。 私達の夢であり子守唄でした。茅ヶ崎というと今でもあの銀河鉄道を思い出します。 あれから40年以上経ちました。私ももうすぐ70才。今では貨物列車は通らないでしょうね」 〜2007年(平成19年)8月17日 森 桂子 茅ヶ崎熱血情報 写真家 高橋昭和 熱血カメラマンへのメールはこちらです |
| 熱血カメラマン様 私も浜見平団地の1期生です。 同様に団地の申し込み回数が多くて確か優先順位で憧れの団地族になりました。 入居していたのは、バスの終点の北側〔街区番号は忘れましたがここだけが街区番号がありましたが棟番号は私の棟一つだけだったと思います〕夜には東海道線の踏み切りのカンカンという音が聞こえました。まだまだ若い時で一間のアパートから移った当時は「終の住居」はここだと感じてました。 しかし、高度成長期に乗っかり、通勤時間やもっと広い所と(入居時には思ってもみなかった贅沢な考え!?)昭和44年には横浜に転居し、その後複数回の転居を重ね、現在は仙台に住んでいます。 今でもワイフと浜見平のことを懐かしんでいますが、あの時が一番人生の希望に燃えていたように思います。長男は浜見平幼稚園、小学校の1期生で今はいいオジサンになりましたが近所で泥だらけになり遊んだ記憶はあるそうです。海岸に行くためビーチパラソルを作り (傘やさんがチラシを入れていた)今ではとても無い丈夫な硬い木の柄で帆布のような厚手の綿布で (色はオーダーでした)今年の夏まで使っていましたが、色も褪せ生地もふけて破けてきましたのでとうとう思い出と共に捨てることにしました。 2007年10月26日 今も夢に見る浜見平の一期生 飯塚 |

浜見平団地のバスターミナル。
| こんにちは。初めてメールします。 私は生まれは大阪ですが、幼少の頃から茅ヶ崎の浜見平で育ち、西浜小、西浜中と教室から海を見 、結婚して離れるまでの20数年を茅ヶ崎で過ごしました。 今は埼玉に暮らしていて、親も相模原に移ってしまったために茅ヶ崎に帰る機会が無くなってしまっ て暫く行ってませんが、私の故郷は茅ヶ崎だと思っています。 高橋さんのページを知り、殆ど毎日茅ヶ崎のその日の海を見られるようになりました。 胸がキュン!と熱くなるような思いで毎日見ています。 今はサザンビーチなんて言うけれど、私にとって茅ヶ崎の海は今でも西浜海岸。大好きな烏帽子岩と ちょっとグレーの砂浜・・・潮の香りは今でも私の体に染み付いて忘れることはありません。 海野 朋代 |
| はじめまして あまりの懐かしさについメールを送りたくなってしまいしまいました。 私も、第一期の仲間だと思うのですが、入居当時4歳くらいだったので ハッキリとは憶えていませんが、おそらく今から44年くらい前のことです。 浜見平団地バス終点の写真見ましたよ! 高校3年間通ったバス停 です。乗り場はあまり変わっていないように思いますが、確か記憶では キョウチクトウの木が垣根になっていたような気がします? 実は(故)父が神奈中のバスの運転手をしていたため、本当に懐かしい 思い出ばかりばかりなんです。苦労して育ててくれた父が、本当に掛け替 えのない思い出を私たち家族に与えてくれたように思います。 話に聞けば現在、浜見平団地は当時植わっていた木々が生長してか 分かりませんが、森になってしまっているとか? 大げさではありますが そのように聞いています! そして、南郷側(東側)の棟は無くなってしま ったとか、親友から聞きました。 思い出の茅ヶ崎を離れたのは19歳の時でした。千葉に5年!そして 今は生れ故郷の長崎市に住んでいます。 本当に無情迅速ですね! 今年の7月で49歳です。 去年の5月、千葉の袖ヶ浦に住んでいる姉の所へ遊びに行ったのですが 茅ヶ崎までは遠すぎて足を運ぶことは断念してしまいました。残念ですが いつか、きっと帰ってみたいそんな想いで一杯です! 柳島小学校 西浜中学校までの道程を歩けたなら、幸せな気持ちがよ みがえってくるにちがいありません。 2008年 3月26日23時41分 植木 |