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29 孟春号【通天閣高い】〜大阪ラプソディU〜
2008 2/12 なにわや亭主 蝸牛庵
平成20年の幕が開いて春の気配も近付いた様だ。年が改まって何がどう変わる訳でもな
いが、誰もが共通認識で迎える新年には何処か格別の厳かを感じ、緊張感があって良いも
のだと思う。各家庭で年頭行事は様々だろうが、戦後の食糧難時代も昔人間は許容の中で
お節料理など迎春の祝事を大切にして来た。世相も環境もすっかり様変わりして、新語や
略語が認知される時代だが、慣習や地域文化は後裔に伝えるべきもの・・・と一人思う。
歳を重ね老春を指折るたび駈けめぐる幼少への回想である。今年も丹波の黒豆、鰊の昆布
巻き、数の子が食卓に並び、思わず口元をほころばせたことである。
大阪南地の戎橋筋や道頓堀川が大きく変貌したという。えびす橋が新しく架け替えられた のだ。“新橋”にケチを付けるつもりはないが、想い出の昔を歩きたい旧来の大阪人にと っては、記憶や懐かしさ迄がそっくり掻き消される様で少し寂しい気がする。とは言え老 朽化が進んだこともあったようだし、橋や周辺の構想には長い年月を費やし、一般公募に 依って選定された設計だというから“跨がなければならない時代の橋脚”だったのかも知 れない。振り返ってみれば、長堀橋に地下駐車場が出来た時も市電が消えた時も驚いたし、 御堂筋や堺筋が一方通行になった時は殊更に戸惑いがあったものだ。都市の成長や改革の 流れに、個々が好き勝手な棹を差すのは許されないことなのだろう。 『昭和は遠く・・・』最近良く耳にする言葉である。団塊世代が膨らんだせいか、高齢者 が溢れたからかは知らないが、昭和は既に昔と呼ばれ、懐かしいと思う人が増えた様だ。 それも懐かしきは昭和30年代の・・・という。私の青春時代も丁度その辺りにあった。 学友と、時には彼女の手を取ってミナミを闊歩したものである。リーゼントが流行り、街 中の若者がマンボズボンに身を窶した時代だ。昨今喫茶店が少なくなったが、当時は仕事 でも仲間との約束でも、待ち合わせ場所は喫茶店だったし、一人でも珈琲を一杯、という 風潮があったものだ。門並み「純喫茶」「音楽喫茶」の表札を掲げて、駅周辺や都心では 五メートルも歩けば喫茶店に突き当たるほどその数は多かったものである。 難波高島屋から大劇通りの入り口に「桟橋」という店があり“逢うも別れも桟橋で”とい う看板が目を引いていた。松竹座の西側部分を仕切った細長い店で「逢いましょう」だと か、法善寺近くの「丸福」心斎橋筋の「B・C」は焙煎が私のお気に入りで良く通った。 大丸とそごうの間を少し東に「みき」というちょっと風変わりな店があり、ウエートレス は粒揃いの美人、制服は筒袖の着物に当時はまだ珍しい新装帯。驚きは足元にお揃いのパ ンプスという出で立ち。ドボルザークの“新世界”など流れて音響は頗る良く、女性達の 笑顔と応対振りは逸品であった。名曲喫茶を名乗る喫茶店が増えて、壁を全面スピーカー にしたり、メニューと共に曲名のリストを添えたりしていた頃である。 「どん底」や「ともしび」など大声で唄った歌声喫茶は下降線を辿り、マンボが流行りR &ブルース、ロックンロール時代の到来である。ジャズ喫茶は盛況、ダンスホールは満員。 プレスリーやニールセダカが火付け役となって、日本中の若者は熱狂した。生バンドが出 演する大型店は大人気で、ミナミでは「銀馬車」「サイトハウス」「ナンバ壱番」などに 客は集中していた。ジャンルを分けて二組のバンドが毎週出演していたが、カントリーが 好きだった私はジミー時田や寺本圭一らを良く見に行った。堀威夫のギター、寺内タケシ のバンジョーは今も記憶に残る。ジャズ喫茶では難しいことだったが「ビル・モンロー」 や「グランパ・ジョンズ」が来日して“ブルーグラス”の本物が聞けたのもこの頃。フラ ンク永井と松尾和子がジャズやポピュラーを歌っていたのも当時の「銀馬車」であった。 『通天閣高い・・・オランダ見える・・・アメリカ見える・・・ぼんぼん寒いで早よ帰り ・・・じゃんじゃん横町に日い暮れる・・・』これは4年前に物故となられた作家、作詩 家『石浜恒夫』の「道頓堀左岸」に収められた詩の一節である。石浜恒夫は「夫婦善哉」 で知られる『織田作之助』門。その影響を受けて後に川端康成にも師事した作家である。 相前後して此の世を去られたが「オダサク」同門で私が愛するもう一人の作家に「ネオン 太平記」などの『磯田敏夫』氏がいる。二人に共通することは“大阪を知り大阪を描いた 大阪の作家”であったことだ。昭和30〜40年代「こいさんのラブコール」や「大阪ぐ らし」など、フランク永井らが歌ってムード歌謡がヒットしたことだが、とりわけ大阪も のと呼ばれる一連の歌詞には、ロマンチスト石浜恒夫の心象が覗けるようで微笑ましい。 作品には街の情景、人間の表情、なにわ言葉までがパステルで描かれた彩色画の様に現れ、 その豊かな詩情が心に伝わってくる。 「道頓堀左岸」は昭和42年の出版とされるが『通天閣高い・・・』というフレーズは、 大阪近辺の子供達の間では古くから尻取り歌として流行り『いろはにこんぺんとう』とか 『さよなら三角又来て四角・・・』と次々に言葉を繋いで遊んだ記憶がある。そんな中の 一つに『・・・黒いは煙突、煙突は高い、高いは通天閣、アメリカ見える・・・』という のがあった。明治、大正生まれから伝わった『通天閣高い』は初代の通天閣から受け継い だ昔唄から生まれたようである。現在の二代目通天閣が竣工したのは昭和31年秋。戦後 周囲の商人達が“通天閣再建”を願って寄付を募り、3億円が整って工事が始まったと聞 いた。通天閣の天辺に立って背伸びをしてもアメリカが見える筈はないが、ビリケンや縄 跳びで遊んだ往時の子供達の姿や風景が、日光写真の種紙を透かし見るように年寄りには 重なるのである。頂上から望遠鏡で遠くを眺めるのもいいが、外装にネオンや発光の化粧 を纏って、気温や天気予報を伝えてくれる通天閣は夜目にも素晴らしい景観である。 通天閣は『新世界』の一角にある。北東角には古くからラジューム温泉という銭湯があり 今も続いているようだ。芸者の置屋、和楽器の店、小間物屋などが各路地に軒先を連ねて いて花街風情の名残りがあったものだ。北西角には「通天閣喫茶」狭い店内だったが何時 も満席で多忙な様子であった。看板は今も健在らしく懐かしい存在だ。萩ノ茶屋方面に通 じる『じゃんじゃん横町』は今では新世界の代名詞になっている。串カツなど食い倒れの 観光スポットと報道されるが、時々「八重かつ」の暖簾を潜った昔が思い出される。カウ ンターを取り囲む店内では、ソースの二度漬けを咎められたり、酔っぱらいが食べ終わっ た竹串を足元に捨て、お勘定で怒鳴られている様子が滑稽であった。囲碁や将棋の碁会所 には、老若を問わず今様坂田三吉達が大勢集まり、店外から窓越しに勝負を見届ける人が 絶えないようだ。映画の封切り館、温劇(温泉劇場)にストリップ劇場、衣服の叩き売り、 旅館や飲食店の数々。一見纏まりが無い様に思えるが商売は全てに廉価提供がモットーで、 その雑然さが却って庶民感覚には受け入れられ、上手に商店街は構成されていたようだ。 『ジャンジャン町』の由来は三味線をジャンジャン掻き鳴らして街中を歩いたことから名 付けられたと言われる。天保山から汽船に乗ることも無くなったが「船が出まっせ〜!」 という出船の合図に打ち鳴らす銅鑼の音が“ジャンジャン!”の語源ではないか?という のが私の説である。関西大阪地方では「ジャンジャン稼いで、儲けてジャンジャン使うて や!」などという言葉を商人や一般の人も良く口にする。“ジャンジャン”は“商人縁起 の鳴り物”とするのが商都大阪には一番似合いそうである。(三味線も含めて)ミナミの 相生橋筋辺りに「キャバレー・ミス大阪」があった。地階が割烹料理の「鳥よし」で、入 り口にはに半纏を着た男衆が手招きしながら「何名様ご案内〜ッ!」と来店客の人数分の 銅鑼を打って地階に合図を送り誘導していたものである。 通天閣を背に恵美須町から堺筋を少し北に行くと日本橋筋5〜4丁目。堺筋を隔てて東西 に関西の秋葉原と呼ばれる電気街がある。界隈は今昔を通して業態に変動はあっても家電 製品を扱う店に変わりはない。可成り昔から「五階百貨店」があって、周辺路地の一角に バラックの店々があり小さな市場町を形成していた。現在のリサイクルショップの先駆け 的存在である。壊れたラジオ、真空管、扇風機に古着、着物。建具に大工道具、時計、貴 金属・・・骨董品を扱う店もあった。それぞれが専門店だが雨露を凌ぐ程度の?店構えで ある。子供の頃、父親と一緒に始めて訪れた時には目を丸くしたものだ。玄関引き戸の開 け閉てが悪いからと、戸車や釘、差し金と折り尺を父が買ったのを鮮明に記憶する。 父のささやかな気晴らしだったのだろう。夫婦喧嘩だったり面白くなかったりすると、父 は決まって私の手を引いて外出した。五階百貨へ出掛けたり、魚釣りの道具を買った帰り は一銭食堂に立ち寄って好きな物が食べられる。子供心に幸せを感じていた。何よりも父 と私だけの秘密が持てたような気持になれたのが嬉しかった。成人して学生の頃、ライタ ーや古時計に興味を持つようになり、五階百貨店にも親しく付き合える店が何軒か出来て 面白く遣り取りをしたことである。当時はオメガ・インターナショナル・バセロン・ナル ダンなど腕時計や懐中時計、ロンソン・ダンヒルのオイルライターなどが数寄者の的であ った。近辺の質店でも流質品のウインドウに掘り出し物を見つけたものである。 JR天王寺駅南側に「黒橋」と呼んだ関西線の高架陸橋があって、近鉄阿部野橋駅、百貨 店につながっていた。阿倍野筋に茶道具を扱う骨董屋があり、若輩の出来心で私はその店 に父の所蔵する琵琶を内緒で売りに行ったことがある。物置から誰知らぬ間に持ち出すの は至難の業だったが『今どき南京虫は人気が無うて、売り物になりまへんねん・・・』と 店主は前置きしてから恩着せがましく買い取りを承諾した。お弟子さん用だった四弦の稽 古琵琶に五百円の値が付いた。国電の一区間が10円、うどんが25円の頃で少しは救わ れた気持になっていた。味をしめて懲りずに次に持ち込むと、前回より良品にも関わらず 今度は『三百円が精一杯でんなあ・・・』という。若造の足元を見られたのは承知だが、 恥を偲んでの所業、繕う言葉も返す術も無かったのである。 長く商いをしていると珍しい人や物との出会いなどで、色々と不思議を思う時がある。今 私は図らずも骨董品を生業にしているが、二十年程前、所用で関西に出張した時、大阪美 術クラブの交換会に出席した。旧知から偶然にも先述の道具屋の子息を紹介されたのだ。 記載の住所を眼にした時、私は古日記を読み返す様に青春の日を思い起こしていた。その 人とは昔話に触れることも、売買をするでも無く別れたが、くすぐったい妙な縁のような ものを感じたことである。勿論二代目氏はそんな昔を知る由もなかったのだが・・・。 『赤い夕映え通天閣も、染めて燃えてる夕陽が丘よ・・・』石浜恒夫「大阪暮らし」の歌 い出しである。天王寺を上町方面に大きくカーブした辺りに夕陽丘という停留所がある。 都心には珍しく小高い丘があって、少し歩くと小鳥の囀りが聞こえ、中流層が住む家屋が 点在していた。太陽も月も、何処で見るのも美しさに違いは無いだろうが、季節と時間に 依って強い西陽を受ける通天閣の表情は格別で、此の夕陽が丘に立って眺めるのが一番美 しいとさえ思える場所だ。逆光を浴びて立つ人までを赤く染めてしまう瞬間である。嘗て 日本画家横山大観が数々の神州富士を描いた時、写真家が撮る一年中の富士を構図の参考 にしたというが、描きたかった場所は此処だと思える原風景を作品に見ることがある。石 浜恒夫が「大阪ぐらし」の詩作を思った時、多分その目に焼き付いた夕陽が丘の情景が彼 に筆を執らせたのだろうと私は思っている。 子供の頃の私は朝陽が好きだった。目を覚まして差し込む光りには格別の輝きと躍動を感 じ取っていた。夕陽は淋しくて物悲しく映ったものだ。青春の頃に見た夕陽は大きな夢と 希望が与えられる活力の光源であった。古稀を過ごした今、老眼鏡に映るのは昔見た数々 の夢の残骸と残るものは僅かな夕闇。何処を探してもあの時の美しい夕映えはもうない。 『夕陽が燃え残った赤い悲しみを震わせて 僕の背中に立っていました 君にサヨナラが 言えなかったのは きっとスプーンに乗ったレモンの色が美しすぎたからです でも言わ なければなりません さようなら・・・』確か17才の少年が少女に宛てた短詩の純情。 青臭くも切ない青春像である。昭和は遠く・・・戻らぬ昔だが道頓堀の「黄昏」で紅茶と 涙で別れた淡い日も、戎橋を揺れて歩いていたチンドン屋のクラリネットも、昭和生まれ には只々懐かしい想い出ばかりなのである。 昭和30年頃の雑情報です。政治や経済、事件事故などあらゆる出来事も時代を跨いで良 く似たことが繰り返されている様に思えます。「自由民主党(保守合同)」が創成され、 鳩山一郎内閣となります。創価学会が政界に進出、もはや戦後ではないという言葉が流れ ますが、戦後の混乱から10年、まだまだ脱却したとは言えない情勢でした。ヒロポン取 締法、森永牛乳砒素事件、新潟の大火、帝銀事件の死刑確定、1円・50円硬貨の発行、 葉書5円・封書10円、三種の神器が日本中の話題になり流行語となります。テレビ・洗 濯機・電気冷蔵庫の三点が嫁入り道具の必須要件と言われ主婦の憧れでした。ジェットコ ースターが後楽園に初お目見え。石原慎太郎の「太陽の季節」は世の中を驚かせ、裕次郎 の主演映画と共に大ヒットしました。流行語として「最低ね!」「頼りにしてまっせ〜」 「ノイローゼ」「兵隊の位で言うと(山下清)」などがあります。テレビやコマーシャル では「サザエさん」「ヒットパレード」「明るいナショナル」「あたりまえだの、クラッ カー(大阪前田製菓)」が言葉と共に売れました。二つに折れる携帯用こうもり傘が発売 になり「なんであるアイデアル」が流行しました。毎回ビッグバンドがゲスト出演して聞 かせてくれたロイジェームス司会の「トリスジャズゲーム」がラジオの人気番組でした。 映画や音楽の世界では「野菊の如き君なりき」「女中っ子」「じゃんけん娘(ひばり・ち えみ・いずみ)」「浮き雲」「夫婦善哉」など。ジェームスディーンの「エデンの東」は アカデミー賞を取得。「七年目の浮気」「暴力教室」「ピクニック」「慕情」「理由無き 反抗」「ヘッドライト」等それぞれが名作でした。プラターズの「オンリーユー」歌謡曲 では春日八郎に続いて三橋美智也が「女船頭歌」でデビュー。当時の一般的市場物価です がコロッケ5円、カレーライス70〜100円、出始めたE・Pレコード300円、映画は 100〜200円、「サンデー毎日」他週刊誌が30円、新聞月/300円、銭湯15円、 きつねうどん・中華そば25円、珈琲50円(通常)ダンスホール100〜150円。書 き出せば切りがありませんががそんな世情でした。関西地方では「アジア珈琲」が台頭、 (正直言って味も香りも二番煎じの焙じ茶感覚でしたが)チェーン展開され15円という 価格に人が集まっていました。当時「珈琲スタンド」は各所に出来ましたが、30円の店 が主流でした。物故となられた著名人にはジェームスディーン、アインシュタイン、作家 ではトーマスマン、坂口安吾氏などがいます。(参考出典・ザ20世紀) 駄文にお付き合い下さいまして有り難うございました。お時間が許せば大阪ラプソディ 『bP1なにわの古葦の物語』にもお運び下さい。(蝸牛庵)
【今月のワンショットギャラリー】
「山岸純」昭和和5年京都市生まれ、京都美大日本画専攻科卒業、徳岡神泉に師事した。
36年には日展特選白寿賞『樹』40年同白寿賞『石段』41年菊華賞『晨』など多彩な
賞歴を持ち50年には『風声』で文部大臣賞も受賞している。日展会員を経て理事、母校
京都美大教授、退職後は名誉教授として後進の育成に勤め、又名古屋大学でも教授を勤め
た。平成4年芸術員賞受賞、平成11年芸術院会員となり、翌12年70才で没した。
自然の風物を特異な筆遣いで現す膠彩やプラチナを取り入れた技法を展開して、あでやか
な自然の輝きを自由に描き込もうとした作品が多い。本作は屋久島辺か、地域特有の羊歯
を描いた様で、亜熱帯を思う蒸れる匂いの中に、膠漆とプラチナを鏤めた感動作である。
当ギャラリー展示中(S・Sヘアライン加工額装、共シール、美品)応談 |
