コラム
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| 森崎東監督の映画について | |
| 『ニワトリはハダシだ』には、「支援:文化庁」のマークが刻まれている。京都府舞鶴市を舞台に作られたこの作品に対しては、「地域において企画・制作される映画の製作」支援として、文化庁から2千万円の製作資金援助が行われた。これは、第一に東京や京都のスタジオでなく主に地方ロケで作られること、そして第二にその地の風土を生かし地元の協力を得て映画製作に住民を巻き込むことで地域社会を元気にする効果を生むと期待して助成する制度である。 脚本などを審査して出来上がる映画のクオリティを予想し、すぐれたものになると踏んだものに助成する従来のやり方は、その財源となる国民の税金を使うに当たって説明責任をきちんと果たせるかというと、かなり心許ないものがある。事実、ひどい内容に暗然たる思いでエンディングのタイトルロールを眺めていると文化庁の助成や支援の表示が現れて絶句してしまうことが決して少なくなかった。 観客としては、俺の税金をこんなものに使うな! と怒るわけだが、今のポストに就いて当の助成制度を担当する身となってからは、これが全部自分の責任になる。自分の尊敬する映画作家の仕事をなにがしか助けている、なんて個人的感慨に浸るよりも、国民の皆さんの税金を千万円単位で使う重責の方がのしかかってくる。それに、内容で審査するとなると、公序良俗に反していないか、とかの余計な心配をする向きが出てきて知らず知らずのうちに制約ができてしまう怖れもあって、芸術にとって何より大切な表現の自由が損なわれる心配が出てくる。 だから、『ニワトリはハダシだ』への助成はあくまで、地域を元気にすることに対してなのである。もちろん森崎東監督の作品だから税金を使うに価せぬ低劣なものになるとは思わないが、あの奔放な作品世界づくりには制約など一切ない方がいいに決まっている。舞鶴でロケが行われ、撮影隊がやってきたことで町の人々が沸き立った… と、それで十分税金を投入する意義はある。 とはいえ改めて観客の立場に戻ると、わたしはもちろん大の森崎ファン。高校2年のときの『喜劇 女は度胸』以来、森崎映画全作を封切り上映で観ている。湯布院映画祭でご一緒した折には、同年齢で映画仲間の快楽亭ブラックともども、思わず直立不動してしまった。 『女は度胸』『男は愛嬌』の二連作は、破天荒なエネルギーを持った喜劇映画として映画少年のわたしに新鮮な興奮を与えてくれた。『女は男のふるさとョ』から『盛り場渡り鳥』の女シリーズには大人になろうとする頃に出会い、生きることの意味を教えてもらった気がする。15年後にシリーズ復活した『女咲かせます』で、自分が森崎映画から何を得たかを思い知ったものだ。 また、巨大シリーズ『男はつらいよ』『釣りバカ日誌』が森崎監督の手にかかると、こうも別種の魅力を感じさせるものかと感心させられた。『男はつらいよ フーテンの寅』『釣りバカ日誌スペシャル』は、まぎれもないプログラム・ピクチュアの傑作だ。そして『党宣言』。こんなにテーマが重くて、それでいて語り口が軽やかな映画があるだろうか! 森崎映画を形容する折によく使われる「劣等人間の連帯」云々という言い方には、抵抗を感じてしまう。「劣等人間」に対してだけ門戸を開いているかのような排他性を感じてしまうからである。広く誰にでもメッセージを送る娯楽映画作家としての力量をこそ、わたしは讃えたい。「劣等人間」からも、そうでない方々からも頂戴している税金を使って支援するのに、こんなにふさわしい監督はいないと信じている。 |
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「ろりぽっぷ」誌 掲載随筆 |
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| 学校完全週五日制が始まって丸一年。賛否両論いろいろな意見があった五日制だが、着実に社会の認知を受けつつあると言えよう。どちらかといえば否定的なニュアンスで追いかけていたように思える読売新聞の調査でさえ、「よかった」と答える子どもが90%、親が66%に及んでいるのである。 これまで学校で預かってくれていた土曜日を、自分の責任において対応しなければならないなんて、親にとっては極めて大きな負担増である。いわば行政サービスの打ち切りなのであって、普通なら全員が反対してもおかしくない。実際、損得勘定でいうならば、どの親だっていい気はしないだろう。 しかし一年後、3分の2もの人々が「よかった」と感じているのである。おそらく理由は、週末を家庭や地域で過ごすわが子の姿を見て満足していただいているからか、親自身が週末を子どもと一緒に行動し会話することのよろこびを改めて認識してくださったかのどちらかだろう。なんてすばらしいこと。学校週五日制のねらいは、まさにここだった。 子どもたちが家庭で過ごす時間以外を学校や幼稚園、保育園などの「お役所」系、塾、お稽古ごとなどの「民間事業者」系だけに委ねるのではなく、地域社会という「わたしたち自身」の力でカバーしていこうというのである。まず親が変わりつつある。同時に、地域社会でもよその子どもにかかわろうという動きが急速に広がっている。わたしたちが経済優先主義の中で忘れかけていた、子どもは社会の宝、子どもは社会全体で育てるという意識を、今こそ取り戻すときが来ていると思う。 一方、月曜から金曜を担当する学校の方も、変わり始めて一年がたった。学力低下という流行語で不安ばかりが煽られているが、その実態はどうか。全体の学力が上がったか下がったかは、まだ云々できる段階ではない。ただ、全国各地をまわって状況を聞いてみると、はっきり認識できるのは子どもたちの学ぶ意欲が上がってきつつあることだ。 新設された総合的な学習の時間などでさまざまな体験をし、自分の考えを持ってそれを人に伝え発表する経験をしていく中で、子どもたちは、学ぶことの楽しさや面白さを実感する。それは着実に学ぶ意欲と結びついてくるし、意欲が増せば学力もつくに決まっているではないか。実は、今回の改革で目指したのは何より学ぶ意欲を向上させる点だったのである。 今までの教育は、「なぜ勉強するの?」との子どもの疑問に答えることもせず、ただ学力の向上、維持ばかりを考えてきた。貧しかった頃はそれでも通用したろうが、豊かな社会になると、これでは学ぶ意欲が低下するばかりだ。わたしたちが注目しなければならないのは、子どものテストの点数が上がった下がったより、彼らが瞳を輝かせて新しい知識を吸収しようとしているかどうかではないのか。 巷を騒がす学力低下論に惑わされる前に、目の前にいる子どもの学ぶ意欲がどうなっているかを、しっかり見てほしい。わたしはこの一年、いろんなところで子どもたちの実際の姿を見続けている。状況は、決して悪くない。 |
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書評『理想の小学校を探して』草生亜紀子・著(新潮社) |
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| 題名だけ見て学校選びガイドと早合点した向きは、中身を読んで当惑するに違いない。この本は、いい学校はどこ? いい塾は? ドリルは? という具合に即効即決めかした情報を売り物にする教育商売本とは全く方向性を異にしている。 「理想の小学校」なんて人により違う、というのが就学前の娘を持つ母親(と同時に出版社勤務の職業人)である著者の基本姿勢。だからこれは万人向けガイドでなく、「最低限の基礎知識が身につけられて、ものの考え方や調べ方、疑い方を知ることができて、他人とのつき合い方を学ぶことができる場所」という彼女の理想を尺度に、オビに大書されている「国立・私立の有名小学校だけが良い学校なの?」との問題意識で各地の学校を探訪した記録なのである。別の理想たとえば知識学力重視の人には、ほとんど価値を理解しがたいだろう。 最初に登場する本書中唯一の私立校・加藤学園は、開放型教室での総合的学習の元祖である。なつかしい! 29年前、文部省(当時)に就職内定済み学生のわたしは、教育雑誌で知ったこの学校に惹かれ、いつの日かあらゆるところでこんな教育が可能になればいいと思い続けてきたのだった。 教育改革の結果それは実現し、ここには無名の公立校での多様な魅力的取り組みがあれこれ紹介されている。そう。公立はダメと決めてかかるのは大間違いなのだ。丹念に見ていただければ、これ以外にもすばらしい学校はたくさんある。『学校ほど愉快なところはない』(驢馬出版)の板橋区立蓮根第二小学校、『子どもの夢を育むコミュニティスクール』(教育出版)の三鷹市立第四小学校… 。 しかしその一方で、誰の理想に照らそうと納得できないひどい学校があるのも事実だ。著者が折に触れ指摘する通り、わたしたち教育行政関係者の思い切りの悪さをはじめ、問題点はまだまだ山積している。それらを解決すべく学校に改善を促したり、不備な部分を家庭や地域で補完したりするための親自身の行動が求められよう。実際、本書の取り上げる学校だって親や地域住民との相互理解の上に成立している。その場合、教育理念が必要なのは、学校側だけではない。 ゆえに著者は学校探訪記と並行で子育てエッセイを記し、理想をさらに詳述する。己の受けてきた学校、家庭、地域でのさまざまな教育を振り返り、社会人としての信条を告白し、さらには未来への希望を語る。その中からわが子への押しつけでなく親子で共有できる「子育ての理想」が表れてくる。それは同時に母親自身の「生き方の理想」でもあろう。仕事か子どもかの二者択一でなく、今を生きる自分の生き方を問い続ける率直さと潔さに心うたれた。 教育改革の仕事を担当してきたわたしも、個人的にはひとりの大人として子どもたちと相対したいと思う。縁あって京都市立祥豊小学校で総合的学習のゲストティーチャーをつとめ、教師や親や地域の皆さんと語り合ったりしながら、「理想の小学校」を作るお手伝いの最中だ。現実にやってみると、教育の理想を考える=自分の生き方の理想を考えるのは、実に楽しい。 ひとりひとりの大人が理想をきちんと持って初めて、社会はよくなる。「理想の小学校」探しは、結局「理想の社会」の追求なのだ。 |
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交友録 |
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| 日経新聞 | いわゆる全共闘世代より一足遅れの学生時代、映画や読書に没頭していたから、今で言うとりっぱなオタクで、「ひきこもり」に近い存在だった。当然、友達も少ない。 それが現在では、下は六歳児から上は八十代まで、老若男女実に多数の友人知己に恵まれて過ごしている。「ひきこもり」がどうして? と言うなかれ。あれは、長短の別こそあれ誰にも青春期に訪れる一時的傾向だと、わが上司・河合隼雄文化庁長官のお見立てだ。 仕事仲間、映画友達、落語つながり… 数ある中に飲み友達も大勢、その最年長が今年81歳になられる河野力さんである。住友生命で取締役までつとめられ関連会社の社長を最後に引退なさったご経歴とわたしの間には縁がなさそうだが、そこに介在するのはご長女で96年に47歳の若い命を病に失った文化庁伝統文化課長・河野愛さん。各界に幅広い人脈を持つスケール大きな役人だった彼女の一の子分を任じていた後輩のわたしとは、年に何度か酒酌み交わし故人の思い出を語り合う仲となった。ご一緒に編んだ私家版『心 愛さんへ』は、ご希望の方にはぜひ読んでいただきたい一冊だ。愛さんの話だけでなく、人生の大先輩としての含蓄あふれる座談を聞かせていただけるのがうれしい。なにしろ、月に数度のゴルフ、毎年の海外旅行を欠かさないご壮健ぶりで、三十歳年下のこっちが飲みつぶされかねない有様なのである。(失礼ながら)こんな爺さんになりたい! |
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| 今の若い者は… | |
大昔からあったという台詞、「今の若い者は…」。相も変わらず繰り返されて、二十世紀も終わろうとしている。特に昨今は、「十七歳の犯罪」、「大学生の学力低下」なんていう言説まで、いろいろとかまびすしい。 でもねえ。十七歳が急に凶悪になったという根拠なんかないんですよね。たしかに、昔じゃ考えられなかった事件が相次いでいるけど、それはIT革命と称されるほど情報化が急激に進む中で大人と子どもの間の「情報格差」が劇的に小さくなった結果なのである。少年が爆弾を作ったり、バスジャック計画を立てたりするだけの情報をネットなどを通して得ることが可能になった。それを割り引けば、昔も凶悪な若者はいたし、同じように今もいる、というだけのことだ。 学力低下の方は、もっと根拠がない。昔の大学生ってそんなに優秀だったんだろうか。東大法学部現役合格の友人に、「おい、自我のモシツってどういう意味だ?」と聞かれて目が点になった覚えがある。たしかに、昔の若者は社会や政治に関心を持ち、学生運動に走ったり議論に口角泡をとばしたりしていたけれど、今の若者のように気軽にボランティア活動に参加していただろうか。 なにも、若者に媚びようというのではない。今の若者の方がすぐれているところもあれば劣っているところもある、ということだ。だとすれば、「今の若い者は…」なんて言うのは、もういいかげんにしませんか? どうしてもこの種の文句を言いたければ、「今の年寄りは…」にしたらいい。長寿化社会になって、元気なお年寄りがほうぼうで活躍している。子どもや若者は反論しないが、お年寄りなら、「今の年寄りは…」なんて言った日には、逆に「お前たち今の大人は…」と痛烈に反論してくるだろう。孫の世代の悪口を一方的に言うよりも、祖父の世代と父の世代が互いに文句を言い合う方が、よっぽど建設的だと思いますけどね。 |
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