映画批評 日本映画

オアシス ヴァイブレーター 姉御 殺し屋1
子供の時間 光の雨 少女 伊能忠敬
明日はきっと・・・ 十五歳学校 獅子の血脈 バトルロワイヤル
寺脇研 TOP



オアシス
 ひとことで言えば純愛映画。それも、「超絶」と冠したいくらいの。
 なにしろ、愛し合い始めてからの男と女は、ただひたすら互いを愛おしみ、慈しみ、労り、讃え… 、そしてその当然の帰結として身体をむさぼり合うに至る。その過程は単純一直線であり、ゆるぎない。二人は、いささかの逡巡も見せないし、打算をめぐらしたり世間体を意識したりの気配すらない。当節、どんな恋物語にも、過去を引きずるとか周囲に遠慮するとかの枷が用意され、恋人たちはその枷をめぐって思い悩む末に、結ばれるか別れるかするのが常だ。それからすると、この純粋さはひときわ目立っている。
 理由はある。男はなかなか社会適応できず今は刑務所帰りの身だし、女はといえば、重度脳性麻痺で身動きままならぬ身でいる。社会から疎外され、家族からまで距離を置かれる立場の彼らには、主観的にも客観的にも枷の生じる余地がないのかもしれない。
 しかし、そうした二人の純愛を例外だと特別視するのは間違っている。実はこれこそが本来の恋愛だったはずだ。逡巡や打算や遠慮など恋愛の純度を薄める材料であり、そのことで物語に変化をつけることはできても、また深まりをもたらしても、純粋な感情のほとばしりをこの映画のように鮮烈には描けまい。大詰め、騒ぎの物音で男が近くにいるのを覚った女が、不自由な身体を捩らせくねらせ声にならぬ声をあげつつ窓によじ登ろうとする瞬間の熱情は、観る者の胸を直撃する。
 純愛を貫く二人の姿は、美しい。もちろん、見た目はみすぼらしい男と病ゆえ異様な相貌の女であり、取り巻く環境も場末の雑然としたものだ。美男美女が華麗な舞台でくりひろげる瀟洒さはどこにもない。だが、時折挿入される幻想のように、当事者相互間では男は凛々しく女は健康輝いて見えているのである。その、愛する同士の目に映る夢姿が画面でわれわれの見る異形異相の男女像と自然に重なってくるだけの説得力を、イ・チャンドン監督の婉曲を避けた率直な演出は、確実に持っている。
 「悲しい話を『泣き』で語るのは簡単だ。悲しい話を『笑い』で語りたい」とは山田洋次監督の名言だが、その謂いにならうと、美しい恋愛を美しく快適な画で描くのでなく美しい恋愛を不快さえ感じさせるやもしれぬ美しからざる画で描いたのがこの映画の真骨頂なのである。障害者がヒロインであることは、その壮図を成立させるための思い切った仕掛けだと言えよう。
 だからこれは、障害者の恋愛、というよりあくまで恋愛そのものを扱ったのであり、障害を持つヒロインは純粋さを際立たせるために存在する。日本映画にも、かつてはそうした試みがあった。『遊び』(71増村保造)で脊椎カリエスに冒され寝たきりの姉が漏らす生理の鮮血はヒロイン関根恵子の性愛衝動を激しくかきたてるし、『父ちゃんのポーが聞こえる』(71石田勝心)では筋ジストロフィーで死にゆくヒロイン吉沢京子が経験せぬままに終わる愛への煩悶を痛切に体現した。
 障害=カワイソウの繊細な神経でなく、もっと骨太の考え方でどんな人間にも汎用できる愛憎の感情提示を、この映画は目指している。その剛毅さは、ラストで男のとる行動にも明らかだ。O・ヘンリー「最後の一葉」なら病床の少女のため画家が決して散らない一葉を絵筆の技で贈るのだが、ここで女の部屋の「オアシス」を守るために男がしでかすことの、なんとダイナミックなことか。これはまた同時に、映画『オアシス』の力強さの表れでもある。提示された純愛は、投じられた渾身の直球のようにこちらの胸にとびこんできて痺れる思いを与えるのである。
 ところで、私事ながら敢えて申し上げると、これは、わたしが書く初めての外国映画批評である。映画評を書いて三十余年、日本映画しか観なかったし、日本映画についてしか発言する気はなかった。それが最近、韓国映画へ急速に接近し短期間に多くの作品を観まくっている。
 それはおそらく、わたしにとっての国境というバリアが変化しているからだろう。国境の中で日本という枠組みでしかあらゆる物事を考えられなかったのが、ひとつ枠を広げてアジアとりあえずは隣国・韓国とのバリアをなくして発想してみる。そこから、外交問題はもちろん、日常的に暮らす社会の問題を考えるためにもきわめて有益な結果を得られるのではないかと思う。日本社会を、日韓社会に広げて意識してみると、解決困難と決めつけていた問題に新しい解法が現れるかもしれない。…そのために、日本映画を観てきたのと同じ感覚で韓国映画を注視してみたい。
 『オアシス』が発しているメッセージも、障害者とのバリアをどれだけバリアとして認識するかに思いを致させるものだ。監督と観客であるイ・チャンドンとわたしの関係は、別の立場では韓国の文化行政最高責任者と日本の文化行政担当者でもある。両国の文化同士の間に「純愛」を結びたいものだ。
戻る

ヴァイブレーター


 むかし、日活ロマンポルノと呼ばれる映画群があった。ひとことで言うなら「エッチ系」だが、男女の性行為のみを映し出すAVとは違い性愛を基軸にして女と男の感情の交錯を追うれっきとした劇映画であり、それが「ロマン」を名乗るゆえんだった。事実、映画史に残るような秀作も数多い。
 この映画『ヴァイブレータ』にも、ロマンポルノの匂いがする。行きずりの男女が互いの発する危うい空気を感じ取って発情し合い、身体を求め合いつつ突然の旅を始めるという性愛衝動が、まず鮮烈。長距離トラックの運転席や仮眠スペースでくりひろげられる二人の情交場面は、AVに比べれば暗喩的ではあるものの、前から後ろから、上になり下になりと激しい。それでいて性描写だけに終わらず、都会の片隅に生きる女と男の心の闇と光をくっきりと浮き彫りにするドラマでもある。
 それもそのはず、脚本・荒井晴彦がロマンポルノの代表的作家のひとりなら、監督・廣木隆一はピンク映画でロマンポルノの方向を目指す試みを出発点としている。性愛をロマンの形で語ることに巧みなわけだ。
 しかし、荒井脚本によるロマンポルノの名作『赫い髪の女』(79神代辰巳)を想起して重ね合わせるのは旧世代の懐古趣味だろう。『ヴァイブレータ』の舞台である現在と、高度経済成長の象徴である1970大阪万博の翌年に始まりバブルまっただなかの88年まで続いたロマンポルノの時代とは、その背景とする社会の在りようが決定的に異なっている。当時は、まだ厳然たる男性中心社会。その性向や価値観が、ロマンポルノの扱う男女のドラマの前提となっていた。商業作品として当然重視せざるを得ぬ観客の嗜好は、イコール男性の嗜好であった。
 とすれば、ロマンポルノは「男社会ポルノ」だったのだ。思い返せばわたし自身、男社会の発想でヒロインたちを理解していたと気づかされる。
 2003年の今、「男社会ポルノ」を成立させる素地はどんどん稀薄になっている。バブル後の<失われた10年>とやらは、あくまで男性側の視点であり、生活意識の変化という面から見れば女性にとって<得ること多き10年>だとも言えるのである。経済の閉塞もあって接待や会社至上主義のオジサン風俗が衰退するのと反比例するように、各分野で女性の登用が進みセクハラやDVが厳しく戒められる世の中になってきた。男性が精彩を欠く半面、女性が元気になる要素は枚挙にいとまない。
 この映画のヒロインも、男に従属したり依存したり、また裏返しに母性で魅了する生き方とは全く無縁だ。彼女はまず何より、自分の意思に忠実に突き進む。深夜のコンビニで見かけたセクシーな男に対し即座に欲情し、近づき、彼の仕事に同行し、旅の中で自らの抱える思いを吐露し己の実像を煮詰めていく… それらの全部が能動の産物である。寺島しのぶが、そんな三十女の生態をみごとに体現する。画面上で脱いだ脱がないとかの次元ではなく、肉体を裸にするよりもっと強烈に、精神を裸にしてさらけ出す入魂の芝居だ。遠景で演技するのが常の舞台女優が、映画特有のクローズアップになって改めて存在の豊饒さを示し、一方ロングショットの中では身体全体を使い本領を発揮する。
 相手となる男のキャラクターとて、それにふさわしい。女を支配したり庇護したり、裏返しに甘えたりする気配は毛頭なく、ヒロインが向ける秋波を自然に受け容れ、懐に迎え、一定距離を崩さずに保って応接する… 重くもなく軽くもなくほどよい距離感だ。上昇志向とも下降志向とも無縁、気ままに「下の上」あたりの位置を保つ若い男を、大森南朋がたくみに造形する。すっくとした立ち姿で、彼の生きる姿勢が明確な選択の結果であると感じさせてくれる。
 <得ること多き10年>を経て成熟してきた女性観客は、この映画を観て何を感じ、何を思うのだろうか。性描写だけで「不潔!」と頭から拒絶するとか、反対に「何? わかんないー」とうぶを装って男に媚びるとかの反応はもはや過去の遺物。性と愛とが不即不離であって、男女の愛を語るのに性の視点は不可欠だと、むしろ男性より明敏に意識していそうだ。男社会が音をたてて崩壊しはじめ男女が共に築く新しい社会が胎動する今現在の空気を吸う中で、同時代に身を置く女と男のドラマを、性のかたちを実感し、愛のかたちを実感して正確に理解するのではないか。
 いつの世にも、男女の性と愛とを綴るドラマがある。『ヴァイブレータ』は、わたしたちの居る今日2003年の日本のロマンなのである。
戻る

姉 御

 『黄泉がえり』『TRY』『アカルイミライ』『ラヴァーズ・キス』『呪怨』『オー・ド・ヴィ』『13階段』… 奇を衒った鬼面人を驚かす類の映画やひとりよがりで意味不明の映画が横行するきょうび、きちんと作られた娯楽映画にお目にかかるとホッとさせられる。
 映画が作者の自己満足の産物でなく観客を楽しませるために存在するものであることを忘れてもらっては困る。亡き深作欣二監督が偉大なのは、60作すべてが大なり小なり観て必ず楽しめるものであったからだと思っている。
 首都圏でさえ東映大泉撮影所横のシネコンのみで一週公開という不遇の一倉治雄監督『姐御 ANEGO』は、しかし、手堅く構成された練達の娯楽映画なのである。横浜の一角をめぐる縄張り争いの中、やくざという種類の人間たちの生態を、くっきり浮かび上がらせてみごとだ。
 彼らにとて親子や夫婦の家族関係はあるわけで、そこを切り口に任侠世界のタテマエと個人のホンネのせめぎ合いを追究して鋭い。先代総長未亡人の、先代実子ゆえに力不相応な地位にある現・総長へのタテマエの厳しさとホンネの愛情が悲劇を生み、一方でヒロイン高島礼子と亡夫の遺した先妻の子である少年との生さぬ仲ゆえの屈折が、親子愛の深さを重奏で奏でる。
 一方、立場が求めるタテマエをかなぐり捨ててでも恋人と今風の恋愛にふける若き総長の純情が描かれるかと思えば、ヒロインが止める少年の思いを振り切って仇討するために亡夫と全く同じ刺青を彫ることで任侠のタテマエを貫く決意を示すあたりも心憎い。
 クライマックス、修羅場に臨む高島の一瞬凄絶な美しい表情を見逃してはなるまい。そこへ至る物語を彩るのは、伊武雅刀の奥深いワルぶりや石橋凌の寡黙な「謎の男」ぶり、そして松重豊や山西道広を随所で効果的に使う配役の妙。さらには、ヒロインと少年の心が通じ合う突堤のシーンで左右の構図と海側からの縦の構図の両方をていねいに押さえていることに代表される手間のかかった仕事なのである。
戻る
殺し屋1
殺し屋1
 夥しい量の血がほとばしる。身体が真向唐竹割になり内臓が飛び散り…。終始、すさまじいエネルギーの暴力描写が炸裂する。
 しかしこれは、残酷を売り物にしたスプラッタ劇ではない。テーマは、あくまでも<愛>なのである。ここでの暴力は、愛を語る媒体として使われている。宣伝惹句「愛は、かなりイタイ。」は、作者側の率直な意思表示だろう。イタイとは、単純に痛いだけとは違う。それなら単なる嗜虐趣味だ。若者言葉のイタイ、すなわち「傷ましい」の意をも含んで、愛と痛さと傷ましさの間にある感情の振幅を、映画は鋭くえぐる。
 耳まで裂けた口をピアスで止める金髪白面の異相の男を演じるのは浅野忠信、特殊メイクの奇を衒うのでなく、相手だけでなく自らをも痛めつけ、なお愛に飢え彷徨する魂を凄絶に表現した。その姿は、傷ましい。その苦衷は、浅野が相米慎二『風花』で扮した心空虚な若い官僚と表裏をなすように感じられる。エリート役人が人間臭い感覚を見失いさまようように、歌舞伎町を恐怖で凍らせる男も、自分を安定させてくれる<愛>を求める。
 ラスト、殺し屋に追い詰められ高層ビルから転落するその刹那に彼は最初で最後の感情極点に達する。殺されたのに最高の幸福を抱いた死。ノーマルな恋愛における心中を思わせる愛情認識の極致だ。もし生きながらえてもその瞬間ほどの昂揚を二度と味わえぬなら無意味とする潔さが、自爆を選ばせる。もちろん、アブノーマルこの上ないが、出鱈目ではない。ホラー見世物やスプラッタ喜劇の安直さとは無縁の、確かな構想力、演出力、構成力があったればこそ、愛情ドラマの重みを付与できた。
 生理的嫌悪感をおぼえる向き少なくないだろう。だが、ロマンポルノが忌避された時代さえあった。ポルノも同性愛も暴力愛も、<愛>を語るためには許容されていい。
 三池崇史監督は、見せかけだけの「過激派」ではない。至純の愛を追究すべくなりふり構わず大胆に各様のドラマを試みる、れっきとした確信犯なのである。

寺脇研 日本映画映像文化振興センター。今年は、「観客」をキーワードにして活動してみたい。それと『ハッシュ!』に感動。
 
戻る
光の雨
光の雨
 同時多発テロによる航空機ビル激突の映像を、映画みたいと感じた人があまりに多いのには驚かされた。自分にはおよそ程遠い感覚だったからである。どうやら問題は、わたしが日本映画しか観ないところにあるらしい。映画みたいと思おうにもなにも、アメリカ映画に頻出するというああしたショッキングな映画場面を見たことがなかっただけの話。そもそも日本映画は、ハリウッドのように「グローバリズム」を振り回さない。地球を、世界を、などと力まず、この日本の社会の在りようを、そこに暮らす多様な人間の人生を通じて描き出す志向が根強い。
 では、日本映画のスケールで今回の大規模テロのような事件を扱うとするとどうなるだろうか。まず何よりテロリストひとりひとりの思考過程や人間性を描こうとしそうだから実行へ至るまでの日常生活や仲間内のドラマが中心になって、センセーショナルな社会現象である事件そのものの方はラストで先行きを暗示する程度で… なんだ、高橋伴明監督の新作『光の雨』がまさにそうじゃないか。
 連合赤軍事件を叙するに当たって浅間山荘の大活劇を敢えて省略し一発の銃声に象徴させるだけで終わるのは、断じて製作予算乏しきゆえではない。テロリストたるべく共同体を構成して潜伏し鍛錬する中で猜疑や嫉妬や権謀術数が渦なすそれまでの展開を綿密にたどることで、集団に属する者たちの内面をじっくり観照しようとしているからである。作り手側は、事件を、でなく事件を起こした人間を描こうとしている。そういえば、高橋監督の出世作『TATTOO[刺青]あり』82も、銀行強盗人質事件の前段階物語だった。
 原作者も監督も、自身が全共闘運動をたたかった世代。連合赤軍の「兵士」たちに対し似通った青春期を送った同士として誠実に向き合おうとすればするほど物語を作るのが難しく、かといって忘れ去り投げ出すわけにはいかぬ。だからこそ、この事件が映画になるまでには相応の長大な時間をかけて思いを熟成させる必要があったろう。長谷川和彦監督が永らく構想を温めながら未だ映画化を実現できないのもそうだが、切実な同時代意識をもって挑むならば簡単に割り切れはすまい。映画『光の雨』は、「連合赤軍事件30周年」などという「真珠湾60周年」のような商業主義的当て込みとは真逆に、ただ、成立まで約三十年の時間を費やさざるを得なかった深い思いの具現化した産物なのである。
 ただし、世代的思い入れが強ければ強いほどひとりよがりの懐古趣味に堕してしまうおそれがついてまわる。全共闘世代のオジサンたちが煙たがられる現実は、「オレたちはなあ…」で始まるナルシスティックな回想への反発の証だと言えよう。少し遅れた生まれであるわたし以降の世代、さらには現在の若者のように事件の存在すら知らぬあたりまでをも惹き込み深く考えさせるだけのものがないと、ゲバ棒、火炎瓶、自己批判、総括…等々の言葉の羅列やノスタルジアの垂れ流しになってしまいかねない。「お前たちにはわからんだろうが…」ではだめなのである。
 ところで、当時の大人たちの反応はというと、キレる中学生とか十七歳の犯罪とかを前にする今の大人とそっくり同じ。とんでもない連中だ! 言語道断、問答無用。それに対して若者側だったわたしは言い返したものだ。でも、幕末の志士たちだってテロや内ゲバ、粛清はしょっちゅうだったんじゃないですか。明治維新が成功したから元勲扱いだけれど失敗なら連合赤軍と変わらないではないか、と。革命を夢みる若者たちが徒党を組み理想を追えばそこには相克や蹉跌、そこから派生する愛憎があって悲劇を生むこともある。この普遍性を納得させてこそ、仲間内の郷愁を超えた人間ドラマたり得るのだ。
 で、『光の雨』はそれをみごとに成功させている。一番の功績は脚本だ。連合赤軍事件を再現する映画に携わる現在の人々をドキュメンタリーで追うという構造は、卓抜にして周到。直接描くのでなくワンクッション入ることで客観性が生じ、現在と過去との違いよりは共通する普遍性の方に思いを致させてくれる。「兵士」を演じる若い俳優連やメイキングビデオ製作で彼らを取材する若い映画作家すなわち自らとは無縁な遠いものとして事件を見ていた者たちが「兵士」たちに共感したり反発したりしていくプロセスを通して、三十年前の青春群像が、間接的にだがそれゆえ極めて的確に浮かび上がってくる。
 また、「兵士」たちの山岳アジトでの過酷な状況のみならず、アパートで性愛をむさぼり合ったりコタツで蜜柑を食べていたりの生活臭い日常が差し挟まれることにより、今もあり昔もあった貧しく恥多き青春感覚を呼び覚ます。高橋監督の出発点であるピンク映画に色濃い「四畳半アパート感覚」とでも言おうか。組織から逃亡し互いの身体を求め合う「兵士」男女も、自分の全出演シーンを終えてお疲れ様!の後ラブホテルへもつれ込んでいく俳優男女も、明らかにそうした感覚を共有している。
 維新だ革命だとまでいかなくとも、さいはての厳冬下で一本の映画を作るというハードな共同作業の中だって、「○○組」という組織体があれば構成員の間に愛憎の葛藤は生まれてくる。そのことに気づけば、連合赤軍事件を過去の異常な集団行動として片づけることはできない。われわれ誰もが陥ってしまったかもしれぬ、またこれから陥るかもしれぬ人間関係の陥穽として、同世代でなくとも切実に受け止め得るのである。
戻る
獅子の血脈
 日本映画の主要なジャンルのひとつに、やくざ映画がある。1960年代に全盛を誇ったのは周知のことだが、その頃ほどでないにしろ、実は最近ちょっとしたブームなのだ。東映系全国公開! とはいかないが、東京なら新宿昭和館など単館で公開されるビデオシネマ規模のやくざ映画は、今や量産体制にあると言っていい。哀川翔の『修羅の群れ』、清水健太郎の『極道三国志』、高島礼子の『極道の妻たち』などシリーズ化人気作品にも事欠かぬ。
 もちろんこれらは、全盛期以来蓄積されてきた人的、技術的財産抜きには存在しないだろう。東映の関本郁夫、日活の小澤啓一といったベテラン監督が活躍し、主演は新顔だが勘どころでは梅宮辰夫、川地民夫、志賀勝ら往年のやくざ役者が貫禄を見せて話に厚みをつける。いわば日本映画のお家芸として培ってきた力を利して、規模は小さくとも現在にも商業的に通用する作品を成立させているのである。
 そうした流れの中に出現した佳作が、この『獅子の血脈』。最近脇にまわって捨て身の凄みとでも評したくなる妖気を発揮する松方弘樹が、後輩やくざ役者たちの中心に深々と座して凄絶な暴力抗争物語を鮮やかに引き締める。演出で受け止める望月六郎監督は、当世職人監督の面目躍如、プログラムピクチュアのツボをおさえて間然とさせない。
 まず、やくざ映画初心者たる石原良純を未熟な二世親分に配し、その同世代連中の若い粗暴さと松方演じる大物やくざ周辺の奥深い重みとの落差で明確なコントラストを画して話の大きな主軸にする。一方で随所に小細工を施し、殺しと報復が反復される単調になりがちな展開を飽きさせない。そして何より、手を抜かず周到に組み立てられた画面が映画ならではの興趣を生む。ことに石原が決起を志す料亭座敷の場面、手前で激突する彼と松方をアップでとらえつつ、後景で成り行きを案じる妹・南野陽子と松方の片腕・松田優が見え隠れする縦に深い構図を計算してみせた画には堪能させられた。おみごと。


寺脇研 日本映画映像文化振興センター。シナリオ作家協会のシンポジウムを連続してお手伝い。11/25は大分市・大分美術館で。
戻る
少女
 開巻、自転車がえっちらおっちらやって来る。警官姿でまたがっているのは、その人=奥田瑛二。すなわち初監督作品『少女』に主演するのも、また自身なのである。俳優・奥田瑛二は言わずと知れた日本映画の代表的役者であり、熊井啓、神代辰巳、望月六郎といった監督の作品に登場するあのたたずまいをここでも色濃く漂わせる。舞台は地方のさびれた小都市。社会の動きからは取り残されたような街に根付いて暮らす人々がたむろし、地の言葉で語り合う。
 連城三紀彦原作、成島出、真辺克彦脚本による物語も、土着の臭いが横溢している。孫娘の肌に刺青を施してしまう老彫り師の業(ゴウ)、淫乱な自分を抑えきれない奔放な母親の業… ドロドロした因縁が渦巻く中、けんめいに自分の存在を確認しようとする少女が鮮やかに屹立する。その素直で健気な美しさは掃き溜めに鶴で、彼女と心を通わせる中年不良警官が忘れていた純情を甦らせるのも無理からぬ。
 頭の回転は遅いが真情あふれる兄など脇役の在りようも含め、いかにも日本映画らしい映画である。だから、日本映画嫌いの人には拒否されるだろうなあ。曰く、暗い、貧しい、男性中心社会の論理…。これらの批判のどれもが当てはまりそうだ。でもそれでどこが悪い。映画が実際の自国社会の有様を反映するのは当然だろう。この社会は、世界規模で正義を振り回す陽気な楽天性とは無縁だし、豊かに蓄積された西欧文化とは別個の文化を持っている。もちろん、暗さや貧しさを自虐的露悪的に弄ぶとすれば醜態であり男性中心論理から脱却する必要もあるが、前提となる現実は偽れまい。
 奥田瑛二監督は、『少女』の作品世界を漫然となぞってはいない。従来型の暗く貧しく男性本位の世界に清新な少女を放り込み、中年男と対峙させる。家族の愛情に恵まれないどころか義父から性的虐待さえ受けている少女は、男と積極的にかかわるうちに自分の価値を発見していく。彼女は決して小悪魔然とは扱われない。中年が少女に翻弄されるファンタジーとは違い、年齢差を超えて互いが素顔の己を晒し合うことによって、生の実感を噛みしめるのである。新人・小沢まゆが、みごとに俳優・奥田瑛二と渡り合う。
 日本映画の魅力はこれだ、と強調したい。過去と趣を変えることで自己主張しようとしているらしい若い作り手たちが、若者の疎外感、トラウマ、自殺願望等々当世風のキーワードに沿って現実ばなれした寓話調の話をこしらえるのが流行だが、それらのなんとそらぞらしいこと。若者同士の間だけで「癒し」などという手軽な安穏を気取っているだけとしか見えない。それに比べて、ここでは人間の心の動向ががっちりと表現され、みごとに伝わってくる。若者をオトナとぶつけて両者を輝かせたという意味で富樫森監督『非・バランス』と並び、凡百の新人と一線を画す重厚な成果をもたらしてくれた。


寺脇研 日本映画映像文化振興センター。日活ロマンポルノの歴史を当事者たちが検証する作業をお手伝い。面白い!
戻る
伊能忠敬
 二時間の長編を、息つく間もなく観た。
 話はさほど波瀾万丈ではない。江戸時代当時とすれば老年にさしかかったとおぼしい一人の男が、学を志し、日本全土を踏破して地図を作り上げる。そのプロセスが、順に語られていくのである。言ってみればそれだけの物語なのだが、それがなぜわれわれを惹き込むのだろうか。
 まず、一見地味な測量の旅を、安易に省略せず実にていねいに描いていることだ。距離を測り、角度を調べ、細密に記録する。その結果を持ち帰り、計算し構成し作図していく。これらの一切を、撮影テクニックでごまかしたりせずに全国各地の実景を使いながら正攻法で映像化してみせる。その積み重ねが雄弁にこの偉業の壮大さを示し、ダイナミックな迫力を生むのである。映画の大スクリーンならではの魅力でもあろう。
 同時に、その男=伊能忠敬の人間像の深みがひしひしと伝わってくる。事業を成功させ財をなし地域の名望家として何不自由ない境遇にありながら、そこに安住せず新たなチャレンジを始める。心機一転学問を探究する独身生活に新しい恋が芽生えるのも、気持の若さゆえだろう。その一方、わが子への慈しみもきちんと持ち続ける。ことに、姉や兄にコンプレックスを抱く末息子を測量旅行の助手に任じて育んでいく父子関係には、心うたれるものがある。
 象徴的なのが、たびたび現れる歩測の場面である。一歩の幅を基準にして距離を測る方法。背筋をピンと伸ばして全く同じ歩幅でまっすぐ歩く。その一挙手一投足をごまかさずにストレートに映し出す画面には、凛とした空気が張りつめる。
 また、一歩一歩進む伊能忠敬の生き方は、文字通り「足が地についた」ものでもある。子午線一度の長さを測って地球の大きさを算出しようというとてつもない夢の原点は、農村の暮らしに根ざして農業生産や自然との闘いなど日々の生活に結びついた実学として天文や地理を学んだところにある。家族との関係も、単なる家族愛の理念だけではなしに、実際の行動や財産の運用に結びついた形で実態の伴ったものだ。
 そうした生身の存在感が、これを歴史上の偉人伝でなくわれわれと同じような人間の物語として受け止めさせてくれる。スーパーマンではない一人の男が抱いたちょっとした勇気や情熱が、当人も予想せぬほどふくらんでゆき、結果として歴史に残る大きな仕事に結びついたのである。彼の選んだ道は、現代のわれわれとかけ離れたものではない。第一の人生をやりあげた後に第二の人生を設計し生涯にわたって学ぶという意味では「生涯学習」だし、私財や自力を公の事業に役立てるという意味ではNPOと同じだ。…そう考えると、伊能忠敬は決して遠い過去の存在ではないのである。
こどもの時間
 『こどもの時間』とは、子どもならではのゆっくり、ゆったりした時間の流れのこと。四十九歳のわたしにとって一年という時間は自分の人生の49分の1だが、三歳児にとっては3分の1もの分量を占める。わたしが仕事仕事で自然に触れる余裕もないのに対し、彼らは五感のすべてを通して森羅万象のあれこれを味わい、噛みしめるのである。

 焚き火にかけられた大きなお釜から湯気がわけば、それを観察し触って感触を探る。動物がいれば疑いなく近づき、つつき、撫で、共に走る。畑があれば土の匂いを嗅ぎ、泥まみれになり、種が野菜に育つ不思議な過程に見入る。水があれば飛び込み、しぶきをあげ、水面に漂ううち泳ぎを覚える。焼きたての熱いサンマがあれば手でわしづかみにし、スイカやトマトには顔じゅう口にしてかぶりつく。…それらの間常に、笑い、怒り、泣き、戸惑いといった豊かな表情がついてまわる。これが「こどもの時間」だ。

 しかし、それを記録映画化するには大きなジレンマがある。時間制約のない世界を上映時間に縛られた中で表現せねばならぬ。製作、上映などさまざまな条件に縛られる。映画とは「おとなの時間」の論理で成り立つ。ゆっくり、ゆったりに反して映画内の時間の流れがせわしないのでは、説得力を欠いてしまう。

この難事を、野中真理子監督らの作り手陣はみごとに克服してみせた。まずは、丹念な取材と撮影である。舞台となる「いなほ保育園」に監督自身が子を預けているのが大きい。「こどもの時間」を何より尊重するユニークな保育内容を知悉していようし、園児たちとかかわれる密度も高い。保育方針に全面賛同している信念が、描写ひとつひとつの背後に貫かれている。喧嘩も怪我も怖れぬこんな大胆な保育(だから行政的には無認可)は、親の責任共有なくしてはあり得ない。

だからといってプライベート臭があるかというと、絶無。子ども自慢でも子育て自慢でもなく、描写対象への作り手の素直な興味関心と共感が全編を支える。そして何より評価したいのは、80分というコンパクトな量にまとめたところ。数年にわたり追い続けた題材ゆえ膨大なフィルムがあったろうに、また三時間くらいなら「おとなの時間」世界でも不可能ではないのに、敢えて短めに抑えた自制が効いた。寸描が積み重ねられる歯切れ良いテンポを通して、ゆっくり、ゆったりの時間に遊ぶ子ども世界が鮮明に浮かび上がる。
 
子どもを見つめる低い位置からの「虫の目」的視線が、細やかなカットの連鎖を生む。それがラストで一転、クレーン撮影の「鳥の目」で子どもたちの世界を見守りつつ大団円を迎える。この、映画らしいダイナミックな転調もみごとに決まった。
戻る

あしたはきっと・・・・・

 プレスシートに曰く「『20世紀ノスタルジア』の広末涼子、『がんばっていきまっしょい』の田中麗奈のように、『あしたはきっと…』では吹石一恵が青春映画のヒロインを爽やかに演じ、その魅力を余すところなくスクリーンに映し出します」。ホントかな、と疑うなかれ。引き合いに出た二作と並ぶ、看板に偽りなしの快作である。
 広末、田中がそうだったように、ニューヒロイン吹石一恵も撮影時は現役高校生だったという。そのリアルタイムな空気が、まず鮮烈だ。『秘密』の広末や『はつ恋』の田中は実際は通り過ぎた後に高校生役を演じていて、またそれはそれですぐれた成果を示しているのだが、デビュー作のういういしさとは色合いが違う。生身の少女が生身のヒロインを体現する勢いとでも言おうか。ヴィヴィッドに変容する表情や仕草。好きな男の子を探り合って友人同士はしゃぐ場面など、台詞聞き取り不能なほどの喧噪は、まさに女子高生集団そのものの気配。
 某新聞のインタビューで「今、見たい映画は?」に『サトラレ』と答え、「あ、『あしたはきっと…』もいい映画ですよ」と慌ててフォローしていた吹石さんだけど、実はあなたの出た方がはるかにすぐれた作品なんですよ。……と、つい教育口調になってしまうのは、学園気分に引き込まれたからかもしれない。『サトラレ』は、たしかにわかりやすい作りで人気を呼んだが、伝える内容の深みは『あしたはきっと…』に遠く及ばぬ。すべてを懇切丁寧に説明されたのでは、映画を読み味わう楽しみを損ねるのである。
 少女たち、そして少年たちの心は、なかなか読めない。先輩は彼女をどう思っているのか。彼女の親友と交際を始めた幼なじみの男の子は彼女のことを異性として意識していないのか。彼女を叱咤したり挑発したりする女子の先輩の態度は、期待ゆえか憎しみゆえか。等々、思春期の揺れ動く思いがあれこれと想像させてくれる。いや、学園生活だけではない。ヒロインの家族関係も、さりげないふるまいの中にさまざまな思いがこもっていて見逃せない。気がよくて何でも協力する彼女を便利使いしているかのようにも見える母親、ぶっきらぼうで朴訥な父親が、意外なメッセージを伝えてくれたりもする。そして、病院で昏睡状態を続けている祖母までも、彼女への熱いメッセージを発してくれるのである。
 こんな奥深い愛情のドラマを作り上げたのは、三原光尋監督である。関西の自主映画出身で、弱小高校野球部のエースの青春を描いた『風の王国』92が全国区デビュー作。高校女子水泳部を舞台にした『真夏のビタミン』93、卓球に賭けるOLを扱った『燃えよピンポン』97など東京では単館短期公開だったが、ママさんバレーの町内対決『ヒロイン!』98、高校ラグビー部の女性コーチ『絵里に首ったけ』00とロードショー公開される作品を手がけるに至っている。コメディタッチの作品が目立つのでそれが特質と思われがちだが、実は、青春特有の純情や、家族の間の心情がくっきり描かれている。今回の空手部を含めスポーツを扱ったものが多いが、『Slap Happy』96は都会へ出てきて生きる青年の平凡だがかけがえない日常をスケッチしてみせる。
 『サトラレ』は、心を読まれるという特異な状況院に置かれた主人公を、周囲の全住民(!)が守り支援するという物語。それに対してこちらは少女ひとりが一日の時間を左右できる特権を得て、にもかかわらず結局自分の思い通りにではなしに周囲の皆が幸福になれるように使ったという話。どちらが志高いかは一目瞭然というものだろう。
 ラスト、坂道を自転車で疾走してくる少女の姿がストップモーションになりエンディングタイトルが巻き上がる。これで終わりと思いきや、すべてのスタッフの名が出た後で再び画面は動きだし、画面右下へと少女は滑り降りていく。
戻る
  15才 学校W
 寅さんを知らぬ人は、まずいないだろう。「フーテンの寅」こと車寅次郎である。演じていた渥美清が亡くなり『男はつらいよ』シリーズが途絶えた今も、繰り返しTVで放映され国民的人気を博している。
 わたしが、第一作『男はつらいよ』69で初めて寅さんと出会ったのは十七歳のとき。学校にも家庭周辺にもこんなオジサンはいなかったから、きわめて新鮮な衝撃を受けた。受験や親との対立に悩んでいた自分のいる環境とは全く別のところに、人情や恋といった「寅さんの世界」があるのを知った。
  山田洋次監督の新作『15才 学校W』の十五歳・大介少年も、悩んでいる。自分はダメな奴だと思いこみ、死さえ考える。学校も家庭も、彼の心を受け止めきれない。「少年はつらいよ」(!?)。だから旅に出た。その旅で、いろんな大人たちと出会う。長距離トラックの運転手、田舎で独り暮らしの頑固爺さん… 少年にとって学校でも家庭でもお目にかからなかった種類の人々だ。
 西田敏行の先生が熱血教師を演じたTやUとはまるで違い、ここではタイトルとうらはらに学校は全く無力。代わって大きな役割を果たすのは、親でも教師でもない地域社会のオジサン、オバサン、いわば「寅さん」たちである。登校拒否の少年を冷静に受容し、一人前扱いし、いいところをきちんと認める。その力を借りて、彼は自己を肯定できるようになる。
 そんな大人たちを演じるのは、赤井英和、麻実れい、そして丹波哲郎と、山田作品にはいままで縁のなかった面々だ。彼らの個性が鮮やかに際立って、映画自体にも勢いが出た。また、なにしろ主人公が若いから旅を取り巻く風景も活気を帯びる。屋久島の荒々しい自然と格闘して悪戦苦闘するところなど、画面の力がいきいき躍動するのである。
戻る
  バトル・ロワイアル
 日本映画の監督をひとり挙げるとすれば誰? と問われると、迷わず深作欣二の名を出す。なぜって、どんな作品でも必ずどこかしらワクワクさせてくれる見せ場があり、決して落胆させられないから。その信頼感が、わたしにとっては、初めて観た深作作品『日本暴力団 組長』69以来今日まで三十年余も続いている。そして新作『バトル・ロワイアル』。間然するところない切れのいいアクションの連続に、『仁義なき戦い』シリーズの躍動を鮮やかに想起させられた。新たな死者が出るたびにその名前と残りの人数を表示する字幕は、凡庸な使い方なら映像で情報を表現する映画の特質を殺す愚行だが、映像のリズムと緊密に結びついていて「文字」としてよりは画面の一部として活きている。そう、これも『仁義なき戦い』流なのだ。 ただ、あちらが戦後の混乱期を逞しく突き抜けていく無法者群像の喜怒哀楽を実録で描いたのに対し、こちらは、二十一世紀初頭の閉塞した近未来を中学生たちが闘い通す架空物語だ。
 しかし、大不況、高い失業率、登校拒否や校内暴力の激増… こうしたシチュエーションは、村上龍の近未来小説「希望の国のエクソダス」でもほぼ同様の状況が前提となっているように、最近のオトナ社会のていたらくを思えば結構リアリティある時代環境設定ではある。法で定められた殺人ゲームという筋立てこそ破天荒だが、その実施へ至るオトナ社会側の思考過程は決して想像に難くない。 だから、あり得ない荒唐無稽な絵空事として片づけてしまうより、むしろ切実な寓話と感じられるのである。そこに扱われる少年少女の殺し合いが衝撃的だったとしても、対戦相手を殺したり撃破したりするTVゲームの仮想現実とは、明らかに意味合いが異なる。有害と批判の集中しているそれらとは違い、ここで描かれているのは、れっきとした人間ドラマなのだ。人を殺すことに伴う畏れ、恐怖、逡巡、絶望といった人間の感情が、豊かにあふれている。
  たしかに画面上には夥しい凄惨な殺戮が繰り広げられるが、それは低級なホラー映画が狙うような煽情とは全く無縁であり、死の重みをくっきり表すと同時にそれと背中合わせの生の重みに思いを致させる。この点でも字幕が効果的に使われ、死にゆく者たちが遺した言葉が改めて示されることにより、それに込められた無念さを痛切に反芻させられる。 そう、氾濫する〈死〉の闇の果てに作者たちが見据えているのは、結局のところ〈生〉の光なのである。主人公の少年の父親が自死する際に遺した「ガンバレ」のメッセージが、再三強調される。社会の敗残者に終わった彼が唯一息子へ正面きって発した言葉は、首を吊った脇に広がったトイレットペーパーの長い巻紙に繰り返し繰り返し綴られている。
 最後に浮かび上がる字幕「走れ。」は、少年たちへ向けたエール以外の何ものでもない。何のエールかって? もちろん闘いを勝ち抜け! というわけだが、その闘いは殺人バトル・ロワイアルではなく、若者を怖れ、力で支配しようとする姑息なオトナとの長期にわたるだろうバトルである。それはとりもなおさず、社会の閉塞状況を新しい世代が打開していく希望へと連動する。古い価値観や意識にまみれたオトナ世代にはない清新なエネルギーの炸裂せんことを、齢古希を迎える深作監督が元気良く挑発している。過激派作家精神健在。
  中学生同士の殺し合いは刺激が強すぎるとR-15指定になってしまうのは、今の時点では仕方ないだろう。ただそれはオトナ側が、いい学校に入っていい会社に入れと、子どもたちに知識詰め込みを求めることにばかりあまりにも熱心で、映画をはじめとするフィクションを味わい楽しむ経験をちっともさせてこなかったせいだ。幼少期から映画や本に触れ、そこに描かれたフィクションと現実の生活とを正常に結びつける受け止め方に習熟できる環境を作っていきさえすれば、短絡的に影響されてしまうような危険性はなくなっていくはずである。おぞましい生き残りゲームを定めたBR法=「新世紀教育改革法」なんかじゃない真の教育改革を急がねばならぬゆえんでもある。そうなれば、この映画を若者に見せたくない理由は、悪影響を受け犯罪に走る心配ではなく、自分たちは社会のさまざまな問題を解決できないくせに次世代を一方的に強権で押さえ込もうとするオトナがいかにダメかを知られてしまう心配ということになるに違いない。そんな情けない心配をしなくてすむように、われわれオトナこそ、『バトル・ロワイアル』と真摯に相対してみる必要がありそうだ。もっとも、オトナだって映画が触発しようとするものをきちんと理解する力がなくなってきている有様だから、何をかいわんやだけれど。

このページの先頭に戻る