
プラモデルとの付き合いが始まって、早40年になろうとしています。
ここでは今までの「(む)的プラモ人生」を振り返ってみたいと思います。
その当時に作ったであろう、思い出のプラモ達にもなるべく言及して行こうと思います。
ただし、このページに登場するキットのメーカー,構成,発売年代などにつきましては、
あくまで”(む)のウロ覚え”ですので、
”資料的価値”は全く無いことを、予めお断りしておきます(笑)。
【index】
初めて手にしたのは5歳の夏(一部雑誌で4歳と書いたのは間違いです、たぶん)ウチに遊びに来た親戚の叔母さんに買ってもらい、もちろん組立てもしてもらいました(ってことは厳密に言うと”初めてのプラモ”じゃないってことか?でも(む)的には初めてのプラモって思ってるンで、ま、いっか)。
買ってもらったのはメーカー不祥(たぶんオダカあたり:その後、とあるスジから「イッコー」のキットであることが分かりました))の2式戦鍾馗と3式戦飛燕の2機セット50円、いわゆるチープシック・モデルって奴ですな。キャラメル箱の表には空を飛ぶ2機のカラーイラストが配され、裏側は組立て説明図、側面には他のラインナップのイラスト、という当時のチープシックプラモの定番のようなパッケージでした。大きさは手の平サイズ、1/100〜144程度の大きさでゴム動力でプロペラが回るギミックがついておりました。もちろん上手くは回ってくれませんが。モールド色は銀。キャノピーは透明でデカールもついておりました。
子供だった(む)は、接着剤やデカールの乾くのが待ちきれずに手にとって遊んでしまい、脚はもげるはデカールはどこかにいっちまうわで、折角作ってくれた叔母さんの逆鱗に触れてしまうのでありました(笑)。
プラモの存在を何処から知ったのか定かではないですが、当時から小さいおもちゃ(身近なものではグリコのオマケですね)が大好きだった私には、小さなおもちゃを自分の手で作るプラモデルというものが、それは素晴らしいものに思えました。でもそれが嵩じてオヤヂになった今でも作り続けることになろうとは、夢にも思わなかったですけどね。
当時、この後にどんなプラモを買って貰ったかの思い出は希薄です。特にヒコーキに拘らずプラモなら何でも良かったはずでしたが、ヒコーキと軍艦が特にお気に入りだったかと思います。チープシックなヒコーキプラモというと、まず「サンキョーのピーナツシリーズ」が思い浮かびますが、不思議とコレを作った記憶はありません。すでに(む)の生活圏では見かけなくなってしまったプラモだったせいかもしれません。
軍艦のプラモというと、何と言っても50円のゴム動力の戦艦プラモが記憶にあります。コレも多分オダカあたり(ではなく、こちらも「イッコー」だと思うな)のキットだと思いますが、艦体が銀、喫水下が艦底色の2色モールドになっていました。甲板上の構造物も艦橋、マスト、煙突、カタパルト上には艦載機、と一応の作りになっており、子供ココロを満足させるものでした。
ラインナップは、大和、武蔵、ミズーリ?などの主力艦や、長門などもあったかしら?割合長く販売されていたキットでしたねぇ。
あぁ懐かしい。
2.黎明期(昭和41〜43年)
プラモデルを作る、遊ぶ、壊す(?)楽しさを知ってしまったボクは、事ある度にプラモをオネダリする”プラモ少年”として立派に精進を続けました。
当時私の住んでいた周りにはプラモを売っているお店は数軒ありましたが、その数軒(薬局,釣り具屋,雑貨屋,スーパーとかでした)にあるプラモが、私の知りうるプラモの全てで、そこに並んでいて、お小遣いで買える(せいぜい50〜100円ですね)プラモは片っ端から買い捲りました(といっても月に1〜2個くらい?)。なので好き嫌いはあんまり言えなかったのですが、それでもヒコーキとか軍艦とかSFものとかがお気に入りでした。クルマとか戦車とかには目が行かなかったのはなぜかな?
小学生以前のプラモ経験については、さすがに良くは覚えてないのですが、完成できずに悔しい思いをしたキットというのはいくつかあります。それはゼンマイやモーターなどの可動ギミックを上手く組み込めなかったとか、接着剤の扱いがヘタでベトベトになってしまったとか、そういう理由からなのですが。
まず一番古い記憶から行きますと、メーカー不詳、キット名不詳の「宇宙探検車」。キット構成としては、大きさがせいぜい15cm程度、ゼンマイ駆動で一応ゴムキャタピラで走行、背部にはミサイルを1〜2基背負っており、駆動用ゼンマイからの動力でこれを自動発射する?(ひょっとすると発射ランチ上下動も?)というものです。モールド色は恐らく橙色&赤?コタツに入りながら一生懸命に組み立てようとして出来なかったという悔しさだけを覚えています。たしかボディにゼンマイを組み込みつつ、可動部分の硬い板バネも同時に挟み込むような、6歳のコドモにはなかなか難しい組み立て手順になっていたような気が・・・。結局ボディすら合わせることが出来ず、断念しました(笑)。
イマイの「サンダーバード5号」、これもモータライズで本体とアンテナが回りつつ豆球が点滅するという素晴らしいギミックを持つキットでした。当時小1生だった(む)は、やはりモーターを組み込む自信が無く(モーターの値段も高かったし)、仕方なく豆球の点灯だけ出来るようにした記憶があります。これもプラモを前にして敗北感を味わされたキットですねぇ(笑)。
この頃は、兎に角”面白そうなもの”は片っ端から作っていたような記憶があります。
これもメーカー不詳のチーププラモなのですが、強烈に覚えているのは「ロボットの旋回塔?」のプラモがあります。
これは中央に不細工なロボが立っており、その水平に延ばされた両手にはナゼかF−104がブラ下がっており、ゴム動力でロボの腰上が旋回し、104も旋回するというキットです。まるで遊園地のアトラクションをプラモ化したようなものです。モールドは焦げ茶色で、左右にブラ下がるF−104がせいぜい4〜5cmというミニサイズ。値段は当然100円でしょうね。このキットは非常に気に入ったらしく、2回作った記憶があります。恐らくミニチュアのF−104に惹かれてのことでしょう。
当時のお気に入り、というか最も気になるプラモデルメーカーとして「今井科学」(後に”イマイ”に改名)があります。
スケール物も多く出していた総合模型メーカーですが、当時の(む)は、そんなことはつゆ知らず、楽しいキャラ物を多く作るメーカーだと思っていました。必ず何がしかのギミック(仕掛け)が仕込まれたキットが多く、パッケージやインストも子供向けに分かりやすく描かれており、素晴らしいものでした。他のキャラ物メーカー(ミドリとか童友社とか?)とは一線を画すものがありましたねぇ。
当時の小学生のプラモ情報というと、お店で見ることが第一でしたが、少年マンガ誌(マガジンやサンデーなど)の表紙ウラのカラー広告も、かなりの重みを持っていました。ここで新製品の情報や既製品のラインナップを知ることが出来、欲しいプラモを探したりしていたのです。各社各様の広告を打っていましたが、やはり一番印象に残っているのは、イマイの広告ですね。
そんなイマイのプラモの中でも大好きだったのが、サンダーバードとサブマリンシリーズです。
サンダーバードはお約束の2号からスタートしました。2号との出会いはトモダチの家で見たのが最初だったと思います。当時の小学生の情報網ってのは、同じクラスのトモダチからというのがフツーでしたしね。NHKで放送されてたTVドラマも、後から知って慌てて観た記憶があります。
結局何だかんだで、何年もかけて1〜5号まで揃えました。各々200円〜500円もするキットでしたから、そうそう買ってもらえる訳でもなく、揃えるのは大変でしたよ(笑)。
1号は初代がモーターライズだったようですが、(む)が手に入れた頃は既にゼンマイ動力に変更されたものでした。スプリングで開閉する主翼を挟み込みつつ張り合わせる胴体の工作に随分苦労しました。
2号は折り畳み式の脚のヒンジが脆く、接着を待ちきれずに動かしてしまったりしてスグに外れてしまいました(笑)。
4号は機首にミサイル発射機構を持ち、その前に覆い被さるように取り付くドーザーブレードのようなサーチライトを押し上げるとミサイルが発射される、というギミックになっていました。ただミサイルを押さえる機構が弱くてミサイルのスプリングの力に負けてしまうんですね。今なら上手く調整出来ると思いますが、当時は理屈は分かっていても調整方法がわからず、ミサイル発射はお預け状態でした。ちょっと悔しい思い出です。
5号はモーターの組み込みをハナから諦めてムギ球点灯のみでガマンしていました。モーター、高かったですしね。
附属の3号が嬉しかったなぁ。
後に出た「サンダーバード6号&スカイシップ」や「ゼロエックス号」,「エックスカー」などはとうとう買えず仕舞いでした。
そうしてみるとサンダーバードシリーズってまともに完成した試しが無い物ばかりですねぇ(笑)。
そうそう、サンダーバードシリーズ中にあって、ギミック満載の超デラックスキットと言えば「サンダーバード秘密基地」がありますが、コレは余りのデラックスキット故に手にするコトは”夢のまた夢”状態でしたね。でも本当に欲しかったなぁ。
・・・という訳で、イマイのサンダーバードシリーズには随分と思い出が詰まっているような気がします。
サブマリンシリーズを知ったのはサンダーバードより明らかに前のことで、最初に手にしたのがジュニアB級(100円?)だったと思います。初めての水モノキットでもありました。
当時小学1年生くらいの(む)には、ゴム巻き上げハンドルの工作(針金を曲げるだけですが)が難しかったと記憶しています。しかも回り易くする為のビーズ玉を入れておくのも忘れたような…。当然オフロで進水式をやりましたが、まともに動いたか疑問だな(笑い)。ジュニア潜航艇の推進方法は、普通の艦艇のような後部スクリューによるものではなくて、前部のプロペラで進むというヒコーキのようなメカニクスでした。これが大好きでジュニア潜航艇はお気に入りのオモチャでした。多色モールドが施されて色を塗らなくても箱絵とほぼ同じ完成品になるのが嬉しかったですね。そうそう、転写マーク(当時のイマイのキットでは「デカール」のことをそう呼んでいました)が独特で、水に着けても剥がれ難い特殊な物でした。台紙に裏返しに印刷されており、貼り方も難しかったようです。勿論失敗しました(笑)。それでも大好きなミニ潜水艇でした。
707母艦の方は結局作らず仕舞いでしたね。格納庫にミニミニジュニア潜航艇を納めているC級707は欲しかったのですが、350円という値段と製作の難しさが段違いの”モータライズキット”だったせいでしょうね。お店の店頭で何度も手にとり、箱を開けて逡巡したことだけはよく覚えています。
結局手に入れたのは90年代になってから、それもタスクフォースの復刻版です。しかも未だに作っていません。ひょっとして707母船とは”縁”が薄いのかもしれませんねぇ。
アポロ宇宙船が話題になり、プラモが続々と発売されたのは何時頃のことでしょうか?恐らく月面に着陸した11号(’69年)以降、70〜71年頃だと思うのですが、モノグラムやレベル(本国製の輸入キット)の巨大なサターン5型ロケットや、精密な指令船&着陸船のプラモが話題になりました。実はこの当時、レベル1/48の「アポロ指令船&着陸船」セットをクリスマスに頂いたことがありました。当時は存在すら知らなかったアメリカ製の豪華キットです。詳しくはこちらで述べますが、何とも凄いキットでした。
アポロのキットでは、アオシマからも何点も発売されました。中には独自の解釈を加えた珍妙なメカニクスもあり、子供ながらに笑わせてもらったものでした。最近(’00年頃?)何点か再販されたようですが、サターン5型ロケット発射台のキットは、小ぶりながらマジメに作られた好キットだった記憶があります。ただ、スケールが余りに小さくてサターンロケット本体は小さく、司令船までは分割できなかったようでした。
アポロのプラモは、他にもかのタミヤからも発売されていました。タミヤらしくブームが終盤に差し掛かった頃に発売されたのでそれ程話題にもならなかったと記憶します。でも国内メーカーの中では群を抜いて出来の良いスケールモデルだったと思いますね。値段も結構高価だったはずで、敢えて買うこともなかったですが。
話は少し戻るのですが、このアポロブームの少し前?イマイのジェミニカプセルのプラモを一度だけ目撃したことがあります。これは恐らくモノグラムの24スケールのジェミニカプセルと同寸で、コピーキットでは無いでしょうが、イマイならでは可動ギミックを満載したキットだったようです。「だった」というのは、このキットを見たのはこれ1回だけで、しかも模型店では無く、トモダチの家の傍にある雑貨屋の店先だったのです。トモダチと50円のチーププラモを買いに行った時のことで、ジックリ見るチャンスが無かったんですね。かなり大きな箱で、小松崎茂の迫力ある箱絵だったと思います。当時既に絶版になっていたかもしれません。(とすると、アポロブームより後か?)いずれにしても「イマイのジェミニカプセル」を見たのはこの時一度きりで妙に(む)のココロに突き刺さるプラモでしたねぇ・・・。
宇宙船発射基地のプラモというと、スプリングにより”2段式ロケット”を発射出来るプラモがありました。
多分東京マルイ製だと思います。今でこそモデルガンと電動RC戦車でブイブイいわせている東京マルイですが、昔は結構ダサダサなSFプラモを出していたんですよ。んで、このキット、小さな島のようなベースに赤いトラス構造の”いかにも”な発射ランチと銀色にモールドされたコントロール室?を配したもので、それ自体はあまりリアル感の無いモールドでした。肝心のロケットは全長15cm位?で、1、2段目とも四隅に小さな羽を持つズングリしたミサイルのような形でした。2段目のテッペンは危険防止のためにゴム製のキャップになっていたと思います。発射の動力?はスプリングによるもので、1段目と2段目は各々が内部にスプリングを持っています。1段目から2段目を発射するギミックは、2段目を止めているストッパーがプラの小片で固定してあり、この小片は糸でベースに繋がれているのです!ある程度(30cm程度か?)飛び上がると糸で引っ張られた小片が外れて2段目が飛び出すという他愛ないギミックでした(笑)。単純なギミックなので壊れる事もなく、曲がりなりにも2段式に飛び出すロケットに興奮して遊んだものでした。今でこそ安全基準が厳しくなり、このような”飛び出す”系のギミックは少なくなったようですが、コドモにとってコーフンもののギミックが無くなるのは詰まらないものでしょうねぇ。
そうそう、ニチモからも”遊べる”ロケットのキットが出ていました。
コレはゴムのパチンコで射出するもので、屋外で遊ぶためのプラモです。射出するとある程度の高さ(10m位?)でボディが縦割りに開いて、内蔵するパラシュートを開いてユックリと降りてくるというものです。これも2〜3回は作って遊んだ記憶があります。
発射はしませんが、大型ミサイルの運搬トレーラーのプラモも作りました。
これもイマイだったでしょうか?全長30cmを超えるもので、スケールで言うなら76サイズです。ギミックとしてはトレーラーがゼンマイ駆動、ミサイルを載せたランチャがウォームギアを使ったハンドルを廻すと立ち上がる、というものでした。ミサイルはただランチャに載っているだけで、発射出来るわけではありません。この点がちょっと残念でしたが、ランチャ上下ギミックはお気に入りでしたねぇ。小スケールながら10個以上あるタイヤにはゴムタイヤが奢られており、アンダーパワー気味なゼンマイ動力でノロノロ走りました。これは4年生の正月?にお年玉で買ったものでした。
同じイマイからは、ネーベルベルファー(独逸の装輪6連ロケット砲)のような4連のミサイル砲のキットもありました。
これは砲側にスプリングが仕込まれており、マッチピストルのような簡単な金具でプラの”矢”を発射するものです。2脚式に開く脚とタイヤがついており、空想の産物ながら妙にリアルな大砲のプラモでした。プラの”矢”は先端がかなり尖ったもので、勢いよく飛び出す矢に当たるとかなり痛いものでした。直前に置いたキットの箱に刺さるほどの勢いがありました。これにはコドモながらに「危ないナ〜」とちょっと”引いて”しまう程でした。このキットは何故か2回作った事があります。箱絵は小松崎茂画伯の威勢の良い発射シーンのイラストだったと思います。
4.タミヤとの出会い、ミリタリー小僧時代(昭和45年〜48年)
小学校の3年生後半あたりから、戦車に興味が湧いてきました。あのキャタピラーで不整地を走り回る姿に魅力を感じたんですね。
キッカケは、近所の縁日で買ってもらったゼンマイの戦車。「何だプラモじゃないじゃんか!」と言われてしまうと全くその通りなんですが、火花を出しながら、ゴムキャタピラでフトンの上だろうがタタミの上だろうがどんどん走る奴でした(笑)。たしか銀メッキが施されたデラックス版だったと思います。当時は”デラックス”というとメッキピカピカ!ってのが多かったですからね。車台は今思うにM42ダスター対空自走砲をデフォルメしたような形だったかな?砲塔も連装機銃だったしな。とにかくその走る様子がいたく気に入って、以来、戦車に興味が出たんだと思います。
これに気を良くして次に買ってもらったのは、ミツワ?の車台がポリ製の、もうちょっと形がまともなゼンマイ式パンターだったのを思い出しました。これも火花が出ました。(これは後からニチモの豆タンクシリーズのパンターらしい、ということが判明しました)
ゼンマイは縁日のそれに較べると、はるかにゴツイ(何しろ下部車体全部がゼンマイボディになってる!)ものでしたが、走りはそれほど軽快じゃなかったなぁ。油をさしたり、転輪を調整したりしましたが、なかなか軽快には走ってくれなかったですね。ゴム製キャタピラなんかも走っているうちに、段々外れてしまうし。昔のゼンマイ物プラモデル(やトイ)にはそういうものが多かったですね。
実はこれ以前にモータライズの戦車プラモを貰ったことがありました。多分小学1年生当時だと思うのですが、親戚のオジサンが作った完成品でした。キットはMMシリーズ勃興前のタミヤの「アーチュリー自走砲」でした。既に完成した姿でしたし、何しろオジサンから頂いた物ですからイジリ倒し、遊び倒す訳にも行かず、動かすには単2乾電池が2本も要るし、動きはあまり機敏という訳でも無く”ジーコジーコ”とユックリ走るだけでしたので、遊びの道具としては面白さに欠け、自然と「お蔵入り」になってしまいました。つまりこのキットでは(む)の”戦車魂”は目覚めなかったわけですね(笑)。
そうそう、この時キットと一緒に頂いたのがレベルの「ビン入りセメント」と「NTカッター」。
オジサンがプラモ作りの為に使った余りを頂いたワケですが、プラモ作りのための”オトナの道具”を頂いて随分嬉しかったなぁ。でもいざ使おうとして、ビン入りセメントはすぐに倒して全部こぼれ、NTカッターでは刃を出し入れしようとして指を切り痛い思いをしました(笑)。まだまだオトナの道具は使えないや、とちょっと敗北感を味わった(む)でしたねぇ。
それからエスカレートして手を出したのがタミヤの1/48 M60スーパーパットン。コレは暮れのクリスマスプレゼントの一つとして「岐阜城」のプラモ(渋い!)と一緒にヨコハマ(多分)の高島屋で買ってもらったものです。実はこれには後日談がありまして、喜び勇んで抱えて帰り、早速作り始めた訳なんですが、何とタミヤのこのキット、下部車体のパーツが入ってない!モーターも組めなきゃ転輪も組めない!ショックでした。折角買ってもらった初めてのモータライズの戦車だったのに!当時はこういう不良品は結構あって、まぁコドモのおもちゃだし、と諦めていたものですが、この時は母がデパートに電話で苦情を言ってくれました。相手はデパート、良くしたもので翌日新品キットを届けてくれました。ただ待ちきれずに砲塔と車体上部は作ってしまったので、届けてもらったキットの下部車体だけを頂いたのですが。今なら当然のことですが、こういうキチンとした対応をしてくれた高島屋にはとても良い印象を持ちました。つっても滅多に行く事の無いお店でしたけどね。
まぁそうして手元に来たM60、この戦車をゼネコン(手回し式の発電機、マブチモーター製)で走らせる遊びにしばらく夢中になりました。もっともこの戦車はシングルモータライズなのでゼネコンで操縦といっても、出来るのは前後進だけなんですが。方向転換は、ゼネコンのコードを引っ張って、無理やりやってました(笑)。何しろ手動発電機で動かすので、電池切れがない!いつまでも走らせられるので嬉しかったなー。近所の公園などで走らせていましたね。結局、M60,西独の突撃砲(名前忘れました)などを買ってもらいました。
そのうちタミヤにはもっと大きな1/35のシリーズがあって、それはゴムキャタピラじゃなくって、ポリのリアルなキャタピラを履いているらしい、という情報をトモダチから聞きました。次のお出かけの機会に探してみると、ありました!M41ウォーカーブルドッグです。白いパッケージにM41のカッコイイイラストが描かれたキットです。値段は意外に安くて確か350円!早速オネダリしてモーターも付けて買ってもらいました。さすがに1/48のミニタンクシリーズとは違う本格的はスケールモデルで、部品点数も多いし、ハッチも一部可動したりして興奮して作りましたねぇ。キャタピラの焼き止めが上手く出来なくてガビガビになったり、スプロケットの打ち込みがナナメになってしまって、キャタピラが外れやすかったりビミョーに左に曲がって走ったりしましたけどね(笑)。今思うに、スプロケットの張り合わせの”平行”が出ていなかったのでしょうね。まぁゼネコンでの”走り”に関しては、ゴムキャタのミニタンクの方がスムースに走ったという記憶があります。でも本格的な戦車キットとの出会いは、概ね穏やかで前向きなものでした。コレ以降、タミヤの戦車シリーズは(む)の一番のお気に入りとなった訳です。
シングルに飽き足らなくなって、とうとう手に入れたのが1/35リモコンのロンメル!タミヤのリモコンボックスというと2本のレバー式がポピュラーですが、当時はまだボタン式リモコンボックスでした。モーターを2個使って、実車さながらに走る姿には感激でした!でも電池がなかなか買えなくて、走らせて遊べたのはほんの少しでしたね。電池買うよりもプラモが欲しかった頃ですから(笑)。
そうこうしているうちにフジミの1/76シリーズが出回るようになりました。150円で走りはしないけど、キャタピラがゴムじゃなくて(ゴムキャタはダサイ、という気持ちが当時すでにありました)、しかもなんだか知らない戦車ばっかりのシリーズ、という評価でした。当時からKV−2とかヘッツァーとか38(t)とか、マニアしか知らないようなのばっかりでしたもんね。
箱絵もなんだか暗い感じで、小学生が手をだすキットじゃない感じでしたよ。値段も箱の割にはちょっと高い気がする150円でしたし。
タミヤニュースを知ったのもこの頃で、同じクラスのトモダチから教えてもらい、タミヤに直接問合せハガキを出したと記憶しています。その後すぐにタミヤから、見本としてタミヤニュース32号と定期購読申し込み用紙が送られてきました。ここら辺のケアがタミヤらしいシッカリしたところですね。早速定期購読を申し込み、以来”タミヤ党員”が一人増えたという訳です(笑い)。
とにかくタミヤが出している戦車のプラモならば、国も年代も問わずカッコイイなら何でもイイや!ということで、コトあるごとに戦車のプラモを買ってもらいました。周りのトモダチもみなそうでしたね。
中でもクリスマスに買ってもらった1/25リモコン・ジューコフ(SU−100)は、キャタピラが連結式、サスペンション可動の大型リモコン戦車ということで大感激しました。ハッチも全部開くし!次はタイガーだ!と思ったものです。
そのうち、東京の大丸百貨店で「大ジオラマ展」?が開催されたり、人形改造コンテストが始まったりと、タミヤを中心としてミリタリーブームになっていきます(実際はこの何年か前からブームだったのでしょうが、田舎の小学生は知らなかった訳ですね(笑い))。
(む)はヒョンなことから、この大丸百貨店の「大ジオラマ展」を見ています。当時タミヤニュースで知った、かの有名な「カンプグルッペジーベン」のメンバの方が説明されていて、大胆にも何か質問したと思います。この時配られていた販促パンフには「人形改造のヤリ方」なんて情報が満載されてまして、田舎のプラモ小僧には衝撃でした。手足の関節の曲げ方とか、ユニフォームの改造とか・・・。
(む)の周りのトモダチもみんなMMシリーズを作っていましたね。新製品が出ると「誰々が買ったらしい」などという情報が飛び交っていました。
88mm対戦車砲、8トンハーフトラック等が出たのもこの頃かなぁ?
88mm購入にあたっては、自転車で30分以上もかかる模型専門店まで毎日通って発売を待った記憶があります。でも買ったのは近くのオモチャ屋で、しかも友達にはしばらくナイショにしてました(笑)。
タミヤ1/25のリモコン・タイガーTを手に入れたのは5年生の終わりごろ?お年玉を貯めて、親にもお許しを貰って(何しろ(む)にとっては、相当高価なプラモ(当時価格2200円!)でしたから)手に入れました。
キットの内容は、もう熟知していたつもりでしたが、やはり実物が手に入るともう興奮の連続でしたねぇ。
今見るとプロポーションはあまり良くないですけれど、もう一度、リモコンで動くヤツを作ってみたい!
(これは最近、ヤフオクで入手することが出来て、(む)的に気持ちの決着がつきました。まぁ作るまでは完全に決着がついたコトにはならないかもしれませんけどね(笑)。)
5.色塗りコト始め(昭和45年〜46年)
プラモデルには色を塗るもの、ということはデパート等で完成見本を眺めたり、雑誌のカラー広告などから知っていました。
当時、プラモ用カラーは豆ラッカーとかマルサンカラー,レベルカラー等が売られており、おぼろげながらそういう物がある、という知識もありました。でも当時の小学生のお小遣いでは、プラモを買うこともそうそう出来ないのに、塗装材料までを揃えるというのはナカナカに難しいことでした。せいぜい黒マジックでタイヤを塗ってみたりするのが関の山、という状態でした。先進的なお子様モデラー達は、プラモに直に”水性絵の具”を塗ったりしてトホホな思いをしていたようですが、(む)はそこまで冒険は出来なかったナァ(笑)。
小3〜4年生の時に同じクラスになった”優等生”のナカヤマ君が、レベルのヒコーキのファンでして、特に32のスピットファイアとかメッサーの素晴らしさを得々と聞かせてくれたものです。彼は優等生でその上”お坊ちゃん”でしたから、レベルカラーを使って塗装も多少はこなしていたと聞きました。さすがに生活環境も経済的余裕も段違いのナカヤマ君がやることは違うナァ、と思っていましたね。(む)的には「プラモの色塗りはまだまだ無理だな〜」と諦めモードでありましたね。
さて、そんなボクが始めて色を塗ったのは、タミヤ35「ドイツ歩兵セット」でした。昭和46年の秋頃だと思います。使った塗料はマルサンカラーのミニセット(ベビーセット?)。基本色が赤,白,黄,青,黒,銀(緑もあったかな?)に専用のシンナーと筆が2本、というチープなセットでした。これは何を思ったか、オフクロがお出掛けのお土産として買ってきてくれた物だったと記憶しています。
当時は独軍服の「フィールドグレー」など買えるハズも無く(何しろキットと塗料1本の値段が一緒ですから)、箱絵を見ながら原色を調合してソレらしい色を作りました。茶色なんてはいっていませんから、ライフルの銃床と雑嚢を塗るのに使うこげ茶色は、赤黒白黄を混ぜて作りましたよ(笑)。まぁ図工の教科書などを見て、色の三原色と混ぜ方なんかを自分なりに勉強したワケです。これは結構面白かったです。人肌や服には艶消しで塗るとか、艶消し剤のフラットベースなんて存在すら知りませんでしたから、当然ツヤ有りの妙にテカテカしたフィギュアでした。
これが(む)の「塗装デビュー」になるワケですが、本格的に色塗りを始めたのは、その後に「レベルカラーセット」を買ってもらい、タミヤの「アメリカ歩兵セット」を塗った頃からです。コチラの方が印象深いですねぇ。
「レベルカラーセット」には、赤,白,黄,青,緑,黒,銀に加えて、茶と金とフラットベースも入っていたと思います。筆も大小2本がセットされてました。塗料を混ぜる金属製の皿も3枚入っていましたね。塗料を溶くシンナーも大型のビンが奢られており、マルサンに比べると随分豪華なセットでした。何より嬉しかったのは「茶色」が入っていること。これで木や革が塗れるし、肌色も簡単に作れる!そう思いました。もっともレベルの茶色って、妙にオレンジっぽい色味でしたけどね。
これ以降、少しずつプラモに色塗りするようになっていきました。
まぁ最初は、塗料が勿体無いので、ボディ色などの広い面積はキットのモールドのままでガマンし、細部だけにちょっと色を差す程度でしたが。
プラモ全体にキチンと塗装したのはいつ頃だったのか・・・「タミヤ25・タイガーT」あたりだったかも知れません。もちろん筆塗りですから、内部を白くするのは大変だった記憶がありますね。車体色はダークイエローに塗ったと思います。あぁ懐かしい。筆塗りで一生懸命塗った、という記憶はミリタリー物には希薄で、小6〜中1の頃にハマっていたレベル32ヒコーキの印象が強烈です。これはもう全体をくまなく塗り上げてました。P51Bの侵攻ストライプには苦労したな〜とか。そうそう、レベル32にハマッていた時期があったんですよ!コレは別項で書く事にしましょう。
初めてスプレー缶を使ってみたのは、タミヤ35のリモコン・パンターに迷彩を掛けた時ですから・・・やはり5年生の頃?当時のタミヤの説明書には、迷彩塗装のレクチャーなども事細かに書かれていましたから、それをマネしたくなったのです。でも例の「脱脂綿を貼り付けて行なうスポット迷彩」はさすがにやる勇気が無く、型紙を使った大まかなクモ型迷彩に留まりましたが。トモダチの一人がこの「脱脂綿迷彩」を試みて、見事にホコリ(脱脂綿の繊維)塗り込み迷彩になったV号戦車を見せてくれた時には、その”勇気”と”蛮行”(笑)を大いに称えたものです。
私が買ったのはタミヤスプレーカラーのレッドブラウンです。当時350円くらいするオレ的には高価なカラーでしたねぇ。まぁ初めてのスプレー塗装はビクビクもので、思ったよりも難しく、パンターには幅広のレッドブラウンの帯でツートーンになってしまうという散々な結果になりました。でも自分では割と気に入ってましたけどね(笑)。
次に迷彩にチャレンジしたのは中学1年だったかな?当時はレベルのプロスプレーを持っており、やはりタミヤのパンター(今度は1/25でしたが)にレッドブラウンを吹きました。今度も型紙を使い、多少なりとも細かいパターンのスポット迷彩に挑戦しました。レベルカラーのダークイエローとレッドブラウンを使ったので、今とは全然違う色味ですし、ボケ方が不揃いなヘンな迷彩になりました(笑)。
5.1 レベル32の思い出(昭和47年〜48年)
前項の色塗り話しで思い出しましたが、小6〜中1年の頃はヒコーキプラモも結構作ってました。特にハマって作ったのがレベルの1/32のシリーズです。と、言っても大した物は作っておらず、「飛燕」,「P51Bマスタング」,「P47サンダーボルト」,「F4Uコルセア」,「Ju87スツーカ」,「メッサーシュミットMe262」の6機だけです。この頃のレベル32シリーズは、それまでの可動ギミックを廃し、ディティール重視モデルへの過渡期だったように思います。というか、スケールキットの殆どが、より精密さを求める方向に変化していた時代だったみたいですね。それまでの”名作”と言われていた「Me109」や「スピットファイア」,「P40ウォーホーク」等の可動ギミック満載のキットとは一線を画して、キャノピーや引き込み脚は固定とし、代わりに内部ディティールをモールドで再現してみせる、そういうキット構成に移行していたと思います。
初めて手にしたのが「飛燕」でした。このキットが正にそのような”ギミック廃止&ディティール重視”のキットで、エンジンやコクピット、翼に内装される機銃のディティールに痺れまくりでした。
唯一、キャノピーが固定式なのが不満でしたが。3つに分割されたキャノピーは、やはりスライドして開閉して欲しかったナァと思いましたが。
次に作ったのが・・・「P51マスタングB型」です。あれは小6?の冬だったかと。駅前の模型屋までバスで出掛け、帰りはそぼ降る雪の中を歩いて帰ったような記憶があります。バス代を節約して塗料を買ったせいだったのかも(笑)?
「P51」も「飛燕」同様ディティール重視のキットでしたが、3分割された中央キャノピーは左側面と天井部分が可動開閉するようになっており、これが嬉しいギミックでした。塗装は上面オリーブドラブ、下面がニュートラルグレイで、主翼中央寄りと胴体中央下面に白黒の”インベンジョンストライプ(侵攻ストライプ)”が入ります。コレの位置決めとマスキングにえらく苦労した思い出があります。
レベル32ですので機体表面にはビッシリとリベットのモールドがあるので、マスキングテープ代わりのセロテープの密着には随分苦労しました。もちろん全部筆塗りです。あぁ懐かしいなぁと。
その次が「P47サンダーボルト」。その大きさと迫力にビックリしました。ギミック的には大したこと無かったですがね。「コルセア」はガルウィング折り畳み機構が再現されており、結構コーフンしました。まぁ所詮プラのヒンジなので、強度も精度も不足気味で満足に可動しませんでしたけれど。「Ju87スツーカ」は先のキットよりもちょっと古めで各部モールドがダルいものでしたが、大型のバードゲージキャノピーがちゃんと可動するので嬉しかったですね。あれはもう一度作ってみたい気がします。
最後に作ったのが「Me262」でした。やけにノッペリとした機体で、ちゃんと色を塗って完成させたハズなんですが、印象が薄くて記憶が曖昧になっています。
中学2年頃からはタミヤのMMシリーズにどんどん傾注していき、プラモ製作の知識(というか屁理屈ですね)がドンドン膨れ上がっていきました。ただでさえ作るのが大変なレベル32ヒコーキ群はだんだん興味の外に追いやられ、作らなくなってしまいました。
6.ミリタリーマニア時代(前期)(昭和49年〜50年)
普通、どんなにプラモに明け暮れてた子供も、いつの頃にか足を洗ってしまうものです。(む)の場合中学生の始め頃に突然つまらなくなり、足を洗う決意を固めました。そこでそれまで持っていた未組み立てプラモや塗料の一覧を作り、クラスのトモダチ達に行商したりしましたよ(笑)。
でも結局、タミヤMMのケッテンクラートやらハノマーグ装甲車(sdkfz251のコトです)やらがドンドン出始め、またもやはまり込んでしまったのでありました(笑い)。特に決定的だったのが、ハノマーグ装甲車!これの付属の歩兵フィギュアにシビレてしまい、またまたミリタリーの世界にはまり込んだ訳です。
中学1年の頃に作ったのが「ハセガワ72・タイガーT」で、ハセガワ・ミニボックスシリーズの第1弾でした。これはミリタリーモデルの一環として作ったというよりも、近所の模型店で開催される「プラモコンテスト」に出品するために作りました。ただ作ったのでは面白く無いし目を惹かないだろうと思い、ありきたりではありますが内部構造を再現してカットモデルにしてみました。当時タイガーTの内部構造再現キットというと、タミヤ25に加えバンダイ48もあり、それほど珍しい物では無くなっていましたが、逆に資料には事欠かないワケです。自分としてはかなり気合を入れて作ったつもりでしたが、所詮は中学生の工作、あまり上出来とは言えず、くだんのコンテストでも参加賞しか貰えませんでしたが(笑)。もっとも、この作品、「鎌倉プラモデル」(後述)に持っていったら、結構”受け”が良く、長らくウィンドウに飾っていただきましたし、このお店での(む)のデビューを果たす作品にもなりました。そういう意味では作った甲斐もあったワケですね(笑)。
はまり込んだ末に、とうとう有志数名で、中学の文化祭でプラモの展示会を開催したりしました。この時にあろうことかタミヤに「今度展示会をヤルので、是非ともメーカーとして協力して欲しい」という大それた手紙を書きました(笑い)。するとタミヤからはステッカーやジュニアニュース等の販促グッズを多数送って頂いて、大変驚いたものです。何でも言ってみるもんだ、とは思いましたが、やはりタミヤはユーザを大切にしてくれるイイ会社だ!、と思ったものですね。
加えて、当時通っていた中学の美術のセンセイが、大したプラモマニヤでして、いろいろ教えを授かりました。
「ペリスコープのガラス部分には、ウラを黒く塗ったエンビを貼り付ける、角度によってスリットから覗くペリスコープがキラリと光るのがリアルなんだな!」などと嬉しそうに話されておられました。お〜!ナルホドそういうものか!と、一生懸命マネしましたねー。ここ何年かアーマーモデリング誌上でもペリスコープのガラス表現が行われてるみたいですが、もう20ン年前からやってたよん(笑い)!
美術のセンセイらしく「タミヤのMMフィギュアはデッサンが狂っていてキライ!」と言われて、キット付属のフィギュアは全部(む)に払い下げて頂いたりと、随分お世話になりました。今も元気にしていらっしゃいますかねぇ?
当時からご多分にもれず、ドイツ物が好きでした。ちゃんと作り上げたのはV突が最初で、以来V号、W号系列と造り倒してきましたね。専ら素組みでしたが、当時から他人とは違うものを作りたかったので、プラバン使ってチマチマとしたディティールアップはやってました。ハッチの可動に凝ったこともありました。
プラモ回顧録でも書きましたが、97式中戦車が出たときは大興奮でしたねー。今思うと何でそんなに…と思いますが日本戦車の独特な形と色に惹かれたんでしょうか?
7.鎌倉プラモデルとの出会い(昭和49年〜)
鎌倉大町にあった模型専門店「鎌倉プラモデル」との出会いは、(む)が中学生の頃です。初めて行ったのは、多分電話帳で調べて所在を聞いて行ったのだと思います(いやでも、当時のプラモ仲間だったK野クンが連れて行ってくれたような気もしますが?)店主のNさんは大変気さくなヒコーキ好きなおじさんで、実機の話から胴体の合わせ目の消し方なんていうプラモ作製ノウハウまで、イロイロなお話が伺えました。当時周りにプラモ好きな友達が少なかった(む)は一遍でこのお店を気に入ってしまい、以来毎週末は入り浸っておりました。
当時の常連だった方々と知り合えたのも、このお店があればこそで、随分イロイロお世話になりました。
鎌倉プラモデルは、店主N氏がヒコーキ好きということもあってか、ヒコーキモデラーの巣窟でした。(む)達一部のミリタリーマニアは、狭いお店のそのまた隅のスミで、ミリタリー話に花を咲かせていたと思います。
とにかく中学生の後半から高校卒業までの5年間、毎週末は「鎌倉プラモデル」に入り浸っているか、自室でプラモ作りに勤しむか、のどちらかという文字通り”プラモにドップリ浸かった時期”でありました。あぁ懐かしい。
興味の中心は何と言っても”ミリタリー”で、タミヤのミリタリーミニチュアシリーズを中心に作っていました。それは次項で述べるとして、どんどん深みにハマっていく(む)なのでありました。
一方で、ヒコーキマニアの巣窟「鎌倉プラモデル」では、タマにヒコーキも作らないと居場所が無いという雰囲気がありました(笑)。たまたま木切れとプラ板で「93中練」(旧日本海軍93式中級練習機のこと。俗に言う”アカトンボ”です)を作って持って行ったところ妙にウケたことがありました。そもそもH野氏の昔話で、「サンキョー(ピーナツシリーズ)のアカトンボ」のお話を伺い、イメージ優先で作ってみた物だったのです。昭和54年夏頃の話です。
思いの外好評だったことに気を良くして、それならば、と「1/144スケール”程度”に統一した複葉機」を作り始めました。機種は”戦間機”と呼ばれるWWTとWWUの間に活躍した機体が中心でした。週に1機というハイペースで作りつづけ、結局15機ほども作ったでしょうか?「95中練」「95式水偵」「P26ピーシューター」「カーチスF4」「PZL」「ボーイングF3」などなど・・・。「95式水偵」などは、艦上を移動するための台車まで作るという凝りようでしたよ(笑)。これらの作品は、今はバラバラに壊れてしまい(一応保存はしてありますが)、公開できないのが残念です。いずれ復元したいと考えてはいるのですが。
そういえば、鎌倉プラモデルに「ニチモ48・95中練」を作って持っていったことがあります。あれは中1の冬だったかな?
一応、合わせ目を消してみたり、工作と塗装も自分なりに入れ込んで作ってみた"自信作”だったのですが、店主のNさんに見せると開口一番、「翼の平行が出てないネェ。これじゃヒコーキ飛ばないよ?」と言われてしまい、ギャフン!となりました。
そう、ヒコーキプラモの基本として、翼の水平垂直(と上半角など)がきちんと出ているコト、という大前提があるんです。それには気付かず、合わせ目修正ばかりに気を取られていたわけで・・・。当時から仮組みをしないコドモだったせいもあり、まず仮組みして全体像をチェックする、という習慣が無かったんですね。キット任せだったわけです。
これですっかり”萎縮”してしまった(む)は、以降まともにヒコーキを作る気が失せてしまい、ますますミリタリーに傾注していくワケです。
あのとき曲がりなりにも誉めてもらったら、ヒコーキモデラーへの道を進んでしまい、今とは違うプラモ人生を送っていたのかも?まぁ悪い芽は早めに摘み取ってもらったほうが良かった、という考え方もありますね(笑)。
8.軽戦車と可動ハッチと東京AFVの会(ミリタリーマニア時代その2)(昭和50年〜56年)
さて、一度挫折から立ち直ったヒトは強くなる、かどうか分かりませんが、一度足を洗おうと思ったにも係わらず止めきれなかったお陰か、(む)のココロの中での”プラモ作り”(というか”戦車作り”だな)はますます亢進し、ミリタリーの暗い穴蔵にどんどん落ち込んで行きました(笑)。
前項でも触れましたが、「タミヤ35のV突」からスタートした戦車作りは、その後もV号M型、トミー(イタラエリ)T号、タミヤの8tハーフトラック4連対空砲へと進みます。さすがにモータライズで走らせることは卒業し、専らディスプレイモデルとして作っていましたが、昔から”可動ギミック”が好きだった(む)としては、「ハッチの開閉」は大好きなギミックの一つでした。初めてヒンジを自作して開閉ギミックを作り込んだのは、イタラエリのT号戦車です。小さな砲塔上面の天板が殆ど開いてしまうようなハッチを可動にしてご満悦でした。イタラエリのキットはタミヤに無い繊細さを持っておりお気に入りのキットの一つでした。第1弾の「ヘッツァー」はちょっと難ありのキットでしたが・・・(笑)。
そもそもT号戦車を知ったのは、タミヤニュースに掲載された「カンプグルッペジーベン」の作品からです。そのころから妙に古臭いカタチの、でも栄えある独軍戦車の”NO.1”の名前を持つ小さな戦車に非常に興味を抱いていました。キット化されたのはフジミ76やニットウ76のようなミニスケールが先で、タミヤから1/35が出るのを心待ちにしていました。ニットウ76は小さいくせに内部構造もそれらしく再現されている、というので発売されてスグに作った記憶があります。でもキャタピラがショボかったなぁ(笑)。
そういうワケで、イタラエリのT号は満を持して出たキットだったのです。コレ以降、妙に小さな戦車に興味を持ちつづけて行きます。タイガーやパンターなどのメジャー処よりもマイナーな軽戦車が好きというのも、(む)らしいヘソ曲がりだと思います(笑)。
ハッチ可動工作は、その後もどんどんエスカレートしました。基本的にはキットのヒンジモールドに開孔して軸を通すだけの簡単な工作ですが、そのうちプラ材から削り出したヒンジを使うようになりました。薄さが要求されるW号のシェルツェンの可動には、瞬着を染み込ませた紙を使ったりしましたよ(笑)。今なら迷わず銅板あたりで自作するところですが、当時は瞬着での接着強度に自信がなかったので、金属製のヒンジには二の足を踏んでいました。そのために苦労してダメだったのが97式(チハ車)のコマンダーハッチでした。アレこそは金属を曲げて作れば簡単に出来る形状でしたが、プラ材では接着しろが取れずに苦労しましたねぇ。
そのうちハッチの可動だけでは飽き足らなくなり、W号駆逐戦車では、砲の左右動に合わせて照準器を連動させてみたり、U号c型(改造)では、砲塔クラッペ4箇所と砲身の上下動を連動させるという文字とおりのギミック(からくり)を仕込んだりしていました。今考えるとヤリ過ぎですね(笑)。まぁハッチの可動は動かしてみせないと分からないし、壊れやすいし、開けた中身がガランドウだと空しいし、ということはいつも思っていました。
そうそう、ミリタリーに嵩じる余り東京で開催された「東京AFVの会」にも何度か参加したことがあります。恐らく昭和50〜52年頃のコトだと思うのですが、当時のHJ誌にW号戦車の各型への改造連載記事を執筆されていた上田暁氏を間近に見れて感激したという記憶があります。上田氏は当時からかなり先鋭的な改造記事を書かれたマニアな方で(当時の(む)の考えです)、可動改造もドンドン取り入れておられました。タミヤニュースの「私の傑作」にも登場されて「〜20mmFlak38の照準器連動がやっと出来た〜」等という一文に大いにコーフンしたものです(笑)。(アレは照準器のアームと機銃本体を単純に繋ぐだけでは旨く動かないハズですから)
氏は正しく当時の(む)にとっての”カリスマモデラー”のお一人でしたねぇ。(む)と同世代の山田卓○氏や熊谷某氏などもお見かけしましたね〜。恐れ多くてお話は出来ませんでしたが・・・。(ま、もっともお二方とも、その作風が(む)好みでなかったのでどうでもよかったんですが(笑))
原付バイクに乗り始めたのは結構遅くなってからで、高校3年生の夏前からです。バイクが身近な物になってからは、乗り回すことに夢中になると同時に、それまで全然興味が無かったバイクのプラモにも興味が出てきました。
ちょうどイマイのミニバイクシリーズが沢山出始め、タミヤの1/12がそろそろ発売されようか、という頃です。最初はグンゼのGT50に始まり、イマイのミニバイクを結構作りました。当時ミリタリー物の艶消し塗装しか経験の無い(む)でしたので、艶有りのタンクの塗装には困りました。しかもミニトレのタンクの指定色はシルバーだったし。
そこで慣れないグロス塗装は鎌倉プラモデル店主のNさんに塗って頂きました。当時から店主のNさんは”困った時の「オッチャン」頼み”と言われて、キャノピーの木型やプロペラブレード、果てはレベル32・モスキート改造用の機首やらトミー32・零戦21型を2式水戦にするためのフロート等もホイホイと削り出してくれる有り難い救世主だったのです。もちろん塗装などもお手の物でスグにやってくれました。
きれいにクリアコートされたシルバーのタンクを見てやっぱりバイクは塗装がキモだな、と改めて思いましたね。当時からエアブラシは入門機として有名なオリンポスの「ヤング88」を持っておりましたが、エアが勿体無いので、どうしてもブラシ塗装が必要になるドイツ戦車の迷彩塗装くらいにしか使ってないのでした(笑)。
その後完成したGT50は長らくショウケースの片隅に陳列されていましたが、ある日見ると、何とタンクが無い!店主のNさんに聞くと「あ〜それねぇ、何だかH野さんが”ハーレーに丁度イイ”とか言って外してたよぉ〜」と、何とも呑気なお返事。”H野さん”とは、モデルカーズ誌の初代編集長としても有名な食玩&プラモ史研究家のH野氏のコトなのですが、当時からモデルアート誌のライターなどされており、「鎌倉プラモデル」でも”ブイブイ言わせる”強持てモデラーの一人だったのです(笑)。なので、こういう理不尽なコトもまかり通っていた訳で、初めてのバイク作品だったGT50の悲しい姿にちょっと泣きました(笑)。しかしながら、H野氏いう処の”GT50のタンクを流用した改造ハーレー”(多分ユニオン1/15スケール用)にはお目にかかったことが無く(ひょっとしたらモデルアートに登場していたのかもしれませんが)、未だにタンクがどうなったかは分からず仕舞いになっています。ちなみに、タンク無しの哀れな姿になった我がGT50は、長らくショウケースの片隅に放置されていましたが、いつの間にか廃棄処分になってしまいました。トホホ・・・。
ところで当時のバイクの塗装ですが、ツヤ有りのボディカラー部分が少ないのをイイことに、コレ幸いと全て”筆塗り”で仕上げていました。タミヤのRZ250なんかも筆塗りだったと思いますが、筆ムラも無く当時としては結構イイ出来だったと思います(自画自賛)。恐らくこの当時の(む)の筆塗り技術は、(む)的には一番イケていた時期だったと思います。大抵の部品は筆塗りで、それなりにムラなく上手く塗れていたみたいですし。今は殆どの部品をブラシ塗装してしまうことを思うとウソのような話です。
そのうち素組みでは飽き足らなくなり、スポークを張り替えてみたり、サスを可動にしてみたり、と小ざかしいディティールアップを始めました(笑)。まぁ可動ってのは、動かさなきゃ分からないし、動かせば壊れるしでバイクの場合はあんまり面白くないってんでやめましたけどね。
スポーク張り替えは、常連のSクン(当時中学生)がK田さんというアヤシイおじさん(といっても歳は(む)とそんなに違わないですが)にイロイロ聞いて勉強していました。(このK田さんはその後モデルカーズ誌上で有名になりました。当時から、イロイロな素材でとんでもないモノを作ったりするヒトでしたが)Sクンは当時から”古いバイクが好きな変った中学生”というスタンスで鎌倉プラモデルの常連の一人でして、スポークを張り替えたいがためにバイクプラモを作る、という珍しいヒトでした(笑)。
「鎌倉プラモデル」に飾られるバイク作品は、当然スポーク張り替えが必須となりました。バイクを作る上でスポークのディティールアップは避けて通れない、ということを認識した(む)は、早速”スポーク張り替えの達人”になったSクンに教えを乞うコトにしました。だってK田さんはちゃんと教えてくれなかったし、Sクンの方が年下なので聞きやすかったし(笑)。
スポーク張り替えは”リムへの穴あけ”と”ホイールの芯出し”がキモなので、どうやったら上手くいくかを根掘り葉掘り聞き出しました。Sクンもイヤがりもせず教えてくれたような記憶があります。
初めての張り替え作品はタミヤ12のホンダ・CR250というモトクロッサーでした。これに味を占め、イマイ12・TY125やバンダイ12・XT250などを作りました。当時はまだピンバイスの扱いに慣れていなかったのと、高価なバイスを折るのを恐れて、リムへの穴あけはリム左右をあわせる前に、ミゾを切っていました。この方がスポークの角度に合わせ易く簡単に出来る反面、リムの合わせ目修正がし辛い、スポークを差し込み辛い、という欠点があります。まぁ”スポークを張り替える”だけでも珍しい時代だったので、ソレでも結構満足してました。コレが本当の自己満足ではありますな(笑)。
そのうち、K田さんの作品は金属部品を多用する(例えば「マッチボックス12・ビンセント・ブラックシャドウ」の前後フェンダーをアルミ板から叩き出すとか)ようになり、とてもフォロー出来ない世界に行ってしまいました。素人モデラーは置き去りになってしまったというワケです(笑)。
10.四流大学弱小サークル時代(昭和55年〜59年)
普段からプラモに明け暮れていた(む)ですが、そうそう遊んでばかりもいられず、これからは大学で遊ぼうということになりました。入る努力をしなかったのと元来の学力の無さで、入学できたのはいわゆる四流大学でしたが、入学して早速模型関係のサークルを探しました。取敢えず「模型部」とか「模型同好会」等というあからさまな名前のサークルは見当たらず、やっぱり無いか、と思って諦めかけていた処にヒョンなことから見つかりました。それは新人勧誘のテーブルが並ぶ中、RCと思われる巨大なモスキート(英国空軍の双発木製高速爆撃機(侵攻戦闘機ともいう))を飾っているブースだったのです。「モスキートってのが何だかマニアっぽいよな〜」と思いつつ話を聞くと、なんとソコは「からくり模型研究会」というサークルだそう。工学部の学生対象の「可動模型」を作るサークルなのだとか。まぁプラモデルサークルでは無いのですが、模型はモケイです。ちょっと嬉しくなりました。(む)は文系学部だったので入会は難しいかとも思いましたが、「文系でもプラモデル好きな人でも入ってイイよ」という甘い(というかいい加減な)話に乗り、入会させてもらうことになりました。
入会後イロイロあって(笑い)、結局このとき出合った先輩と(む)と同期の日本軍戦車マニア(珍しい!)との3人で、プラモデルマニアのサークルである「模型同好会」を立ち上げることになりました。取り敢えず部室は「からくり模型研究会」に居候することにしました。
「模型同好会」はプラモ好きな仲間の寄り合い所みたいなスタンスで、年1回の学園祭で作品展示会をやろう、というこれまたイーカゲンなポリシーで始めた会でしたが、第1回目の展示会はそれなりに作品数も集まり、壁面には模造紙数十枚を繋げて描いた「実物大97式中戦車(チハ車)側面図」が華を添え、それらしい会になったと自負してます(笑)。
その後会員も順調に増えたり減ったりしました(笑)が、展示会の直前なのに作品が集まらなかったり、当時隆盛を極めていたガンプラに始まるキャラ物作品を出品作品として認めるか否かの論争とか、会長交代劇(誰も後任をやりたがらない)等という下らないながらも、このテのサークルにはありがちな問題がイロイロありました(笑)。
余談ですが、女性会員は当然ながら一人も居なかったので、「誰がカノジョを送っていくか」で会員同士が揉めるとか、そういう浮いたドロドロな話はサッパリ無かったんですけどね。
在学中の4年間は、模型環境的には恵まれていたと思いますが、小遣い稼ぎのバイトへも行かねばならず、中型バイクにも乗り始めてイロイロ出掛けていたし、でプラモの製作数自体は全く伸びませんでした。高校時代に較べ、お小遣いにもゆとりが出来たお陰で、モデルアート誌とホビージャパン誌は毎月買っていました。丁度ガンプラブームが始まった頃でして、HJ誌は毎月ガンプラ特集だったと思います。
中学高校とあれほど通い詰めていた「鎌倉プラモデル」ですが、プラモ製作の手が止まるのと同じくしてあまり行かなくなってしまいました。通学でお店の前は毎日通っていたんですがねぇ・・・。趣味の中心が模型から他の物(例えばバイクとか)にシフトし始めていたのでしょう。プラモの興味の対象もミリタリーからオートバイに移っていきました。
11.空白期(昭和59年〜平成3年)
空白期と書くと、ちょっと”?”…なんですが、この頃は(む)も就職したての頃で、プラモに費やす時間が減ったのとヤル気が減退してしまったのとで、全然作らなかった時代です。
昭和59年というと「モデルグラフィックス」誌が創刊された年で、これを機会にモグラ誌は創刊号から定期購読しています。雑誌からの情報収集は怠らず、気に入った新製品(バイク中心?)は買ってましたし、趣味の位置付けは変えてないつもりでしたが、完成品の数、という実績は全然無かった時期ですね。以前のように模型仲間が周りに居る訳でも無いし、完成品を見せ合ってアレコレとヨタ話する機会も殆ど無くなってしまいましたし。趣味の中に占める”プラモ作り”の割合がグッと減ってしまったということです。お恥ずかしい話ですが、この頃付き合いはじめた今のカミサンと毎週クルマで出かけるのに忙しかった、ということもありますね(笑)。
それでも職場のプラモ好き数人と、職場内コンテスト!などといってF−1作ったりCカー作ったりしたこともありました。
モグラ誌の改造記事を元に「95式軽戦車」をスクラッチしようとして挫折したのもこの頃かなー。今やファインモールドから素晴らしいキットが出てますね。夢のやうだなぁ!
12.クルマモデラーの芽生え(平成3年〜)
子供時代は、なぜかクルマには全然興味のなかった(む)ではありますが、さすがに自分でクルマを持つようになると、そこそこ興味が湧いてきました。
ただ、当時からクルマの模型は塗装が命!と思っていたので、実車のような”濡れたようなツヤ”が出せないんじゃ作ってもなぁ…と思っていました。
初めて色を塗って作ったのは、中学時代に作ったバンダイのセリカでしたが、ヒトに見せられるような(割と)マトモな完成品になったのはタミヤのミニ・クーパーですか。コレは大学3年の頃?に作りました。ボディ等の主要部分はチャンとブラシ塗装しましたが、ボディサイドなんて結構ムラがあったなー。クリアーは掛けたけど”砥ぎ”なんて勿論やってなかったし。それでも資料を当たってプラグコードやエアダクト等を追加工作したり、それなりのコトはやったりしましたね。
あるきっかけで研ぎ出しのヤリ方を教わり(というか、一応”知識”としては知ってはいたが、自分で簡単に出来るとは思っていなかったんですね)それじゃ、とやってみたのがタミヤのロードスター。当時のスペシャルカラーのダークグリーンに塗って、研ぎやすいカタチでもあったんですが、思ったようなツヤが出せました。これがきっかけでクルマを作り始めることになります。
ところで(む)が作ろうと思うクルマってのは、やはりプラモとして見て(む)的に好ましい形だったり色だったり、というのが多いです。60年代頃の欧州車あたりは好きみたいです。
「締め切りのあるプラモ作り」ってのは、言わずと知れた雑誌などの作例作りのことです。
普段目にしている雑誌に自分の作品が載るってのは、チョット良いナとは思っていましたが、まさか実現するとは思っていませんでした。
キッカケは、「鎌倉プラモデル」店主のN氏宅でのことです。そこで偶然にモデルカーズ誌編集長(当時)のH野氏に会いました。H野氏とは鎌倉プラモデルを通じての知り合いでして、当時からよくイジメラレタものです(笑い)。その時、当時初めてマトモに作れた「ユーノス・ロードスター」を見せることになりまして、H野氏にも「まぁまぁ」の評価を頂いた訳です。
その後暫くして、H野氏からレベルのコルベットが突然届き、いついつまでに作ってネ、ということになりました。それ以降クルマに留まらず、さまざまなキットを作らせてもらいました。H野氏からはクルマモデラーというよりも、何でもそれなりに作る子分みたいに思われているようですね。作例製作の中でも、一番面白かったのはやはりモデルカーズ誌での「愛しの食玩」の作例、特に昆虫関係の彩色は楽しかったかも
モデルアートでの作例デビューはウチのクラブ(湘南モデルカー愛好会)代表のK澤氏の紹介がキッカケです。こちらは月刊で、しかもテキストも、ということでかなり大変でした。締め切りも厳しいし。一応「真っ当なサラリーマン」の(む)としては、なかなかこなし切れる仕事では無くて、何度かお断りしている間に、話が来なくなってしまいました(笑)。
モデルアート別冊「モデルス」の仕事は、これは編集がH野氏ということで、お呼びが掛かったようなものです。
ここでも、今は作れない貴重な古いプラモを作らせてもらいました。(む)が子供の頃見た、デパートや模型屋のショウケースに並んでいたような完成見本を、今自分の手で作れる、というのはモデラーとしてとても嬉しいし喜びも大きいです。そういう機会を与えてもらえた、ということでH野氏には感謝しています。
最近、M−CATS誌の作例もやらせてもらいました。これもH野氏の担当ページに載せるためのもので、モノグラム創生期の名キットと言われるものをいくつか作りました。けっこう急ぎの仕事でしたが、何しろ作っていて楽しいキットだったので、苦労も何のその、という感じでしたよ。
これからもH野氏の本の作例モデラーとして、まだまだご迷惑(笑)をお掛けするつもりです。
14.群れるのが好き!S.E.M結成と共に(平成5年〜)
普段、周りに模型の話が出来るヒトや仲間が居るってのは、趣味生活を続けていく上でも大事なことだと思います。
ひょんなことから、「湘南モデルカー愛好会(S.E.M)」というサークルの立ち上げに加わることが出来、毎月のミーティングや展示会などにも参加することが出来、「模型魂」が枯れずにいられるのは有り難いことだと思っています。
そもそも「S.E.M」は、藤沢にあった「びあるべいろ」というミニカー屋の常連客が中心になって結成されたもので、代表は店主でもあったK澤氏です。”あった”と過去形なのは、実はこのお店、今はもう無くなってしまったので。
当時、湘南台にそのような”マニアック”なクルマ模型屋がある、などということは全く知らなかったのですが、ある日湘南台付近で渋滞中に、偶然国道に向けて置かれた看板(それも手書きの)を発見して立ち寄ったのがキッカケで知ることになりました。K澤氏ご自身のコトは、それ以前にタミヤニュースの「私の傑作」で知っており、「近所にクルマモデラーが居るらしい」と妙にコーフンした記憶があります。お店でお話を伺ってみると、店主がそのK澤氏ご本人と知り、よくある話ではありますが、「世の中って狭いナァ」と感心したものです(笑)。
それ以来「びあるべいろ」には足繁く通うようになり、ますますモデルカー製作に傾注していきました。
「S.E.M」は名前の通り、クルマの模型を愛する者の集まりです。どちらかというと、クルマ模型と同じく実車も好き、という会員が多いのが特徴かもしれません。まぁクルマモデラーってのは大抵そうでしょうけれど。
会の活動などは公式HPもあるので、そちらを見て頂くとして、設立以来10年を過ぎましたが、K澤氏の尽力の元、まだまだ活動は盛んです。
もともと”お店のオーナーとお客”で作ったクラブですので、K澤氏と会員各氏、という繋がりが強く、会の存続はひとえにK澤氏の人望の厚さにあるかと思っていますが、ココであんまりそんなことを言うと怒られるかも(笑)。
自分の技術や作風もマンネリ化し、クルマのプラモにもそろそろ飽きてきました。
前後して、モデルアートの作例のNSR500GPを作ったことがキッカケで、またまたバイクも作るようになりました。
乗っているバイクの影響もあってか、フと思い立ちBMWバイクのキットを集め始めました(’00年頃から)。
BMWバイクプラモは、思ったよりも数もアイテムも少なく、集めようと思えばそれ程大変なコトでも無いようでしたし。
特に「yahoo オークション」等の媒体のお陰で、絶版キットや流通していないキットなどが手に入れやすくなっていましたから。
結局、数年掛けて大体のキットは手元に集めることが出来ました。中でも「エッシー1/9・R75軍用サイドカー(初期箱)」や「リンドバーグ16・R75/5」などを入手できたことは大変嬉しかったですね。集めたキットは、どれも”作ること”が前提なので、パッケージ違いやコンディション等は気にしていませんが、それでも総数で30数個になりました。まだ欲しいキットが幾つかありますが、蒐集の道のりは厳しい状況です(笑)。
’03年になってからK澤氏の紹介などもあり、モデルカーズ誌やプチ・ガラージュ誌などでキットのコレクションを紹介頂いたのは大変嬉しいことでした。ある意味、「BMWバイクプラモのコレクター」として名を売ったかもしれません(笑)。
実際は全然そんな大したものじゃありませんけれど。
それでもまぁ古いキットはともかくとして、今の新型BMWがタミヤから出て欲しい!と静岡に向けて日夜”念”を送り続けている(む)なのです。
他にも出戻ったと言えば、ミリタリー物への関心も戻りました。
クルマを作るようになってから、ミリタリーの持つ"血生臭さ”が気になるようになり、また周りにミリタリーモデラーが居なくなってしまったコトもあり、ミリタリーキットとは決別しておりました。それまで作っていた完成品も引越しを機に処分してしまったり・・・(コレはやっぱり勿体無かったと後悔しています。自分の過去の遺産ですもんねぇ)。
ところが、’00年辺りだったでしょうか「タミヤMMシリーズ30周年!」と一部の雑誌(モグラとアーマーモデリング誌ですね)で騒がれてから、封印していた”戦車魂”が蘇えってしまいました。モグラ誌連載の「モリナガ・ヨウ氏のMM迷宮物語」にもいたく共感を覚えたりしたのがキッカケといえばキッカケです。
それ以来、全く買わなかったミリタリーキットももちょこっと買うようになりました。でもなかなか手は動かなくて、もっぱらアーマーモデリング誌を見て満足しています(笑い)。
結婚してからというもの、当然ながら”趣味の時間”を持つのが難しくなって来ました。
加えて技術的なマンネリ状態も依然そのままで、だんだん作品数が少なく、そのレベルもだんだん下降気味な様子です。模型に対する情熱とか、根気とかが薄れて弱くなってきたかなぁ?と思います。
これからも「アレが作りたい」という意欲が無くなることは無いだろうし、キットを買わなくなることも無いと思いますが、今までのようには作れないなぁと、思う今日この頃です。
実際、模型屋に行って欲しいキットを手にしても、「いつ作るか分からないなら買ってもなぁ・・・。」と棚に戻すこともあったりして(笑)。まぁサイフの中身の問題が大きいですが。
イロイロ思うに、つまり(む)のモデラーとしての”旬”は終わったのだなと。
これからは長い”黄昏の時代”に入ったのかも知れません。
う〜ん、何だか悲しいような諦めがついたような、複雑な気持ちだなぁ。
その辺の話をウンと端折って「タミヤニュース」の「私の傑作」に書かせていただきました。
全国的に「黄昏モデラー」と公言したワケですな(爆)。
モデラー紹介である「私の傑作」に登場することは、タミヤニュースの読者としての夢でもありましたので、
記事内容も含めて、「オレ的モデラー生活の”上がり”」になったと思っています。
いや〜良かったヨカッタ。
でも肝心の「私の傑作」には全然触れない内容になってしまい、タミヤニュースの担当の方には申し訳無いですね(笑)。
まぁココで、こう言ってしまえば、作品数が少なくなって、しかもソレ等が駄作ばかりでも、”言い訳”にはなりますね(笑)。これからも”プラモに囲まれる暮らし”を辞めるつもりは毛頭無いので、趣味生活に関しては今までとあんまり変らないとは思ってます。
最近は完成品の数こそ少なくなってしまいましたが、以前からの習慣?として気に入った新製品プラモは買いつづけていますので、在庫キットは増えるばかりです。とうとう”作る”モデラーから”積どく”モデラーに変りつつあるようです。
それに加えて、前項でも書きましたが、数年前から「yahooオークション」などに手をだすようになり、”買おうと思っていたけど買い漏らしてしまったプラモ”や”欲しかったけど買えなかったプラモ”などをチョコチョコと手に入れるようになりました。
特に最近の”戦果”では、「タミヤ25・タイガーT(リモコン)」を入手したことが嬉しかったですね。
このキット、他のコーナーでも紹介していますが「(む)的懐かしキット」のトップを飾るものですから。予算内で落札できた喜びもひとしおでした。数々のBMWバイクや「レベル12・GT50」なども其々懐かしい想い出のキットです。
これらの「オレ的懐かしプラモ」が、気軽に簡単に手に入るというのは有り難いことです。10年前なら雑誌の個人売買欄をくまなく眺めたり、模型屋をヘトヘトになるまで捜し歩いたりしてもナカナカ手に入れることは出来なかったですからね。そう考えるとネット・オークションってのは夢のような仕組みです。
まだまだ欲しいプラモは数多ありますが、経済的だったり物理的(=置き場所)だったりの問題が山積しており、そうそう「ヤフオク」で”熱く”なる訳にもいきません。残念なコトではあります(笑)。
今後は、堆(うずたか)く積みあがった在庫プラモを一つでも完成させるのが、「プラモ者」としての(む)の使命でしょうねぇ・・・。
そのうち作る気が失せてしまって、全部「燃えないゴミ」にならないようにしなくちゃな(笑)。
| プラモのトップに戻る |